表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/19

4.灯火の行方-3

地下室の天井から、絶えずパラパラと乾いた砂が落ちてくる。地上の河原町通りを駆けていく軍馬の蹄の音、そして家々を焼き崩していく「どんどん焼け」の爆炎の振動が、分厚い床板を透過して、この狭く薄暗い空間にまで響いていた。


空気は最悪だった。地上の熱気が流れ込み、ただでさえ狭い物置部屋には、硝煙と木が焦げる不快な臭いが充満している。行灯の灯芯がパチリと音を立てて弾け、壁に三つの歪んだ影を落とした。


「……っ、う、あ……!」


私は、長州の隠密が差し出した清潔な白布を口にくわえ、奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。

左肩の傷口に、煮え繰り返るような激痛が走る。お兄ちゃんの刀に深く貫かれた肉を、針と木綿糸を使って無理やり縫い合わせる作業は、正気を保つのが困難なほどの苦行だった。麻酔などという気の利いたものはこの戦場にない。一針通るたびに、全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、完治していない脇腹の傷までが連動して脈打つように激痛を訴えた。


「すまない、茜さん。医者を呼ぶ余裕はもう表の街にはない。これで我慢してくれ。」


隠密の男が、血に染まった手を震わせながら糸を強く結び、余分を小刀で切り落とした。

私はくわえていた布を吐き出し、荒い呼吸を繰り返した。身体の芯がガチガチと震え、指先は氷のように冷たい。失った血液の量は、私の肉体から確実に気力を奪い去ろうとしていた。私はただ、このボロボロの肉体を引きずりながら、これから訪れるさらなる地獄に耐えるしかなかった。部屋の反対側の隅では、両手首を太い捕縛縄で厳重に縛られたお兄ちゃんが、壁に背を預けて座っていた。

右腕は、私が腱を切ったために完全に力を失い、衣服の袖の中で幽霊のようにぶらりと下がっている。暗殺人形としての刃は、私のこの手で永久に奪い去った。だが、その代償として彼を襲っていたのは、脳の奥底に植え付けられた大老の洗脳と、一瞬だけ取り戻した肉親としての記憶が、互いの領域を破滅的に食い荒らし合う精神の暴走だった。


「……大老、様……。標的は、……久坂、玄瑞……。いや、……妹、お前は……なぜ、ここに……う、ああぁっ!」


お兄ちゃんは激しく頭を壁に打ち付け、獣のような呻き声を上げた。瞳は完全に濁り、焦点はどこにも合っていない。時折、私の名前を呼ぶものの、次の瞬間には冷酷な隠密の顔に戻り、縛られたまま私を噛み殺さんばかりに歯を剥き出す。彼を連れ戻すことには成功した。しかし、かつての優しかった兄が戻ってきたわけではない。私たちが手にしたのは、生涯癒えることのない肉体と精神の凄惨な傷跡だけだった。それでも、私はお兄ちゃんを生かさなければならない。それが、私がこの京の闇で生き抜くための、たった一つの執念だったからだ。


「――おい、山猫。そんな死人みたいなツラをして、俺の前に座るんじゃねえ。」


地を這うような、けれど確実に周囲の空気を圧する威厳を持った声が、部屋の中央の万年床から響いた。

高杉晋作さんは、苦しげに胸を上下させながらも、その鋭い細い目で私をじっと睨みつけていた。彼の容態もまた、限界に近かった。街を覆う煤煙が彼の蝕まれた肺を容赦なく痛めつけ、一呼吸置くたびに、胸の奥からゼイゼイと嫌な音が漏れる。枕元のタライには、先ほど彼が吐き出した新鮮な紅い血が、生々しい臭いを放って溜まっていた。不治の病である労咳は、彼の若き命を内側から確実に貪り尽くそうとしている。


「高杉さん……。起きてはダメです。まだ熱が下がっていません。」


私は痛む身体を無理に動かし、彼の枕元へと這い寄った。


「寝ていて治る病なら、とっくに起き上がって久坂の面を殴りに行っている。」


高杉さんは短く吐き捨て、激しく咳き込んだ。その拍子に、彼の唇から再び一筋の血が伝い落ちる。私は手ぬぐいでそれを静かに拭い取った。彼の皮膚から伝わってくる尋常ではない熱。その熱に触れるたび、私の胸の奥に灯った、この男への引き返せない想いが、切ない痛みとなって締め付けてくる。この人は遠からず死ぬ。歴史がどう動こうとも、この病魔だけは彼を現世に長くは留めておかないだろう。その残酷な未来を自覚しながらも、私は一分一秒でも長く、彼のそばにいたい、彼の見る世界を共に追いかけたいと、強く願ってしまっていた。


高杉さんは、私の血塗れの包帯で巻かれた左肩を一瞥し、それからフッと鼻で笑った。


「長州は負けた。久坂は死に、家臣たちは散り散りだ。幕府は間違いなく、この勢いのまま長州を完全に圧殺すべく、大軍を率いて国境へ押し寄せてくる……。誰もが、我が藩の終わりを確信しているだろうな。」


彼の言葉は、冷徹な事実だった。御所における長州の暴発は、朝廷を敵に回し、幕府に完璧な「討伐の口実」を与えてしまった。これから始まるであろう『長州征伐』は、これまでの局地的な暗殺や小競り合いとは次元が違う、一藩の存亡を賭けた本物の全面戦争になる。


「……ですが、坂本さんは諦めていませんでした。」


私は、高杉さんが先ほど口にした龍馬さんの言葉を思い出しながら言った。


「ああ、あの馬鹿はな。」


高杉さんの瞳の奥に、怪しい狂気の光が灯った。


「西郷に切り捨てられ、長州が朝敵になっても尚、薩摩と長州を握らせるとのたまう。現実の政治がどれだけ血にまみれていようが、奴の執念は折れちゃいねえ。……桂もそうだ。今頃は乞食の姿に身をやつし、三条大橋の下で這いつくばりながら、次なる一手を練り、藩の生き残りを模索しているはずだ。」


かつて吉田松陰という一人の男の元から飛び出した若者たち。

久坂さんは自らの信念の炎に薪をくべて散った。

しかし、生き残った桂さんは己の存在を消してまで未来への種を繋ぎ、大坂へ向かった龍馬さんは不可能な同盟という絵空事を現実に変えるために命を削っている。そして、この病床の風雲児もまた、死の影に怯えるどころか、次なる巨大な嵐を見据えてその牙を研いでいた。


「茜。幕府が長州へ押し寄せてくるなら、俺は国元へ戻る。このボロボロの身体を、その戦争のど真ん中に叩きつけてやる。松陰先生の遺志を、久坂の流した血を、ただの犬死にで終わらせてたまるかよ。」


高杉さんは私の手を強く握りしめた。彼の放つ圧倒的な熱量が、私の冷え切った身体へと流れ込んでくる。


「私も、行きます。」


私は迷わずに答えた。


「お兄ちゃんを連れて、高杉さんと共に長州へ行きます。大久保俊光の策略通りに、長州を滅ぼさせはしない。暗部が再び現れるなら、今度こそその根を完全に引き抜いてみせます。」


それが、私の選んだ道だった。お兄ちゃんを人間の世界へ戻すための戦いも、高杉さんの短い余命を支える誓いも、すべてはこれから始まる『長州征伐』という巨大な戦火の渦中でしか、果たすことはできない。その時、地下室の入り口の階段から、激しい足音と共に、先ほどの隠密の男が血相を変えて飛び込んできた。


「高杉様、茜さん! 大変だ、ここももう限界です!」


隠密の男は息を切らし、地上の様子を叫んだ。


「どんどん焼けの火の手が、すぐ裏の通りまで迫っている! それだけじゃない、会津の兵と新選組の残党狩りが、この河原町一帯の家々を片っ端から改めている。長州の隠れ家があるとの密告があったようだ。あと半刻もすれば、この質屋にも踏み込んでくる!」

「……チッ、鼠どもが、嗅ぎ回るのが早えな。」


高杉さんは顔をしかめ、布団の上に身を起こそうとしたが、激しいめまいに襲われたように、再びシーツへと倒れ込んだ。肉体は非情だった。どれだけ精神が気高くとも、労咳の末期症状が彼の自由を奪っていた。動けない高杉さん。精神を病み、右腕の動かないお兄ちゃん。そして、両肩と脇腹に重傷を負った私。この満身創痍の三人で、火の海と化し、幕府の軍勢が目を光らせる京都の街を脱出するなど、正気の沙汰ではなかった。


「茜さん、どうする。地上に出れば、即座に捕縛か切り捨てだ。だが、ここに残れば火に巻かれて生きたまま焼き殺されるぞ。」


隠密の男が、絶望的な面持ちで私を見つめた。

私は静かに立ち上がり、床に落ちていたお兄ちゃんの刀の片割れを拾い上げ、腰の帯へと差し込んだ。左肩の傷口が再び開き、生暖かい血が衣服を濡らしていくのが分かったが、不思議と心は澄み渡っていた。


「地上に出ます。」


私はお兄ちゃんの元へと歩み寄り、彼の縛られた身体を強引に引き起こした。お兄ちゃんは威嚇するように私を睨みつけたが、私はその視線から目を逸らさず、彼の左腕を自分の首に回した。


「お兄ちゃん、行くよ。死ぬなら、前を向いて死のう。」


私の言葉に、お兄ちゃんは一瞬だけ大人しくなり、壊れた機械のように小さく頷いた。


「隠密さん、高杉さんの身体を支えて。表の火災の煙に紛れれば、新選組の目を眩ませることはできるはず。私たちは大坂へ向かう。そこから、長州行きの船を出す。」

「し、しかし、その身体で大坂までの道のりを……?」

「やるしかないんです。ここで死んだら、何一つ果たせない!」


私の覚悟の前に、隠密の男も腹をくくったように深く頷き、高杉さんの細い身体を背負い上げた。


「フン……。その這い上がろうとする目、嫌いじゃねえぞ。」


高杉さんは隠密の背中で、苦しげに笑いながらも、その鋭い視線で地上の出口を見据えていた。




地下室の重い扉を押し開けた瞬間、肺腑を直接炙られるような熱風と、視界を完全に奪うほどのどす黒い漆黒の煙が、私たちの全身に襲いかかった。

地上に出た我が身を包んだのは、轟々と音を立ててすべてを焼き尽くしていく、京の街の断末魔の叫びだった。河原町通りは、左右の町家から噴き出す真っ赤な火柱によって、まるで現世に現れた地獄の回廊のようになっていた。


「ゴホッ、ゲホッ! ……く、あ……っ!」


背後で、隠密の男に背負われた高杉晋作さんが、煙を吸い込んで激しく激昂したように咳き込んだ。そのたびに、彼の細い身体が折れそうに震え、男の肩口へなど果てしなく生々しい紅い血が点々と飛び散る。労咳に侵された彼の肺にとって、この硝煙と煤煙に満ちた空気は、文字通りの毒ガスでしかなかった。だが、高杉さんはその薄い唇を血に染めながらも、爛々と輝くおのれの細い目を決して閉じようとはしなかった。


「……構う、な……。走れ……! 立ち止まれば、煙に巻かれて……燻製に、なるぞ……。」


彼の掠れた声には、おのれの死期を悟りながらも、なお運命を嘲笑うかのような不敵な響きが残っていた。私は、左肩を貫かれた傷口を右手で強く圧迫しながら、必死に足を前へと進めた。衣服の隙間から溢れ出る血は、すでに私の袴を赤黒く染め上げ、歩くたびにぬるりとした嫌な感触を足元に伝えてくる。脇腹の古い傷も、今にも引き裂けそうなほどに脈打っていた。傷の痛みが消えるような都合のいい奇跡など、この現実には存在しない。意識の端が白く爆ぜそうになるのを、奥歯が軋むほど噛み締めることで強引に繋ぎ止めていた。私の左腕には、両手首を捕縛縄で縛られたお兄ちゃんの大きな身体が、半分引きずられるようにして預けられていた。


「……あ、……あぁ……。殺……す……。標的、は……長州……。いや、……お前、は……?」


お兄ちゃんは、焦点の合わない硝子玉のような瞳を激しく彷徨わせ、意味の通じない呻き声を漏らし続けていた。あの嵐の庭園で、私を組み伏せた彼が「あ、……」と呟いたとき、私は一瞬、彼が私の現在の名前を呼んだのかと錯覚した。だが、それは私の身勝手な思い込みに過ぎなかった。お兄ちゃんは、私の衣服を染め上げていた大量の「赤」い血を見て、ただその色彩を口にしただけだったのだ。

彼は、私が今、この京の街で「茜」と呼ばれていることなど、知りもしない。

隠れ里にいた頃、彼は私を「妹」や「お前」で呼んでいた。だが、今のお兄ちゃんの壊れかけた頭の中からは、その大切な思い出すらも、大老の植え付けた過酷な洗脳の闇によって完全に消し去られているようだった。彼はただ、目の前で自分を必死に支え、血を流している私の顔を、狂気と混濁の狭間で見つめ、激しく怯え、時に激昂して歯を剥き出すことしかできなかった。それでも、私はこの手を離さない。名前を忘れられていようとも、心がどれほど破壊されていようとも、この男は私のたった一人の兄なのだ。その執念だけが、私の崩れかけそうな肉体を支える唯一の骨組みだった。

たちは、火の手が比較的弱いと思われる鴨川の河原へと向かって、崩れ落ちる町家の軒下を縫うようにして走った。川縁に出れば、煙は幾分か薄くなったものの、そこには別の地獄が待っていた。


「長州の残党だ! 一人も生かして返すな! 追い詰めろ!」


甲冑の擦れ合う金属音と共に、松明を掲げた会津藩兵たちの小隊が、河原の随所に検問を築き、眼を血走らせて敗残兵の掃討を行っていた。あちこちの草むらから、逃げ遅れた長州の志士たちの悲鳴と、容赦のない刃の突きたてられる鈍い音が響いてくる。新選組の隊士たちも、数人単位で路地裏を固め、不審な者を片っ端から引き据えていた。先ほど土方歳三さんたちが私を見逃してくれたのは、あの路地裏での一瞬の出来事に過ぎない。新選組という組織全体が、長州の息の根を止めるために動いている現実は、何一つ変わっていなかった。


「茜さん、あそこは通れない。伏見街道へ抜ける裏道を往くぞ。」


高杉さんを背負った隠密の男が、低い声で私に告げた。彼の顔もまた、煤と煤煙で真っ黒に汚れ、極度の緊張から呼吸が荒くなっている。私たちは土手の下の泥濘に身を潜め、兵たちの掲げる松明の光が届かない闇を狙って、匍匐するように進んだ。その時、お兄ちゃんが突然、激しく身体を痙攣させた。


「……う、あ……あぁぁぁっ!!」


彼の喉の奥から、抑えきれない絶望の叫びが漏れ出た。洗脳の呪縛が、彼の脳内で「敵を排除せよ」という命令を強制的に下しているのだろう。右腕が動かない焦燥感からか、彼は縛られた両手を振り回し、私の肩口を強く突き飛ばした。


「つ、あ……っ!」


左肩の縫い合わせたばかりの傷口に強烈な衝撃が加わり、肉がぶちぶちと引きちぎれるような感覚がした。私は泥の中に激しく転倒し、あまりの激痛に視界が完全に暗転した。お兄ちゃんはその隙に、狂ったように頭を振りながら、立ち上がって検問のある大通りへと向かって走り出そうとした。


「お兄ちゃん、ダメ……! 行かないで!」


私は叫んだが、声はかすれて煙に消えた。

もしあそこへ出れば、武器を持たない、右腕の動かないお兄ちゃんは、会津兵たちの槍によって一瞬で串刺しにされるだろう。


「――おい、そこの不審者! 止まれ!」


案の定、お兄ちゃんの叫び声を聞きつけた会津兵たちが、松明をこちらに向けて走り出してくるのが見えた。数人。槍の切っ先が、炎の照り返しを受けて怪しく煌めいている。


「クソが、ここまで来て……!」


高杉さんを背負っていた隠密の男が、高杉さんをそっと草むらへと下ろし、自らの刀を抜いた。彼の目には、生きて戻ることを諦めた者の覚悟が宿っていた。


「隠密さん、ダメです! 戦ったら全滅します!」


私は必死に身体を起こそうとしたが、左肩と脇腹からの失血のせいで、足に力が入らない。地面の泥を掴むことしかできなかった。その時、草むらに横たわっていた高杉さんが、激しく血を吐きながらも、その細い腕を伸ばして、私の衣服の裾を強く引っ張った。


「……茜、……前を見ろ。……こんなところで、へばってんじゃねえ、と言ったはずだ……。」


彼の顔は、死人のように青白かった。だが、その瞳の奥にある狂気的なまでの意志の強さは、少しも衰えていなかった。


「あいつが……あの人形が、お前の兄なら……その狂った頭を、力ずくで、黙らせろ。……お前の執念は、そんなものか……!」


高杉さんの言葉が、私の凍りつきかけていた心臓に、再び真っ赤な炎を点火した。

大義も、歴史も、どうでもいい。

私は、この男のそばに生き続けたい。そして、お兄ちゃんを絶対に死なせない。

その剥き出しの情念だけが、私の肉体の限界を強引に打ち破った。


「はぁぁぁっ!」


私は泥を蹴り上げ、突進しようとしていたお兄ちゃんの背後へと飛びかかった。残された右腕で彼の首を後ろから強く締め上げ、自らの体重をすべて預けて、彼を泥濘の中へと引き倒した。


「が、は……っ!」


お兄ちゃんが苦しげに息を詰まらせる。私は彼の耳元で、涙と泥にまみれた顔を押し付けながら、狂ったように叫び続けた。


「静かにして! お兄ちゃん! 私はここにいる! 貴方の妹は、ここにいるの!!」


お兄ちゃんは縛られた身体を激しくよじり、私を振り落とそうとしたが、私は左肩から再び激しく血を噴き出させながらも、絶対にその手を離さなかった。肉を切らせて、骨を断つ。その執念がお兄ちゃんの暴走する肉体を徐々に押さえ込んでいった。

一方、近づいてきた会津兵たちに対して、隠密の男が闇の中から小石を複数、別の方向へと力強く投げつけた。

カツン、カラン。


「おい! あっちの草むらで音がしたぞ! 残党はあそこだ、追え!」


視界を覆う濃厚な煙と、どんどん焼けの爆音のせいで、兵たちの感覚も完全に狂っていた。彼らは私たちのすぐ数間先を通り過ぎ、小石の落ちた闇の向こうへと走り去っていった。しかしそれは隠密として機転と、最悪の環境がもたらした紙一重の偶然に過ぎなかった。


「……はぁ、……はぁ、……っ。」


兵たちの足音が遠ざかるのを確認したとき、私はお兄ちゃんの上で完全に力尽き、泥の中に顔を埋めた。

お兄ちゃんもまた、過度な精神の消耗のせいで、ついに意識を失ったように静かになり、泥の上で浅い呼吸を繰り返していた。彼はただその胸の奥にある、失われたはずの肉親の温もりだけを感じているかのように、微かに眉の力を抜いていた。


東の空が、赤黒い大火の煙の向こう側で、うっすらと白み始めた頃。

私たちは、這うような歩みで、京都の南端である伏見の船着き場へと辿り着いた。伏見の街もまた、京都からの避難民と、それを警戒する新選組や伏見奉行所の兵たちでごった返していた。だが、長州の隠密が事前に裏で手配していた、大坂へと向かう「三十石船」の一隻が、朝霧の立ち込める淀川の岸辺で、静かに私たちを待っていた。


「高杉様、茜さん、急いで船内へ。これ以上の潜伏は不可能です。」


隠密の男に支えられながら、私は意識を失ったままのお兄ちゃんを船の狭い船倉へと運び込んだ。高杉さんもまた、男に抱えられて船底の薄暗い寝所へと横たえられた。

船頭が静かに竿を差し、船が岸を離れていく。

川面を滑るように進む船の窓から、遠ざかっていく京都の空が見えた。かつて私たちが駆け抜けた千年の都は、今もなお、巨大な炎と黒煙の中に包まれ、赤く燃え盛っていた。

長州藩の壊滅。久坂玄瑞さんの凄惨な自刃。桂小五郎さんの果てしない潜伏。そして、大坂へと向かった坂本龍馬さんが目指す、未だ見えぬ不可能な薩長同盟への道のり。かつて同じ志を抱いて歩んでいた者たちが、それぞれの選択の果てに、身を切り裂きながら全く違う場所へと散っていく。その現実はどこまでも冷酷で、哀しいものだった。高杉さんは、船底の布団の中で、再び激しく喀血した。


「……フン、……京都とも、これでおさらばだ。……だが、これで終わりだと思うなよ、幕府の奴らめ……。」


彼の細い指先が、私の泥に汚れた手を再び、そっと、けれど確かに握りしめた。

その皮膚の尋常ではない熱が、私の傷だらけの肉体に、これからの果てしない戦いを生き抜くための、絶対的な覚悟を刻み込んでいく。長州を待つのは、幕府による容赦のない全面戦争、長州征伐という最大の地獄だ。しかし、私の胸の中にある、この男への引き返せない想いと、家族を救い出すという強固な志がある限り、私はどんな泥沼であっても、前を向いて歩み続ける。


船は、朝霧を切り裂きながら、淀川を静かに下っていくのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ