1.霧の檻と飛沫の灯火-2
里を捨ててから、どれほどの夜を数えただろう。
山奥の深い霧しか知らなかった私にとって、外界の道はどこまでも容赦なく照りつける太陽と、容赦なく吹きつける風に満ちていた。
里で叩き込まれた軽功の術を使い、街道の木々の梢を渡り、時には人混みに紛れながら、私はひたすら南へと下った。
初めて見る「町」という場所は、あまりにもうるさく、そして色彩に溢れていた。
行き交う人々、荷馬車の軋む音、物売りの威勢のいい声。すべてが私の五感を過剰に刺激し、眩暈さえ覚えさせる。感情を殺す訓練を受けてきたはずなのに、誰もが当たり前のように笑い、怒り、泣いているその光景に、私は自分がどれほど異質な存在であるかを突きつけられるようだった。
胸の奥が、ちりちりと焦げるように痛む。
この賑やかな世界のどこにも、父と母はいない。そして、お兄ちゃんも。
私は懐に忍ばせた、あの美しい波の紋様の短刀を、衣服の上からそっと確かめる。その冷たい硬さだけが、今の私を支える唯一の錨だった。
「ここが……横浜。」
幾日もの旅の果て、ついにたどり着いたその町は、それまでに通り過ぎてきたどの宿場町とも違っていた。鼻を突くのは、嗅いだことのない妙に生臭く、けれどどこかそそられる塩の匂い。
そして、目の前に広がっていたのは、視界のすべてを埋め尽くすほどの、果てしない水の世界だった。
どんよりとした灰色の隠れ里の空とは違う、広く、どこまでも続く青。水面が太陽の光を浴びて、まるで無数の宝石を散りばめたようにキラキラと輝いている。
『そこにはな、海という途方もなく大きくて青い水溜りがあるらしいんだ』
お兄ちゃんの言葉が、鮮烈に脳裏に蘇る。
涙が溢れそうになるのを、私は強く奥歯を噛み締めて堪えた。
お兄ちゃん、私、見たよ。これが海なんだね。本当に大きくて、綺麗だね。でも、どうして私の隣に、お兄ちゃんはいないの――。
海へと視線を戻すと、そこには山のように巨大な、真っ黒い船がいくつも浮かんでいた。煙突から黒い煙を吐き出し、異国の国旗をなびかせている。あれが、国を揺るがしているという「黒船」なのだろう。
町に一歩足を踏み入れると、そこはさらに異様な空間だった。
瓦屋根の家並みに混ざって、見たこともない白くて四角い洋館が立ち並び、道を歩くのは、絹の着物を着た商人のみならず、燃えるような赤い髪や、透き通るような青い目を持った「異人」たち。彼らは奇妙な仕立ての衣服を纏い、聞いたこともない言葉で大声で笑い合っている。
私は息を潜め、周囲の気配を完全に断ち切って、町の喧騒に溶け込んだ。私の目的は、この町で兄の手がかりを掴むこと。あの夜、兄を連れ去った男は、兄を「人形」として使うと言った。そして、兄が残したこの短刀には、異国の美しい紋様が刻まれている。この横浜の居留地か、あるいは異人たちと関わりのある者が、何かしらの事情を知っているはずだった。
私は短刀の紋様を懐から少しだけ覗かせながら、港近くの交易所や、浪士たちが集まりそうな茶屋の周辺をうろつき、情報を探ろうとした。けれど、外界の「世間」というものを知らない私は、知らず知らずのうちに、自分が目立つ行動をとってしまっていたらしい。
「おい、そこの小娘。さっきから妙な動きをして、一体何を探っている。」
背後から、低く濁った声が掛けられた。
振り返ると、酒臭い息を吐きながら、三人の浪人風の男たちが私を値踏みするような目で見下ろしていた。腰には乱暴に刀を差している。
「懐に何を隠している? 異人の手先か? それとも、俺たち攘夷の志士の邪魔をする幕府の隠密か?」
男たちの一人が、私の肩を掴もうと、汚れた手を伸ばしてきた。
私の身体が、一瞬で「影」の戦闘態勢へと切り替わる。重心を落とし、袖の中に仕込んだ苦無に指をかける。相手は三人。懐に飛び込んで喉元を突けば、二秒とかからずに一人目を仕留められる。その後、返り血を避けて反転し――。
「――おんしゃあ、そんなところで若い娘をいじめて、何が攘夷の志士ぜよ。格好がつかんのう。」
天から降ってきたような、ひどくのんびりとした、けれど不思議に通る声が、一触即発の空気を破った。
男たちも私も、思わず声のした方を見上げる。そこに立っていたのは、天を突くほどに背の高い、大きな男だった。ボサボサの縮れ毛を無造作に結い上げ、着古した着物の胸元を大胆に肌脱ぎにしている。懐に両手を突っ込み、口元には悪戯っぽい笑みを浮かべていた。何より印象的なのは、その瞳だ。海の向こうのさらに先を見据えるような、底抜けに明るく、圧倒的に巨大な光を宿した瞳。
「何だと、貴様……! どこの馬の骨だ!」
浪人たちが気色ばんで刀の柄に手をかける。男は「まあまあ」と、大きな掌を振って笑った。
「わしはただの旅の浪士ぜよ。それより、その娘を放してやりや。見たところ、腹をすかせて迷子になっちゅうだけの、可愛いお嬢さんじゃないか。」
男はそう言うと、大股で私たちの間に割って入った。その大きな背中が、私の視界を遮る。
驚いた。この男、全く気配を殺していないのに、その存在感だけで周囲の空気を完全に支配してしまっている。
「邪魔をするなら、貴様から叩き斬ってやる!」
逆上した浪人の一人が刀を抜き、男へと斬りかかった。
「危ない!」
私が声を上げようとした、その刹那。
男は刀を抜くことさえせず、ただ身を軽く翻して刃をかわすと、流れるような動作で浪人の腕を掴み、そのまま一本背負いで地面に叩きつけた。ドスン、と激しい音が響き、地面の泥が跳ねる。
「ひっ……!」
残りの二人が、男の圧倒的な腕力に怯え、後ずさりした。
「まだやるかえ? わしは刀を抜くがは好きじゃないき、できればこのまま美味い酒でも飲みに行きたいがやけど?」
男がにやりと笑うと、二人の浪人は気絶した仲間を慌てて引きずりながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。静寂が戻った路地裏で、大男はフゥと息を吐き、肩をすくめた。それから、ゆっくりと私の方を振り返る。
「怪我はなかったかえ、お嬢さん。」
男は私の前にしゃがみ込み、目線を合わせるようにして顔を覗き込んできた。近くで見ると、その身体からは、お日様と潮の香りが混ざったような、温かい匂いがした。
「……助けていただかなくても、大丈夫でした。」
私は警戒を解かないまま、冷たく言い放った。実際、あのまま戦っていれば、私が男たちを仕留めていたはずだ。けれど男は、私の冷淡な態度に怒るどころか、「ははは!」と豪快に笑い飛ばした。
「そりゃあ失礼したちや。けんど、おんしゃあ面白い目をしちゅうねえ。普通の娘の目じゃない。まるで、闇の中にじっと潜んじゅう山猫のようぜよ。」
男の言葉に、私は息を呑んだ。
素性がバレたのだろうか。私が身構えると、男は私の腹へと視線を落とした。
「それに、さっきからお腹の虫が偉そうな声を上げちゅうきに。」
言われて初めて、私は自分が極度の空腹状態であることに気づいた。ぐう、と情けない音が小さく響く。旅に出てから、まともな食事など口にしていなかったのだ。私は恥ずかしさで顔を赤らめた。
「ほら、やっぱり迷子の子猫だ。わしは土佐の脱藩浪士、坂本龍馬という。お嬢さん、美味い飯屋を知っちゅうき、一緒に行かんかえ? わしが奢ってやるきに。」
「坂本、龍馬……?」
その名前を、私は心の中で繰り返した。
坂本龍馬という男は、まるで嵐のようだった。
けれど、その嵐はすべてを吹き飛ばして壊すような荒々しいものではなく、凍りついた大地に春の息吹を無理やり連れてくるような、どこか強引で、途方もなく温かい風だった。
「ほら、こっちなぜよ。ここの飯屋の主は気風が良くて、出す魚が絶品ながちや。」
私の警戒心などお構いなしに、坂本さんは長い足でずんずんと進んでいく。私は数歩後ろを歩きながら、いつでも逃げ出せるように、そしていつでも背後からの襲撃に対応できるように、周囲の気配を張り巡らせていた。そして、連れてこられたのは、港から少し外れた路地裏にある、こぢんまりとした飯屋だった。
店内には潮の匂いと、醤油や出汁の香ばしい匂いが満ちていて、それだけで私の胃袋がまた小さく悲鳴を上げる。坂本さんは慣れた様子で奥の座敷に腰を下ろすと、「おいちゃん、いつもの飯を二人前、大盛りで頼むちや!」と威勢よく声をかけた。やがて運ばれてきたのは、炊き立ての白い麦飯と、香ばしく焼かれた大きな魚、そして湯気を立てるお味噌汁だった。隠れ里では、生き延びるための最低限の栄養しか口にしていなかった。味気ない干し肉や、野草を煎じた汁。こんなにも色彩豊かで、温かい匂いのする料理を前にして、私はどうしていいか分からず、ただ箸を握ったまま固まってしまった。
「どうしたえ? 毒らあて入っちゅうせんき、早く食べや。美味いものは温かいうちに食べるがが一番なぜよ。」
坂本さんはそう言うと、豪快に飯を口に掻き込み始めた。
私はその姿を盗み見ながら、小さく息を吐く。……毒見。里では常にそれを怠るなと教えられていたけれど、この男の前ではそんな教えすら無意味に思えてくる。私はおそるおそる、お味噌汁を一口、口に含んだ。
「……っ!」
温かい液体が喉を通り、五臓六腑に染み渡っていく。あまりの美味しさに、目頭が熱くなるのを必死で堪えた。それからは、我を忘れて箸を動かした。忍びの習性で、音を立てず、けれど一瞬で皿を空にしていく私を見て、坂本さんは目を丸くしていたけれど、すぐに「ははは! 気持ちのいい食べっぷりじゃ!」と嬉しそうに笑った。それすら気にならないほど私は夢中で箸を進めていた。その後、お腹が満たされると、張り詰めていた身体の余計な力が、すうっと抜けていくのが分かった。それと同時に、自分がどれほど疲弊していたのかを思い知らされる。
「ふう、満足したかえ?」
坂本さんは空になった器を見つめ、満足そうに微笑みながら、お茶をすすった。その温和な瞳が、ふと私の腰元――着物の隙間から覗く、あの波の紋様の短刀へと向けられる。
「……綺麗ながら、業の深そうな刃を持っちゅうねえ。おんしゃあ、そんなものを隠して、一体この横浜で誰を捜しゆうがぞ?」
その言葉に、私は再び身体を強張らせた。
やっぱり、この男はただの能天気な浪士ではない。すべてを見透かしているのだ。私は短刀の柄にそっと手をかけ、冷たい声で答えた。
「……お兄ちゃんを、捜しています。この短刀を残して、幕府の連中に連れ去られたから。」
すべてを話すつもりはなかった。里が滅んだことも、私が暗殺者であることも。けれど、坂本さんはそれ以上深く問い詰めることはせず、「そうか」とだけ言って、静かに私を見つめた。
「身内を捜して、こんな戦国のような外界を一人で歩いてきたがか。おんしゃあ、本当に強い娘じゃ。」
その声があまりにも優しくて、私は思わず視線を落とした。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。強いわけじゃない。ただ、立ち止まれば絶望に押しつぶされてしまうから、走るしかないだけなのに。
しばらく間をおいてから、「そういえば」と、坂本さんが思い出したようにポンと手を叩いた。
「さっきからお嬢さん、お嬢さんと呼ぶがも味気ないきに。おんしゃあ、名前は何ていうがぞ?」
名前。
その問いを投げかけられた瞬間、私の思考は一瞬、空白になった。記憶の糸をどれだけ手繰り寄せても、私を呼ぶ我が名の響きは存在しない。父も母も、私のことをただ「お前」と呼び、里の人間たちは別の言葉で私を呼んでいた。
「……名前は、ありません。」
「え? 名前がない? そんなわけがあるかえ。」
坂本さんが不思議そうに眉を寄せた。私はお茶の入った湯呑みを見つめながら、ぽつり、ぽつりと、自分の過去の断片を吐露した。
「私のいた場所では、個人の名前なんて不要でした。私たちはただの『道具』で、代わりがきく『影』だったから。だから……里では、名前ではなく『色』で呼ばれていました。」
「色、とな?」
「はい。私は、闇に紛れるのが得意だったから『黒』、あるいは『墨』。少し腕が上がってからは、存在感が薄いという意味で『薄墨』。……それが、私の名前の代わりでした。」
冷酷な里の掟。私たちは人間ではなく、ただの記号だった。名前を持つことは、自我を持つことであり、自我は密偵にとって最大の弱点になるからだ。
私の話を聞いた坂本さんは、先ほどまでの明るい笑顔を消し、ひどく真面目な、そしてどこか悲しげな顔をして私を見つめていた。静寂が店内に流れる。やはり、気味が悪いと思われたのだろうか。そう思って私が身を引こうとした、その時だった。
「――そんながは、絶対に許さんちや。」
坂本さんの低い声が、私の胸に響いた。彼の手が机を越えて伸びてきて、私の冷え切った両手を包み込んだ。
「黒だの墨だの、そんな寂しくて哀しい色、おんしゃあにはこれっぽっちも似合わんぜよ。おんしゃあの目は、そんな死んだような色じゃない。」
「坂本、さん……?」
「よし! 名前がないなら、今ここでわしがつけちゃる! おんしゃあだけの、世界に一つだけの名前をな!」
坂本さんは腕を組み、うーんと唸りながら天井を見上げた。その真剣な横顔を、私は呆然と見つめることしかできなかった。名前をつけてもらうなんて、考えたこともなかった。私のような人殺しの道具に、そんな光のような特権が許されるはずがないのに。やがて、坂本さんの顔にパッと明るい笑みが戻った。彼は私の目をまっすぐに見つめ、いたずらっぽく、けれど最高に愛おしそうな声を響かせた。
「『茜』らあて、どうだえ?」
「あかね……?」
聞き慣れない響きに、私は小首をかしげた。坂本さんは嬉しそうに頷き、窓の外、遠くに見える海と、そこへ沈みゆく夕日を指差した。
「茜色はな、夕暮れの空の色、そして夜が明ける直前の、東の空の色なぜよ。真っ暗な闇を終わらせて、世界を新しく照らす、最高に綺麗な赤だ。おんしゃあがこれまでどんな闇の中にいたかは知らん。けんど、これからはおんしゃあの歩く道が、そんな美しい色に染まっていってほしい。わしはそう願うきに。」
茜。闇を終わらせる、新しき光の色。
その言葉が、私の耳から胸の奥へと、じんわりと染み込んでいく。
これまで、ただ「黒」として、誰かの命を奪うための道具として生きてきた私。世界の片隅で、誰にも知られずに消えていくはずだった私に、この男は、温かい「光の色」をくれたのだ。胸の奥が、熱いもので満たされていく。それは、生まれて初めて感じる、自分が「一人の人間」として認められたという、震えるような喜びだった。
「……茜。」
自分の口で、その名前を小さく呟いてみる。不思議と、冷え切っていた私の指先に、ほんの少しだけ血が通ったような気がした。
「ふふ、えい名前じゃ。気に入ってくれたかえ、茜。」
坂本さんは満足そうに笑い、私の頭をポンポンと叩いた。その仕草が、どこか死んだ兄の温もりに似ていて、私は小さく頷いた。
「はい。……ありがとうございます、坂本さん!」
「坂本さんは水臭いき、龍馬でえいて。よし、これで茜はわしの新しい相棒だ。おんしゃあのお兄さん捜し、わしも一肌脱いじゃるきに!」
「えっ? 相棒、ですか?」
驚く私を置いてきぼりにしたまま、龍馬さんは「まずはこの横浜で、その短刀の出所を洗うてみんといかんのう。」と、楽しそうに今後の計画を語り始めた。
私は、窓の外に広がる、茜色に染まり始めた横浜の海を見つめた。
私の世界が、今、確かに変わり始めていた。




