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2.お膝元の暗雲と交差する正義-4

お兄ちゃんの冷徹な氷の刃に貫かれた肩の傷は、思いのほか深かった。けれど、龍馬さんが夜通し江戸の街を駆け回って手配してくれた名医の治療と、かつて隠れ里で泥をすするようにして鍛え上げられた私の身体の頑強さのおかげで、数日もすれば、壁に手を突きながらもなんとか歩けるまでに回復していた。


激しい雨が去った後の神田は、じっとりとした初夏の汗ばむような空気に包まれている。私は練兵館の敷地の奥にある、普段は誰も立ち入らない小さな離れの一室で、静かに療養を続けていた。

龍馬さんや桂さんは、刻一刻と悪化する市中の情勢を調べるために、朝から晩まで道場を留守にすることが多くなっていた。そんな誰もいない静かな離れに、ふらりと現れるのは、決まって高杉晋作さんだった。


「……またそんな薄着で縁側に座ってやがる。死に急ぎたいなら、あの『人形』のところへ送ってやろうか?」


ぶっきらぼうな声と共に、私の肩にふわりと、目の覚めるような美しい藍色の羽織が掛けられた。見上げると、高杉さんが不機嫌そうに、けれどその涼しげな瞳に微かな揺らぎを宿して私を見下ろしていた。


「高杉さん……。ありがとうございます。でも、もうだいぶ動けるようになりました。」

「口だけは達者だな。」


高杉さんは私の隣にどさりと腰を下ろすと、懐から紙に包まれた江戸名物の飴細工を取り出し、私の膝の上に放り投げた。


「坂本がな、お前が退屈して泣いているだろうから、これでも食わせておけとうるさいんだよ。あいつの過保護には付き合いきれん。」

「龍馬さんが……?」


…本当にそうだろうか?きっと、これは龍馬さんの名前を借りた、高杉さんなりの不器用な優しさかもしれない。あの夜、私の薄汚い生い立ちと、誰にも言えなかった胸の内をすべてさらけ出して以来、高杉さんはこうして、言葉とは裏腹の温かさを私に分けてくれるようになっていた。

高杉さんは傍らに置いた漆黒の三味線を引き寄せると、ぽつり、ぽつりと、弦を弾き始めた。品川の夜に聞いた、あの世界を焼き尽くすような激しい音ではない。今の調べは、まるできらきらと光る木漏れ日のように、ひどく静かで、穏やかな音色だった。


「高杉さんの三味線は……とても、優しい音がしますね。」


私が膝を抱えながら呟くと、高杉さんのバチを持つ手がピタリと止まった。彼は少し極まり悪そうに顔を背け、煙管に火をつけた。


「優しいだと? 買い被るな。俺の音は、すべてを叩き壊すための呪詛さ。……だが、お前がその死人のような顔を少しでもマシにするって言うなら、いくらでも弾いてやるよ。」


紫煙の向こうで、高杉さんがふっとニヒルに、けれどこの上なく愛おしそうに目を細めて笑った。

その瞬間、私の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなる。お兄ちゃんを想う時の切ない痛みとは違う、身体の芯から湧き上がるような、甘く狂おしい熱情。

この人のそばにいると、自分がただの『影の道具』ではなく、一人の『茜』という少女として生きている実感が持てる。そのことが、たまらなく嬉しく、そして少しだけ怖かった。


けれど、私たちが紡ぐ束の間の穏やかな時間を、激動の時代は無慈悲に踏みつぶしていった。


傷が癒えていくにつれ、私の耳にも、江戸の街が急速に血の臭いを増していく不穏な報せが届くようになった。

大老・井伊直弼による『安政の大獄』が極限に達し、長州の吉田松陰先生の死罪が執行されるのは時間の問題だという噂が市中に流れると、志士たちの怒りはついに限界を迎えたのだ。その暴発の急先鋒に立っていたのが、久坂玄瑞さんを中心とする一部の過激な攘夷志士たちだった。


「もう言葉の詮索など無用だ! 先生の首が刎ねられる前に、我らの刃で大老の首を落とす!」


ある日の夕方、道場の奥から久坂さんの狂気じみた叫び声が響いてきた。私は離れの陰から、本屋敷の様子を窺った。久坂さんの周りには、血気盛んな若い志士たちが集まり、誰もがギラギラとした人斬りの目をしている。彼らは市中で幕府の役人を待ち伏せしては、白昼堂々、容赦なく斬り殺すという苛烈なテロ行為を繰り返し始めていた。

それだけではない。品川のイギリス公使館の焼き討ち計画も、久坂たちの手によって、より具体的かつ過激に推し進められようとしていた。


「異人を斬り、幕閣を殺し、この江戸を火の海にしてでも、松陰先生を救い出すのだ!」


久坂さんの掲げる『大義』は、もはや純粋な愛国心を超え、すべてを巻き込んで自滅しようとする、狂信的な業火へと変貌しつつあった。市中では、彼ら過激派を取り締まるために、新選組の土方歳三や沖田総司たちが、夜な夜な獣のような執念で街を徘徊し、血で血を洗う凄惨な暗闘が繰り返されているという。


その夜、練兵館の奥座敷では、一つの灯火を囲んで、桂小五郎さんと坂本龍馬さんが、重苦しい沈黙の中で対峙していた。私はお茶を運ぶていで、その部屋の前に佇み、二人の苦悩に満ちた声を聞いていた。


「……久坂たちの暴発が、もう私の力では抑えきれん。」


桂さんが、頭を抱えて低く呻いた。いつも凛として崩れない彼の声が、今夜は引き裂かれそうなほどに震えている。


「松陰先生を失うかもしれないという恐怖は、私も同じだ。今すぐ江戸城へ斬り込みたい。だが、今、長州の者が無策に暴発すれば、藩そのものが朝敵として圧殺され、先生が命を懸けて遺そうとした『志』の種が、すべて歴史の闇に葬り去られてしまう……。長としての理性と、志士としての情義の狭間で、私はどうすればいい……!」


桂さんの拳が、血が滲むほどに固く畳を叩きつけた。彼の胸中にある、引き裂かれそうなほどの葛藤が、痛いほどに伝わってくる。


「桂さん……。」


龍馬さんが、険しい表情で静かに口を開いた。彼の大きな瞳には、いつもの陽気さはなく、地を這うような深い憂慮が宿っていた。


「わしだって、井伊のやり方には毎日、はらわたが煮えくり返る想いじゃちや。けんどな、久坂たちのやり方じゃあ、ただの虚しい殺し合いにしかならん。勝先生が言いよった通り、日本の武士が身内で血を流し合っとるのを、異国は手ぐすね引いて笑って見ちゅうがぜよ!」


龍馬さんは懐からリボルバーを取り出し、その冷たい銃身を見つめた。


「ただ憎しみに任せて火をつけ、人を斬るだけじゃあ、新しい日本の夜明けは来ん。誰もが悪人じゃないがに、誰もが己の正義のために狂っていく……。わしは、あいつらの熱を、命を、こんなところで無駄に死なせたくはなか。だが、どうすれば……どうすれば、この暴走を止められるがか……!」


二人の、国を想い、仲間を想うがゆえの、あまりにも深い苦悩。正義と正義がぶつかり合い、誰もが引き返せない崖っぷちへと突き進んでいる。私は廊下の暗闇の中で、自らの小さな手をそっと胸に当てた。

過激化していく久坂さんたちの烈火。それを止めようと血を吐く想いで悩む、龍馬さんと桂さん。そして、その先で彼らを待ち受けるのは、大老・井伊直弼の修羅の覚悟と、浪士組の容赦なき刃。けれど、私の脳裏には、あの夜、高杉晋作さんが言ってくれた言葉が、確固たる道標として輝いていた。


『正義だの大義だの、そんなものは飾りだ。お前はお前の純愛のために、世界を力尽くでぶち壊してやればいい』


私の目的は、変わらない。お兄ちゃんをあの闇から救い出すこと。たとえ、久坂さんたちの炎が江戸を焼き尽くそうとも、浪士組の刃が立ち塞がろうとも。


私は離れの部屋へと戻り、立て掛けてあった短刀を静かに引き抜いた。刃に映る私の瞳には、もう迷いはなかった。



それから数ヶ月後、江戸の街に、取り返しのつかない決定的な破滅の音が響き渡った。

大老・井伊直弼の手によって日米修好通商条約が正式に調印され、それと引き換えるかのように、伝馬町の牢屋敷にて長州の至宝・吉田松陰先生の首が刎ねられたのだ。


「先生……! 先生ッ……!!」


神田の練兵館の奥座敷には、血を吐くような久坂さんの慟哭が響き渡っていた。手渡された遺品を抱きしめ、床に額を擦りつけて咽び泣くその姿には、かつての秀才の面影はどこにもない。ただ、最愛の師を理不尽に奪われた、一人の無力な青年の絶望だけがあった。

桂さんは壁に背を預け、ただ静かに涙を流しながら、拳を血が滲むほどに固く握りしめていた。龍馬さんもまた、帽子を深く被り直し、じっと床を見つめたまま一言も発しない。松陰先生の死。それは、残された弟子たちに、あまりにも残酷な問いを突きつけていた。

これからの私たちは、どう生きるべきか。先生の遺した『志』の種を、この狂った時代の中でどうやって狂い咲かせればいいのか。誰もが自らの魂の置き所を見失い、暗い泥の中を彷徨うような静寂が、道場を支配していた。けれど、久坂さんの中で、その絶望は一瞬にして苛烈な『業火』へと変貌を遂げた。


「許さない……。ハリスの言いなりになって国を売り、先生の命まで奪った幕府も、この日本を蹂思うがままにしようとする異人も、私は絶対に許さない……!」


久坂さんが顔を上げたとき、その瞳には正気とは思えないほどの、赤黒い復讐の炎がギラギラと渦巻いていた。


「晋作、行くぞ。品川の御殿山だ。あそこに新築されたイギリスの公使館を、今夜、跡形もなく焼き尽くす。我らの怒りの炎を、異人と大老の目に焼き付けてやるのだ!」


その叫びに応じるように、部屋の隅で静かに三味線を撫でていた高杉晋作さんが、ゆっくりと立ち上がった。その横顔は驚くほど冷ややかで、けれどその奥には、世界すべてを呪うような深い暗黒が広がっていた。


「いいだろう、久坂。先生のいないこの世界など、おもしろくも何ともない。一度、派手に燃やしてみるか。」

「高杉さん、私も行きます……っ!」


離れの廊下で、私は出陣しようとする高杉さんの藍色の羽織の裾を、必死に掴み倒した。

お兄ちゃんとの戦いで負った肩と脇腹の傷がズキズキと激しく痛み、視界がチカチカと明滅する。それでも、彼を一人で、あの地獄のような炎の中へ行かせるわけにはいかなかった。高杉さんは足を止め、振り返ると、私の手を優しく、けれど拒絶するように強く振り払った。


「馬鹿を言うな。そんな身体で足手まといになられたら、おもしろい見世物も台無しだ。お前はここで、大人しく寝ていろ。」

「でも……!」

「茜。」


高杉さんは私の顎を細い指先でくいと持ち上げ、その涼しげな瞳を至近距離で見つめてきた。


「お前には、あの兄貴を取り戻すという大事な志しがあるんだろう。こんなところで無駄死にさせてたまるよ。……留守番だ。」


高杉さんはニヒルに微笑むと、漆黒の三味線を背負い、久坂さんたちと共に夜の闇の中へと消えていった。


深夜。私は一人、練兵館の屋根の上に登り、遠く品川の空を見つめていた。しばらくすると、南の空がにわかに赤く染まり始めた。爆音と共に、巨大な炎の柱が夜空を突き破る。イギリス公使館の焼き討ちが、ついに敢行されたのだ。遠くからでも聞こえるような騒乱の気配。新選組の土方さんや総司たちが、今頃血眼になって彼らを追っているかもしれない。そう思うと、胸の動悸が止まらなかった。

夜明け前、激しい雨が再び江戸の街を濡らし始めた頃、高杉さんたちが道場の裏口から戻ってきた。

久坂さんたちは「やったぞ! 異人どもに思い知らせてやった!」と、興奮と返り血に顔を火照らせていた。けれど、最後に部屋に入ってきた高杉さんの姿を見たとき、私の胸は締め付けられるように痛んだ。

彼の顔は煤で汚れ、藍色の羽織は雨と泥に塗れていた。

何よりも、私を見つめてきたその瞳が、あまりにも空虚で、冷めきっていたのだ。品川の公使館をあれほど激しく焼き尽くしたというのに、彼の胸の渇きは、一滴も潤っていないようだった。


仲間たちが奥の部屋へ引き上げていき、静まり返った廊下で、私は高杉さんの前に立ち塞がった。


「……高杉さん。」

「なんだ、茜。まだ起きていたのか。言っただろう、おもしろい大火事だったよ。異人どもが悲鳴を上げて逃げ惑う様は、傑作だった。」


高杉さんはいつものようにニヒルに笑おうとした。けれど、その口元は微かに震えていた。私は彼の煤けた両手を、自分の冷たい手でそっと包み込んだ。


「本当に……これが、あなたのしたかったことなのですか?」


私の問いに、高杉さんの身体が、ピクリと強張った。


「ただ建物を燃やし、人を脅かすことが、松陰先生の遺志を継ぐということなのですか? あなたの胸にある本当の熱は、こんな虚しい炎ではないはずです……!」


高杉さんはじっと私を見つめていた。その瞳の奥の暗黒が、悲しげに揺らめく。彼は私から視線を外すと、壁に寄りかかり、深く、深くため息を吐き出した。


「……茜、お前は本当に、余計なことを見抜く山猫だな。」


高杉さんは自嘲気味に呟き、私の頭を乱暴に撫でた。


「ああ、その通りさ。こんな薪を燃やすような真似をしたところで、先生は戻らない。この腐った国が変わるわけでもない。……虚しいだけだ。だがな、こうでもしなきゃあ、俺たちの狂気は行き場を失って、己を焼き尽くしてしまうんだよ。」


その告白は、雨の音に消えてしまいそうなほどに、切なく、孤独だった。私は、この男の持つ底知れない痛みを、もっと近くで支えたいと、強く、強く願わずにはいられなかった。


同じ頃、巨大な権力の中心地である江戸城の大奥深く、天璋院・篤姫の居所には、異様な緊迫感が漂っていた。

固く閉ざされた襖の向こう、お付きの者をすべて下がらせた薄暗い一室で、篤姫は静かに座していた。その目の前には、勝海舟の手引きによって、密かに城内へと潜入した二人の男の姿があった。

一人は、薩摩藩の若き実力者、大久保俊光。その瞳には、氷のような冷静さと、国家を根底から作り変えようとする冷徹な野心が宿っていた。もう一人は、長州の若き志士であり、松陰の教えを胸に秘めた少年、伊藤博文。その目には、新しい時代への強い渇望があった。


「篤姫様。お命を賭しての御対面、感謝いたします。」


大久保俊光が、低く重厚な声で頭を下げた。


「大久保、それに伊藤か。勝から話は聞いている。……井伊直弼の安政の大獄により、この江戸は完全に血に染まった。徳川の世を守るためとはいえ、あの男の暴走は、もはや我が夫、家定公の志をも汚すものだ。」


篤姫の美しい顔には、深い憂いと、同時に徳川の家を預かる者としての強い覚悟があった。

伊藤博文が、熱を帯びた声で訴えかける。


「日米の条約は結ばれ、松陰先生は殺されました! もはや幕府という古い器では、この異国の脅威から日本を守ることはできません! 私たちは、公家と諸藩を一つにし、みかどを中心とした新しい国を創らねばならないのです。天璋院様、どうか……徳川の内側から、この国の転換をお助けください!」


大久保俊光もまた、冷徹に付け加える。


「大老・井伊直弼の命運は、そう長くは持ちませぬ。時代は確実に、この江戸から、千年の都である『京都』へと動き始めております。私たちは、京の地で新しい日本の夜明けを迎える準備を進めます。」


篤姫は目を閉じ、深く息を吐き出した。


「わかった……。私も、徳川の名に殉じる覚悟はできている。だが、それがこの国の民のため、未来のためになるのであれば……大久保、お前たちの進む道を、私は止めはせぬ。」


江戸城の奥深くで、時代を動かす巨大な歯車が、ゴツリと音を立てて噛み合った瞬間だった。



翌朝、練兵館の自室で、私は腰の短刀を強く握りしめていた。

日米の条約締結。松陰先生の刑死。久坂さんたちの暴走と、御殿山を焼き尽くした炎。そして、江戸城の奥深くで蠢く、薩長の大いなる謀略。時代の濁流は、誰もが抗えないほどの速さで、すべてを巻き込みながら激しさを増していく。でも、高杉さんが教えてくれた。正義や大義なんてものは、後からついてくる飾りに過ぎないと。彼の胸にある虚しさを、その孤独を、私がその手で救い出したい。そして、大老の闇に囚われ、心を壊された私のお兄ちゃんを、絶対にあの深淵から連れ戻す。


「お兄ちゃん、高杉さん……。」


二人の大切な存在が、私の胸の中で、茜色の光となって激しく燃えていた。


たとえこの先、浪士組の男たちが再び立ち塞がろうとも、世界中が敵になろうとも、私の歩むべき道はもう迷わない。私は深く息を吸い込み、決意に満ちた瞳で、雨が上がり始めた江戸の空を見つめた。


激動の時代の中心へと、私は自らの意志で、真っ直ぐに突き進んでいくのだった。



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