じめじめとメロンクリームソーダ
翌朝、インスタントの味噌汁とトースト三枚を胃に納めた保田は、ひげを剃って制服に着替えた。
署からの通達や地域の予定などをチェックし、執務室の掃除をして、警らへ行こうとバイクにまたがる。
梅雨特有のじめじめした暑さが、風を受けるといくぶんマシになる。
山麓の住宅地や学校、商店などを回り、市道から農道に入る手前で、石造りの門に彫られた「香里」の文字が目に入った。
ブレーキをかけ、バイクを押してその家に近づく。築年数は何十年と経っていそうだが、立派な佇まいの日本家屋だ。その戸口に忌中札が貼られていないことに気づいて、保田は胸の中が湿っていくような心地になる。
そのとき、ガラッと戸が開いた。そこから走り出てきた六十代くらいの女性が、庭に置かれている大きな岩にもたれかかってずり落ち、ひざを着いた。うっ、うっ、と背中を震わせている彼女に声を掛けようとしたとき、
「おい、戻れ」
険しい声とともに、同年代らしき男性が家から出てきた。女性の肩を掴んで、ひそめ声で叱る。
「人様に見られたらどうする。これ以上家の恥をさらす気か」
「恥って、なんですか……」
女性が、男性の手を払った。
「あなたが、そうして体面ばかり気にするから、茂は、追い詰められたんじゃないんですか」
男性が目を吊り上げた。
「おまえだって、茂を無視していただろう」
「ええ、そうよ。だって、どう接していいか、わからなかったんですもの。私の育て方が悪かったからかもしれないって……そのせいで、あの子は結婚できない、子供を持てない、そのことに向き合うのが、怖かったんですもの。……でも、こんなことになるくらいなら、向き合っておけばよかった。あの子と、ちゃんと話をしておけばよかった……」
ぼろぼろと泣き崩れる女性を、「こんなところで泣くな」と力づくで家へと引っ張っていく男性に、保田はたまらず駆け寄った。
「香里さん、ちょっとよろしいですか」
「おまわりさん……」
男性はばつが悪そうに顔を逸らした。
保田は制帽を取って一礼し、女性の背を支える。
「カオ……茂さんとは、少しですが面識があったんです。俺が聞いた彼の言葉を、伝えさせていただいてよろしいでしょうか」
女性の細い手が、すがりつくように袖を掴んできた。
次の週休日、保田は駅を出てスマホをダブルタップした。薄暗い中で光るディスプレイに表示された時刻は十九時二十五分。
待ち合わせは十九時半だったが、多忙な相手が時間通りに来るのは難しいだろう。そう考えた直後に、真後ろから声がした。
「守男」
「うわっ、灰々津さん」
「なんだその幽霊に遭遇したような反応は」
「幽霊に遭遇したら一目散に逃げます」
「そうか、俺で良かったな。行くぞ、守男」
背中を押されて、雑居ビルのえんじ色の階段を昇っていく。
二階にあるアーチ型のドアを開けると、甲高い声が飛んできた。
「きゃあっ! いい男来たっ!」
「ノリちゃん、気持ちはわかるけど落ち着いて。いらっしゃぁい」
カウンターの手前の席できゃーきゃー騒いでいる華奢な青年を押しとどめて、カールした金髪のママが出迎えてくれた。
「ノリちゃん、奥の席に詰めて。さっ、モリちゃんたち、どうぞ座って」
保田は「どうも」と会釈して、灰々津と並んでカウンター席に着く。
「ねぇねぇ、お兄さん、すっごくカッコいいですねっ。お名前はなんて言うんですかぁ?」
ノリちゃんと呼ばれていた青年が訊ねると、灰々津は彼ではなくカウンターの向こうに置かれているピンクのぬいぐるみを向いて答えた。
「灰々津」
「はいあづ? へぇ~変わった名前ですね。苗字ですよね? 下の名前は?」
「すまないが、親しい相手にしか教えたくないんだ」
「えぇ~っ、ケチ! でもカッコいいっ!」
二人の間にいる保田は口を閉じている。冷房が心地いい。汗ばんだ額をおしぼりで拭くと、お冷とお通しを出してきたママに笑われた。
「やだぁ、モリちゃんたら、おじさんみたい」
灰々津がさっそくお通しを食べながらうなずく。
「守男は私服もおじさんのようだしな」
「どこがですか! 普通のTシャツとジーパンですよ!」
「ああ、すまない。服装ではなく体格のせいだった」
「今回こそ侮辱罪ですよ!」
ママがうふふ、と口元を隠して笑った。その動作で、彼が着ているピンクドレスのボリューミーな袖がふるふると揺れる。
「仲良しさんねぇ。モリちゃん、ノンケって言ってたけど、本当は灰々津さんと付き合ってるんじゃないの?」
「冗談でも勘弁してください」
「LOVEと書かれたお菓子はもらった」
「きゃ~! それって確定じゃない! もぉ、モリちゃんったら隅に置けないわねぇ」
「違います、それはここでもらったカップケーキで、」
「ママ、守男にオレンジジュース、俺にはメロンクリームソーダを頼む。さくらんぼも乗せてくれ」
「はぁい」
すぐに出されたメロンクリームソーダのさくらんぼを口に入れた灰々津を横目に、保田は咳払いしてママへ切り出す。
「何度も申し訳ないんだけど、その……カオリさんについて、もう一度、話を聞かせてもらっていいかな」




