不思議な生き物
冬の始まりの匂いがする。
保田は冷たい風でかじかんだ指先にふうっと息を吹きかけて、ガラス戸に掛けていた不在案内板を外し、執務室へ入る。
エアコンを付けてジャンパーの前を開け、席に着いて巡回連絡簿をめくる。
今日は留守が多かった。うち一軒は玄関ドア越しにテレビの音が聞こえたので居留守だろう。寒くて出てきたくなかったのかもしれない。
「仕方ない、また行くか」
つぶやいて、ジャンパーのポケットからラップに包まれたドーナツを取り出す。自分で買ったのではなく、さっき自治会長の奥さんから呼び止められて押し付けられたのだ。
粉砂糖がたっぷりかかったずっしり重い手作りドーナツを咀嚼していると、戸の開閉音とともに聞きなれた声がした。
「体脂肪が増えるぞ」
もはや顔を上げずとも誰だかわかる。無視してドーナツを食べ終え、ラップをゴミ箱に捨てて、手洗い場へ向かう。
「おい、守男。なぜ無視する」
手と口元を洗って、すっきりしたところで返事をする。
「灰々津さん、今日は何の用ですか?」
灰々津は黒いコートのポケットに両手を入れて、ガラス戸越しに外を見ている。
「やはりシロはもういないか」
「はい、桜さんがお迎えに来ましたから」
桜はアリバイの口裏合わせを行ったが、それを正直に話して反省を示したことから悪質でないと判断され、不問となったらしい。
尾堂署を出たその足で、桜はシロを引き取りに来た。彼女に抱きしめられたシロは尻尾をぶんぶん振って大喜びしていた。
その様子が嬉しくもあり、寂しくもあった。
たった半日ほどであったが保田は仕事の合間にシロと戯れ、休憩時間には近くを散歩した。それだけですっかり情が移ってしまい、別れのときはつい涙ぐみそうになった。
思い出して切なくなっているあいだに、灰々津はエアコンの温風がよく当たる場所に移動していた。温かみを感じさせないその表情を見やって訊ねる。
「灰々津さんはシロに会いたかったんですか?」
「なぜ俺を嫌うのか、理由を探ろうと考えていた」
「そういうところだと思います」
「どういうところだ」
「お茶淹れますけど飲みますか?」
「飲む」
茶を出すと、灰々津は湯気を吹き飛ばすように表面を強く吹いた。猫舌なのかもしれない。
保田は茶を飲みつつ、ノートパソコンを取り出して書類仕事を始める。キーボードを叩きながら、そろそろ広報紙も作らないとなと考えていると、灰々津がぼそっと言った。
「おまえなら、違っただろう」
「え? なんですか?」
「守男、おまえがあのとき尾堂公園にいたのは、昌斗さんの様子が気になったからだと言っていたな」
灰々津からの電話で、なぜおまえがあの場にいたのだと問われ、そう答えていた。
「はい、たまたま会ったときの昌斗先生の笑顔が……なんというか、以前とは違う感じがしたので、気になって」
口に出してから、保田は眉根を寄せる。
灰々津が空になった湯呑をスチール机に置いた。
「幼い彼がおまえに出会っていれば、」
そこで不自然に言葉を切り、いつもの淡々とした口調で言う。
「……だとしても、罪は罪だ。とりわけ放火は重罪だ。自宅とはいえ器物損壊と現住建造物放火未遂の併合罪。情状酌量されたとしても執行猶予が付くかどうか微妙なところだ」
事実だとしても、そんな冷たい言い方はないだろう。
保田が軽く睨むと、灰々津はしばらく黙ってから問うてきた。
「なぜ怒る? 俺は間違ったことを言ったか?」
「言ってませんけど、……いいです、もう」
ため息をつくと、灰々津は真似するように息を吐いて言う。
「人は、不思議な生き物だ」
あなたのほうが不思議ですよ、と思ったが、口にはしないでおく。
そこで気づいた。灰々津の威圧感が、初めて会ったときと比べてだいぶ減っていることに。何度も顔を合わせて慣れたせいだろうか。
首をかしげたとき、電話が鳴った。市民からの外線だ。
「こちら尾堂北駐在所、保田です。ああ、比野さん、どうも。どうかしましたか? え、不審しゃ?」
思わずスチール机の向こうを見たが、すでに灰々津の姿はなかった。
不審者ではなく不審車であったらしい。今度はしっかりナンバーを覚えたぞと得意げな比野から、見かけた日時と場所も訊いてメモし、受話器を置いて立ち上がる。
乾いた風音に混じって、遠ざかっていく車の走行音がかすかに聞こえた。




