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守りたかったもの

 玉置はキャップのつばの縁をしきりに爪で引っかいている。


「オアシスピーチのママは、踏み入れた先にも道はあるし、それは今いる道よりも生きやすかったりするって言っていました。あの店は、普段は自分を隠して生きてる仲間たちが自分らしくいられる場所として作ったそうです」


 布地が傷んで糸がほつれても、玉置の指は止まらない。


「カオリさんも元々はあの店の常連で、以前の職場をゲイだと知られたことで辞めて、チーママになったそうです。明るくて前向きで、恋愛相談にも気さくに乗ってくれて、人気者だったそうですよ。カオリさん自身の恋愛については語らなかったようですが、一度だけ、あるSNSの写真の男性が好みのタイプだとこぼしたそうです。その男性は、尾堂公園で三歳くらいの子供を抱っこしていました」


 力が入り過ぎたのか転げ落ちたキャップを、灰々津が拾い上げて玉置に差し出した。

 玉置はそれを奪うように取ると、もう引っかくことはせず、両手で握りしめた。

 保田は穏やかな声音を意識して続ける。


「子育てって、難しいみたいですね。俺は独身なのでよくわからないんですが、カオリさんのお母さんが言ってました。よちよち歩いて後ろをついてきていたのに反抗するようになって、何かを隠してるみたいだから聞き出そうとしたらどんどん離れていって、かと思えばゲイだと明かされて、どうしていいかわからなかったって。……俺、今年の初めごろにカオリさんと会ってるんです。カオリさん、実家に帰ったけど追い返されて、寒いなか川辺でお酒飲んでました。辛いだろうににっこり笑って、同情なんていらない、強く生きるって決めた、なにがあっても、明日はきっと今日より良くなるって信じて生きてるんだって言ってて、俺のほうが励まされたんです。その話をカオリさんのご両親にしたら、あの子らしいって言ったあと、涙を流されていました。カオリさんは心が強い子だから、きつく当たっても大丈夫だと思っていた。どんな言葉をぶつけても、無視しても、傷つかないと思っていた。それは、甘えだった。あの子は、強かったんじゃない、強くならざるを得なかったんだって」


 はっ、と玉置が口端を上げた。


「なんだそれ、今さら。どうしていいかわからなかった? きつく当たったのが甘え? ふざけるなよ。子供にとって親に否定されるのがどれだけきついか……表面上は平気ぶっても、平気なわけないんだ。だからあいつは酔うと泣いてたんだ。恥さらしでごめんなさいって」


「そうですね。その通りだと思います。でも、親も人間です。間違ってしまうこともある」


「何年も傷つけておいて、間違いで許されるのか?」


「許されはしません。だからカオリさんのご両親はいまも後悔に苦しんでいる」


「今さら遅い。もうカオリはいないのに」


「そうですね、あなたの間違いのせいで」


 目を見開いた玉置を、保田は静かに見つめる。

 誘導性が高いことは承知している。でも、向き合ってほしい。逃げないでほしい。


「玉置さん、あなたはカオリさんのことを知らないと言ったそうですね。であればなぜ、カオリさんが酔ったときのことを知っているんですか? カオリさんが何年も傷ついていたことを知っているんですか?」


「……知らない」


「たしかにカオリさんのご両親は子供をひどく傷つけた。でもそれよりも取り返しのつかない傷つけ方をしたのはあなたです」


「……知らない」


「あなたは、カオリさんの身体を傷つけ、心を裏切った」


「知らない!」


「そして、奥さんと、あんなに大事そうに抱えていた子を、裏切ってきた」


「……べつに大事じゃない」


 玉置は苛立ちを露わにして、吐き捨てるように言う。


「結婚なんか、したくてしたわけじゃない。子供だって、仕方なく作っただけだ」


「そんな言い方……子供にとって親に否定されるのがどれだけきついか、わからないんですか?」


「うるさい! おまえみたいな奴にはわからない!」


「俺みたいな奴って、どういう奴ですか?」


「自分を包み隠さず生きられる奴だよ! そういう奴には、隠さないと生きられない奴の苦労と孤独はわからない!」


「あなたは、自分を隠さないと生きられなかったんですね。……大変でしたね」


 玉置の顔が引きつった。かと思うと、笑い泣きのように歪んだ。


「知ったように言うな……俺は、苦しんで、苦しんで、家族っていう鎧を作ってまで、社会を生き抜いてきたんだ。あいつも、それをわかってくれていると思っていたのに……」


 ダン! 玉置の拳が机を打った。


「俺があいつの心を裏切った!? 違う! あいつが俺を裏切ったんだ! 別れるって、もう会わないって……俺を、捨てた! 俺にはあいつしかいなかったのに! あいつは、俺がいなくても生きられるって言ったんだ! そんなの、許せるかよ!」


 灰々津が見計らったように差し出してきた紙を、保田は受け取った。


「玉置さん、聞いてください。これから読み上げるのは、カオリさんのスマホを解析して確認された記録です。提出はこれからですが、その前に、あなたに伝えたい」


 保田は、カオリのことを思い浮かべ、その口調を意識して読む。


「六月十日、曇り。タマちゃんから、明日来るって留守電が入ってた。かけ直したけど、自宅にいるみたいですぐに切られちゃった。明日、タマちゃんが納得してくれたらいいんだけど、やっぱり難しいかもしれないわね。でも、アタシはもう決めたから、ちゃんと言うわ。このままじゃ、タマちゃんのためにならないもの。アタシはいいのよ、後ろ指さされたって。慣れっこだもの。でも、タマちゃんは傷つきやすい。終わりにしなきゃ。タマちゃんの奥さんと子供のためにも。タマちゃんのためにも、それが一番だわ。そのためなら嘘なんていくらでもつけるわ。だって、誰よりも愛してるから。だから、さよならしなきゃ」


 玉置が呆けた顔になった。机の上に乗っている拳がぶるぶると震えだし、宙へ伸びた。何かを掴もうとするように数回掻いたあと、力が抜けたように膝上に落ち、そこにあったキャップをゆっくりと両腕で抱いた。


「あ……あああ……ああああ……」


 灰々津に肩を叩かれ、保田はすっと立ち上がり、彼に席を譲る。

 これまでの会話から出た玉置の綻びを淡々と突き始める低い声を背で聞いて、外に出る。


「……俺は、何してるんだろうな」


 自嘲して、長い廊下を歩いて行った。


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