こぼれ落ちた無念を
茂は赤くなった鼻をずずっと鳴らして笑った。
「茂じゃなくて、カオリちゃんって呼んでね。お店ではそう呼ばれてるの。尾堂駅の裏にあるゲイバー、知ってる? オアシスピーチって言うんだけど。アタシ、そこのチーママなの。お店から実家まで電車ですぐなんだけど、なかなか帰りづらくてね。久々に勇気を出して帰省したら、両親から恥ずかしいからさっさと帰れって言われちゃったの。ゲイってだけでこの扱いよ。嫌んなっちゃうわ。だから憂さ晴らしにここでお酒飲んでたの。ふふ、おまわりさん、そんな顔しないで。同情なんていらないわ。だってアタシ、強く生きるって決めたんだもの。なにがあっても、明日はきっと今日より良くなるって信じて生きてるんだもの。あっ、おまわりさん、今度うちの店来てよ。ノンケも来店OKだから、ねっ。何事も経験よ! ふふふ、あ~やだ、アタシ、酔っぱらっちゃったみたい。これ以上飲んだら動けなくなっちゃうから、そろそろ帰ろうかしら。じゃあね、おまわりさん。ちゃんとお店来てよ、待ってるからね~」
元気に手を振って駅へ向かった彼が、先日亡くなったようだと近隣住民から教えられた。
保田は膝の上で拳を握る。
「ちょっと話しただけですけど、カオリさんはすごく明るくて前向きな人でした。自殺するとは思えません」
「……それでおまえはカオリさんが働いていたゲイバーを訪ね、非公式捜査をしていたのか」
灰々津の言葉に、保田はたじろぎつつも反論する。
「オレンジジュースを飲んで、ママやお客さんから話を聞いていただけです」
灰々津はおもむろにスマホを取り出して耳に当てた。
「俺だ。一週間前、尾堂駅前三丁目のマンションで起きた異状死事案の詳細を教えてくれ。……忙しいだと? おまえが紛失した書類を見つけ出したのは誰だ。……初めからそう言え。急げ」
十分後、スマホをポケットに戻した灰々津から、低い声で呼ばれた。
「守男」
「は、はい……」
「一週間前の六月十四日午前十一時二十分、尾堂駅前三丁目のマンションの三〇四号室にて、この部屋の借主である香里茂、三十八歳の死亡が確認された。死因は窒息死。現場に争いの痕跡はなく密室で、ヘリウムガス百パーセントの缶と多数の風船があったこと、床に数本のビールの空き瓶が転がっていたことから、アルコールの影響で判断力が低下し、衝動的にヘリウムガスを吸い込んだ自殺と判断された。……この件で、間違いないな?」
「はい」
うなずいたが、保田が尾堂署刑事課の元同僚に頼んで聞き出した情報はまだある。
「遺体発見時、部屋はたしかに密室でしたが、オートロックのため完全な密室とは言えません。それに遺書はなく、スマホが初期化されていました」
能面のように表情を変えない灰々津へ、保田は訴える。
「おかしいですよね。酔った勢いで初期化するでしょうか。自殺ならなおさら、スマホの初期化まで考える余裕があるでしょうか。そもそも、なぜ初期化する必要があるんですか。初期化されて都合が良いのは、カオリさんに関わっていたことを知られたくない人物でしょう。なぜ知られたくないのか、それは、」
「他殺だからだ」
言いたかった結論を先に言った灰々津は、ひとつ息を吐いた。
「そのような不審な点がある場合、警視庁では事件性の有無を判断するため、行政解剖が行われる。……だが、ここではそうではないようだ。検視で外傷や争いの痕跡がなく、状況証拠から自殺や事故死が強く疑われたため、詳細な調査を省略して処理したのだろう。犯罪性のないものは手早く片付けたい、といったところか」
保田は眉根を寄せる。
自分も刑事課にいたので、刑事たちの忙しさはわかっている。常に人手が足りず、複数の事案に対処しなくてはならない。効率を意識しなくては仕事が回らない。それは決して怠慢ではなく、できる範囲で最善を尽くしているのだ。だからその判断を下した刑事たちを責める気はない。
けれど、その一方で、もどかしい気持ちがずっとある。
「忙しくて余裕がないのはわかるが、それはこちらの都合だ。人が亡くなっているんだ。被害者は無念を伝えられない。それに気づいて拾い上げるのが俺たちの仕事だろう」
灰々津の言葉に、保田は改めて彼を見つめる。
「守男の違和感は、被害者が残した無念の一部だ。ともに拾い上げよう」
いつも通りの淡々とした口調が、とても温かく、そして力強く胸に響いてきた。
自然と、手が敬礼の形を取っていた。
「……はいっ、」
灰々津はにこりともせずうなずいた。
手を下ろした保田は、そこで迷いが浮かんだ。
本部の刑事も、所轄ほどではないにしろ多忙だ。自分の個人的な捜査のために時間を割かせてまで協力してもらっていいものか。
「あの、灰々津警部補、明日から強盗致傷の被疑者の取調べがあるんじゃないですか? 他にも色々とお忙しいんじゃ……」
「合間に協力するくらい造作もない」
本当に何でもなさそうに言ってのけた灰々津に、保田は安堵した。
しかし、自分たちがやろうとしていることは褒められたことではない。駐在所長が受け持ち区域外の事案を個人的に捜査し、それに本部刑事まで非公式に協力するなど、グレーゾーンな行為だ。しかもその事案はすでに自殺として処理されたものであり、捜査権限もない。
本当に灰々津を巻き込んでいいものかと逡巡するが、彼の存在はかなり心強い。情けないが、正直なところ自分だけでは真相を掴める自信がない。
「助かります」
頭を下げようとすると、それを遮るように灰々津が立ち上がった。
「守男、帰るんだろう、送っていく」
「い、いえ、電車で帰りますから、お気遣いなく」
「この駅の電車の本数は少ない。俺が送ったほうが早い。行くぞ」
腕を掴まれて引っ張られ、保田は抗えずに駐車場まで連れて行かれ、灰々津の車に乗り込んだ。
車がなめらかに国道へ出たところで、運転席から問いかけられた。
「守男、約束を忘れていないか?」
「え、なんの約束ですか?」
「……やはり忘れているな」
「申し訳ありません。どういった約束かお教えいただけますか」
「俺を貴希と呼ぶ約束だ」
「……まだそんなこと言ってるんですか」
「なんだその言い草は。約束しただろう」
「約束した覚えはありません」
言った言わないを繰り返し、「灰々津さん」という呼び方でなんとか了承を得たところで駐在所に着いた。




