2.お膝元の暗雲と交差する正義-2
浪士組の男たちが放っていた、圧倒的な『正義』の残熱。それが私の肌にこびりついたまま、江戸の街はさらなる混沌の渦へと突き進もうとしていた。
「茜、今日はちょっと面白い御仁のところへ、わしと一緒に来てみんかえ?」
買い出しから戻った私を待っていたのは、いつになく悪戯っぽく、けれどどこか真剣な目をしたが龍馬さんだった。彼に連れられて向かったのは、赤坂にある少し古びた、けれど妙に手入れの行き届いた武家屋敷だった。
「よう、坂本。相変わらず図体ばかり大きくて、のんきな面してやがるな。」
縁側で煙管をふかしていたのは、着物を崩して着こなした、小柄ながらも凄まじい眼力を放つ男だった。
「勝先生、お久しぶりじゃちや! 今日はわしの新しい相棒を連れてきたがです。」
「ほぉ…。」
勝先生は煙を吐き出し、私の全身を鋭く一瞥した。その目は、土方歳三の冷徹な警戒とも、沖田総司の底知れない死の影とも違う、すべてを達観したような深い知性の光があった。
「ほれ、茜。こちらは、幕臣でありながら異国の情勢に最も明るいと言われる開明派、勝海舟先生じゃ。」
「ふん……。ただの小娘じゃねえな。身のこなしが完全に『裏の人間』だ。坂本、お前はまた妙な掘り出し物を連れてきやがって。」
勝先生はぶっきらぼうに言いながらも、私たちを座敷へと招き入れてくれた。そこで先生が語ったのは、私が今まで聞いたこともないような、あまりにも壮大な『世界』の話だった。
「今、俺はアメリカの総領事であるタウンゼント・ハリスって男と、何度も談判を重ねてる。あのハリスって異人は、ただの侵略者じゃねえ。自国の利益を守るため、ひどく冷徹で、とてつもなく頭のキレる外交官だ。日本の武士どもは『異人を斬れ、攘夷だ』と騒ぎ立てるが、そんなものは夜郎自大の戯言にすぎねえ。今の日本があいつらと本気で戦えば、一瞬で国ごと呑み込まれる。」
勝先生の言葉は、氷のようにつま先から冷えていくような現実味を持っていた。
ハリスという異人の存在。そして、彼と対等に渡り合おうとする勝先生の視点。それは、私の知る「幕府=絶対の悪」という構図を、根底から覆していく。異人と出会い、新しい世界を知ることで、私の狭かった視野が少しずつ、けれど確実に広がっていくのを感じていた。
「だからこそ、今は大老の井伊直弼が、悪名を一手に背負ってでも条約を結ぼうとしてる。……だが、そのやり方がいけねえ。血が流れすぎている。」
勝先生が苦渋に満ちた表情で呟いた。私は何も言えずにただ、その話を聞くだけだった。しかし、心の中に微かに何かを感じた気がした。
練兵館に戻ると、そこには桂小五郎さんの他に、もう一人、異様な熱量を纏った若い武士が座していた。
端正な顔立ちながらも、その瞳には狂気とも言えるほどの激しい炎が宿っている。その熱量に圧倒されそうになりながら、桂さんに声をかける。
「ただいま戻りました。」
「ああ、お帰り茜さん。紹介しよう、彼は長州藩の若き俊英であり、吉田松陰先生の最も愛した弟子、久坂玄瑞だ。」
しかし、久坂さんは私に一目くれただけですぐに桂さんへ視線を戻した。
「桂さん! 松陰先生が幕府に捕らえられたというのに、なぜ長州は静観しているのですか! 今すぐ江戸城へ斬り込み、先生を奪還すべきだ!」
久坂さんは、拳で畳を何度も激しく叩きつけていた。その目からは、怒りと悔しさの涙が溢れている。
「落ち着け、久坂。今ここで暴発すれば、松陰先生の命をさらに縮めることになる。幕府の安政の大獄は、私たちの想像以上に冷酷だ。」
桂さんが必死に宥めるが、久坂さんの情熱は留まることを知らない。それどころかどんどん燃え上がっているように感じる。
「今の幕府は、異人の脅威に怯え、ハリスの言いなりになって国を売ろうとしている! そんな腐った幕府を支える大老・井伊直弼は、この国の癌だ! 異人を斬り、幕府を倒す! それ以外に、この日本が生き残る道などありません!」
久坂さんの叫びは、私の胸の奥に、かつて里を焼かれた夜の業火を思い出させた。
彼の言う通りだ。幕府は、大老・井伊直弼は、無残に人の命を奪う怪物だ。久坂さんの激しい憤りは、私の個人的な復讐心と激しく共鳴する。けれど同時に、昼間に見た近藤勇の優しい笑顔や、勝先生が語った世界の大局が、私の頭の中で複雑に絡み合い、引き裂かれそうなほどの葛藤となって私を苦しめた。
一体、何が正しいのだろう。誰もが国を想っているのに、どうしてこんなにも血が流れ、憎しみ合わなければならないのだろう。
その日の夜。
私の心の中に燻る迷いを振り切るように、私は一人、深く重い霧が立ち込め始めた江戸の夜の街へと潜入していた。大老・井伊直弼の足元を調べ、お兄ちゃんの行方を掴むため、私は江戸城の外縁、大老邸の近くの巨木の梢に身を潜めた。月明かりさえも遮る、底冷えするような深い霧。それは、私の故郷である隠れ里の霧に、ひどくよく似ていた。ふと、大老邸の奥深く、固く閉ざされた一室の障子に、二つの影が浮かび上がっているのが見えた。
部屋の中では、一人の男が静かに座していた。
威厳に満ちた佇まい、氷のように冷徹でありながらも、どこか哀しいまでの覚悟を宿した瞳。
「ハリスとの条約締結は、間もなく完了する。これで、異国による武力侵略の口実は防げる。……だが、国内の不満は頂点に達するだろうな。」
男が、低く冷たい声で呟く。その背後の闇から、音もなく一人の男が姿を現した。白い装束を纏い、禍々しい闇の気配を放つ男。その男の気配にはひどく覚えがあった。
あいつだ!――私の里を滅ぼし、お兄ちゃんを連れ去った、井伊直弼の直属の忍び!!ということはあの男が…井伊直弼!!
「大老様。市中で騒ぎ立てる長州の者や、不逞浪士どもは、我が『暗部』が影よりすべて処理いたします。すでに、最高の人形(暗殺者)の調整も終わっております。」
忍びの男が、妖しく微笑む。
その言葉に導かれるように、部屋の隅の暗闇から、一人の少年が静かに歩み出てきた。
その姿を見た瞬間、私の全身の血が逆流するような、凄まじい衝撃が走った。
……お兄ちゃん!
声にはならなかった。けれど、私の魂が、血の繋がりが、叫び声を上げていた。
そこにいたのは、紛れもない、私の大好きな、世界でたった一人の兄だった。けれど、その姿は、私の知っているお兄ちゃんとはあまりにも違っていた。かつて私に『海を見に行こう』と優しく微笑んでくれた、あの温かい瞳はどこにもない。その瞳は完全に濁り、光を失い、まるで感情を一切持たない木偶人形のように虚ろだった。腰には、あの私と同じ一対の刀を差し、ただ冷酷な殺気だけを放っている。
「うむ。その『人形』を使い、松陰の首を刎ねた後、長州の過激派どもを根絶やしにせよ。この国を守るためなら、私はいくらでも悪鬼になろう。」
井伊直弼の無慈悲な言葉が、夜の霧の中に溶けていく。
お兄ちゃんは、精神を壊され、大老の忠実な殺戮人形へと変えられてしまっていたのだ。
お兄ちゃん……!!
胸の奥が引き裂かれるような絶望と、激しい怒りが、私の身体を突き動かそうとした。今すぐあの部屋に飛び込んで、里を滅ぼしたあの忍びを、そして井伊直弼をこの苦無で突き殺してやりたい。お兄ちゃんを取り戻したい。けれど、その瞬間。部屋の中にいたお兄ちゃんの首が、カチリと不自然な動きで、私が潜んでいる窓の外の巨木へと向けられた。その失われた瞳の奥に、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、私を拒絶するような、あるいは『来るな』と拒むような、悲しい光が過った気がした。
「――誰かいるな…。」
井伊の忍びが鋭く察知し、障子を開け放つ。
私はとっさに息を止め、軽功の術を使って、霧の奥へと音もなく身体を躍らせた。そこから何度も角を曲がり大きく遠回りするように、闇夜を駆け抜けた。今にも崩れそうな足を知ったし力の限り駆ける。追手が来ていないことを十分に確認して、ようやく練兵館の自室に戻ったとき、私は冷たい床の上に崩れ落ち、激しく身体を震わせていた。
お兄ちゃんは、すぐ近くにいる。この江戸の街の、あの深い闇の底に。けれど、彼はもう、私の知っているお兄ちゃんではないかもしれない。幕府の、井伊直弼の『人形』として、誰かの命を奪うための道具にされてしまっている。
「私は……どうすればいいの……。」
涙が溢れ、床を濡らす。
幕府の闇に呑まれてしまった、最愛のお兄ちゃん。私は腰の短刀を強く、強く抱きしめる。私の唯一の残った家族。幼い頃からの思いでが走馬灯のように駆け抜けて、そして、あの夜で止まった。
…お兄ちゃんを…取り戻す。その為に、ここまで来たんだ。
どんなに時代が狂おうとも、たとえお兄ちゃんが私を忘れてしまっていようとも、私は絶対に諦めない。この命のすべてを懸けて、お兄ちゃんをあの深淵から救い出してみせる…。
江戸の夜の霧は、さらに深く、冷たく、私たちの運命を包み込んでいくのだった。
江戸の街を覆う安政の大獄の嵐は、日を追うごとに激しさを増していた。けれど、その圧倒的な弾圧の影で、倒幕派の志士たちの地下水脈もまた、沸き立つマグマのように熱を帯びて逆流し始めていた。
ある日の午後、私が練兵館の廊下を通ると、奥の書物部屋から桂小五郎さんと数人の長州藩士たちの話し声が聞こえてきた。気配を消して歩くのは私の習性だったけれど、その時耳に飛び込んできた言葉に、私は思わず足を止めた。
「……晋作の奴、ついに国元でとんでもないものを創り出しおったな。」
桂さんの声には、呆れと、それを上回る深い感嘆が混ざり合っていた。
「『奇兵隊』、ですか。武士だけでなく、農民や町人、果ては猟師までをも集めて銃を持たせるなど、既存の身分制度を根底から覆す異端の軍隊だ。髪を短く切り落とし、身分を捨てて国のために戦う戦闘集団……。高杉晋作という男の考えることは、いつも我らの常識の枠に収まらん。」
奇兵隊。身分を問わない、新しい軍隊。
里という、生まれながらの階級と絶対の掟に縛られて生きてきた私にとって、その響きはまるで、天の壁を叩き割るような衝撃だった。どんな生まれの者でも、己の意志で剣を取り、国を変えるために命を燃やすことができる。その仕組みを発案した『高杉晋作』という人物の破天荒さに、私の胸は微かにざわついた。けれど、その男の持つ『破天荒さ』が、どれほど苛烈で、危険な刃であるかを思い知らされるのに、そう時間はかからなかった。
その日の夜更け。
私は昼間の買い出しの残りを片付けるため、母屋の裏手にある離れの納屋へと向かっていた。夜の静寂の中、離れの一室から、ひそひそと、けれど鋭い熱を持った二つの声が漏れているのに気づいた。一方は昼間に出会った久坂玄瑞さん。そしてもう一方は、聞いたことのない、低く、どこか退屈そうでいて、芯に凄まじい傲慢さを秘めた男の声だった。
「久坂、江戸のぬるま湯に浸かって、松陰先生の仇討ちすら口先だけか? 幕府がハリスの言いなりになって国を売るなら、俺たちがその目を覚まさせてやればいい。」
「晋作……! 焦るな。だが、お前の言う通りだ。これ以上、幕府の専横を許してはおけない。で、具体的にどうするつもりだ。」
晋作。あの『高杉晋作』が、今、この練兵館に極秘裏に上洛してきているのだ。私は息を殺し、納屋の影に完全に身を潜めた。
「品川の御殿山だ。あそこに、イギリスの公使館が新築されているだろう。あれを、丸ごと焼き討ちにする。」
「――公使館を、焼き討ち……!?」
久坂さんの息を呑む気配が伝わってくる。私の胸の中にも、冷たい衝撃が走った。
「そうだ。異人どもに、この日本の志士の覚悟を見せつけてやるのさ。炎の中で右往左往する異国の大使どもの顔を見るのは、さぞ『おもしろい』だろうな。」
男――高杉晋作は、こともなげに、まるで明日の予定でも話すかのように、凄惨な行為を口にしていた。そこには一片の迷いも、怯えもない。あるのは、世界そのものを挑発するような、圧倒的な狂気だった。
私は自室に戻っても、一睡もできなかった。
焼き討ち。それは、中にいる異人たちを無差別に焼き殺すということだ。私の故郷である隠れ里が幕府に焼かれたあの夜、炎の中で死んでいった人々の悲鳴が、脳裏を過って離れない。いくら国を守るため、大老の暴挙を止めるためとはいえ、そんな残虐な真似を『正義』として許していいのだろうか。
浪士組の近藤さんが見せた町人への優しさ、勝海舟先生が語った世界の大局。それらが頭の中でぐるぐると渦を巻き、私はどうしようもない葛藤に陥り、頭を抱えた。
翌日の夕暮れ。私は耐えきれなくなり、道場の裏手で木刀の手入れをしていた龍馬さんに、その胸の内を打ち明けた。高杉たちの計画を盗み聞きしたことは伏せながらも、「異人をただ排除するために、罪のない命を奪うような戦い方は、本当に正しいのでしょうか」と。私の問いを静かに聞いていた龍馬さんは、夕日に目を細めながら、ぽりぽりと頭を掻いた。
「茜の言う通りじゃ。ただ憎しみに任せて火をつけたり、人を斬ったりするだけじゃあ、新しい国は生まれん。けんどな、あの高杉という男は、ただの壊し屋じゃないがぜよ。あいつの腹の底にある本当の『熱』を、おんしゃあはまだ知らんきに。」
龍馬さんはそう言うと、不敵にニヤリと笑った。
「よし、だったら本人に直接聞いてみんかえ。ちょうど今夜、品川の隠れ料亭で、あいつらあと酒を飲む約束になっちゅうがじゃ。茜も、給仕のふりをしてついて来いや。」
「えっ……!? 龍馬さん、それは――!」
拒む間もなく、私は髪を結い直し、地味な着物を纏って、龍馬さんの後ろを歩く羽目になってしまった。
たどり着いたのは、品川の海を見下ろす、外界から隔離された寂れた料亭の一室だった。部屋に入ると、そこにはすでに久坂玄瑞さん、そして、上座に座る一人の男の姿があった。身の丈に合わないほど大きな漆黒の三味線を傍らに置き、紫煙を燻らせている男。少し癖のある髪に、鋭く切れ上がった涼しげな目元。その瞳は、すべてを拒絶するほど冷ややかで、同時に、世界すべてを焼き尽くしそうなほどに情熱的な、矛盾する二つの光を宿していた。
「遅いぞ、坂本。……おや、その妙な連れは誰だ?」
高杉晋作の視線が、私を捉えた。
その瞬間、私の身体の芯が、冷たい電気に打たれたように強張った。前に土方歳三から向けられた警戒の視線とも違う、私の魂の奥底までをも見透かされるような、圧迫感。
「わしの新しい相棒の、茜ぜよ。おとなしい娘じゃき、気にせんといてくれ。」
龍馬さんが適当にごまかし、酒宴が始まった。私は給仕として、彼らにお酒を注いで回る。
酒が進むにつれ、久坂さんが熱っぽく、国家の危機と攘夷の必要性を語り始めた。それを、高杉さんは退屈そうに、頬杖をつきながら聞いていた。
「久坂、お前の話はいつも四角四面でつまらん。国を憂うだの、正義だの、そんなお綺麗な言葉で世界が変わるかよ。」
高杉さんは冷たく笑うと、お酒の入った杯を煽り、窓の外に広がる夜の海を見つめた。
「俺はな、ただ壊したいだけさ。この腐りきった幕府も、国を舐め腐っている異人どもも、身分だの格好だのに囚われている古い日本も、全部な。一度、すべてを灰にして、更地に戻さなきゃあ、新しい夜明けなんか来やしないんだよ。」
その言葉には、私の故郷を滅ぼした幕府への憎しみと、同時に、新しい時代への強烈な、乾いた飢えが満ちていた。彼の焼き討ちという凶行の裏にあるのは、単なる残虐性ではない。この行き詰まった時代の壁を、自らの命を導火線にして爆破しようとする、命懸けの焦燥感。
「……おもしろきこともなき世を、おもしろく、さ。」
高杉さんはぽつりと呟くと、傍らにあった三味線を引き寄せた。そして、長い指先が、バチを激しく弦に叩きつけた。――ベン、と、夜の静寂を切り裂くような、凄まじい爆音が部屋に響き渡った。
私は息を呑んだ。
その三味線の音は、まるで泣き叫ぶように切なく、けれど胸が焦げるほどに情熱的だった。激しく掻き鳴らされる不穏な調べ。それは、この狂った激動の時代そのものを体現しているようであり、同時に、彼の胸の奥にある圧倒的な『孤独』を歌っているようでもあった。激しく、激しく鳴り響く音の中で、私は高杉晋作の横顔から目が離せなくなっていた。世界を呪い、世界を愛し、命のすべてを賭して時代を駆け抜けようとする、哀しいほどの美しさ。
どうして……こんなに、胸が苦しいの……?
心臓が、ドクドクと不規則に脈打つ。
これまで、誰の命を奪うときも、どんな危機に陥るときも、私の心は常に凪いでいたはずだった。それなのに、この男の奏でる音と、その瞳の奥にある赫い(あかい)深淵に触れた瞬間、私の中の何かが、決定的に壊れていくのが分かった。それは、復讐の炎でも、密偵としての本能でもない。生まれて初めて知る、一人の男への、抗いようのない熱。
演奏を終え、静寂が戻った部屋で、高杉さんは三味線を置くと、ふと私の方を振り返った。その冷徹な瞳が、私の震える指先をじっと見つめる。
「……お前の手、随分と冷たそうだな。まるで、死人のようだ。」
高杉さんが、ニヒルに微笑みながら言った。
その言葉に、私は何も答えることができなかった。ただ、彼の放つ強烈な光に、私の冷え切った影が、ゆっくりと、けれど確実に飲み込まれていくのを、私はただじっと耐えることしかできなかったのだった。




