表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/19

5.茜さす夜明け-1

瀬戸内海の夜波は、英国製の小型密貿易船「丙寅丸へいいんまる」の船腹を、容赦のない質量をもって叩き続けていた。大坂を出航してから数日、空を覆う重苦しい雨雲はいささかも晴れる気配がなく、海原は漆黒の墨汁を流したかのように暗く、冷たくうねっている。


「……う、あ……っ、……はぁ、……ハァ……。」


船倉の片隅で、私は自らの荒い呼吸の音を聞いていた。

身体が、内側から凄まじい熱に炙られている。左肩の貫通傷、池田屋での脇腹の割創、そして大坂の倉庫街で抉られた右太ももの肉。それらの傷口がことごとく化膿し、じくじくと嫌な膿と熱を帯びて全身の神経を狂わせていた。傷を縛った包帯はとうに汚れ、そこから放たれる生臭い血の匂いが、狭い船倉の空気をいっそう淀ませている。身体をわずかに動かすだけで、皮膚を引き千切られるような激痛が走り、視界の端が白く爆ぜた。私はただ、失血と高熱による凄まじい悪寒に歯の根をガタガタと震わせながら、右腕一本で自らの刀を固く抱きしめることしかできなかった。


「……茜、……生きて、いるか……?」


寝床の中から、掠れた声が響いた。

高杉晋作さんは、数日前よりも確実に、その死の淵へと近づいていた。頬は削げ落ち、皮膚は土気色に変色し、呼吸をするたびに肺の奥からヒューヒューと壊れた笛のような不吉な音が漏れている。彼が咳き込むたびに、船底の床板に置かれた器には、ドロリとした黒い血の塊が吐き出されていった。彼の身体を蝕む労咳の病魔は、すでに彼の命の猶予を限界まで削り取っていた。

この時代、彼の病が治る見込みなど万に一つもない。それでも、彼の瞳の奥に宿る爛々とした狂気の光だけは、肉体の崩壊を拒絶するように、闇の中で妖しく輝き続けていた。


「生きて……います。高杉さんこそ、持ちこたえてください。もうすぐ、長州です……。」

「……フン、……当たり前だ。……俺が、こんな船の上で、……ただの病客として死んでたまるか。……国元で、待っている腰抜けどもに、……本物の『狂』を教えてやらねばならんからな……。」


高杉さんは血に染まった唇を歪めて不敵に笑おうとしたが、すぐに激しい咳の発作に襲われ、身体を丸めて悶絶した。私は痛む身体を引きずって彼に近づき、冷たい水で濡らした手ぬぐいで、その燃えるように熱い額を拭い続けた。この男の命の灯火を守りたい、その剥き出しの情念だけが、私の崩れかけそうな肉体を支える最後の楔だった。

ふと、船倉の対面の闇に目を向けると、そこには両手首を捕縛縄で縛られたまま、膝を抱えて座り込んでいるお兄ちゃんの姿があった。大坂の戦闘で、彼は自らの肉体を盾にして私を守るような本能の暴走を見せた。だが、船に乗ってからというもの、彼は再び深い混濁の闇へと突き落とされていた。右腕の腱を切られた彼の衣服の右袖は、力の抜けた肉塊のようにだらりと垂れ下がっている。


「……いも、……まも……、……敵……、排除……。」


お兄ちゃんは、焦点の合わない硝子玉のような瞳で、私の衣服に染み付いた赤黒い血痕をじっと見つめ、壊れた人形のようにその言葉だけを繰り返していた。

大坂で見せたあの行動は、失われた記憶が戻ったからではない。ただ、肉親としての血の本能が一瞬だけ呪縛の隙間から溢れ出たに過ぎず、今の彼は再び、自分が誰なのか、目の前にいる私が誰なのかも分からぬまま、激しい拒絶反応と頭痛に苛まれて壁に頭を打ち付けていた。

それでも、私はこの手を離さないと決めていた。


翌朝、丙寅丸は激しい雨が煙る中、長州藩の南端に位置する下関の港へと、極秘裏に入港した。しかし、船の窓から見上げた故郷の港の空気は、私たちがかつて出発した時とは完全に一変していた。


「……何だ、あの惨状は。」


高杉さんに付き従う数少ない生き残りの藩士が、絶望的な声を漏らした。

港の往来には、かつて私たちが目にした活気は微塵もなかった。領民たちは皆、何かに怯えるように下を向き、足早に通り過ぎていく。そして、港の入り口にある刑場には、幾つもの生々しい晒し首が、冷たい雨に打たれながら竹槍の先に突き立てられていた。

京都での大敗を受け、長州藩の政権を掌握した椋梨藤太率いる「俗論派」による、凄惨な正義派粛清の嵐――それが、この地に吹き荒れていた。

久坂玄瑞さんたちの志に同調していた改革派の藩士たちは、次々と捕縛され、牢に投じられ、あるいは弁解の余地もなく首を撥ねられていた。かつて高杉さんが創設した、身分に囚われぬ至誠の軍隊「奇兵隊」もまた、藩政府からの「武装解除」と「解散」の命令を受け、下関の諸隊と共に完全に身動きを奪われ、解体寸前の危機に瀕していた。さらに最悪なことに、国境の外側には、長州を完全に圧殺すべく、幕府が動員した二万を超える圧倒的な大軍、「第一次長州征伐」の先鋒が刻一歩と迫りつつあった。

藩内は裏切り者による恐怖政治、藩外からは圧倒的な武力による包囲網。長州藩は今、完全に内と外から圧殺されようとしていた。これが、私たちが命懸けで辿り着いた決戦の地の、あまりにも冷酷な現実だった。


私たちは、下関の阿弥陀寺の近くにある、真宗の古い廃寺へと身を潜めた。


「高杉さん、諸隊の幹部たちを集めました。ですが……。」


その日の夜、激しい雨の音が堂内に響く中、奇兵隊の山縣狂介をはじめとする諸隊の若きリーダーたちが、密かに廃寺へと集まってきた。しかし、彼らの顔に宿っていたのは、かつての熱い闘志ではなく、底知れない絶望と困惑だった。


「高杉さん、今の藩政府に逆らうのは自殺行為です。椋梨ら俗論派は、幕府の怒りを解くために、禁門の変の責任者である福原、国司、益田の三家老の首を撥ねて差し出すことを決定しました。今、僕たちが動けば、長州は本当に徳川の大軍によって根こそぎにされてしまう!」


山縣は、泥に汚れた拳を床に叩きつけながら、悔しさに声を震わせた。


「奇兵隊の隊士たちも、皆、恐怖に縛られています。これ以上の戦いは……もう無理です。」


彼らの言うことは、現実として正しかった。勝算など、どこをどうひっくり返しても見当たらない。戦力差は数十倍、味方は戦意を喪失し、藩の正規軍はすべて敵に回っている。都合よく形勢を逆転できるような隠し玉も、強力な援軍も、どこにも存在しなかった。だが、病床から這い出してきた高杉さんは、山縣の胸ぐらを、その骨と皮ばかりになった手で力任せに掴み上げた。


「……バカ野郎が……!」


高杉さんは、激しく血を吐きながらも、堂内に響き渡るような凄まじい声で一喝した。


「三家老の首を差し出せば、幕府が許してくれると本気で思っているのか! 椋梨どもは、長州の誇りを、先生の遺志を、徳川の足元に差し出して命乞いをしているだけだ! そんなことをして生き残った藩に、一体何の価値がある!」


彼の喉から漏れる呼吸は、今にも途切れそうなほどに激しかった。だが、その瞳に宿る圧倒的なまでの『狂気』が、堂内の空気を一瞬にして支配した。


「戦う力が残っていないなら、俺一人でも往く。たった一人で挙兵し、この狂った長州の進路を、俺の命と引き換えにひっくり返してやる!」


高杉さんの言葉は、正気ではなかった。しかし、その正気ではない執念だけが、この完璧な絶望の壁を打ち破るための、唯一の劇薬であることも、私は知っていた。

その時、廃寺の周囲の竹林から、雨音を切り裂いて無数の足音が接近してくるのが聞こえた。


「――そこまでだ、長州の反逆者ども! 藩命により、高杉晋作とその一味を捕縛する!」


俗論派の手先となった藩兵たち、そして彼らと結託した大久保の息がかかった暗部の残党、総勢三十人以上が、松明の光をぎらつかせながら、廃寺の堂内へと一斉に雪崩れ込んできた。


「茜さん! 敵襲だ!」


諸隊の幹部たちが刀を抜くが、あまりの数の多さに気圧されている。

私は、高杉さんの前に立ちはだかり、右腕一本で刀を引き抜いた。


「はぁぁぁっ!」


私は畳を蹴り上げ、先頭の敵の懐へと飛び込んだ。左肩と右太ももの激痛で、身体の軸が激しくぶれる。だが、それを強引に肉体の執念で補い、右腕一本の力で敵の喉元を深く切り裂いた。

噴き出した鮮血が私の顔を濡らす。しかし、二人目、三人目の敵の槍が、容赦なく私の脇腹と左腕を掠めていった。


「つ、あ……っ!」


化膿していた傷口が完全に引き裂かれ、凄まじい激痛が脳髄を直撃する。私は床に激しく膝をついた。地面の泥と自らの血が混ざり合い、視界が真っ黒に染まっていく。実力の差も、肉体の限界も、すべてが私を死の淵へと引きずり込もうとしていた。都合よく覚醒して敵を全滅させるような力など、今の私にはない。敵の暗殺者が、トドメを刺すべく、私の頭上から刀を真っ直ぐに振り下ろした。

その瞬間だった。


「……う、あ……が、ああぁぁぁっ!!」


本堂の奥から、縄を解かれたお兄ちゃんが、獣のような咆哮を上げて飛び出してきた。

腱を切られた右腕はだらりと垂れ下がったままだ。しかし、彼は縛られていない左腕一本で、私の前に立ちはだかり、振り下ろされた敵の刀を、自らの左前腕の骨で受け止めたのだ。

グシャリ、という生々しい骨折の音が響く。お兄ちゃんの左腕の肉が深く裂け、大量の血が飛び散った。

しかし、お兄ちゃんは激痛に顔一つ変えず、そのまま自らの巨体を使って、敵の暗殺者を床へと押し潰し、その首を右足で力任せに踏み砕いた。


「お兄ちゃん……!」


彼の瞳は、未だに激しく混濁していた。洗脳が解けたわけではない。彼は私が「妹」であることも分かっていない。ただ、目の前でボロボロになりながら自分を守ろうとする私の姿を見て、その狂った脳の奥底にある本能が、彼を突き動かしているだけだった。


「山縣さん! 諸隊の誇りがあるなら、ここで戦ってください!」


私の叫びに、絶望に震えていた山縣たちの目にも、ついに捨て身の炎が灯った。


「……応! 奇兵隊、往くぞ!」


諸隊の幹部たちが一斉に斬り込み、堂内は凄惨な乱闘の地獄と化した。満身創痍の私とお兄ちゃん、そして命の灯火を燃やす高杉さんの執念が、数において圧倒的に勝る藩兵たちを、死闘の末に強引に押し返していった。

数刻後、激しい雨が降り続く中、廃寺の境内には、無数の敵の死体と、激しい息を吐く私たちの姿だけが残されていた。高杉さんは、血塗れの床の上に立ち、冷たい雨が吹き込む夜空を見上げた。その手には、一枚の真っ赤な旗が握られていた。


「……これより、長州の、いや、この日本の歴史をひっくり返す、本当の戦を始める。」


彼は、喀血で真っ赤に染まった唇を歪め、狂気に満ちた声で宣言した。


「下関、功山寺こうざんじにて、挙兵する。……従う者は、ついてこい。」


勝算などない。奇跡など起きない。あるのは、己の信じる大義のために、すべてを賭けて死地へと飛び込む、剥き出しの執念だけだった。

お兄ちゃんは私の隣で、骨の折れた左腕をだらりと下げ、激しい頭痛に耐えるように地面に蹲っていた。私はこの壊れた兄と共に、高杉さんの征く地獄の果てまで付き合う覚悟を、さらに深く胸に刻み込んでいた。


冷たい雨は、すべてを洗い流すかのように激しさを増していく。



下関の廃寺を叩く激しい雨音は、絶え間なく本堂の歪んだ天井を揺らし、冷たい雨水を床の破れ目に染み込ませていた。堂内に漂うのは、古びた畳の腐臭と、私とお兄ちゃんの身体から溢れ出る、化膿した傷口の生臭い匂いだけだ。


「……う、……あ……。」


床の隅で、お兄ちゃんが激しい頭痛に耐えるようにして、切断された右腕の袖と、骨の折れた左腕を床に投げ出していた。暗殺人形としての機能を完全に奪われた彼は、脳内でせめぎ合う洗脳の命令と肉親の記憶の拒絶反応により、一分ごとに狂気と衰弱の深淵へと引きずり込まれていた。焦点の合わない硝子玉のような瞳が、狂わしく虚空を泳いでいる。

私は痛む右足を引きずりながら、お兄ちゃんの傍らに静かに腰を下ろした。左肩を貫かれた傷からは、今も木綿糸の隙間を縫ってドクドクと熱い血が溢れ、脇腹の古傷は熱を持って激しく脈打っている。失血による猛烈な眩暈で、視界が何度も白く爆ぜそうになった。肉体の限界を強引に意識の底へねじ伏せながら、私はお兄ちゃんを縛っていた縄の結び目を、残された右手で静かに解いた。


「お兄ちゃん。……聴いて。」


私は、お兄ちゃんの壊れかけた頭を、自らの血に染まった胸元へとそっと抱き寄せた。彼は一瞬、獣のように歯を剥き出そうとしたが、私の身体から伝わる確かな体温と血の匂いに戸惑うように、動きを止めた。


「お兄ちゃんは、私の事忘れてしまったよね。……私の今の名前はね、あかねって言うの。坂本龍馬っていう人が付けてくれたんだ。夕暮れ空の色、そして夜が明ける直前の東の空の色。まx鞍悩みを終わらせて新しい世界を照らす最高にきれいな赤色の名前。」


私は、お兄ちゃんの耳元で、囁くように静かに語り始めた。それは、隠れ里を飛び出してからの、私の果てしない旅の記憶だった。


「お兄ちゃんを追いかけて里を出たあの日から、私の世界はいつも初めての事ばかりだったよ。横浜の港町や、偉人も見たんだ。…海も…見たよ。本当はお兄ちゃんとみる約束してたけど…、お兄ちゃんがいなかったから仕方ないよね?…あ、それから、竜馬さんがね、お兄ちゃんも連れた三人で国中を旅しようって言ってくれたんだ。」


一つ一つの出会いを辿るように言葉を紡ぐ。


「…血の匂いと硝煙で満ちていた時もあったよ。木屋町の路地裏で初めて人を斬り、池田屋の地獄の中でお兄ちゃんの冷たい刃に再会した。あの時、私を突き刺した槍の痛みは、今もこの脇腹に残っているの。……何度も死にそうになった。何度も、すべてを諦めてしまおうと思った。だけどね、私にはどうしても手放せない志があった。お兄ちゃんを、大老の闇から引きずり戻して、もう一度、人間の世界で一緒に生きたいって、それだけを求めて地を這い、歩き続けてきたんだよ。」


お兄ちゃんの身体が、私の語る言葉の抑揚に合わせて、微かに震え始めた。彼の瞳の奥で、混濁した闇の底から、小さな、本当に小さな光の欠片が、泡のように浮かんでは消えていく。


「それにね、京都で、一人の狂った男に出会ったの。高杉晋作という、世界を全部ひっくり返すと笑う、死に損ないの風雲児。その人の背中を追いかけているうちに、私の胸の中には、お兄ちゃんへの執念と同じくらい、引き返せない強い想いが灯ってしまったの。……だから私は、どんなに身体がボロボロになっても、まだ倒れるわけにはいかないんだよ。」


私の流した涙が、お兄ちゃんの煤けた頬へと落ちていく。

彼は、私が「茜」と呼ばれていることなど、これまで知りもしなかった。里を離れ、暗殺人形として数え切れないほどの命を奪ってきた彼の頭の中には、妹の現在の名前など一文字も存在しなかったはずだ。だが、私の必死の語りかけと、その身を挺して彼を守り抜いてきた剥き出しの熱が、彼の脳の奥底に植え付けられた大老の洗脳の檻を、内側から確実に、ミリ単位で噛み砕きつつあるはずだ。


その時、廃寺の周囲の竹林を激しく引き裂くような、無数の足音と松明の明かりが、堂内の障子紙を一斉に真っ赤に染め上げた。


「――高杉晋作の残党どもめ! ここが貴様らの墓場だ! 一人も生かして返すな!」


俗論派の藩兵たち、そして彼らと結託した大久保俊光直属の暗部の隠密たちが、再びこの廃寺を包囲し、容赦なく火のついた矢を本堂の屋根へと放ち始めた。

一瞬にして、乾燥した古い木造の寺院が猛烈な炎に包まれ、天井から燃え盛る梁が凄まじい音を立てて崩れ落ちてくる。


「茜! 早く高杉さんを連れて裏口から脱出せよ! ここは俺たちが食い止める!」


山縣狂介が、刀を抜いて前方の敵へと斬り込みながら叫んだ。しかし、敵の数は圧倒的だった。本堂の正面の壁が押し破られ、黒装束の暗部たちが、飢えた狼のように私たちへ向かって突進してくる。


「高杉さん……!」


私は、激しい咳の発作で床に伏せていた高杉さんの身体を右手で抱き起こそうとした。しかし、私の左肩と右太も目の傷口からは、再び生々しい鮮血が激しく噴き出し、身体が重力に負けるようにして床へと崩れ落ちた。もう、私一人の力では、二人を同時に救い出すことなど、肉体的に不可能な限界を迎えていた。

その瞬間、私の身体を、凄まじい力で後ろへと引き剥がす男がいた。

「お兄、ちゃん……?」

両腕を失い、血塗れの姿となったお兄ちゃんが、自らの巨体を使って、私の前に立ちはだかったのだ。彼の瞳からは、完全に狂気の色が消え去っていた。そこにあったのは、かつて里で私を命懸けで守ってくれた、あの優しく、強固な兄の眼差しそのものだった。お兄ちゃんは、動かぬ両腕の代わりに、自らの肉体そのものを盾にして、突進してきた暗部の隠密たちの刀をその胸元で受け止めた。

ザクッ、ズブッ――!!

肉を貫く鈍い音が堂内に響き渡る。お兄ちゃんの漆黒の装束が、瞬く間に自身の血で赤く染まっていく。しかし、彼は一歩も引かなった。そのまま前に倒れ込むようにして敵の隠密たちを道連れにし、太い足で床板を蹴り破って、私と高杉さんを裏口の通路へと力任せに押し出したのだ。


「往け……!!」


それが、お兄ちゃんの喉から絞り出された、最初で最後の、明確な意志を持った叫びだった。


天井の巨大な梁が、燃え盛りながら二人の間に轟音を立てて崩れ落ち、視界を完全に遮断していく。炎の向こう側、崩壊していく寺の奥で、お兄ちゃんは静かに、けれど私の胸の奥底に一生残り続けるほどの確かな声で、私の名を呼んだ。


「――茜__。」


初めて、お兄ちゃんが名前を呼んでくれた____。

そして…それが、最後だった___……。



炎がすべてを包み込み、本堂が完全に崩れ落ちていく。私は山縣たちに強引に身体を引っ張られ、激しい雨が降る夜の闇の中へと、涙を流しながら走り出すしかなかった。誰かを救えば誰かを失う、それがこの残酷な時代の現実だった。


「…壮絶な最期だった…だが、茜の兄として素晴らしい…最後だった。」


高杉さんが静かに告げる。私は涙にぬれたままその胸に顔を寄せた。胸が苦しくて、体の痛みなど何も感じない。ただ、大切な家族を失った喪失感と絶望が雨と共に私に降り注いでいた。

お兄ちゃんは自らの命を薪にして、私に未来を繋いでくれたのだった…。


そして、高杉さんの「功山寺こうざんじ挙兵」は、徹底的な狂気と、命を捨てた若者たちの凄惨な突撃によって成し遂げられた。わずか数十人で始まった反乱は、下関の諸隊を巻き込み、俗論派の正規軍を正面から撃破。長州藩の藩論は、再び幕府への絶対抗戦、つまり「回天」へと激しく引っくり返った。長州藩俗論派が失脚し、高杉さん率いる正義派が再び実権を掌握。 幕府は第一次長州征伐の軍勢が国境に迫るも、長州の結束の前に容易に手を出せず、一時的な政治的妥協を模索し始めていた。

そして、その長州の完全な崩壊の瀬戸際で、もう一つの歴史の歯車が、泥にまみれた男たちの手によって、強引に噛み合わされようとしていた。



京都、薩摩藩家老・小松帯刀の奥座敷。

畳の上には、激しい緊張感が張り詰め、一触即発の硝煙の匂いが立ち込めていた。


ようやく、ようやくここまで来たがじゃ……。

太ももの傷口から放たれる膿の臭いと、極度の緊張による冷や汗が、わしの着物をぐっしょりと濡らしちょる。目の前には、禁門の変で長州を徹底的に叩き潰した薩摩の巨頭、西郷吉之助と大久保俊光。迅速に政治の算盤を弾く大久保の目は、未だに冷徹そのものじゃ。そして、その対面には、三条大橋の下で乞食の姿に身をやつし、泥水をすすりながら生き残ってきた長州の桂小五郎が、垢を落としたばかりの冷たい目で座っちゅう。お互いに、仲間を殺し合った生々しい遺恨が消えるわけがない。握り合おうとする両手は、互いの同志の血で真っ黒に汚れておる。西郷も、桂も、一歩も譲らん。誇りと面子が、現実の政治の壁となって、目の前にそびえ立っちゅう。


「坂本殿、薩摩が頭を下げてまで、朝敵となった長州と組む理由はなか。」


大久保の冷たい声が、座敷の空気を凍らせる。


「黙れ、大久保……!」


わしは痛む足を強引に突き出し、畳を拳で強く叩いた。


「おまんらぁ、まだ分からんがか! 面子や遺恨だけで血を流しおうて、長州が滅びれば、次に幕府の生贄になるがは薩摩、おまんらぁの番じゃきに! 徳川という巨大な化け物を倒すには、薩摩の武力と、長州の狂気的なまでの執念、この二つが一つにならんと、この国の夜明けは永久にやって来んがじゃ!」


わしの喉から、血の混ざった叫びが迸る。これは、生き残るために互いの喉元に刃を突きつけ合いながら行う、最も過酷な妥協の結盟じゃ。わしのなりふり構わない足掻きと、桂の「長州を絶対に滅ぼさせん」という強固な執念が、ついに西郷の重い腰を動かした。


「……分かった。薩摩は長州と共に、この国の夜明けのために動く。」


西郷が静かに頭を下げ、桂がその手を固く握り返した。


年が明けて一月。

無数の志士たちの屍を乗り越え、現実の利害に足掻き続けた男たちの執念によって、不可能なはずの『薩長同盟』が、ついにこの瞬間に、なんとか結ばれたがじゃ。新たな時代の巨大な足音が、硝煙の匂いと共に、世界の向こう側から確かに近づいてくるのを感じた。





長州、下関の片隅にある、瀬戸内海を見下ろす小さな庵。

激しい嵐がようやく過ぎ去り、東の空からは、夜明けを告げる薄暗い、けれど確かな「茜色」の朝焼けが、静かに水平線を染め上げつつあった。


「……ハァ、……っ、ゲホッ……! ……ゴハッ、……!」


薄暗い部屋の中で、高杉さんは寝床の上に身体を横たえ、浅い呼吸を繰り返していた。

彼の余命は、もう数日、あるいは数時間も残されていないことは、誰の目にも明らかだった。頬は限界まで削げ落ち、皮膚は土気色に変色し、吐き出された血はタライを満たしている。その細い胸は、今にも停止しそうなほどにか弱く上下していた。

私の身体もまた、全身の傷口が激しく熱を持ち、まともに立ち上がることもできないほどの満身創痍だった。お兄ちゃんを失った心の穴からは、今も冷たい風が吹き抜けている。私は高杉さんの枕元に座り、冷たくなった彼の手を、自らの右手で静かに握り締めた。彼の皮膚から伝わる熱は、病魔が彼の命を内側から焼き尽くそうとしている最後の灯火のようだった。


「高杉さん……。」


私は、彼の濁った瞳をまっすぐに見つめ、胸の奥底に溜まっていた、もう二度と引き返せない想いを、言葉にして絞り出した。


「私は……貴方が好きです。高杉晋作という、世界を壊してひっくり返すと不敵に笑う、あなたのその狂気ごと、私は貴方を愛してしまいました。里を出て、血と泥にまみれてお兄ちゃんを追いかけてきた私の暗い世界に、あなたが、消えない熱を灯してくれた。だから……私は貴方のそばにいたい。この命が尽きるその時まで、あなたの背中を追いかけ続けたい。」


何の飾り気もない、ただ私の内側から湧き上がる想いそのものだった。

高杉さんはゆっくりと、本当に数ミリだけその細い目をあけ、私を見つめた。その瞳の奥に、最期の残光のような光が静かに揺らめく。彼は、私の血に汚れた手を、骨と皮ばかりになった指先で、僅かに、けれど確かに握り返した。


「……フン、……手が掛かる、山猫だ、お前は……。」


高杉さんは、血に染まった唇を僅かに歪め、いつものひねくれた笑みを見せた。


「俺も……お前を、俺のそばに置くと決めた時から、同じ想いだ。暗部の暗殺者でも、ただの町娘でもねえ、お前という一人の女の執念に、俺のこの狂った魂は、救われていたんだよ……。」


初めて明かされる、彼の本心だった。大義や歴史の表舞台では決して見せることのなかった、一人の男としての、私への確かな気持ち。しかし、その直後、高杉さんの顔が、これまで見たこともないほどの激しい悔しさと無念によって、歪に歪んだ。彼の拳が、布団のシーツをギチギチと音を立てて引き千切らんばかりに握り締められる。


「……だが、クソが……! 俺の命が、もうこれっぽっちも残っていねえことが……これほど悔しいと思ったことは、これまでの人生で一度もねえ……!」


彼の喉から、血を吐くような呪詛が漏れ出た。


「長州は生き残り、薩摩と手を握った。これから、この国がどうひっくり返るか、一番面白い舞台が始まるっていうのによ……。何より、お前という女を、この腕で抱き続ける時間すら、俺には残されていねえ……。なぜ、俺の身体は、こんなにも早く朽ち果てやがるんだ……!

天才と謳われ、恐れるものなど何一つないと豪語してきた高杉晋作が、初めて見せた、死への恐怖と、生への凄まじい執着、そして届かぬ現実への絶望だった。彼は、私を置いていくことが、これからの面白い時代を見ずに死ぬことが、悔しくて堪らないのだ。その姿にじくりと心が疼く。


「諦めないで……!」


私は、彼の言葉を遮るように叫んだ。激しい熱を持った自らの身体を突き出し、高杉さんの胸元へと縋り付いた。左肩の傷が開き、生暖かい血が彼の衣服へと滲んでいくのも構わずに、私は彼の冷たい手を両手で包み込み、叫び続けた。


「死ぬなんて、言わないでください! 医者が何と言おうと、国がどう動こうと、私は絶対に諦めない! 高杉さんが創った新しい世界の特等席に、私はあなたと一緒に座るんです! あなたがいない世界なんて、私には何の意味もない! だから……生きて、晋作さん! 命の灯火が消えるその最後の一瞬まで、死に抗って、私のそばで生き続けて!」


私の涙が、彼の胸元へと激しく滴り落ちる。


「お兄ちゃんまでいなくなったのに…もう、これ以上…私を一人にしないで…ッ!」



最後は声にならなかった。家族も失い、生まれ育った里もない。たくさんの人が死に、唯一の兄は炎に消えた。もう、私には彼しかいないのだ。神も仏も信じない。ただ、私が信じるのは、目の前の高杉晋作という男の執念だけ。

高杉さんは、私の涙に濡れた顔をじっと見つめていた。その瞳の奥で、消えかけていた狂気の炎が再び猛烈な勢いで燃え上がった気がした。


「……ハ、ハハ……。全くだな……。」


高杉さんは、喉の奥で低く笑った。その笑い声には、いつもの、世界を睨みつけるような不敵な王者の風格が完全に蘇っていた。


「お前にそこまで言われて、ただ大人しく病床で死ねるかよ。……俺は高杉晋作だ。徳川の二万の大軍をひっくり返した男が、労咳ごときの病魔に、簡単に白旗を上げてたまるか。」


彼は、私の手を、今度は骨が軋むほどの強い力で握り締めた。彼の皮膚から伝わる熱が、私の身体の傷の痛みを消し去るかのように、激しく循環していく。


「誓うぜ、茜。……俺は最期の最期の一瞬まで、お前のそばで、この世界で、生き抜いてみせる。死の神が俺を連れて行こうとするなら、その首を叩き切ってでも、俺はお前の手を離さねえ。」


それは、神仏への祈りではない。この過酷な現実の地獄の中で、互いの想いだけを頼りに交わした、最も強固な、命の誓いだった。私たちは、互いの消えゆく命と、傷だらけの肉体の熱を確かめ合うように、深く、激しく口づけを交わした。


窓の外では、夜明けの光が水平線から力強く昇り、瀬戸内の荒い海を、そして傷だらけの私たちの未来を、鮮やかな茜色で包み込んでいった。

お兄ちゃんは逝ってしまった。高杉さんの病が完治することもない。これからも、幕府との全面戦争という果てしない地獄が待ち受けている。


それでも、私たちは、この激動の時代の真ん中で、決して折れることのない誓いによって、一つに結ばれたのだ。私は高杉さんの温かく、力強い手を握りしめたまま、その茜さす光の中を、彼と共に、最期のその瞬間まで前を向いて歩み続ける。私たちの本当の戦いは、この新しい時代の夜明けと共に、ここからまた始まっていくのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ