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2.お膝元の暗雲と交差する正義-5

御殿山のイギリス公使館が炎上したあの日を境に、江戸の街の空気は完全に一変した。


大老・井伊直弼による取り締まりは狂気的なまでに苛烈さを増し、市中には夜な夜な、浪士組を始めとする幕府方の剣客たちが目を光らせている。神田の練兵館にも、不穏な影が幾度となく付きまとうようになっていた。


私の傷は、高杉さんの看病(彼自身は頑なに認めないけれど)と、龍馬さんが手配してくれた薬のおかげで、ようやく激しい動きにも耐えられるまでに回復していた。


「――茜。足元に気をつけろよ。江戸の幕引きは、もうすぐそこまで来ている。」


そう言って、私を赤坂の隠れ家に呼び出したのは、勝海舟先生だった。薄暗い座敷の中、勝先生の対面に座っていたのは、驚くべき二人――薩摩の大久保俊光、そして長州の少年、伊藤博文だった。彼らは江戸城での篤姫様との極秘裏の談判を終え、次なる一手を打つためにここに集まっていたのだ。


「勝先生、長州の同志たちはすでに動き始めています。」


伊藤博文が、まだあどけなさの残る顔に激しい熱情を宿して言った。


「松陰先生の首を刎ね、条約を強行した井伊直弼の天下もここまでです。これからは、言葉の談判ではない。武力をもって幕府を倒し、みかどを中心とした新しい日本を創る。そのための主戦場は、もはやこの江戸ではありません。」


大久保俊光が、氷のように冷徹な眼差しで静かに頷く。


「薩摩も同感だ。諸藩の思惑、公家たちの動き、そして幕府の権力。すべてが今、あの一点へと急速に流れ込んでいる。……千年の都、『京都』だ。」


京都。その地名が語られた瞬間、私の胸がドクンと大きく跳ね上がった。勝先生は煙管の煙をふぅと吐き出し、私を真っ直ぐに見つめた。


「茜、お前が追っている大老直属の『暗部』……そしてお前の兄貴の件だがね。決定的な情報が入った。」


私は思わず身を乗り出した。


「井伊の奴、ハリスとの条約締結を終え、次なる脅威を京に集まる倒幕派の志士どもだと見定めた。そこで、京の不逞浪士を一網打尽にするため、直属の最凶暗殺組織『暗部』の拠点を、丸ごと京都へ移送することを決定したんだ。お前の兄貴――あの最高傑作の『人形』も、すでに厳重な警護と共に、東海道を西へと向かった。……大老の忍びの長も共にな。」


その一言が、私の心を完全に決定づけた。

お兄ちゃんが、京都へ行った。私のすべてを奪い、お兄ちゃんの心を壊したあの暗部が、京都へ拠点を移したのだ。

さらに、伊藤さんや大久保さんが言う通り、時代そのものの激流が、この江戸から京都へと舞台を移そうとしている。きっと桂さんも、龍馬さんも、そして高杉さんも、誰もが次なる戦いの地として京都を目指すだろう。

そして、私も京都へ行く。

それは、時代のうねりに身を投じるためではない。ただ一つ、あの千年の都の闇に消えたお兄ちゃんを、大老の呪縛から力尽くで救い出すため。そして、その行く末を、あの高杉晋作という男の狂気と孤独を、この目で最後まで見届けるためだった。


「勝先生……。教えていただき、ありがとうございました。私は、京へ行きます。」

「ふん、そう言うと思ったよ。気をつけて行きな、茜。京の街は、江戸よりも遥かに泥泥した修羅の巷だぜ。」


勝先生はぶっきらぼうに笑い、私の背中を小さく叩いてくれた。


その日の夜更け。私は龍馬さんや高杉さんたち長州勢とは別ルートを通り、一人で先行して江戸を発つため、品川宿の街外れへと差し掛かっていた。


どんよりとした暗雲から、ポツリ、ポツリと冷たい雨が降り始める。街道の入り口、深い霧が立ち込める木々の影から、突如として悍ましい『闇の気配』が這い出てきた。

――この気配は……っ!

忘れるはずがない。里を滅ぼした、あの井伊直弼の忍び。そして、その後ろに控える、虚ろな瞳をした私の、お兄ちゃん。

どうしてここに!?

これから京へ向かうところなの?

お兄ちゃんの濁った瞳が、一瞬だけ私を捉えたような気がした。けれど、彼は何も言わず、ただ冷酷な殺気だけを霧の中に残して、忍びの長と共に音もなく西の闇へと消え去っていった。


「待って、お兄ちゃん……!」


私がその後を追おうと一歩踏み出した、その瞬間。

逆方向の闇から、カラン、と規則正しい下駄の音が響き、三つの巨大な壁が私の行く手を遮った。


「そこまでだ、神田の山猫さん。」


現れたのは、揃いの羽織を夜風に翻した、浪士組の面々だった。先頭に立つ土方歳三が、その鋭い切れ上がった瞳で私を射抜く。彼の右手はすでに刀の柄にかかっており、周囲の空気が凍りつくような異常な警戒心を放っていた。


「御殿山の焼き討ち以降、長州の鼠どもが次々と江戸を抜け出している。お前もその一匹だな。大老様の前だから見逃してやったが、ここで会ったが百年目だ。不逞浪士の手先として、ここで叩き斬ってやる。」


土方が容赦なく太刀を抜く。銀色の刃が、雨夜の微かな光を反射して怪しく光った。私の袖の中で、苦無を握る指先が汗ばむ。怪我が完治していない今の私では、土方歳三の猛攻を凌ぎきれるかどうか。


「まあ待て、歳。刀を収めろ。」


緊迫した空気を破ったのは、近藤勇の重厚な声だった。近藤は土方の前に一歩踏み出ると、私に向かって、あの日本橋の時と同じ、人当たりの良い、けれど底知れない威厳を秘めた笑顔を向けた。


「近藤さん! なぜ止めるんです、この娘は――!」

「歳、このお嬢さんの目を見てみろ。これは、国を乱そうとする不逞の輩の目じゃない。何か、もっと別の……命よりも重いものを追いかけている、哀しい目だ。」


近藤の言葉に、私は息を呑んだ。この男は、私の復讐と執念を、その真っ直ぐな瞳で見抜いているのだ。


「それにしても、残念ですねえ。僕の刀も、君の綺麗な首を斬りたがっていたのに。」


近藤の背後から、沖田総司がひょっこりと顔を出した。その色白い肌に浮かぶ無邪気な笑顔の裏には、相変わらず吸い込まれそうなほどの仄暗い死の影が宿っている。総司はニヒルに微笑みながら、腰の長い刀の鞘をカチャリと鳴らした。


「でも、土方さん。僕たちの次の仕事場も、どうやら江戸じゃなさそうですよ? 会津の殿様から、何やら面白いお誘いが来ているとか?」


総司の言葉に、土方が忌々しそうにフンと鼻を鳴らし、刀を鞘に収めた。


「……京、か。あそこに集まる不逞浪士どもを根絶やしにするのが、俺たち試衛館の、浪士組の真の役目になるかもしれんな。」


彼らもまた、幕府を守るという絶対の正義を胸に、京都へと向かおうとしていたのか。

総司は私に近づくと、耳元で鈴の鳴るような声で囁いた。


「また会いましょう、黒猫さん。千年の都の紅葉は、きっと君の流す血で、もっと綺麗に染まりますよ?」


三人の男たちの背中が、霧の向こうへと消えていく。

私は、激しく脈打つ胸を抑えながら、西へと続く暗い街道を見つめた。


お兄ちゃんを人形に変えた『暗部』。

命を懸けて幕府を守ろうとする『浪士組』。

そして、世界を壊してでも新しい夜明けを創ろうとする『高杉さん』や『龍馬さん』たち。

すべての因縁が、すべての宿命が、あの京都という巨大な坩堝るつぼへと集まっていく。


「待っていて、お兄ちゃん。必ず、あなたを救い出すから

!」


私は腰の短刀を強く握り締め、雨の江戸の街に背を向けた。


胸の奥で燃え盛る高杉さんの三味線の残音と、お兄ちゃんへの思いを道標に、私は漆黒の闇を切り裂きながら、次なる運命の舞台――京都へと向かって、力強く一歩を踏み出すのだった。





数日前。


江戸の夜が更けていく。薄暗い居酒屋の二階、男物の泥に汚れた羽織が二つ、行灯の光に照らされていた。

窓の外では、嫌に静かな雨が障子を叩いている。


「――で、どうするがじゃ、晋作?」


土佐の大きな男が、手酌で安い酒を猪口に注ぎながら、濁った声で訊いてきた。坂本龍馬だ。いつもなら馬鹿みたいに笑っている顔が、今夜はやけに真面目で、それだけで松松陰先生を失ったこの世界の「退屈さ」が引き立って見えた。


「何がだ。長州の暴走を止める話なら、桂さんにでもしてくれ。俺はもう、あの品川の火事で十分に薪をくべたつもりさ。」


俺は煙管の吸い殻を灰吹きにトントンと叩きつけ、冷めた酒を喉に流し込んだ。

正直なところ、胸の奥が、まだ燻っている。

イギリス公使館を派手に燃やしてやったというのに、灰の中に残ったのは、先生のいない世界のクソ面白くねえ静寂だけだった。その時、胸の奥から、肺を雑に掴まれたような悍ましい激痛が突き上げてきた。


「――っ、ゲホッ! ゲホ、ゴホッ……!」


思わず口元を片手で押さえ、深く前屈みになる。喉の奥から強烈に湧き上がる、生々しい鉄の味。激しく咳き込むたびに、肋骨の裏側が焼けつくように熱い。手のひらを見れば、行灯の薄暗い光の中でもはっきりと分かる、どす黒い斑点がいくつか付着していた。


「晋作……! おまん、その咳、ただの風邪じゃなかろう。顔色も嫌に白いちや!」


坂本が慌てて身を乗り出し、大きな手を俺の背中に回そうとする。俺はその手を乱暴に振り払い、懐から取り出した手ぬぐいで、唇にこびりついた不快な血の味を乱暴に拭い去った。


「寄るな、坂本。煙管の煙が、少し喉に染みただけだ。」

「嘘を言うなや! おまん、まさか――!?」

「うるせえな。」


俺はいつものニヒルな笑みを作り、冷めきった酒で無理やり喉の奥を洗い流した。薄々、気づいてはいた。この一年ほど、寝所に就くたびに胸の奥が妙に喘ぎ、身体の芯から気味の悪い熱が引かない。心当たりはある…。

労咳ろうがい――。

あの、人の身体を内側から食い荒らす病魔の影が、確実に俺の足元まで這い寄ってきている。俺に残された時間は、この大柄な男や、他の奴らが思っているよりも、遥かに短いに違いない。だが、そんなことはどうでもよかった。むしろ、己の命の灯火が短ければ短いほど、この退屈な世界をどれだけ派手に引っかき回してやれるか、その焦燥だけが俺の血を狂おしく沸き立たせていた。


「……じゃ、その話はせん。わしが言いたいのは……茜のことぜよ。」


坂本は、未だに不信の目を俺に向けながらも、渋々と元の位置へ腰を落ち着け、本題を切り出してきた。


「あの子の傷は、もう大方良うなった。おまんが妙に不器用な看病をしよったおかげでな。けんど、あの娘はこれから京へ行く気じゃ。井伊の暗部を追って、自分のお兄ちゃんをあがなうために。……おまんは、あの子をどうするつもりじゃ?」


茜。その名前が坂本の口から出た瞬間、俺の胸の病の痛みは、あいつの持つ特有の熱に一瞬で押し流された。

初めて品川の料亭で見たときは、ただの牙を隠した野良猫だと思っていた。幕府の犬か、どこかの隠密か。細い身体に不釣り合いな一対の刃を仕込み、怯えを知らない目で世界を睨みつけていた。だが、あの桜田門近くの倉庫街で、お兄ちゃんだという「人形」に切り刻まれ、泥水の中に転がっていたあいつは、驚くほど脆かった。

龍馬に抱えられ、練兵館の離れで目を覚ました時、あいつは俺の三味線の音を聴きながら、ぽつり, ぽつりと自分の生い立ちを話し始めた。


『名前なんてありません。ただの道具だったんです。でも、お兄ちゃんだけは違った……。』


子供みたいにボロボロと涙を流して、ただ一人の兄を救いたいなんていう、ちっぽけで、けれど何よりも濁りのねえワガママを語るあいつを見て、俺は心の底から吐き気がした。…あいつの境遇にじゃない。そんな小さな娘に泥を背負わせ、心をぶっ壊して人形を作る、この「おもしろくねえ世界」にだ。

だから言ってやったのさ。正義だの大義だのくだらねえものは放り出して、その一途な狂気のために世界を力尽くでぶち壊しちまえ、とな。

それからのあいつは、妙に俺の心の内に入り込んできた。

御殿山でイギリス公使館を焼き尽くし、煤と返り血に塗れて戻った俺の手を、あいつは自分の冷たい手で包み込んできた。


『本当に……これが、あなたのしたかったことなのですか?』


あの真っ直ぐな瞳。松陰先生を殺され、狂気を行き場のない炎に変えて暴れ回っていた俺の空虚さを、あいつの言葉は一瞬で見抜いていやがった。


…恐ろしい山猫だよ、本当に。

誰もが俺を「長州の風雲児」だの「狂った天才」だのともてはやす中で、あの娘だけは、俺の胸の奥の、凍りつくような孤独に触れてきやがった。あいつの前でだけは、この身体に巣食う病の愚かさを見せるわけにはいかなかった。ただでさえ傷だらけのあいつに、これ以上余計なものを背負わせてたまるかよ。


「どうするもこうするもあるかよ、坂本。」


俺は自嘲気味に笑い、酒をもう一杯煽った。


「あいつは道具じゃねえ。自分の意志で動く、一匹の獣だ。俺が引き留めたところで、どうせ傷が塞がりゃあ京へ行くさ。あの濁りきった人形の瞳から、お兄ちゃんって奴を力尽くで引っ張り戻すためにな。」

「おまん、あの子を巻き込む気か。京はこれから、江戸以上の修羅場になるがぜよ。」

「巻き込む? 違うね。」


俺は立ち上がり、壁に立て掛けてあった漆黒の三味線を手に取った。バチで一太刀、ベベン、と激しい音を鳴らす。


「あいつがその、引き返せねえ情念のために世界を敵に回すって言うなら、俺がその世界を、この国ごと灰にしてやるって約束したんだ。松陰先生のいないこの世の中は退屈で死にそうだが……あいつのあの、命ごとぶつかってくるような頑固さだけは、見ていて飽きねえ。俺の、短い命を燃やすには、最高の退屈しのぎさ。」


そう言いながら、俺の胸の奥で、あいつの白梅のような香りと、泣きじゃくる細い肩の温もりが、病の痛みを忘れさせるほどの確かな熱となって居座っている。俺が、あの傷だらけの山猫に、決定的に調子を狂わされていることなんて認めたくはねぇが…。

坂本はしばらく俺の顔を、そして俺の胸元を痛ましそうにじっと見つめていたが、やがて「あーあ、こりゃあいかんちや」と深く頭を掻いた。


「おまんも大概に狂っちゅうが、あの子への熱も本物じゃ。近藤や土方、それに薩摩の連中も京へ動く。……晋作、おまんの命も、あの子の命も、わしは一つも捨てさせんきに。茜を泣かせるような真似をしたら、このわしが、おまんを日本中追い回してリボルバーでぶち抜くきに。」

「やってみろよ。その前に、俺が京の街をひっくり返してやるさ。」


俺たちは互いに猪口を突き出し、ガチンと不躾にぶつけ合った。


雨はいつの間にか上がっていた。雲の切れ間から覗く月光が、西の空を仄白く照らしている。


待っていろよ、茜。

お前が目指す千年の都を、俺たちの血と、お前のその執念で、これ以上ないほど鮮やかに染め上げてやろうじゃないか。俺の命が、尽き果てるその瞬間まで。


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