主線と副線
野之瀬は緩慢な動作で立ち上がり、手帳を開く。
「ええと、根岸さんは火災発生時、帰宅した直後だったそうです。玄関からリビングに行って、ソファに座ろうとしたら、ガソリンスタンドみたいな臭いとゴムが焦げるような臭いを感じたそうです。閉じている窓の隙間から煙が入ってきているのに気づいて慌てて外に出ると、外壁が燃えていた。すぐに一一九番をして、庭の水やりホースで消火活動をしたとのことです」
ガソリンスタンドの臭いは灯油臭、ゴムが焦げるような臭いは塗膜の焦げる臭いだ。煙の量からして、根岸は着火されて一分ほどで火事に気づいただろう。火勢がピークに至ったのは二分後として、なにもせずとも五分ほどで鎮火していたのであれば、ホースでの消火も可能だろう。
灰々津は鼻先を指で撫でて、いくつもウィンドウが開いたディスプレイを見ながら指示を出す。
「聞き込み班は、根岸さんの関係者への聞き込みを頼む」
「嫌がらせの線は濃いですからね、わかりました」
「張り込み班は、引き続き交代で夜間の監視を頼む」
「了解しました」
生活安全課の捜査員には警ら強化を、鑑識係は常駐ではないので必要に応じてのサポートを頼み、解散を告げた。
皆が一斉に立ち上がって退出したあと、野之瀬だけがふらりと戻ってきた。
「灰々津さん、自作自演の線は調べんとですか?」
「俺が調べている」
「ああ、やっぱり。それならその内容も会議で言ってくれんと困りますよ。みんな思ってても怖……ごほっ、言い出せんとですから」
「被害者についての捜査は、慎重に進める必要がある。それに主線はあくまで第三者による犯行だ。そこへリソースを割いたほうがいい」
野之瀬は「ふぅん」とひげを撫でる。
「さっき根岸さんの話を俺に聞いたのって、根岸さんが火事を発見するタイミングを確認したかったとでしょ? 全焼させない放火は、死傷や延焼のリスクを減らしつつ保険金を貰えますもんね」
「いや、あの程度の焦げでは、保険査定で軽微と判断されやすい。貰えたとしても十万以下だろう。自演してまで求める金額ではない」
「今度は全焼を狙うかも」
「根岸は自分で消火したんだぞ」
「びびったとじゃなかですか?」
「それならなおさら三度目の放火はしないだろう。警察に警戒もされている。保険金目当てでそこまでリスクを取るとは考えにくい」
「じゃあ何が目的なんですかね?」
「それを調べているんだ」
「そうでした」
おちゃらけた調子で肩を竦めて、野之瀬は探るような目を向けてくる。
「灰々津さん、保田と仲良いみたいですね」
「ああ」
「ははは、即答で認めた。……で、なんであいつにちょっかいかけとるんですか?」
「ちょっかい?」
「赤蔵町の事件のときは、あいつの駐在所の受け持ち区域だし、土地をよく知るあいつを連れまわすのはわかるとですよ。でも、そのあとも何度かあいつに会いに行っとるみたいじゃなかですか」
灰々津は無言で野之瀬を見る。赤蔵町の遺体遺棄現場で、彼と保田が親しげに話すところは見ている。彼らが同僚だったことは調べ済みだ。
野之瀬は机に手を置いてこちらに身を乗り出してくる。
「元警視庁で捜査一課の刑事さんが、あんな田舎の駐在を気にかけるって、変でしょ? どういう魂胆なんですか?」
「魂胆などない。気が付くと足が向いているだけだ」
野之瀬はなぜかきょとんとしたあと、複雑そうな表情になって身を引いた。
「……しょせん俺にゃあんたみたいなエリートの考えは読めませんから、その言葉をいったん額面通りに受け取っときます。あいつは良い奴だから、仲良くしたい気持ちはわかりますしね。仲間内でも好かれてました」
「そうだろうな」
「でも、上からはよく思われてなかった」
「なぜだ」
「事件の関係者に同情して上の命令に反発することがようあったとです。だから駐在所に移されたとですよ。あいつは自分で希望したと言い張っとりますけどね。でも、それで良かったと思います。優しくて良い奴は、この仕事には向いてないから」
そう言ってドアのところまで行き、首だけで振り返る。
「くれぐれも、あのお人好しを悪う扱わんようお願いしますよ」
去って行く足音を聞いて、灰々津は立ち上がる。
脳裏に、こちらを睨みつけてくる保田の顔が浮かんだ。
自分は聞き込みには向かない。
しかし半ば強制的に許容させることには向いている。
「任意にてご協力をお願いします」
そう告げると、根岸宏二はわずかに眉をしかめたが、すぐに穏やかな表情に戻ってこちらの要求に応じた。
玄関先で銀行通帳と保険の書類、家と車のローンの完済証明書などを見せてもらったあと、昌斗とのSNSのトーク画面や通話履歴も開示してもらった。
「ゴミ袋の中を見せてください」
根岸に案内されて車庫へ行き、隅に置かれているゴミ袋を開けて調べたが、灯油臭は感じず、液体を保管できるような容器や、コピー用紙なども見当たらなかった。




