表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/19

4.灯火の行方-2

天を衝くほどの赤黒い爆炎が、御所の南から北へと生き物のように這い回り、京の街を容赦なく焼き尽くしていく。


新選組の思惑、久坂さんたちの決死の暴発、そして坂本さんたちの不可能な同盟への足掻き。

すべての時代の激流がこの御所の周りで激突する中、私とお兄ちゃん、二人の肉親による、逃れられない最後の死闘の幕が、今、無慈悲に切って落とされようとしていた。私は短刀を固く握り直し、激痛の向こう側にあるお兄ちゃんの瞳を見据えて、泥を蹴り上げた。しかし、泥を蹴り上げた瞬間、私の視界は一瞬、完全に白く染まった。脇腹の引き裂かれるような激痛が、脳の芯を直接針で突き刺すように襲いかかる。池田屋で原田左之助の槍に抉られ、お兄ちゃんの冷撃に耐え、そして新選組と暗部の乱戦をくぐり抜けてきた私の肉体は、すでにとうに限界を超えていた。一歩踏み出すたびに、包帯が吸いきれなくなった鮮血が、小袖の裾から泥塗れの芝生へと点々と滴り落ちる。だが、私の目の前で一対の刀を構えるお兄ちゃんの突進は、私のそんな肉体的苦痛を一切顧みない、文字通りの「死の速度」だった。

キィィィン――!!

鼓膜を引き裂くような硬質な金属音が、燃え盛る公家邸の庭園に響き渡った。私が交差させて突き出した二丁の短刀のわずか数寸先で、お兄ちゃんの放った凄まじい一撃が火花を散らしている。腕に伝わる質量は、人間のものとは思えなかった。完全に洗脳され、筋肉のセーフティすら力ずくで解除された暗殺人形の踏み込み。その圧倒的な腕力に押し負け、私の足元がずるりと泥に滑った。


「く、あああっ!」


お兄ちゃんは表情一つ変えない。光を失った硝子玉のような両眸は、ただ冷徹に私の急所だけを見つめている。彼は受け止められた刀を引くと同時に、流れるような円運動で二の太刀、三の太刀を繰り出してきた。隠れ里で共に学んだ、無駄を極限まで削ぎ落とした暗殺の剣技。だが、お兄ちゃんのそれは、里の誰よりも速く、そして容赦がなかった。私は防戦一方だった。防ぐたびに短刀の刃がこぼれ、手のひらに強烈な衝撃が走って指の感覚が麻痺していく。右肩を薄く切り裂かれ、左の太ももを刃の切っ先が掠める。鮮血が火の粉と共に夜空へと舞い散った。実力の差は歴然だった。おまけに私は満身創痍。まともに戦えば、あと数手で行き詰まり、私はお兄ちゃんの刃によって確実に解体されるだろう。冷酷な現実が、死の足音と共に刻一刻と近づいていた。


同時刻、御所の「蛤御門」周辺は、まさにこの世に現出した凄惨な地獄そのものだった。


「防戦せよ! 会津の腰抜けどもを叩き潰せ!」


久坂玄瑞さんは、弾丸の雨が降り注ぐ門の前で、血塗れの刀を振り回しながら狂ったように叫んでいた。彼の小袖は自身の血と、息絶えていった同志たちの返り血で赤黒く染まり、その端正だった顔は、幕府への凄まじい憎しみと絶望によって鬼のように歪んでいる。長州藩の突撃は、苛烈を極めていた。一時は御所の内部へと侵入しかけたものの、大久保俊光が裏で糸を引く薩摩藩の精鋭軍が圧倒的な火力を以てその側面に回り込んだ瞬間から、長州の勝機は完全に潰えていた。西郷吉之助率いる薩摩の銃撃隊が放つ容赦ない弾幕が、長州の志士たちを次々とただの肉塊へと変えていく。


「久坂殿! もはやここまでです! 鷹司邸へ退き、戦勢を立て直しましょう!」


生き残った数少ない藩士が、涙を流しながら久坂さんの身体を引っ張る。久坂さんは、燃え盛る御所の門を見つめ、血を吐くような声を上げた。


「立て直すだと……!? 宮部も、北添も、池田屋で散った仲間たちは皆、我が藩の行く末を信じて死んだのだ! 松陰先生の遺志を、ここで汚してなるものか!」


彼の胸中にあるのは、狂気的なまでの信念だった。松陰の弟子として、誰よりもその思想を過激に体現しようとした男。しかし、現実の政治の濁流と、薩摩の冷徹な軍事力の前には、彼の掲げた大義もただの哀れな灯火に過ぎなかった。久坂さんは押し寄せる敵兵を斬り伏せながら、自らの死に場所を求めるように、炎が包み込む鷹司邸へと退却していくのだった。その背中は、あまりにも悲惨で、そして孤独だった。


「西郷! おまん、本当に長州をここで見殺しにする気か!」


御所から少し離れた薩摩藩の陣屋の裏手。坂本龍馬さんは、太ももの傷から血を流しながらも、薩摩の巨頭である西郷吉之助の衣服を掴み、狂ったように吼えていた。


「坂本さぁ、もう遅い。長州は一線を越えた。御所に向けて大砲を放った時点で、奴らは完全に朝敵じゃ。薩摩がこれ以上奴らに手を貸せば、我が藩もろとも破滅する。」


西郷の顔は、いつもの温厚さを失い、冷徹な政治家のそれになっていた。その背後には、すべてを冷めた目で見つめる大久保俊光の影があった。


「違うがじゃ!」


龍馬さんは、喉がちぎれんばかりの声で叫んだ。


「長州が滅びれば、幕府の権力はさらに強固になる! 次に狙われるがは薩摩、おまんらぁの番じゃきに! 互いの面子やこれまでの遺恨だけで血を流しおうて、一体何が残る! 薩摩の武力と、長州の志。この二つが一つにならんと、この国の夜明けは永久にやって来ん!」


龍馬さんの言葉は、理想論ではなかった。この地獄のような現実を生き残り、幕府という巨大な壁を突き崩すための、あまりにもなりふり構わない、必死の足掻きだった。彼の強固な執念が、西郷の硬い表情を一瞬だけ揺らがせる。だが、大久保は静かに首を振った。


「坂本殿、長州の処分が決まった後でなければ、我らは動かん。それが現実というものだ。」


龍馬さんは拳を血が出るほど握りしめ、燃え盛る御所の空を睨みつけた。


「……分かった。長州がどれだけ血を流そうとも、わしは絶対に諦めん。桂さんと共に、この最悪の泥沼から、必ずおまんらの手を握らせてみせるきに!」


龍馬さんは痛む足を引きずりながら、再び火の海へと走り出した。彼と、そして裏で密かに長州の生き残りを募り、未来へ種を繋ごうとしている桂小五郎さんの本当の戦いは、この長州の完全な崩壊という絶望の底から、まさに始まろうとしていた。


ガンッ、ギィィン!

再び、私の短刀がお兄ちゃんの刀によって弾き飛ばされた。右手の短刀が夜空へと弧を描いて消え、私の手元には左手の一丁しか残されていない。


「はぁ、っ……、ガハッ……!」


ついに膝をついた私の脳裏に、河原町の質屋の奥座敷で眠る、高杉晋作さんの姿がよぎった。

不治の病に侵され、死の淵を彷徨いながらも、私に『前を向け』と告げたあの男。世界をひっくり返すと不敵に笑い、私の弱さも何もかも肯定してくれたあの熱。

私は、こんなところで終われない……!

お兄ちゃんが、トドメを刺すべく、一対の刀を真っ直ぐに振り上げた。その軌道には、一点の迷いもない。

勝機は、ここしかなかった。

普通に戦えば確実に死ぬ。ならば、肉を切らせて、骨を断つ。私は立ち上がるのを止め、逆に自らの身体をお兄ちゃんの懐へと滑り込ませた。


「な、……ッ!?」


感情の無いはずのお兄ちゃんの瞳が、一瞬だけ不審に揺らいだ。暗殺のセオリーから完全に逸脱した、自ら死の刃に向かって飛び込んでくる愚行。だが、それこそが隠れ里で私が学んだ、唯一の肉親であるお兄ちゃんの「右脇腹を開く」という絶対的な剣の癖を突くための、捨て身の賭けだった。

ザクッ――!!

お兄ちゃんの左の刀が、私の左肩を深く貫いた。激しい衝撃と、肉が焼けつくような痛みが全身を駆け巡る。しかし、私はその痛みを無理やり意識の奥へと押し込め、残った左手の短刀を、お兄ちゃんの右腕の関節へと向けて突き立てた。


「――戻って、お兄ちゃん!!」


私の叫びと共に、短刀の刃がお兄ちゃんの右腕の腱を正確に、深く切り裂いた。


「……あ…。」


お兄ちゃんの手から、一本の刀がポロリと地面の泥へと落ちた。腕の自由を奪われた彼は、反射的に私を蹴り飛ばそうとしたが、私は肩に刀が突き刺さったまま、彼の装束を強く掴んで離さなかった。そのまま、私たちは二人もつれ合うようにして、燃え盛る邸宅の裏の泥塗れの地面へと激しく転がった。


「はぁ、はぁ、……っ、ガハッ……!」


私は仰向けに倒れたお兄ちゃんの胸元に馬乗りになり、こぼれ落ちた彼のもう一本の刀の柄を掴み、その切っ先を彼の下顎へと突きつけた。私の肩からはドクドクと鮮血が溢れ、お兄ちゃんの漆黒の装束を赤く染めていく。私の命の灯火も、もう消えかけていた。お兄ちゃんは動かなかった。右腕の腱を切られ、完全に制圧された暗殺人形は、ただ静かに私を見上げていた。その時、周囲を包み込む炎の照り返しの中で、お兄ちゃんのあの完全に光を失っていた硝子玉のような瞳の奥に、微かな、本当に微かな変化が生じた。大老の洗脳によって塗りつぶされていた彼の精神の檻が、肉親である私の流した血の熱さと、捨て身の執念によって、一瞬だけ、本当に一瞬だけひび割れたかのように見えた。


「……お、ま……え……?」


掠れた、けれど確かに聞き覚えのある、あの懐かしい声が、お兄ちゃんの唇から零れ落ちた。


「お兄ちゃん、……っ!」


涙が、私の目から溢れ、彼の頬へと落ちていく。

洗脳が完全に解けたわけではない。彼の中に植え付けられた暗部の呪縛は、それほどまでに深く、冷酷なものだった。だが、この地獄のような戦火の真ん中で、私たちは確かに、かつての兄妹の絆の断片を取り戻したのだ。しかし、私たちにその余韻に浸る時間は与えられていなかった。


「おい! あそこに長州の残党と、暗部の者がいるぞ! 捕らえよ、あるいは切り捨てろ!」


遠くから、薩摩や会津の兵たちの足音が、こちらに向かって近づいてくるのが聞こえた。長州の敗北が決定的になり、御所周辺の掃討作戦が始まったのだ。ここに留まれば、お兄ちゃんも私も、確実に幕府の軍勢に捕らえられ、処刑されるか、あるいは大久保の手によって再び闇に葬られるだろう。


「お兄ちゃん、歩ける……?」


私は肩の刀を強引に引き抜き、激痛に視界を真っ暗にしながらも、お兄ちゃんの左腕を自分の肩に回した。お兄ちゃんは、まだ意識が混濁しているようだったが、私の拒絶しない動きに合わせるように、泥塗れの身体をゆっくりと起こした。これからどうなるか分からない。それでも、私は生きている。お兄ちゃんの手を、確かにこの手に取り戻した。私は迫り来る兵たちの足音から逃れるように、燃え盛る京都の街の、さらに深い闇の向こう側へと、お兄ちゃんの身体を支えながら、一歩一歩、泥を踏み締めて歩き出すのだった。



御所の周辺から湧き上がった炎は、真夏の乾いた北風に煽られ、またたく間に南へと燃え広がっていった。のちに「どんどん焼け」と呼ばれることになるこの大火は、千年の都の家々を容赦なく嘗め尽くし、空をどす黒い灰と火の粉で埋め尽くしていく。


「――が、あ……、つ、……あ……。」


私は、右腕の腱を切られてだらりと腕を垂らしたお兄ちゃんの身体を、辛うじて動く右肩で支えながら、崩れ落ちる瓦礫の隙間を縫うようにして歩いていた。左肩をお兄ちゃんの刀で深く貫かれた傷からは、今もドクドクと熱い血液が溢れ出て、小袖を完全に赤黒く染め上げている。一歩足を踏み出すたびに、脇腹の古い傷と左肩の新傷が互いに痛みを競い合うようにして、私の神経を狂わせた。視界は煤煙のせいだけではなく、失血によって何度も激しく明滅し、地面が生き物のように歪んで見える。私はただ、肉体が完全に停止するその瞬間まで、一歩、また一歩と泥と灰にまみれた足を前に進めるしかなかった。


「……う、……あ……殺……せ……我らを、……大老、様……。」


肩を貸しているお兄ちゃんの唇から、途切れ途切れに狂気的な言葉が漏れる。

私の捨て身の突撃と、流された血の熱さによって、彼の精神を縛っていた暗部の洗脳は一瞬だけひび割れた。しかし、長年をかけて脳の奥底まで植え付けられた呪縛は、そう簡単に消え去るものではなかった。かつての優しいお兄ちゃんの記憶と、大老の「人形」としての命令が、彼の内側で激しく衝突し合っているのだろう。お兄ちゃんの身体は尋常ではない恐怖の熱に浮かされ、焦点の合わない硝子玉のような瞳で、ただ虚空を睨みつけてぶつぶつと意味の通じない呪詛を呟き続けていた。右腕の腱を切られたため、彼はもう刀を握ることはできない。暗殺人形としての機能は完全に破壊された。だが、その代償として彼に残されたのは、壊れかけた精神と、いつ命が尽きてもおかしくないほどの衰弱だけだった。

私はお兄ちゃんを死なせないためだけに、自らの残された命のすべてを燃やし、燃え盛る京の街を彷徨い続けた。その時、南東の方向から、天を突くほどの巨大な爆炎が一段と激しく噴き上がった。長州藩の公家邸における最後の拠点、鷹司邸が完全に炎に包まれたのだ。


「久坂先生――!!」


路地の向こう側から、数人の長州藩の敗残兵たちが、涙と血にまみれた顔でこちらへと走ってくるのが見えた。彼らは着物を焦がし、刀を杖代わりにしながら、ただ目の前の火の海から逃れるために必死に足を動かしていた。その中の一人が、崩れ落ちた辻行灯の傍らでへたり込み、天を仰いで慟哭した。


「久坂先生が、鷹司邸の裏座敷にて、寺島殿と共に自刃された……! 長州は、我が藩は、御所の門前で完全に敗れ去ったのだ……!」


その悲痛な叫びが、激しい炎の音に混ざって私の耳へと届いた。

二十五歳。長州の若き至宝であり、吉田松陰の遺志を最も過激に、そして忠実に体現しようとした久坂さんは、おのれの掲げた大義と憎しみの果てに、御所の戦火の中でその命を自ら断ち切った。彼の放った激しい炎は、京都の街を焼き尽くしただけで、何一つ幕府の壁を崩すことはできなかった。現実はそれほどまでに冷酷で、容赦がなかった。

かつて松陰先生の元で未来を語り合った弟子たち。久坂さんは、おのれの信念に殉じて炎の中で散った。

そして、この暴発の裏で、長州という藩の種を未来へ繋ぐために動いていた桂さんは、敗戦が決定的になった瞬間から、髪を切り、姿を変え、幕府の執拗な捜索の目を逃れて京の闇へと深く潜伏していった。仲間に裏切り者と罵られようとも、生きて次の機会を待つという、それこそが桂さんの選んだ、身を切り裂くような過酷な道だった。


「みんな、死んでいく……。」


私はお兄ちゃんを支える手にさらに力を込めた。

松陰の弟子たちが、それぞれの信じる道のために命を削り、血を流している。ならば、私の選んだこの引き返せない道――高杉さんのそばに居続けること、そしてお兄ちゃんを人間の世界へと連れ戻すという子志し。


それだけは、何があっても泥の中に手放すわけにはいかなかった。


幾多の検問を潜り抜け、新選組の警戒網の隙間を死に物狂いで掻い潜りながら、私は夜が明ける頃、ようやく河原町の古い質屋の裏口へと辿り着いた。この周辺も、どんどん焼けの火の手がじわじわと迫りつつあり、住人たちは家財道具を大八車に積んで、慌ただしく避難を開始していた。


「茜さん……! 生きていたか!」


裏口の戸を開けたのは、質屋の主を装っていた長州の隠密の男だった。彼は私の血塗れの姿と、その肩に担がれた漆黒の装束の男を見て目を見張ったが、すぐに事態を察し、私たちを奥の地下室へと引き入れた。地上の一室は、すでに幕府方の手入れを警戒して荷物が運び出されていたが、地下の狭い物置部屋だけは、辛うじて安全が保たれていた。

部屋の隅の簡素な万年床に、高杉晋作さんは横たわっていた。

「……ハァ、……っ、ゲホッ、ゴホッ……!」

彼の病状は、数日前よりもさらに悪化していた。京の街を包み込む凄惨な煤煙と、長州壊滅という最悪の精神的衝撃が、彼の蝕まれた肺に致命的な追い打ちをかけていたのだ。吐き出された血は、枕元に置かれたタライの中でどす黒く固まっており、彼の細い胸は、壊れた鞴のように激しく上下している。


「高杉、さん……。」


私がお兄ちゃんの身体を床へと横たえ、自らも限界を迎えて床に崩れ落ちたとき、高杉さんは激しい咳の発作の合間に、ゆっくりと、本当に数ミリだけその細い目をあけた。彼の濁った瞳が、まず血塗れの私を捉え、次にその傍らで精神を失って呻いているお兄ちゃんの姿へと移った。


「……フン、……本当に、あの、最高傑作って奴を……引きずり回して、戻ってきやがったか、山猫……。」


彼の声は、地を這うように掠れていたが、その口元には微かに、いつものひねくれた笑みの破片が浮かんでいた。


「久坂さんが……亡くなりました。長州は、負けました。」


私は溢れそうになる涙を必死に堪えながら、事実だけを告げた。高杉さんは一瞬だけ瞳の奥の光を宿らせ、それから深く、天を仰ぐようにして目を閉じた。


「……あの、馬鹿が。だから、言ったんだ……。実もねえ、ただの熱病で、兵を動かすな、と。……あいつは、先生の遺志を、急ぎすぎたんだ。」


彼の拳が、布団の上で弱弱しくしかし固く握り締められる。同じ塾生として、誰よりもその才能を認め合っていた久坂さんの死。高杉さんの胸中を過る悔しさと怒りは、私の想像を絶するものだったはずだ。だが、労咳という不治の病に冒された今の彼の身体には、その怒りを爆発させるだけの力すら残されていなかった。


「坂本、さんは……?」


私が尋ねると、高杉さんは浅い呼吸のまま、首を横に振った。


「坂本なら、大坂へ向かった。西郷の奴は、今回の戦で完全に長州を敵に回して、幕府と共に我らを叩き潰した……。だがな、坂本はまだ諦めていねえ。長州がどれだけ血を流そうとも、この後に必ず訪れる『長州征伐』というさらなる地獄の中で、薩摩の喉元に刃を突きつけてでも、同盟を成立させてみせる、と……あの足で、笑って出ていきやがった。」


龍馬さんの執念もまた、完全に狂っていた。

これだけの血が流れ、互いが朝敵と官軍に分かれて殺し合ったというのに、彼はまだ、薩摩と長州を握らせるという不可能な絵空事を現実に変えようと、泥水をすすりながら足掻き続けているのだ。龍馬さんの進む道は、これからさらに無数の非難と、暗殺の危機に晒される、文字通りのいばらの道だった。


「茜……、お前、その肩の傷、どうした?」


高杉さんが、私の小袖から溢れる鮮血を見て、眉をひそめた

「お兄ちゃんを、止めるために、刺されました。でも、大丈夫です。腱を切りましたから、もうお兄ちゃんは誰も殺せません。」


私は自嘲気味に微笑んだ。

お兄ちゃんの右腕は動かない。そして、彼の精神は今も洗脳の拒絶反応で狂ったままだ。これが、私の執念の結末だった。お兄ちゃんを救い出すことはできたが、彼が元の優しい兄に戻ったわけではない。私たちは二人揃って、生涯消えない深い傷を肉体と精神に刻み込まれたのだ。

高杉さんは、震える手を布団から出し、私の血塗れの頬へとそっと触れた。

彼の皮膚は相変わらず尋常ではない熱を帯びていたが、その手のひらの温かさは、私の凍りつきそうな心を確かに溶かしていく。


「おもしれえ、じゃねえか……。藩は潰れかけ、久坂は死に、俺の身体はこれだ。……お前も、その兄貴もボロボロだ。……だがな、茜。これだけ、すべてが底の底まで叩き落とされたんだ。……ここから先は、面白くしていくしか、道はねえだろうが。」


彼の瞳の奥に、あの世界を睨みつけるような狂気的な光が、一瞬だけ、けれど確かに蘇った。

不治の病に侵され、明日をも知れぬ命でありながら、高杉晋作という男は、未だに絶望という言葉を自らの辞書に書き加えることを拒絶していた。


「前を、向け、茜。……俺たちの戦いは、まだ、何一つ、終わっちゃいねえ。」


彼の言葉が、私の胸の奥で激しく火花を散らした。

地上からは、未だに京の街を焼き尽くす炎の爆音が響いてくる。長州藩の壊滅。久坂玄瑞の死。大久保俊光の冷徹な暗躍。そして、迫り来る幕府による「長州征伐」という、さらなる巨大な破滅の足音。一筋縄ではいかない地獄のような苦難ばかりが待ち受けている。お兄ちゃんの洗脳を解く事も、高杉さんの命を繋ぎ止める戦いも、これからが本当の正念場だった。しかし、私の胸の中に灯った彼への引き返せない想いと、彼から与えられた強固な覚悟がある限り、私の刃が折れることは絶対にない。

私は高杉さんの熱い手を強く握り締め、溢れる涙を今度こそ完全に拭い去って、深く頷いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ