4.灯火の行方-1
京都の夏は、ついに破滅の熱量を孕んで臨界点に達しようとしていた。
連日降り続いていた梅雨の雨は上がったものの、入れ替わりに立ち込めたのは、肌をじっとりと炙るような酷暑と、全洛中を包み込む不気味なほどの静寂だった。大通りからは人影が消え、家々は格子戸を固く閉ざして息を潜めている。時折、遠くから聞こえてくるのは、馬の嘶きと、重々しい甲冑が擦れ合う金属音だけだった。
長州藩の軍勢が、いよいよ御所へ向けて進軍を開始した――。
その報せが河原町の古い質屋に届いたのは、夜が明ける直前のことだった。久坂玄瑞さん率いる本隊が山崎から、そして真木和泉さんらの軍勢が嵯峨や伏見から、御所を包囲するように刻一刻と距離を詰めているという。それは、一藩の命運を賭けた暴発であり、この国の形を根底から変えてしまうかもしれない、巨大な戦火の幕開けだった。
「……ハァ、……く、っ……!」
薄暗い奥座敷の布団の中で、高杉晋作さんは今も、熱に浮かされたまま苦しげな呼吸を繰り返していた。
あの日、死の淵から辛うじて生還したものの、労咳という無慈悲な病魔が彼の肉体を解放したわけではなかった。肌は依然として触れれば火傷しそうなほどに熱く、白布で拭うたびに、彼の唇からは消えかけた命の欠片のような血が零れる。医師の必死の投薬も、彼の病の進行を一時的に遅らせるのが精一杯だった。世界を引っ繰り返すと豪語した男が、今はただ、己の命の炎が尽きぬよう、暗い部屋の片隅で孤独な戦いを続けている。
私は、彼の額の手ぬぐいを取り替え、その細く熱い指先に自分の手を重ねた。
「高杉さん……。行ってきます。」
声は震えなかった。私の胸の奥には、彼から向けられた「前を向け」という言葉が、消えない楔となって打ち込まれていたからだ。彼がこの病床で生きようともがいている限り、私がここで立ち止まることは絶対に許されない。私の衣服の下では、未だに完治していない脇腹の傷が、動くたびに肉を抉るような鈍痛を放っていた。池田屋で負った割れるような衝撃は、確実に私の体力を削り取り、呼吸を浅くさせている。一晩で傷が塞がるような都合のいい身体ではない。歩くごとに包帯が擦れ、じわじわと生暖かい血が滲んでいくのが分かった。だが、この激痛こそが、私がまだ生きているという証であり、現実の過酷さを教えてくれる唯一の道標だった。
「茜さん、準備はいいか?」
襖を開けて入ってきた桂小五郎さんの顔には、もはや迷いの色はなかった。長州藩の幹部でありながら、久坂さんたちの暴発を止められなかった男。彼は今、仲間に裏切り者と罵られ、孤立無援の境地に立たされながらも、長州の「その後」を繋ぎ止めるために、その鋭い知性を極限まで研ぎ澄ましていた。
「坂本くんは、すでに薩摩の西郷を動かすため、最後の直談判に向かった。大久保の冷徹な思惑を切り崩し、薩摩の軍勢を長州の敵に回させないための、命懸けの交渉だ。彼が表の歴史を繋ぐなら、私たちは裏の闇を断ち切らねばならない!」
桂さんは、私に一本の地図を差し出した。そこには、御所周辺の公家街と、その裏に広がる複雑な路地の網の目が緻密に記されていた。
「大久保俊光が動かしている『暗部』の主力は、長州の突入に合わせて、御所の北東――公家たちの邸宅が立ち並ぶ一画に潜伏している。彼らの目的は、新選組や会津の軍勢が長州を正面から迎え撃つ混乱に乗じて、久坂や主要な志士たちを確実に暗殺し、長州藩の指揮系統を完全に壊滅させることだ。そして……その影の先頭に、君の兄上がいる。」
地図を見つめる私の指先が、自然と強く握り締められた。
大久保俊光の描いた筋書きは、完璧にして冷酷だった。長州に大罪を犯させ、表の軍勢にそれを叩き潰させ、裏では暗部を使って遺恨の種すら残さず間引く。そして、その後に残った権力の果実を、すべて薩摩が総取りする。そのための道具として、心を壊された私のお兄ちゃんが、刃を研いで待っているのだ。
「私は、お兄ちゃんを止めます。暗部の拠点を叩き、大久保さんの思惑を根底から狂わせてみせます。」
「頼む。……生きて戻れよ、茜さん。君が死ねば、あの病床の男は、本当に地獄まで君を追いかけていってしまうからな。」
桂さんの言葉に、私は短く頷き、懐の一対の短刀の感触を確かめた。
部屋を出る間際、もう一度だけ高杉さんの寝顔を見つめる。彼は、激しい呼吸の合間に、微かに私の気配を追うように指先を動かした気がした。私はその熱を胸に刻み込み、質屋の裏口から、灼熱の京都の街へと身を躍らせた。
街の空気は、すでに硝煙と、人間の放つ濃密な殺気によってねっとりと濁っていた。
三条から北へ向かうにつれ、武装した会津藩兵や、桑名藩の兵たちが慌ただしく行き交う姿が目に入る。彼らの表情には、これから始まる凄惨な市街戦への恐怖と、それを上回る狂気的な昂ぶりが張り付いていた。裏路地には、浅葱色の羽織を纏った新選組の姿もあった。土方歳三が隊士たちに冷徹な口調で配置を指示し、沖田総司はいつもと変わらない薄い笑みを浮かべて、刀の柄に手をかけている。長州がどれだけの理想を掲げようとも、この圧倒的な武力の前に、彼らの挙兵は文字通りの「玉砕」へと向かっている。都合のいい逆転の策など、この戦場にはどこにも転がっていない。私は、彼らの警戒網を隠れ里の歩法で潜り抜け、御所の北東に位置する公家街へと潜入した。
高い土塀と重厚な門が立ち並ぶこの一画は、表の喧騒から切り離されたように静まり返っていた。だが、私の五感は、その静寂の裏に潜む、無数の「気配の無い殺気」を敏感に捉えていた。
……いる…。
木々の隙間、建物の屋根裏、そして土塀の影。
隠れ里の者しか使わない、独特の呼吸の周期。大老・井伊直弼が育て上げ、今は大久保の手先として動く暗部の隠密たちが、蜘蛛の巣のようにこの一帯を包囲していた。私は、息を殺して邸宅の庭へと忍び込み、背後から近づいてきた一人の漆黒の装束の男を、声を立てる暇すら与えずに組み伏せた。短刀を相手の顎下から脳漿へと正確に突き刺す。男はビクリと身体を震わせ、そのまま泥を掴むようにして崩れ落ちた。
「ふぅ、……っ、……く!」
一人を仕留めただけで、脇腹の傷が激しく燃えるように痛んだ。傷口から温かいものが溢れ、着物の生地を濡らしていく。意識が遠のきそうになるのを、唇を噛み切って強引に引き戻す。無双の強さなど、私にはない。実力の差も、肉体の限界も、すべてが私を死へと誘う重力のように重かった。それでも、私は止まれない。男の懐を探ると、暗部の符牒が刻まれた一本の木札が出てきた。そこに記されていたのは、久坂玄瑞さんが突入するであろう「蛤御門」の周辺に、戦力が集中しているという配置図だった。そして、その配置図の最前線、最も危険な突撃路の影に、あの「人形」の識別名が記されていた。お兄ちゃんだ。彼は、蛤御門の裏手で、長州の軍勢が崩壊した瞬間に、久坂さんらの首を確実に狩るための死神として配置されていた。
その時、南の空を切り裂くような、凄まじい轟音が響き渡った。
――ドンッ! ドドォンッ!!
地響きと共に、御所の南側から巨大な爆炎と黒煙が、真夏の青空へと向かって、生き物のように噴き上がった。
始まった……!
長州藩の軍勢が、ついに御所の門を突破せんと、大砲を放ち、一斉に突撃を開始したのだ。遠くから、数千人の人間の地鳴りのような怒号と、それに応える会津・薩摩の容赦ない銃撃の音が、津波となって押し寄せてくる。街のあちこちから火の手が上がり、京の空がみるみるうちに赤黒い煙で満たされていく。
その混沌の火蓋が切って落とされた瞬間、私の目の前の闇から、音もなく数人の影が滑り出てきた。彼らの中央に立つ男の手には、月光ならぬ炎の照り返しを受けて冷たく煌めく、一対の刀が握られていた。
お兄ちゃんだった。泥と煤に汚れた長い髪の隙間から、完全に光を失った硝子玉のような両眸が、私を真っ直ぐに捉えていた。その瞳には、私の姿も、街を焼き尽くす炎も、何一つ映っていない。ただ、大老によって書き換えられた「目の前の障害を排除する」という冷徹な命令だけが、彼の肉体を駆動させていた。
「お兄ちゃん……!」
私は短刀を両手に構え、激痛に叫びそうになる身体を強引に前へと進めた。
周囲の暗部たちが、一斉に私に向けて武器を構える。私は燃え盛る京の地獄へと、お兄ちゃんを奪還するために真っ直ぐに飛び込んでいくのだった。
天を衝くほどの赤黒い爆炎が、御所の南から北へと生き物のように這い回り、京の街を容赦なく焼き尽くしていく。長州藩の放った大砲の轟音と、それを迎え撃つ会津・薩摩藩の小銃の乾いた連射音が、激しい地鳴りとなって足元から全身へと伝わってきた。空気は完全に熱せられ、吸い込むだけで喉の奥が焼けつくように痛む。立ち込める硝煙と民家が燃える濃煙のせいで、視界は数間先すら満足に通らなかった。
「くっ、あ……ガハッ……!」
私は崩れかけの土塀に背を預け、激しく咳き込んだ。
口内へと逆流してきた鉄の味を強引に飲み干す。着物の下で、包帯はすでに池田屋の傷から溢れ出た鮮血で重く濡れそぼり、一歩足を踏み出すたびに、脇腹の肉が内側から抉られるような激痛が神経を狂わせた。傷口が一瞬で塞がるような奇跡など、この現実には存在しない。体力は確実に底をつきかけており、意識の端が白く霞んでいくのを、自分の唇を血が出るほど噛み切ることで繋ぎ止めていた。
目指すのは、久坂玄瑞さん率いる長州の本隊が文字通りの死闘を繰り広げている「蛤御門」の裏手。大久保俊光の策略により、長州の首魁を確実に仕留めるために配置された、大老直属の『暗部』。そして、その先頭で完全に心を消された暗殺人形として佇む、私のお兄ちゃんの元へと這ってでも行かねばならなかった。だが、私の行く手を阻むように、燃え盛る路地の奥から不気味な影が滑り出てきた。
一人、二人……いや、五人。
漆黒の装束を纏い、気配を完全に殺した暗部の隠密たちだった。彼らは手にした鎖鎌や異形の短刀を低く構え、私を完全に包囲するように距離を詰めてくる。
「そこまでだ、隠れ里の裏切り者が。大老様の最高傑作をこれ以上煩わせるな。」
隠密の頭目が冷酷に言い放つと同時に、左右から二人の男が地を這うような速度で肉薄してきた。
「はぁぁっ!」
私は痛む身体を無理やり翻し、両手の短刀を交差させて襲い来る刃を受け止めた。
ギチギチと金属が擦れ合う嫌な音が響き、完治していない脇腹に強烈な負荷がかかる。視界が真っ赤に染まりそうになるのを堪え、泥塗れの地面を強く蹴って相手の懐へと潜り込み、一人の喉元を正確に切り裂いた。しかし、返り血を浴びると同時に、背後から別の隠密が放った鎖鎌が私の肩の肉を浅く抉っていく。
「つ、あ……っ!」
バランスを崩し、燃え盛る民家の板壁へと背中から叩きつけられた。激しい火の粉が舞い散り、肌を焼く。さらに最悪なことに、路地の曲がり角から「おい! あそこに不審な者がいるぞ!」という怒号と共に、浅葱色の羽織を着た新選組の平隊士たち数人が、抜刀した状態でこちらへ向かって走ってくるのが見えた。
暗部の隠密、そして京の治安維持を担う新選組。
双方から敵と見なされた今の私には、この包囲網を突破するだけの実力も、余力も残されていなかった。全身の傷口から流れる血が、地面の泥を赤く染めていく。これまでか、という絶望が脳裏をよぎり、私は迫り来る漆黒の刃を見つめた。
その瞬間だった。
「――そこまでだ、大老の犬どもが!」
低く、地を這うような圧倒的な威厳を孕んだ声が、燃え盛る路地に響き渡った。
次の瞬間、私の目の前にいた暗部の隠密の首が、一閃の元に宙を舞った。鮮血が噴水のように夜空へと吹き上がり、首を失った肉体がドサリと泥の中に倒れ込む。
「え……?」
呆然とする私の視界に飛び込んできたのは、浅葱色の羽織を肩に掛け、太い剛刀を抜いた巨漢の姿だった。新選組局長、近藤勇。
「全く、戦火に紛れてこそこそと鼠が湧きおるわ。神聖なる御所の近くで、不快な真似をしてくれるな。」
近藤の背後から、さらに二つの影が風のように躍り出た。
一人は、一切の感情を排した冷徹な眼差しで刀を構える副長、土方歳三。そしてもう一人は、まるで手折るような軽やかさで、近づこうとした別の隠密の胸を神速の突きで貫いた一番隊組長、沖田総司だった
。
「ひ、一気に片付けちゃいますね?」
沖田はいつもの無邪気な笑みを浮かべたまま、刀を引き抜くと同時に残りの隠密たちの懐へと滑り込み、瞬く間にその命を奪い去っていった。その剣技には一切の無駄がなく、暗部の精鋭たちが、まるで藁人形ででもあるかのように次々と泥の中に沈んでいく。
「な、なぜ……新選組が、私を……?」
私は混乱し、壁に身体を預けたまま短刀を構え直した。新選組にとって、長州藩の息がかかった私は、捕縛か切り捨ての対象のはずだった。こちらへ向かってきていた平隊士たちに対し、土方が片手を挙げて鋭く制した。
「お前たちは蛤御門の会津勢の援護に回れ。ここは俺たちが引き受ける!」
「は、ハッ!」
平隊士たちが怪訝な顔をしながらも、副長の絶対的な命令に従って去っていく。
路地には、燃え盛る炎の音と、私を包囲するように立つ新選組の幹部三人、そして私だけが残された。土方歳三は、刀についた血を懐紙で静かに拭い取りると、鞘へと収めた。その冷徹な両眸が、泥と血にまみれた私をじっと見下ろす。
「勘違いするな、娘。お前を助けたわけではない。俺たちは、表の権力を盾にして京の裏で好き勝手に立ち回る、大老の『暗部』という存在が心底気に入らないだけだ。」
近藤勇が、刀を肩に担ぎ直しながら、重々しく言葉を継いだ。
「木屋町の一件、そして先の池田屋の騒動。新選組が正面から不逞浪士を捕縛する裏で、不自然に特定の志士の首だけを狩っていく黒装束の影があった。我々の預かり知らぬところで、幕府の闇が京の治安を乱している……。それが我慢ならんでな、独自にその死体の傷口や、奴らの足取りを調べさせてもらったのだ。」
「調べて、いた……?」
「そうだ。」
土方が一歩前へと歩み出た。
「江戸の井伊直弼が遺した最凶の暗殺組織。そして、その組織の最高傑作と呼ばれ、完全に自我を奪われて人形と化した男……。それが、お前が探している実の兄、だろう?」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ね上がった。
新選組は、単なる京の治安維持組織ではなかった。彼らは自分たちの縄張りである京都で暗躍する不穏な空気の本質を、その高い情報収集能力と直感によって、すでに正確に掴み取っていたのだ。
「お前の兄の剣技は、池田屋の死体を見る限り、完全に人を超えている。」
沖田総司が、初めて笑みを消し、真剣な眼差しで私を見た。
「あの人体の解体手口……僕でも、正面から戦って勝てるかどうか分からない。あれはもう、武士の剣じゃない。命を奪うためだけに作られた、ただの精巧な機械ですよ。」
近藤勇が、まっすぐに私を見つめた。
「その人形が、今、蛤御門の裏手で大久保俊光の命を受け、長州の久坂らの首を狙って潜んでいる。幕府のために戦う我々としては、長州が滅びるのは好都合だ。だが……武士の誇りも持たぬ闇の人形に、この京の行く末を汚させるのは、新選組の誠の旗が許さん。」
土方が私の前に立ち塞がり、親指で御所の方向を指し示した。
「お前がその身体で何をする気かは知らん。だが、あの人形を、お前の兄を解放するのか、それともここでただの錆として朽ち果てさせるのか……肉親であるお前がケジメをつけろ。ここから先は、俺たちは見逃してやる。行け、山猫。」
「……!」
言葉が出なかった。彼らは幕府の臣下であり、私はその敵側に身を置く存在。それでも、彼らは自らの「武士としての矜持」と「新選組の誠」を貫くために、この泥にまみれた戦場の中で、私に道を譲ってくれたのだ。しかし、それは優しさではない。それは、彼らなりの冷徹で強固な信念に基づいた選択だった。
「……感謝、します」
私は深く頭を下げ、新選組の三人の横を通り抜け、再び激しい火の手が上がる御所へと向かって走り出した。背後から、近藤の「死ぬなよ」という低い声が、炎の音に混ざって聞こえた気がした。
同時刻、御所の正門の一つである「蛤御門」の周辺は、この世の終わりを思わせる凄惨な地獄絵図と化していた。
「突撃ィ! 引くな! 松陰先生の無念を、池田屋の同志たちの血を、今ここで晴らすのだ!」
久坂玄瑞さんは、血と煤で完全に汚れきった顔で、狂気的なまでの叫び声を上げながら、自ら白刃を振るって門へと突撃を繰り返していた。彼の瞳は、すでに現実の勝敗など見ていなかった。ただ、胸の中に渦巻く幕府への激しい憎しみと、亡き師への絶対的な信念だけが、彼の肉体を突き動かしていた。
「長州の不逞浪士どもを門内に入れるな! 撃て! 撃ち尽くせ!」
会津藩兵たちの容赦ない銃撃が、突入しようとする長州の志士たちを次々と薙ぎ倒していく。門の前には、数え切れないほどの長州兵の死体が累々と積み重なり、流れた血が夏の舗装を赤く染め上げ、強烈な臭気を放っていた。
「久坂殿! 薩摩の軍勢が、我が方の側面に回り込んできました! このままでは完全に包囲されます!」
部下の絶望的な叫び声が響く。
坂本龍馬さんが命を懸けて西郷吉之助と交渉し、桂小五郎さんが裏で必死に繋ぎ止めようとしていた『薩長同盟』の可能性――。しかし、現実の戦場では、大久保俊光の冷徹な筋書き通り、薩摩藩の精鋭軍が長州の息の根を止めるべく、圧倒的な火力をもってその側面に襲いかかっていた。龍馬さんの奮闘も、現時点ではこの強固な現実の壁を突き崩すには至っていなかったのだ。
「構うな! 薩摩が何だ、会津が何だ! 我らは正義のために死ぬのだ! 前へ、前へ進め!」
久坂さんは、自らの肩に銃弾を受けながらも、その歩みを止めなかった。彼の周囲で、かつて松陰先生の元で共に未来を語り合った優秀な若者たちが、一発の弾丸、一太刀の元に、ただの肉塊へと変わり果てていく。身を切り裂かれるような悲劇の連続。それでも久坂さんは、己の信念を達成しようと、狂ったように暴れ回っていた。彼の流す血と涙は、燃え盛る京の街の炎に照らされ、怪しく煌めいていた。
御所の喧騒からわずかに外れた、公家邸の崩れかけた庭園。
蛤御門の激戦の音が、まるで遠い世界の出来事のように響くその場所に、私はついに辿り着いた。
「はぁ、……っ、はぁ、……。」
脇腹の傷からは、もはや包帯では受け止めきれないほどの血が流れ落ち、視界は何度も暗転しかけていた。まともに立っていることすら奇跡に近い。都合のいい結末などどこにもない。肉体は完全に限界を迎えていた。
庭園の中央、燃え盛る邸宅の炎を背に、一人の男が静かに佇んでいた。
漆黒の装束。長い髪の隙間から覗く、完全に光の絶えた硝子玉のような両眸。手にした一対の刀からは、先ほど仕留めたであろう長州の志士たちの血が、泥の上へと静かに滴り落ちている。
「……お兄ちゃん…。」
私の声に、その人形はゆっくりと顔を上げた。
そこに妹を愛し、優しく笑ってくれたかつての兄の面影は、やはり微塵も存在しなかった。彼はただ、目の前に現れた「排除すべき対象」として、私の満身創痍の肉体をその冷徹な瞳に映し出し、一対の氷の刃を静かに、けれど完璧な構えで突き出してきた。




