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4.灯火の行方-4

朝霧が淀川の川面を白く覆い隠し、三十石船は音もなく滑るように下流へと向かっていた。船倉の狭い床板に横たわる私自身の身体からは、未だに血の匂いが立ち込め、左肩を強引に縫い合わせた木綿糸が、皮膚を内側から引き千切るような鈍い激痛を絶え間なく訴えかけてくる。身体を動かすたびに視界が白く霞み、冷や汗が全身の毛穴から噴き出すという、生々しい肉体の限界だけがそこにあった。


「……ハァ、……ゲホッ、ゴホッ……!」


私のすぐ傍らで、高杉晋作さんが激しく身体を震わせて咳き込んだ。

隠密の男が慌てて差し出した手ぬぐいは、またたく間にどす黒い鮮血で染まっていく。彼の肺を蝕む労咳の病魔は、京都の凄惨な煤煙を吸い込んだことで、確実にその破滅への速度を速めていた。尋常ではない熱を帯びた彼の皮膚は、触れるだけで指先が焼けつくようだった。明日をも知れぬ命。それが、この国の未来をひっくり返そうとしている風雲児の、あまりにも残酷な現実だった。


「お兄ちゃん……。」


私は、進行方向の壁に両手首を縛られたまま座り込んでいる、実の兄へと視線を向けた。

肉体の無力化以上に、彼の脳内を破壊し尽くそうとしていたのは、変わらず大老の植えつけた強固な洗脳と、血の繋がりがもたらす無意識の記憶との、終わりなき拒絶反応だった。

「……あ、……う、……う……。」


お兄ちゃんは、焦点の合わない硝子玉のような瞳で、私の血塗れの小袖をじっと見つめ、掠れた声で何かを呟いた。彼はただ、目の前で自らのために血を流し、執念深く縋り付いてくる私の姿に激しく困惑し、本能的な恐怖と、微かな安らぎの狭間で激しくのたうち回っているだけだった。それでも、この人は私の兄だ。決して手放さない。やっと取り戻した、この世界で唯一の家族なのだから。





大坂、薩摩藩の出先機関に近い雑沓の片隅。

人混みに紛れながら、坂本龍馬は太ももの銃創を引きずり、一歩一歩、地を踏み締めるようにして歩いていた。


西郷の阿呆が……。いや、あの男を裏で操る大久保の一派が、どれほど冷徹な政治の算盤を弾いちょるか、わしは骨の髄まで思い知らされた。

禁門の変。長州の連中が御所に向けて大砲をぶっ放した瞬間、あいつらは完全に「朝敵」という名の極悪人に仕立て上げられた。薩摩の精鋭軍は、待ってましたと言わんばかりに長州の側面に回り込み、圧倒的な火力で若者たちの命をゴミのように薙ぎ倒していった。木屋町で、池田屋で、あれほど血を流して未来を掴もうとした志士たちが、一瞬にしてただの肉塊に変えられていく現実を、わしはこの目で見たがじゃ。

大坂の街は、京都の火災の噂で持ちきりになっちゅう。「長州は滅びる」「自業自得だ」と、口々に吐き捨てる商人たちの声が、わしの耳を容赦なく刺してくる。


「坂本殿、もう手遅れだ。長州との関わりを断て。」


土佐の身内からも、そう冷たく突き放された。だがな、わしの胸の奥で燻っちゅう炎は、そんな冷水ごときで消せるようなヤワなもんじゃないがじゃ。

長州がこれで完全に圧殺されれば、幕府の権力はさらに強固なものになる。そうなれば、次に狙われるがは薩摩、おまんらぁの番じゃきに。互いの面子や、これまでの遺恨、目の前の政治的利害だけで血を流しおうて、一体この国に何が残るというがだ。

薩摩の持つ圧倒的な武力と軍事力。そして、長州の連中が抱く、狂気的なまでの志と執念。この二つの巨頭が、互いに泥水をすすりながらでも手を握り合わんと、この国の重い夜明けは永久にやって来ん。


「西郷……大久保……。おまんらぁがどれだけ冷酷に長州を切り捨てようとも、わしは絶対に諦めんきに。」


わしは痛む足を強引に動かし、大坂の闇へと潜り込んでいく。桂小五郎がどこかで生きているはずだ。あいつが生きて種を繋いでいる限り、わしは何度でも地獄の底から這い上がり、薩摩の喉元に刃を突きつけてでも、不可能なはずの『薩長同盟』を現実に変えてみせる。五臓六腑が悔しさで煮えくり返りそうになっても、わしの足は、まだ一歩も止まっちゃいない。





同時刻、燃え盛る炎がようやく衰えを見せ始めた京都、三条大橋の下の泥濘。

変わり果てた千年の都の灰が雪のように降る中、桂小五郎は、ボロ切れのような衣服を纏い、乞食の姿に身をやつして這いつくばっていた。


鼻を突く硝煙の臭いと、魚の腐ったような生臭い泥の感触が、僕の五感を容赦なく現実へと引き戻す。

御所の門前で、我が長州藩の軍勢は完全に壊滅した。


「久坂君……君は本当に、逝ってしまったのか。」


鷹司邸の炎の中で、彼が寺島忠三郎君と共に自刃したという報せを聞いたとき、僕の胸の奥の何かがあ大きな音を立てて崩れ去った。松陰先生の元で、共に未来の日本を語り合い、互いの理想をぶつけ合ってきたかけがえのない同志。彼は、おのれの掲げた激しい大義の炎に、自らの命まで薪としてくべ、灰となって散っていった。

周囲の草むらや、川縁には、無惨に切り裂かれた長州兵の死体が転がっている。新選組や会津の兵たちが、眼を血走らせて「生き残りの鼠」を探し回る足音が、三条大橋の上から執拗に響いてくる。今の僕は、ただの哀れな乞食だ。通行人が投げ捨てる残飯を拾い、泥にまみれながら、息を潜めて生き延びている。国元からは「逃げの小五郎」と、仲間の藩士たちからは「腰抜けの裏切り者」と、そう罵られているであろうことは容易に想像がついた。久坂君のように、正義のために華々しく散る方が、どれほど楽だったろうか。この屈辱の泥濘の中で、おのれの吟醸をすべて踏みにじられながら生き続けることは、死ぬことよりも遥かに過酷な拷問だった。

しかし、僕は死ぬわけにはいかない。

僕までがここで刃に倒れれば、長州という藩の種は、松陰先生の遺志は、本当にこの歴史の闇へと完全に葬り去られてしまう。大久保俊光の冷徹な策略通りに、我が藩を滅ぼさせてなるものか。

どれだけ軽蔑されようとも、どれだけ泥水をすすろうとも、僕は生き残る。髪を切り、姿を変え、この京の地獄の底で息を繋ぎながら、次なる一手を静かに、研ぎ澄ます。坂本君が、大坂でまだ足掻いているという噂を耳にした。ならば、僕もまた、この絶望の底から、未来を紡ぐための果てしない潜伏戦を戦い抜いてみせる。




三十石船が、大坂の「八軒家船着き場」へと近づく頃、東の空からは重々しい朝陽が昇り始めていた。

しかし、上流の京都の方向を見上げれば、未だに都を焼き尽くす黒い煙が、天を覆う巨大な暗雲となって、禍々しく渦巻いているのが見えた。


「茜……、着いたぞ。ここからが、本番だ。」


高杉さんが、私の手を握る力を僅かに強めながら、微かに目を開けた。彼の呼吸は依然として浅く、胸の奥からはゼイゼイと嫌な音が漏れ続けていたが、その濁った瞳の奥にある不敵な光だけは、少しも衰えていなかった。


私たちの誰もが、ボロボロだった。


左肩と脇腹に重傷を負った私。病魔に命を削り取られかけている高杉さん。精神を破壊され、右腕の自由を失ったお兄ちゃん。そして、御所で壊滅的な打撃を受け、首首魁を失った長州藩。しかし、この大坂の、そして京都の闇の向こう側では、坂本龍馬さんも、桂小五郎さんも、それぞれの血を流しながら、決して未来を諦めずに足掻き続けている。幕府は間違いなく、この勢いのまま長州を完全に圧殺すべく、大軍を率いて国境へと押し寄せてくるだろう。


「……前を、向くよ。お兄ちゃん、高杉さん。」


私はお兄ちゃんの縛られた肩を優しく抱き寄せ、そして高杉さんの熱い手を強く握り返した。

これから始まるのは、一藩の存亡、そして私たちの命のすべてを賭けた、本物の全面戦争――『長州征伐』という、さらなる巨大な地獄だ。でも、どんな泥沼が待ち受けていようとも私の刃が折れることは絶対にない。


船が岸壁へと音を立てて接岸する。

私たちはそれぞれの覚悟を胸に、次なる時代の決戦の地、長州へと向けて、再びその足で力強く一歩を踏み出すのだった。



大坂・八軒家の船着き場に降り立った私たちの肌を刺したのは、京都のそれとは異なる、商人の街特有の生温かく湿った潮風だった。朝陽が淀川の川面をギラギラと照らし出す中、周囲は京都の火災から命からがら逃れてきた難民たちの泣き叫ぶ声と、それを冷酷に突き放す大坂町奉行所の捕吏たちの怒号で、異様な熱気に包まれていた。


「……う、っ、……ハァ、……はぁ……。」


私は右肩でお兄ちゃんの巨躯を支え、左手で自身の左肩の傷口を強く圧迫しながら、人混みの影を縫うようにして歩いた。一歩進むごとに、無理やり木綿糸で縫い合わせた左肩の肉が内側からじわじわと裂け、焼火箸を押し当てられたような激痛が神経を狂わせる。池田屋で抉られた脇腹の古傷も、衣服の生地と擦れるたびに生暖かい血を滲ませていた。失血による激しい目眩で、目の前の景色が何度もグニャリと歪む。私はただ、自分の唇を血が出るほど噛み締め、その激痛で辛うじて意識を現世に繋ぎ止めていた。

長州の隠密の男が、周囲を鋭く警戒しながら、西横堀川の近くにある古い木材問屋の地下へと私たちを誘導した。そこは、長州藩が密貿易や情報収集のために極秘裏に維持してきた、大坂における最後の隠れ家だった。


薄暗い地下室の畳の上に、高杉晋作さんは横たえられた。


「……ゲホッ、ゴホッ! ……ゴハッ、……ハァ、……っ!」


彼の病状は、大坂に到着したことでさらに悪化の一途を辿っていた。京都の濃厚な煤煙に冒された肺は、呼吸をするたびにゼイゼイと壊れた鞴のような悲鳴を上げ、彼が激しく咳き込むたびに、寝床の白いシーツがどす黒い鮮血で塗りつぶされていく。秘密裏に呼び寄せた長州ゆかりの医師は、高杉さんの脈を診た後、絶望的な面持ちで私に首を振った。


「……これ以上の投薬は、気休めにすらならん。労咳の病魔が、すでに肺の大部分を食い尽くしておる。熱が下がらないのも、身体が内側から焼け落ちようとしている証拠だ。……常人なら、とっくに意識を失っていてもおかしくはない。」


医師の言葉は、冷酷な現実そのものだった。神仏の加護も、病を一瞬で退ける秘薬も、この時代には存在しない。この国の行く末を一人で引っ繰り返そうとしている風雲児の命の灯火は、今、まさに消えかけようとしていた。しかし、高杉さんの瞳の奥にある狂気的なまでの光は、少しも衰えていなかった。


「……フン、……藪医者が、勝手な見立てを……語るな。俺の命の長さは、……俺が決める……。」


彼は血に染まった唇を歪め、不敵に笑ってみせた。だが、その皮膚から伝わってくる尋常ではない熱は、私の手のひらを突き抜けて、胸の奥を締め付けるような切ない痛みへと変わる。この人は遠からず死ぬ――その残酷な未来を突きつけられながらも、私は彼のそばに居続けたいという強い想いを、さらに強く滾らせていた。その時、隠れ家を守っていた隠密の男が、国元から届いたばかりの極秘の書状を手に、青ざめた顔で部屋に入ってきた。


「高杉様、茜さん……最悪の報せです。国元の萩では、禁門の変における久坂様たちの敗戦と壊滅の報を受け、藩内が完全に恐怖に支配されています。」


隠密の男は、震える声で書状の内容はあまりにも残酷だった。

長州藩国内は幕府への絶対恭順を主張する椋梨藤太率いる「俗論派」が、藩の主導権を完全に掌握。久坂さんたちに同調していた「正義派(改革派)」の藩士たちが、次々と捕縛され、処刑あるいは切腹に追い込まれている。そして、迫り来る幕府の「長州征伐」の手を和らげるため、俗論派は禁門の変の責任者である三家老の首を撥ねて幕府に差し出す準備を進めている。


「……チッ、あの腰抜けどもが、一斉に首をもたげやがったか……!」


高杉さんは激しく激昂し、布団の上に無理やり身を起こした。その拍子に激しい眩暈に襲われ、壁に強く頭を打ち付けながらも、彼の細い目は怒りで爛々と輝いていた。


「久坂たちが流した血を……先生の遺志を、ただの犬死にで終わらせてたまるか。……俺が戻る。戻って、あの俗論派の家老どもの首を、根こそぎ叩き切ってやる!」


藩外からは幕府の二万を超える大軍が国境へ押し寄せ、藩内からは裏切り者たちの刃が向けられる。長州藩は今、完全に内と外から圧殺されようとしていた。これが、私たちが向かおうとしている決戦の地の、あまりにも凄惨な現実だった。


部屋の隅では、両手首を縄で縛られたお兄ちゃんが、だらりと垂れ下がった右腕を動かすこともできず、壁に頭を押し付けていた。


「……う、あ……あぁ……。殺……せ、……なぜ、里の……掟を、破る……。お前、は……誰だ……!」


お兄ちゃんは、焦点の全く合わない硝子玉のような瞳で私を睨みつけ、狂気的な呻き声を漏らした。


「お兄ちゃん、私はここにいるよ……。」


私が差し伸べた手を、お兄ちゃんは縛られた両手で激しく振り払った。爪が私の頬を掠め、一筋の血が流れる。名前を忘れられ、心がどれほど破壊されていようとも、この人は私の兄だ。その冷酷な現実を受け入れながらも、彼を人間の世界へ連れ戻すという私の執念が折れることはなかった。その時、地下室の入り口から、坂本龍馬の息がかかった土佐の浪人が、一通の密書を携えて滑り込んできた。


「坂本龍馬殿からの伝言です。『西郷や大久保の耳の穴に、今、泥水を注ぎ込んで説得を続けておる。長州を絶対に死なせはせん。高杉、おまんもその身体で絶対に死ぬな。生きて国元で待っとれ』とのことです。」


龍馬さんもまた、この大坂のどこかで、不可能なはずの『薩長同盟』を現実に変えるために、命を削りながら足掻いていた。京都の泥の中で乞食に身をやつして種を繋いでいる桂小五郎さん、大坂で政治の激流に身を投じている龍馬さん、そして病床で牙を研ぐ高杉さん。かつて松陰先生の元に集った若者たちの執念が、この最悪の絶望の底で、まだ微かに繋がり合っている気がした。

しかし、つかの間の平穏はすぐに破られた。


「高杉様、茜さん! 急いでください! 大坂町奉行所の捕吏どもと、大久保の息がかかった暗部の残党が、この周辺の問屋を一軒ずつ改め始めました!」


隠密の男が叫んだ。地上からは、無数の人間の足音と、大八車が激しく行き交う喧騒、そして「長州の潜伏者を探し出せ!」という役人たちの鋭い声が響いてくる。あと一刻もすれば、この地下室も完全に包囲されるだろう。動けない高杉さん、精神を病んだお兄ちゃん、そして満身創痍の私。この状態で正面から戦えば、確実に全滅する。


「……出航だ。隠密、俺を港へ運べ。」


高杉さんは静かに言い放った。

私たちは隠れ家の裏口から、大坂の夜の闇へと滑り出た。目指すのは、安治川の河口に停泊している、英国製の小型密貿易船「丙寅丸へいいんまる」。長州藩が極秘裏に購入し、国元への脱出のために手配していた船だった。しかし、港へ続く寂れた倉庫街の路地に差し掛かった瞬間、前方の闇から、音もなく数人の影が滑り出てきた。


「――見つけたぞ。長州の鼠ども、そして隠れ里の裏切り者が。」


漆黒の装束を纏った暗部の隠密たち、そして大坂町奉行所の凄腕の剣客たち、総勢十数人。彼らは手にした刀や異形の暗器を低く構え、私たちの行く手を完全に塞いだ。


「茜さん、ここは俺が食い止める! 高杉様を連れて先へ!」


長州の隠密の男が刀を抜き、決死の覚悟で敵陣へと飛び込んでいった。しかし、敵の数は圧倒的だった。数人が男を包囲し、残りの四人が、高杉さんを背負う私とお兄ちゃんへと向かって、容赦のない刃を突き立てて突進してくる。


「はぁぁぁっ!」

私は腰の帯から、お兄ちゃんとの死闘の末に手に入れた一丁の刀を引き抜いた。

左肩の激痛で左腕は完全に使い物にならない。私は右腕一本だけで刀の柄を固く握り締め、迫り来る最初の敵の突きを、力ずくで弾き返した。

ギィィィン――!!

金属同士が激しく擦れ合い、火花が夜の闇を赤く照らす。完治していない脇腹の傷口が完全に開き、生暖かい血がドクドクと衣服を浸していくのが分かった。意識が遠のきそうになるのを、自らの舌を強く噛み切ることで強引に引き戻す。無双の強さなど、今の私にはない。実力の差も、肉体の限界も、すべてが私を泥の中に引きずり込もうとする重力のように重かった。


「お兄ちゃん、私の後ろにいて!」


私は叫びながら、二人目の敵の懐へと泥を蹴って滑り込み、相手の下顎から脳漿へと刀の切っ先を突き上げた。確実な一撃。しかし、それと引き換えに、三人目の敵が放った暗器の鎖が、私の右太ももの肉を深く抉り取っていった。


「つ、あ……っ!」


バランスを崩し、私は倉庫の板壁へと無様にも叩きつけられた。地面の泥と血が混ざり合い、視界が真っ赤に染まる。都合のいい逆転の策など、この戦場にはどこにも転がっていない。敵の剣客が、トドメを刺すべく、私の胸元へ向けて刀を真っ直ぐに振り上げた。

その瞬間だった。


「……う、あ……が、ああぁぁぁっ!!」


後ろにいたはずのお兄ちゃんが、縛られた両手を激しく振り回し、自らの巨体を使って敵の剣客へと体当たりを敢行したのだ。右腕が動かず、手首を縛られた状態でありながら。不意を突かれた敵の剣客は、お兄ちゃん諸とも泥塗れの地面へと激しく転がった。


「お兄ちゃん……!」


私は痛む右足を引きずりながら立ち上がり、転がった敵の背中へと刀を深く突き立てた。男はビクリと身体を震わせ、そのまま動かなくなった。残り二人の敵は、長州の隠密の男が自らの命を犠牲にしながら相打ちに持ち込み、路地には激しい静寂だけが残された。


「茜……、立て。……船は、すぐそこだ……。」


高杉さんが、隠密の男の遺体の傍らで、壁に伝いながら自らの足で立っていた。彼の衣服は自身の喀血で赤黒く染まっていたが、その瞳は、まだ死を受け入れてはいなかった。私は意識を失いかけているお兄ちゃんを引きずり起こし、高杉さんの身体を支えながら、安治川の岸辺に待つ丙寅丸へと、一歩一歩、血の足跡を残しながら進んだ。



船が静かに大坂の港を離れ、瀬戸内海の漆黒の海へと滑り出したとき、夜空からは冷たい雨がぽつぽつと降り始めていた。船倉の薄暗い灯りの下で、私はボロボロになった包帯を巻き直していた。左肩も、脇腹も、右太ももも、すべてが限界を迎えて熱を持っている。お兄ちゃんは私の隣で、縛られたまま深い眠りに落ちていた。彼は、ただその寝顔に、微かな安らぎの色を浮かべていた。高杉さんは、船底の窓から、遠ざかっていく大坂の街を見つめていた。


「……長州へ戻れば、本当の地獄が待っている。……俗論派どもを叩き潰し、藩の進路を再びひっくり返す。……茜、お前も、その兄貴も、俺の狂気に最後まで付き合ってもらうぞ。」


彼の言葉に、私は深く、静かに頷いた。

長州藩は壊滅の危機に瀕し、久坂さんは散り、高杉さんの命も残り少ない。旅も、これからさらに険しいものになるだろう。すぐそばに「第一次元長州征伐」という幕府の大軍の影が、迫り瀬戸内の海を黒く染め上げようとしている。


丙寅丸は、冷たい雨と激しい波濤を切り裂きながら、すべての決着をつけるための地、長州へと向かって、闇の海を進んでいくのだった。




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