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5.エピローグ

瀬戸内海の穏やかな波が、陽光を浴びてキラキラと銀色に明滅している。


京都の濃厚な煤煙とも、大坂の生温かく湿った潮風とも違う。ここは、優しくどこまでも透き通った風が吹き抜ける、長州の、ある海沿いの山の高台だった。緑豊かな木々に囲まれたその場所に、ひっそりと佇む瀟洒な屋敷がある。元は長州藩のしかるべき重臣が、喧騒を離れて思索に耽るために建てた極秘の別邸だった。功山寺挙兵を経て藩の全権を掌握し、事実上の最高指導者となった高杉晋作だったが、彼はその権力の座をあっさりと山縣狂介や桂小五郎たちに譲り渡し、この静かな地へと身を隠した。いや、正確には、彼をこれ以上の激務で死なせまいとした周囲の懇願と、何よりも私自身の「生きてくれ」という執念が、彼をこの隠れ家へと連れてきたのだった。


「……茜、またその奇妙な煎じ薬か。匂いだけで、鼻の奥がひん曲がりそうだぜ。」


縁側に置かれた藤椅子に腰掛け、白い木綿の寝着を纏った高杉さんが、縁側の庭を見つめながら苦笑いを浮かべた。その端正な顔立ちは、京都の泥の中で出会った頃のような鋭利な刃物の鋭さを残しつつも、かつての土気色に濁った死相は完全に消え去っていた。


「ダメですよ、高杉さん。蘭方の先生が、これを毎朝欠かさず飲むようにって仰ったんですから。はい、口を開けてください。」


私は、漆塗りの椀に入った暗緑色の薬湯を差し出し、子供を諭すように言った。私の左肩や右太ももの古傷は、今でも天気が崩れる前にはズキズキと鈍い痛みを訴えるが、無理に木綿糸で縫い合わせた肉は完全に繋がり、今ではこうして不自由なく薬を煎じ、彼の世話を焼くことができるまでに回復していた。

高杉さんは大げさに深い溜息をついてみせたが、私が差し出した椀をその細い手で受け取り、一気に喉へと流し込んだ。


「……ウッ、……相変わらず、容赦のない苦さだな。お前の俺に対する情念は、この薬の苦さに比例しているんじゃないか?」

「ええ、そうですよ。あなたが少しでも長生きしてくれるなら、私は世界中の苦い薬草を根こそぎ集めてでも、毎日あなたに飲ませますから。」


私が悪戯っぽく微笑むと、高杉さんは可笑しそうに、けれど激しく咳き込むこともなく、クスクスと喉を鳴らして笑った。その穏やかな笑い声が、今の私にとって、何よりも甘く、愛おしい現実の証明だった。


都合のいい奇跡など、この現実の世界には存在しない。高杉さんの病状がここまで劇的に落ち着いたのは、神仏の加護などではなく、私たちが文字通り「死に物狂いで抗い続けた」結果だった。

下関の廃寺で、お兄ちゃんが自らの命を薪にして私たちを逃がしてくれたあの日から、私は高杉さんの命を繋ぎ止めるため、ありとあらゆる手段を尽くした。労咳の治療法があると聞けば国中を駆けずり回り、

坂本龍馬さんのツテを借り、長崎から取り寄せた最新の西洋医学の知見も積極的に取り組んだ。吸入療法や、胸部を冷やす新しい養生法も何でも試したし、 熊の胆、朝鮮人参の極上品、果ては山奥の猟師しか知らないという怪しげな薬草の根まで、体に良いと言われたものは全て試した。そして、最終的な治療として、私たちは煤煙や埃を徹底的に排除し、潮風が適度に混ざる高台の清浄な空気の中で、一切の政治的激務から彼を隔離することを選んだのだった。

高杉さん自身もまた、「最期の瞬間まで生き抜く」というあの夜の誓いを果たすため、どんなに苦しい治療にも、気味が悪い民間療法にも、一度として音を上げずに付き合ってくれた。


その地道な積み重ねが、ついに歴史の冷酷な針を狂わせたのだ。

日に何度も彼を襲っていた、あの肺を引き千切るような激しい喀血の発作は、数ヶ月前から嘘のように収まっていた。医師が「すでに肺の大部分が食い尽くされている」と絶望したその肉体は、僅かではあるが、確実に、内側から再生の兆しを見せていた。熱は平熱に落ち着き、今では自らの足で庭を散策し、三味線を爪弾くことができるまでに回復していたのだ。


「先生が生きておられたら、今のこの俺を見て、何と仰るだろうな……。」


高杉さんは、遠い空を見つめながら呟いた。


「『晋作、お前はまだ死なせてもらえんようだな。死なせてくれぬほどの執念を持つ女に出会ったことを、畳の上で感謝するがいい』……きっと、あの意地の悪い目で笑いながら、そう仰るに違いない。」


私は彼の隣に腰掛け、その細い、けれど確かな体温を持つ手をそっと握りしめた。

お兄ちゃんは、もういない。崩れゆく寺の中で、最期に私の名を呼んでくれたお兄ちゃんの笑顔は、今も私の胸の奥底に、消えない痛みと共にある。彼が命を賭けて守ってくれたこの私の命だからこそ、私は一秒たりとも無駄にせず、愛する人と共に生きるために使い切ると決めていた。


私たちがこの静かな高台で日々を紡いでいる間にも、外の世界――「新たな日本」は、凄まじい速度でその形を変えつつあった。時折、この屋敷を訪れる土佐の浪人や、奇兵隊の伝令がもたらす報せは、かつて私たちが泥の中で種を蒔いた歴史が、大輪の花を咲かせつつあることを教えてくれた。


「龍馬の奴、本当にやり遂げやがったな。」


ある日、大政奉還の報せが書かれた書状を読み終えた高杉さんは、愉快そうに天を仰いだ。


「薩摩と長州が手を結び、徳川が自ら政権を朝廷に返上する……。俺が京都の木屋町で大ホラを吹いていたあの夢物語が、本当に現実になっちまった。面白い。実におもしろい時代だ。」

「あなたが功山寺で最初の火を灯さなければ、この夜明けはやってきませんでしたよ。」


私は彼の肩に、そっと羽織をかけた。


「……悔しいですか? その新しい日本の中心に、あなたがいないことが。」


私の問いに、高杉さんは一瞬だけ目を細め、それから私を強く引き寄せて、その細い腕の中に私を閉じ込めた。彼の胸の鼓動が、私の耳にドクドクと力強く響く。


「まさか。」


高杉さんは、私の髪に優しく触れながら、耳元で囁いた。


「俺は、この世で一番面白い特等席を手に入れたんだ。新政府の役人になって、クソ真面目な顔をして机仕事をするなんて、俺の性に合うわけがないだろう。それよりも……こうして、俺を地獄の底から引きずり戻した、世界一強欲で愛おしい山猫を独り占めできているんだ。これ以上の贅沢が、どこにある?」


彼の言葉は、照れ隠しのようでいて、剥き出しの熱を孕んでいた。

かつては、国を動かすという大義のためだけにその命を燃やし尽くそうとしていた風雲児が、今、私の存在そのものを、自らの生を繋ぎ止めるための最大の理由にしてくれている。その事実が、私の胸をどうしようもないほどの幸福感で満たしていった。


激動の時代を潜り抜けた私たちが手に入れたのは、驚くほどに甘く、穏やかで、幸せな恋人としての時間だった。


昼下がりには、二人で縁側に座り、高杉さんが爪弾く三味線の音色に耳を傾ける。かつて京都の路地裏で聴いたあの鋭い音色とは違い、今の彼の奏でる音は、瀬戸内の波のように穏やかで、優しい。


「茜、こっちへ来い。」


三味線を脇に置いた高杉さんが、私を手招きした。私が彼の正面に座ると、彼は私の右手を取り、自らの頬へと当てた。彼の皮膚は、あの夜の尋常ではない熱が嘘のように、今は心地よい温かさを持っていた。


「お前と出会った頃の俺は、死に場所を探していたようなものだった。松陰先生の後を追うことだけが、俺の生きる目的だったからな。だが……今のお前との日々を知ってしまったら、もうあんな退屈な死に方は御免だ。」


高杉さんは、私の手のひらにそっと口づけを落とした。


「お前が俺に教えてくれたんだ。誰かを狂おしいほどに愛し、その人のために一秒でも長く生きたいと足掻くことが、どれほど素晴らしいかを。」

「晋作さん……。」


私は彼の首に両腕を回し、その細い身体を強く抱きしめた。


「私も、あなたに出会えて良かった。お兄ちゃんを失って、私の心は一度死んでしまったけれど……あなたのその温もりが、私をもう一度、人間の世界に繋ぎ止めてくれたんです。」


二人の距離が自然と狭まり、どちらからともなく唇が重なり合った。

それは、互いの存在を慈しみ、今ここにある幸せを噛み締めるような、深く、甘い、柔らかな口づけだった。高杉さんの長い指が、私の背中を優しく愛撫し、私の身体の芯を心地よい熱で溶かしていく。


「お前を、誰にも渡さない。この命がある限り、ずっと俺のそばにいろ。」

「ええ、どこにも行きません。あなたの命の灯火が、この世界の誰よりも長く輝き続けるように、私はずっと、あなたのそばでその火を守り続けます。」


私たちは、何度も、何度も、互いの名前を呼び合い、身体を重ね、愛を確かめ合った。


高杉晋作という男は、表舞台からは「病死」した、あるいは「隠退」したとして、人々の記憶からは一歩退いた存在になるのだろう。だが、そんなことはどうでも良かった。真実がどうあれ、ここにいる高杉晋作は、私の腕の中で、確かに生きて、私を愛してくれている。それだけが、私にとっての唯一の真実だった。


夕暮れ時、私たちは並んで高台の崖際に立ち、水平線へと沈みゆく太陽を見つめていた。

空は、文字通り圧倒的な「茜色」に染まっていた。かつて京都の空を不吉に焼き尽くしたあの炎の赤とは違う。新しい時代の始まりを祝福するような、どこまでも優しく、力強い、鮮やかな茜色の光だった。

高杉さんは、私の肩をその左腕で強く抱き寄せ、私は彼の腰に右腕を回して、その身体を支え合った。


「綺麗ですね、晋作さん。」

「ああ、全くだ。お前の名と同じ、最高の夜明けだ。」


高杉さんは、そう言って私の額に口付けをした。彼の瞳には、これからの新しい日本が歩むであろう、遙かなる未来の景色が、その茜色の光と共に映し出されていた。


お兄ちゃんが命を賭けて遺してくれた未来。


坂本さんや桂さんたちが泥にまみれて手繰り寄せた、新しい日本の夜明け。


そして、私と高杉さんが、決死の思いで勝ち取った、二人だけのささやかで、けれど何よりも尊い、甘やかな生の日々。


私たちの前には、まだ見ぬ明日への航路が、どこまでも広がる碧い海のように、遙かに、そして美しく広がっている。


私は高杉さんの温かい手を一瞬たりとも離すことなく、この茜さす光に包まれた世界の中で、彼と共に、最期のその瞬間まで、幸せに満ちた足跡を刻み続けていくのだった。




終わり

最後までお読みいただきありがとうございました。

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