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1.霧の檻と飛沫の灯火-1

よろしくお願いします。

外界の人間は、私たちの暮らすこの場所を『隠れ里』と呼ぶらしい。

けれど私にとって、ここは世界そのものだった。

年中、白く深い霧が立ち込め、太陽の光さえも淡くぼやけてしまう山奥の奈落。木々の葉を濡らす露の音と、足元をかすめる冷たい風だけが、私が生きていることを教えてくれる。


「もっと重心を低く。気配を消せ。お前は風だ。木葉だ。ただの影になれ。」


頭上から降ってきた、冷徹な里の長の声を鼓膜に受けながら、私は音もなく杉の巨木の枝へと飛び移る。

足場は濡れて滑りやすくなっていたけれど、私の足袋は、まるで吸い付くように木の皮を捉えていた。

手元にあるのは、小ぶりな一振りの苦無くない

物心がつく前から、私は人形のようにこれの扱いを叩き込まれてきた。人の身体のどこを突けば、声を上げずに一瞬で命を奪えるか。どうすれば自分の気配を完全に消し去り、闇そのものに同化できるか。


「……そこだ。」


呟きと同時に放った刃は、霧の向こう、標的に見立てて置かれた木の人形の眉間を正確に貫いていた。

それを見届けた長は、表情ひとつ変えずに「及第点だ」と言い残し、霧の向こうへと消えていく。

ふう、と小さく息を吐き出しながら、私は自分の両手を見つめた。


冷たい。


どれだけ激しく身体を動かしても、私の指先はいつも、氷のように冷え切っている。

それは、感情を殺し、誰かの命を奪うためだけに研ぎ澄まされた、影の身体の証拠だった。


「――またそんなところで、ぼんやり手を眺めているのかい?」


聞き慣れた、けれど誰よりも大好きな声がして、私はハッと顔を上げた。

霧を割って姿を現したのは、私とよく似た切れ上がった目元を持つ、背の高い少年。私の自慢の兄だった。

兄は木の上をひらりと飛び越え、私の隣の枝に器地良く腰掛けると、差し出してきた掌で、私の冷たい手を包み込んだ。


「やっぱり冷たいな。ほら、こうしてやると、少しは温かくなるだろう?」

「お兄ちゃん……。」


大きな手から伝わってくる、確かな熱。

里の掟では、密偵に感情など不要とされている。けれど、兄のこの温もりだけは、どうしても私の心に深く染み込んで、消えてくれなかった。

兄は懐から、一本の美しい短刀を取り出してみせた。

それは、里の者が持つ無骨な武器とは明らかに違っていた。鞘や柄には、見たこともない、流れるような不思議な美しい紋様が刻まれている。


「ねえ、お兄ちゃん。その模様、なあに?」


私が尋ねると、兄は遠い目をして、霧の向こうの、さらにその先を見つめるように微笑んだ。


「これはな、この深い霧の向こう、ずっと遠くにある『海』という場所の、波の模様なんだそうだ。」

「うみ……?」

「ああ。ここみたいに狭くて暗い場所じゃない。遮るものが何もなくて、途方もなく大きくて、どこまでも青い水溜りさ。そこには、異国から大きな黒い鉄の船がやってくるんだって、長たちが深刻な顔で話しているのを盗み聞きしたんだ。」


兄の言葉は、まるで御伽話のように私の胸に響いた。

どこまでも青い、広い世界。

想像すらつかないけれど、きっと、この冷たい霧に閉ざされた里よりも、ずっとずっと眩しい場所に違いない。


「いつか、この国が大きく変わる時が来る。その時は、お前を連れてここを出よう。そして、一緒にその青い海を見に行くんだ。約束だぞ!」

「うん……! 約束!」


兄は嬉しそうに笑って、私の頭を乱暴に撫でた。

その温かさが愛おしくて、私は兄の胸に小さく頭を預ける。


家に帰れば、寡黙だけれど私たちが無事に訓練を終えたことを静かに喜んでくれる父がいて、温かい汁物を用意して待っていてくれる優しい母がいる。

血に塗れた、冷酷な忍びの里。その底で、私たち家族だけは、小さな、けれど確かな灯火を分け合って生きていた。

この平穏が、泡沫の夢のように脆く、一瞬で弾け飛んでしまうものだとは、当時の私は…これっぽっちも知らずに。


木々の隙間から、夕闇が濃くなっていく。

それが、私たちの世界を永遠に変えてしまう、あの地獄の夜へのカウントダウンだとも気づかずに、私はただ、兄の掌の温もりに甘えていたのだった。



その約束を交わした夜から、わずか数日後のことだった。

運命というものは、あまりにも容赦なく、そして唐突に、私たちが築き上げてきたささやかな世界を蹂躙していく。


あの日、里を包む霧はいつもより深く、そして重かった。まるで、これから起こる凄惨な出来事を覆い隠そうとするかのように。


夜更け、私は奇妙な胸騒ぎで目を覚ました。寝床の隣を見れば、兄の姿がない。いつもなら規則正しい寝息を立てているはずの父と母の布団も、すでに空になっていた。


「……何の、音?」


静寂が支配するはずの夜の底から、地鳴りのような響きが聞こえていた。それは風の音でも、山の獣の鳴き声でもない。無数の人間の足音、そして、金属が擦れ合う不穏な鳴動。

胸を刺すような嫌な予感がして、私は急いで小袖を纏い、苦無を握りしめて外へと飛び出した。


一歩外に出た瞬間、私の視界は異様な「赤」に染まった。


「火事だ……! 里が燃えている……!?」


霧を突き破って立ち上る紅蓮の炎。それは、里の入り口の方からまたたく間に燃え広がり、静かだった木々を、家々を、容赦なく飲み込んでいく。パチパチと薪が爆ぜるような音が、無数に重なって鼓膜を打つ。

その炎の向こうから聞こえてきたのは、聞き紛うはずもない、里の仲間たちの悲鳴だった。


「幕府の軍勢だ! 隠れ里が見つかったぞ!」

「防戦しろ! 敵を霧の中に誘い込め――!」


叫び声は、肉が裂ける鈍い音と、鉄の交わる鋭い音にかき消されていく。

なぜ。どうして。

外界から完全に遮断され、地図にすら載っていないこの隠れ里が、どうして幕府の連中に突き止められたというのだろう。


頭が真っ白になりながらも、私の身体は本能的に我が家へと向かって走っていた。

お父さん。お母さん。お兄ちゃん。みんな、無事でいて。お願いだから。

息を切らせてたどり着いた我が家は、すでに激しい炎に包まれかけていた。崩れ落ちそうな茅葺き屋根の隙間から、火の粉が夜空へと舞い上がっている。その家の前で、私は言葉を失って立ち尽くした。


「おのれ……っ、幕府の犬どもが……!」


低く響く声は、父のものだった。父はいつも物静かな佇まいを捨て去り、一振りの刀を構えて、白い装束に身を包んだ見知らぬ男たちと対峙していた。その足元には、すでに何人もの敵の骸が転がっている。けれど、敵の数は尋常ではなかった。霧の向こうから、次から次へと影が湧き出てくる。


「無駄だ、影の生き残りめ。大老・井伊様の御命により、この里は文字通り灰に帰す。一人も生かしては返さぬ。」


冷酷な声と共に、数人の男たちが一斉に父へと襲いかかった。


「お父さん!」と叫ぼうとした私の口を、背後から伸びてきた手が強く塞いだ。


「声を出すな、行くぞ!」


それは、兄だった。兄の目には、今までに見たこともないような激しい絶望と、私を守ろうとする必死の光が宿っていた。だが、私たちが動くよりも早く、残酷な結末が訪れる。多勢に無勢。いかに卓越した忍びであっても、限界はある。無数の刃が、父の身体を深く貫いた。


「が、はっ……!」

「あなた……!」


家の中から飛び出してきた母が、崩れ落ちる父の身体を抱きしめる。しかし、血に飢えた狼のような兵士たちは、その優しい母にさえも躊躇なく刀を振り下ろした。

肉が裂け、鮮血が夜の霧の中に美しく、そしてあまりにも残酷に飛び散る。

……それは、私がこれまでの訓練で何度も見てきた、見慣れた「人間の死」のはずだった。けれど、それが自分の最愛の両親のものであると認識した瞬間、私の世界は音を立てて崩壊した。


「あ……、あ……っ!!」


声にならない悲鳴が喉の奥で引き裂かれる。

駆け寄ろうとする私の身体を、兄が涙を流しながら、狂ったように抱きしめて制した。


「ダメだ! 行くな! お前だけでも逃げるんだ!」


地面に倒れ伏し、自らの血の海に沈みゆく母が、かすかに動く視線を私たちへと向けた。その瞳は、死の直前であっても、私たちへの深い慈愛に満ちていた。母の唇が、最期の力を振り絞って動く。


『逃げなさい……! 生きて、あなた自身の人生を……!』


それが、母の遺した最期の言葉だった。


次の瞬間、我が家は激しい轟音と共に崩れ落ち、両親の姿を炎の向こうへと隠してしまった。 


「お母さん! お父さん!!」


私は兄の腕を振りほどき、狂ったように叫んだ。けれど、私たちを囲むように、炎の中から新たな敵の兵士たちが姿を現す。


「いたぞ、子供の生き残りだ! 逃がすな、首を刎ねろ!」

「くそっ……! 来い、手を離すなよ!」


兄は私の手を強く握り締めると、燃え盛る里の奥へと走り出した。


背後から迫る足音と、衣服を焦がす熱風。息が詰まるほどの硝煙の匂い。

私たちは夢中で走った。里の裏手にある、深い谷へと続く崖の道。ここなら、里の地形を知り尽くした私たちなら、霧に紛れて逃げ切れるかもしれない。


だが、運命はどこまでも私たちに冷酷だった。


崖の縁に追い詰められたとき、私たちの前に、一人の異様な気配を纏った男が立ちはだかった。その男は幕府の兵士の制服を着ていながらも、纏う空気は完全に私たちと同じ「影」のもの――いや、それ以上に冷たく、禍々しい闇の気配だった。


「ここまでだ、迷子の小鳥たち…。」


男が刀を抜く。その一振りが、容赦なく私たちへと襲いかかった。兄はとっさに私を突き飛ばし、自らの小刀でその一撃を受け止める。激しい火花が散り、金属の甲高い音が夜の闇に響いた。


「お兄ちゃん!」

「逃げろ! 早くしろ!」


兄は必死に男を押し留めようとするが、力の差は歴然だった。男の無慈悲な蹴りが兄の腹部を捉え、兄は地面に激しく叩きつけられる。男はすかさず、兄の首元に刀を突きつけた。


「ほう、生きがいいな。この少年は、あの方の『人形』として使えそうだ。連れて行け。」


霧の向こうから現れた別の男たちが、動けなくなった兄の身体を拘束していく。


「離せ! 離せ! お前たち、妹に手を出すな!」


兄は狂ったように暴れ、私を求めて手を伸ばした。


「お兄ちゃん! 嫌、嫌だよ!」


私もまた、兄へと手を伸ばした。あと数寸で、その指先が届く。あの日、私に「温もり」をくれた、大好きな、世界でたった一人の兄の手。けれど、その指先が触れ合う直前、私の足元の地面が、激しい炎の熱で脆くなっていたのか、音を立てて崩落した。


「あ――!!」


突然の浮遊感。そして、視界が上下に反転する。

遠ざかっていく炎の赤。その中で、必死に私の名前を叫ぶ兄の、絶望に満ちた顔が見えた気がした。

私はそのまま、深い、深い谷底の闇へと、真っ逆さまに落ちていったのだった。


………どれほどの時間が経ったのだろう。

頬に触れる、冷たい感触に、私はゆっくりと目を開けた。

視界に映ったのは、灰色に濁った空。ポツリ、ポツリと、冷たい雨が私の顔を濡らしていた。

身体を動かそうとすると、全身を裂くような激痛が走る。崖から落ちる途中、木々の枝がクッションになって、奇跡的に命だけは助かったようだった。私は泥にまみれながら、這うようにして、かつて我が家があった場所へと向かった。


痛む身体を引きずり、ようやくたどり着いた里は――完全に、死んでいた。


年中霧に包まれていた美しい隠れ里は、見る影もなく黒焦げの灰に変わり果てていた。あちこちに、見知った里の人間たちの遺体が転がっている。

我が家の焼け跡の前に、私はへたり込んだ。そこには、冷たくなってしまった父と母の身体が、静かに横たわっていた。もう、任務から帰っても、父が黙って頭を撫でてくれることはない。母が温かい汁物を作って待っていてくれることもない。


私の「世界」は、本当に終わってしまったのだ。


ぽろぽろと、目から涙が溢れ、泥に汚れた地面を濡らす。

感情を捨てろと教えられてきたはずなのに、胸の奥が引き裂かれるように痛くて、涙が止まらなかった。

……ふと、泥の中に、微かに光るものを見つけた。痛む手を伸ばし、それを拾い上げる。それは、あの夜、兄が私に見せてくれた、美しい波の紋様が刻まれた一本の短刀だった。鞘は少し焦げていたけれど、その刃は変わらず、静かな光を放っている。兄はこれを、肌身離さず持っていたはずだった。それがここに落ちているということは。


『この少年は、あの方の『人形』として使えそうだ。連れて行け』


あの男の言葉が、耳の奥で蘇る。

お兄ちゃんは、死んでいない。幕府の連中に、どこかへ連れ去られたのだ。

生きている。絶対に、この世界のどこかで、お兄ちゃんは生きている。


私は、泥まみれの短刀を、きつく、きつく胸に抱きしめた。涙で視界が歪む中、私の中で、冷たく、けれど消えることのない激しい炎が灯るのを感じた。


里を滅ぼし、両親を無残に殺し、兄を奪い去った幕府を、私は絶対に許さない。

そして、お兄ちゃん。私は絶対にあなたを見つけ出す。そして、二人であの約束の「海」を見るんだ。


「私は、もう影じゃない……。」


私は立ち上がり、両親の遺体の前で深く頭を下げた。

母の最期の言葉が、胸の中で何度も繰り返される。


『生きて、あなた自身の人生を』


私の人生。


それは、兄を捜し出し、この狂った運命のすべてに復讐するための旅路だ。


私は短刀を腰に差し、一歩、また一歩と、壊滅した里の灰を踏みしめて歩き出した。目指すは、兄の短刀に刻まれた、異国の風が吹くという港町「横浜」。


冷たい雨が、私の頬の涙を洗い流していく。


その時の私はまだ、この旅が時代の流れの渦に続くものだとは、知る由もなかった。

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