1.霧の檻と飛沫の灯火-3
「茜、そっちの様子はどうじゃ?」
人混みの向こうから、ひょっこりと高い頭を覗かせた龍馬さんが、手真似で私を呼んでいた。
「……何も。こちら側の交易所では、この紋様に見覚えがある者はいないと言われました。」
私は小さく首を振って、彼に歩み寄る。
龍馬さんに『茜』という名前をもらってから、二日の月日が流れていた。まだ自分の名前を呼ばれるたびに、胸の奥がくすぐったいような、奇妙な落ち着かなさを覚える。けれど、その響きは私の凍りついた心に少しずつ、確かな輪郭を与えてくれていた。
私たちはこの二日間、横浜の港や外国人居留地の周辺をくまなく歩き回っていた。目的はただ一つ、お兄ちゃんが残したあの短刀の素性を突き止めること。里を滅ぼした幕府の男は、お兄ちゃんを『人形』として連れ去った。そしてお兄ちゃんが大切にしていた短刀には、異国の波の紋様が刻まれている。ならば、異人との交易が最も盛んなこの横浜に、何かしらの糸口があるはずだと踏んだのだ。けれど、探索は難航していた。異国からやってきた商人たちも、それを取り仕切る日本の役人たちも、私が提示する短刀の紋様を見ては首を傾げるばかり。
「そうかえ。こっちの船着場でも、収穫はなしじゃ。鉄砲や羅紗を扱うちゅう大商人にも見せてみたが、こんな細かい細工の施された短刀は見たことがないと言うちょった。」
龍馬さんは大きな手を頭の後ろで組み、がはは、と豪快に笑った。
その顔に焦りの色は微塵もない。私なら、手がかりが見つからない焦燥感で呼吸が浅くなってしまうところなのに、この男と一緒にいると、不思議と「まあ、次を探せばいいか」と思えてしまうから不思議だった。
「ごめんなさい、龍馬さん。私の私情に、こんなに付き合わせてしまって。」
「何をおんしゃあは水臭いことを言いゆうが。一度『相棒』と決めたら、最後まで付き合うがが土佐の男の心意気なぜよ。それに、わしもこの横浜の空気を吸うがは大好きやき、ちょうどえい散歩ちや。」
龍馬さんはそう言って、きらきらと輝く青い海に視線を向けた。その瞳には、異国への恐怖や嫌悪ではなく、純粋な好奇心と、もっと大きな「何か」が映っている。
「茜。おんしゃあは、あの黒い大きな船を見て、どう思う?」
唐突な問いかけに、私は言葉に詰まった。
「どう、と言われても……。里を滅ぼした幕府が、あの船のせいで慌てふためいている。諸藩の武士たちも、異人を追い払えと騒いでいる。……国を狂わせる、恐ろしい存在だと思います。」
それが、私が外界に出てから耳にした、最大多数の意見だった。『尊王攘夷』。異人を斬り、国を鎖す。それが正義だと信じて疑わない者たちが、この町の裏通りにも溢れている。けれど、龍馬さんは優しく微笑みながら、ゆっくりと首を振った。
「わしはな、あんな大きなものを造り出す異国の技術は、素直に凄いと思うがちや。力尽くで追い払おうとしたって、こっちの古い刀じゃあ敵わん。だったら、こっちも同じように大きな船を造り、世界に出ていけばえい。異国と対等に交わって、新しい日本を創るがぜよ。黒船はな、国を滅ぼす魔物じゃない。この国を開く、夜明けの鐘ながやき。」
夜明けの鐘。
その言葉が、私の胸に深く突き刺さる。
里では、外界の人間はすべて敵であり、感情を持たない標的だと教えられてきた。幕府は悪で、攘夷派は過激な暴徒。そんな単純な二元論の世界にいた私にとって、龍馬の言葉は、まるで目の前の海のように果てしなく広かった。
「……龍馬さんは、本当に不思議な人ですね。」
「はは、よく言われるちや!」
その時、居留地の端にある、ひときわ立派な赤レンガの建物の前から、数人の男たちが慌ただしく出てくるのが見えた。仕立ての良い洋服を着た、金髪の異人。その傍らには、日本の着物を着た若い男がぴったりと寄り添い、流暢な異国の言葉で何かを話し合っている。
私の密偵としての感覚が、その若い男から発せられる独特な『気配』を捉えた。ただの商人ではない。物腰は柔らかいが、足の運び方、視線の配り方が、明らかに鍛え抜かれた者のそれだった。
「……龍馬さん、あの人。」
「ん? ああ、あの御仁か。あれはイギリスの公使館に出入りしちゅう通訳の、アーネスト・サトウという若者じゃ。異国の人間でありながら、この国の言葉も文化も深く理解しちゅう、ひどく頭のキレる男なぜよ。」
「いえ、その隣の、日本の着物を着た人です」
私の視線に気づいたのか、その着物の男がふとこちらを振り返った。その瞬間、男の目が、私の腰元にある短刀の鞘に留まった。男の瞳が、一瞬だけ鋭く見開かれる。
「あ……。」
男はサトウと呼ばれた異人に一言断りを入れると、驚くべき速さで人混みをすり抜け、私たちの前へと近づいてきた。その無駄のない動きに、私はとっさに身構える。
「……唐突に声をかけてすまない。そこのお嬢さん、失礼だが、貴女が腰に差しているその短刀……少し見せてはもらえないだろうか?」
男の声は低く、洗練されていた。敵意は感じられない。けれど、その瞳の奥には、確かな知性と、何かを確信したような光があった。私は龍馬さんの顔を見た。彼は小さく頷き、「怪しい者じゃないき、見せてやりや。」と促してきた。私は躊躇いながらも、腰から短刀を抜き、鞘に収まったまま男に差し出した。
男は恭しくそれを受け取ると、細部に刻まれた波の紋様を、指先で愛おしそうになぞった。
「……間違いない。これは、江戸の最高峰の刀鍛冶が、異国から伝わった特殊な鋼を用いて打った、世界に数振りしか存在しない特製の短刀だ。」
「知っているのですか!?」
私は思わず、男の着物の袖を掴みそうになった。
「ああ。これは、幕府の最高中枢――大老・井伊直弼様の直属の隠密部隊の中でも、特に優秀な者にしか与えられない拝領品だ。なぜ、このようなものを、君のような娘が持っている?」
男の言葉に、頭を殴られたような衝撃が走った。
大老、井伊直弼。里を滅ぼした、あの仇敵の名前。そして、その直属の隠密部隊に与えられるもの――。
「……私の、お兄ちゃんのものです。お兄ちゃんは二日前、あの里で、幕府の男たちに連れ去られました。その時に、これが落ちていたんです。」
私の声が震える。男は私の顔と、短刀を交互に見つめ、やがて深くため息をついた。
「そうか……君が、あの時の生き残りか。私は高杉の、いや、長州の志士たちと繋がりを持つ者だ。君のお兄さんの噂なら、耳にしたことがあるかもしれない。」
「本当ですか!?」
「確実な情報ではない。だが、数日前、井伊直弼の命により殲滅された隠れ里から、類稀なる才を持った少年兵が『極秘の人形(暗殺者)』として、江戸の桜田門にある幕府の厳重な施設へと連行されたという話を、江戸の潜入組から聞いた。」
江戸。お兄ちゃんは、江戸にいる。
「お兄ちゃんは……生きているんですね!」
胸の奥から、せき切ったように感情が溢れ出してきた。涙が視界を遮る。生きていた。やはり、私の直感は間違っていなかったのだ。お兄ちゃんは、あの悍ましい幕府の闇の中で、まだ息をしている。
男は短刀を私に返し、静かに告げた。
「だが、近づかない方がいい。現在の江戸は、安政の大獄によって井伊直弼の弾圧が吹き荒れる地獄だ。幕府に逆らう者は、志士であろうと影であろうと、容赦なく首を刎ねられる。君のような小さな娘が行けば、一瞬で闇に葬られるだろう。」
男はそう言い残すと、再びサトウの元へと戻っていった。
手元に戻ってきた短刀は、先ほどよりもずっと重く、そして冷たく感じられた。
『江戸』将軍のお膝元であり、諸刃の剣が飛び交う、この国の中心地。
「……茜。」
龍馬さんが、静かに私の名前を呼んだ。その大きな掌が、私の肩を優しく叩く。
「お兄さんの居場所が分かったな。どうするがぞ?」
私は涙を拭い、顔を上げた。恐怖はなかった。あるのは、ただ一つ。お兄ちゃんを救い出し、里の仇を討つという、決意だけ。
「行きます。江戸へ。たとえそこが、どんな地獄だとしても。」
私の答えを聞いた龍馬は、待っていましたとばかりに、最高の笑顔を咲かせた。
「そう言うと思ったちや! よし、だったら決まりじゃ。江戸にはわしの知り合いの桂小五郎や、長州のへんくつな奴らもたくさんおる。茜の旅路、この坂本龍馬が江戸までしっかり案内しちゃるきに!」
「龍馬さん……。」
「さあ、夜が明ければ出発ぜよ! 新しい時代が、わしたちを待っちゅう!」
龍馬さんは海に向かって大きく両手を広げ、吠えるように笑った。その背中越しに見える横浜の海は、いつの間にか、黄金色と茜色の混ざり合う、美しい夕暮れに染まっていた。
私は腰の短刀を強く握りしめる。
お兄ちゃん、待っていて。私は必ず、あなたを迎えに行く。
影として生まれ、名前さえなかった私は、今、自らの意志で、光と闇が交錯する巨大な都市・江戸へと向かう決意を固めた。ここから、私の本当の運命が、そしてこの国を揺るがす激動の恋と戦いが、幕を開けようとしていた。
東海道を北上する旅路は、私にとって驚きの一言に尽きた。
隠れ里の狭い空の下、ただ標的を仕留めるためだけに息を潜めていた私にとって、龍馬さんと共に歩く世界は、目が眩むほどに広く、そして騒がしかった。街道沿いには青々とした田畑が広がり、行く先々の宿場町には、旅人や飛脚、物売りの声が絶え間なく響いている。
「ほら、茜。あそこに見えるがが富士の山ぜよ。日本一高い山ちや。」
龍馬さんが大きな指で指し示した先には、まだ白い雪を頭に頂いた、言葉を失うほどに雄大な山がそびえ立っていた。里の長はかつて、山は身を隠すための砦であり、それ以上でも以下でもないと教えてくれた。けれど、この外界の山は、ただそこにあるだけで人の心を圧倒し、惹きつける美しさを持っていた。
「……綺麗、ですね。」
ぽつりと言葉を漏らすと、龍馬さんは嬉しそうに目を細めた。
「そうだろう、そうだろう。この広い日本にはな、まだまだ茜の知らん綺麗なものがたくさんあるがぜよ。おんしゃあのお兄さんを無事に見つけ出したら、今度は三人で、日本中を旅して回るがも悪くないのう!」
「お兄ちゃんと、三人で……。」
その未来の光景を想像しただけで、胸の奥が温かいお湯に満たされるような感覚になる。同時に、私の腰にあるあの波の紋様の短刀が、かすかに重みを増した気がした。お兄ちゃんは今、この美しい空の下ではなく、江戸の冷たい闇の中に囚われている。その事実が、私の心を焦燥へと駆り立てた。
旅を始めて数日、私たちはついに、将軍のお膝元である巨大な都市「江戸」へと足を踏み入れた。
「これが、江戸……。」
横浜の港町が持つ異国情緒とはまた違う、圧倒的な人の波と熱気が、そこには渦巻いていた。
ひしめき合う瓦屋根の家並み、大通りを埋め尽くす町人や誇り高き武士たちの姿。日本中の富と権力が集まる場所――それが江戸だった。けれど、その華やかな賑わいの裏側に、私は密偵としての本能で、ひどく冷たくて重苦しい『空気』を感じ取っていた。大通りのあちこちに立てられた高札の前には、深刻な顔をした町人たちが集まり、ひそひそと声を潜めて話している。通り過ぎる武士たちの目つきは鋭く、いたるところに臨時の検問所が設けられ、厳重な取り締まりが行われていた。
「……龍馬さん、この街、何かがおかしいです。」
私が気配を潜めながら囁くと、龍馬さんもまた、いつもの陽気な笑みを消し、険しい表情で周囲を見回した。
「ああ、安政の大獄じゃ。大老・井伊直弼が、己の政策に反対する志士や公家を、片っ端から捕らえて処刑しゆうがちや。今、江戸の街は、幕府の恐怖に怯えちゅうがぜよ。」
井伊直弼。また、その名前だった。
私の里を焼き、家族を奪った張本人。その男の権力が、この巨大な江戸のすべてを支配し、人々を恐怖で震え上がらせているのだ。怒りと憎しみが、私の爪を手のひらに深く食い込ませる。
「茜、あまり殺気を出すな。そこらの役人に感づかれるきに。」
龍馬さんの静かな声にハッとして、私は慌てて息を整え、闇の住人としての仮面を被り直した。
「まずは、身を隠せる場所へ行くちや。わしの信頼できる仲間がおる。」
龍馬さんの案内に従い、私たちは神田にある大きな剣術道場へと向かった。
『練兵館』と書かれた看板が掲げられたその場所は、門をくぐると、小気味よい竹刀の音と、門下生たちの気迫に満ちた掛け声が響いていた。龍馬さんは道場の奥へと進み、一人の若い武士の前で立ち止まった。
「桂の三吉さん、久しぶりじゃのう!」
「――坂本くんか! 連絡もなく唐突に、一体どうしたんだ?」
振り返ったその男の姿に、私は一瞬、見惚れそうになった。
端正な顔立ちに、きっちりと結われた髪。涼やかな切れ上がった瞳には、深い知性と、決して揺らぐことのない気高き信念が宿っている。
桂の三吉さんは龍馬さんを歓迎しつつも、その視線をすぐに私のへと向けた。
「そちらのお嬢さんは……? 君の新しい身内か?」
「これはいろいろ訳ありの娘でな。名は茜という。茜、こちらは前に話した桂小五郎さんや。桂さん、実はこの茜のお兄さんが、幕府の隠密部隊に連れ去られて、江戸の桜田門にある施設に囚われちゅうらしいがじゃ。」
龍馬さんの言葉に、桂さんの表情が瞬時に引き締まった。彼は私を座敷へと促し、温かいお茶を出してくれた。
「茜さん、と言ったね。その話、もう少し詳しく聞かせてもらえるだろうか?」
私は、横浜で出会った長州繋がりの男から聞いた話を、包み隠さず伝えた。里が襲撃されたこと、兄が『人形』として連れ去られたこと、そして、兄の残した短刀が大老の拝領品であったこと。私の話を静かに聞いていた桂さんは、深くため息をつき、痛ましそうな目を私に向けた。
「……なるほど。井伊直弼の直属の隠密部隊か。それは『暗部』と呼ばれる、幕府の歴史の裏でも最凶と恐れられる暗殺組織だ。一度その組織に囚われた者が、生きて戻った例はない。」
桂さんの言葉に、胸が痛む。けれど、私は首を振った。
「お兄ちゃんは生きています。絶対に。だから、私は桜田門の施設へ忍び込んで、お兄ちゃんを助け出します。」
「無茶だ!」
桂さんが強い声で私の言葉を遮った。
「今の桜田門周辺は、井伊直弼の身辺を守るために、通常の何倍もの兵力で警護されている。さらに、浪士組と言う腕利きの浪士たちや、幕府お抱えの恐るべき密偵たちが、不審者を一歩も見逃さないよう目を光らせているんだ。素人の娘が近づけば、生きては戻れない。」
「私は……素人ではありません。」
私は静かに立ち上がり、袖口から一本の苦無を滑り出させた。そして、気配を完全に消し去り、桂さんが瞬きをする一瞬の隙に、彼の背後へと音もなく移動してみせた。
「――っ!?」
桂さんが驚愕して振り返ったときには、私の苦無の切っ先が、彼の喉元から数寸のところで静止していた。
「おんしゃあ、大した腕じゃのう。」
龍馬さんがのんきに感心した声を上げる。私は苦無を袖に収め、再び桂さんの前に座り直した。
「私は、山奥の隠れ里で『影』として育てられました。人の気配を断ち、闇に紛れることだけが、私の生きてきた証です。だから、どんなに警備が厳しくても、必ずやり遂げます。」
私の瞳にある決意の炎を見て、桂さんはしばらく言葉を失っていた。やがて、彼は降参したように小さく苦笑し、首を振った。
「……驚いたな。坂本くんが連れてくる人間は、いつも私の常識を超えている。分かった、君の腕前は信じよう。だが、焦って一人で動くのだけは止めてくれ。現在、我が長州藩の志士たちも、井伊直弼の暴挙を止めるべく、密かに江戸で動いている。その中には、君と同じように『影』の扱いに長けた者や、常軌を逸した戦術を持つ過激な男もいるんだ。」
「過激な、男……?」
「ああ。高杉晋作という、私の親友の一人だ。今はまだ別の任務で動いているが、近いうちに彼とも合流することになるだろう。彼らの情報網を使えば、桜田門の内部の構造や、お兄さんがどこに幽閉されているかの詳細が掴めるかもしれない。」
「…高杉晋作…?」
聞き覚えのない名前に思わず首をかしげる。
「茜、桂さんの言う通りじゃ。焦りは禁物なぜよ。まずはここで体力を蓄え、情報を集めるがが先決ちや。」
龍馬さんの言葉に、私は深く頷いた。
「分かりました。お兄ちゃんを確実に救い出すために、今は待ちます。」
窓の外を見上げれば、江戸の空はどこまでも広く、けれどどんよりとした暗雲が立ち込め始めていた。
冷たい雨が、ポツリと道場の瓦を叩き始めた。
私の心の中に燃える復讐の炎と、お兄ちゃんへの想いは、この江戸の地で、さらに激しく燃え上がろうとしていた。




