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3.洛中の烈火、霞む境界-4

京都の空を覆う生温い梅雨の雨は、数日が経過しても上がる気配がなかった。町家の瓦を濡らす雨音は、河原町の古い質屋の奥座敷にいる私たちにとって、まるですべての時間を削り取っていく秒読みの音のようだった。


高杉晋作さんの病状は、あの日から一向に好転していなかった。それどころか、肺から溢れ出る血は止まったものの、今度は引き裂くような高熱が彼の細い身体を容赦なく責め立てていた。


「ハァ、っ……、ハァ、っ……。」


薄い布団の中で、高杉さんは浅く、途切れがちな呼吸を繰り返している。行灯の薄暗い光に照らされたその横顔は、完全に生気を失い、まるで白磁の人形のように透き通っていた。額から流れる汗を、私は何度も何度も冷たい水で濡らした手ぬぐいで拭い去るが、彼の皮膚から発せられる異常な熱は、私の手のひらを逆に焼き尽くさんばかりだった。


いつ呼吸が止まってもおかしくない。


老医師の言葉が、私の耳の奥で呪いのように再生され続けていた。労咳の特効薬など、この世には存在しない。この無慈悲な病魔は、彼の若き才能も、世界をひっくり返そうとする傲岸不遜な野心も、すべてを等しく泥の中へと引きずり込もうとしていた。


「……晋作、死ぬなよ。おまんが死んだら、誰がこの後に続く狂言を踊るがじゃ。」


部屋の隅で、太ももに血の滲んだ包帯を巻いた龍馬さんが、壁に背を預けたまま、絞り出すような声で呟いた。彼の声には、いつもの大らかな響きは微塵もなかった。ただ、親しい友を失うかもしれないという、底知れない恐怖だけが濁って響いている。そして、桂さんは、部屋の戸口に立ったまま、固く拳を握りしめていた。


「長州藩邸の久坂たちは、いよいよ御所へ向けて兵を動かす決意を固めた。池田屋で流された仲間の血が、彼らの正気を完全に奪ってしまったのだ。……今、長州が戦を起こせば、確実に朝敵として全精力を傾けた幕府の軍勢に圧殺される。薩摩が動かなければ、我が藩の命運はここで尽きる。」


桂さんの言葉は、今の長州が置かれた絶望的な孤立を物語っていた。池田屋事件の衝撃は、それほどまでに大きかったのだ。


「分かっちゅう。だからこそ、わしは動く。」


龍馬さんが、痛む足を無理やり引きずるようにして立ち上がった。


「薩摩の大久保や西郷に、直談判を申し込む。長州をこのまま見殺しにすれば、次は薩摩が幕府の牙にかけられる番だと、あの冷徹な大久保の頭に叩き込んでやるがじゃ。犬猿の仲であろうが何だろうが、この二つの巨大な藩が手を結ばんと、幕府という化け物は倒せん。……これが、わしの最後の賭けじゃ。」


薩摩と長州を繋ぐ――『薩長同盟』という、あまりにも無謀で、けれど唯一の救いとなる時代の歯車。龍馬さんは、自らの命が新選組に狙われているという最悪の状況下でありながら、その一筋の可能性にすべてを賭けて、再び雨の京の街へと足を踏み出そうとしていた。しかし、両藩の間に横たわる深い不信感と、互いに流し合ってきた血の歴史は、そう簡単に拭い去れるものではなかった。現実の交渉は、利害と面子が複雑に絡み合い、一歩間違えれば即座に破談となる、薄氷を踏むような歩みだった。


「茜さん。君はどうする?」


桂さんが、静かに私を見つめた。


「高杉の看病も大切だが、君の追う暗部も、長州の暴発に合わせて、いよいよ洛中での動きを本格化させている。潜伏拠点の情報が、いくつか私の耳にも入ってきた。……今を逃せば、君の兄上は、再び幕府の闇の深淵へと消え去るだろう。」


その問いが、私の胸を鋭く抉った。

高杉さんの枕元に残り、彼の最期になるかもしれない時間を一分一秒でも長く支えたいという、私の内に生まれた願い。一方で、心を壊され、冷酷な暗殺人形として今も誰かを殺し続けているお兄ちゃんを、この手で救い出さなければならないという、私の存在理由そのものである長年の志し。


どちらか一方を選べば、もう一方を永遠に失うかもしれない。


胸の奥が引き裂かれるような凄惨な葛藤が、私の呼吸を詰まらせ、一歩を踏み出せずにいる。脇腹の包帯の下から、再び生暖かい痛みがズキズキと這い上がってくるのを感じた。私の身体もまた、限界に近いのかもしれない。その時、布団の中で高杉さんの指先が、微かにピクリと動いた。彼は薄く、本当に数ミリだけ目を開け、焦点の合わない瞳で、天井を睨みつけるようにして低く、掠れた声を絞り出した。


「……行け、山猫。」

「高杉さん……!」

「言った、はずだ……。こんなところで、立ち止まってんじゃねえ、と。俺の身体など……どうでもいい。お前は、お前の眼の前にある、敵を、噛み砕きに、行け……!」


彼の声は、今にも消え入りそうなほど細かったが、その奥にある狂気的なまでの意志の強さは、少しも衰えていなかった。彼は、自分が死の淵にいることすらも、おのれの野心の糧として笑い飛ばそうとしているかのようだった。

私は、彼の熱い手を一瞬だけ強く握り締め、それから静かに手を離した。


「……行ってきます。必ず、戻りますから。」


私は懐の短刀の柄を固く握り締め、泥を跳ね上げる雨の京都の街へと、一人で飛び出した。



桂さんから聞いた情報を頼りに、私は三条東山の外れにある、鬱蒼とした竹林に囲まれた古い寺院へと向かった。そこは、普段は洛中の人々からも忘れ去られたような静寂な場所だったが、隠れ里の出身である私の五感は、その空間に漂う異様な『毒』を敏感に察知していた。

竹の葉を揺らす雨音の向こう側から、微かに漂ってくる薬草の匂い。そして、地面の泥に不自然に残された、足音を完全に消すための歩法の痕跡。

間違いない。

ここが、大老・井伊直弼が京に築いた、暗部の前線拠点だ。私は気配を完全に断ち、濡れた竹林の影を縫うようにして本堂の裏手へと忍び寄った。縁側の障子戸がわずかに開いており、そこから室内の様子が窺えた。薄暗い室内には、数人の漆黒の装束を纏った隠密たちが控えていた。そして、その中央に座っていたのは、氷のような冷静さを全身から放つ男――薩摩藩の実力者、大久保俊光だった。


なぜ、大久保さんがここに……!?

私は息を呑み、身体を固くした。薩摩の最高幹部が、幕府の最凶の暗殺組織と密会している。これが、京都という坩堝の、本当の裏の顔だった。


「長州の久坂らは、こちらの思惑通り、数日中に御所へ向けて兵を動かす。」


大久保俊光が、低く重厚な声で冷徹に告げた。


「薩摩は動かん。長州が朝敵として幕府の軍勢に叩き潰されるのを、ただ静観する。だが、幕府側が勝利を収めた後、井伊大老の専横がこれ以上続くことは、薩摩としても容認できん。……暗部よ、長州の始末が終わった暁には、大老直属の権力を我ら薩摩へと割譲する約束、忘れるな。」


隠密の長と思われる男が、闇の中から不気味に低く笑った。


「承知しております、大久保様。我らはただの道具。大老様の命令に従い、長州の首を狩るだけ。その後の権力の器がどこに移ろうとも、関わりはございませぬ。……なぁ、最高傑作よ?」


男が視線を向けた先――部屋の最も暗い隅に、あの虚ろな瞳をした私のお兄ちゃんが、微動だにせず佇んでいた。手には、あの池田屋で私の肩を切り裂いた一対の刀が握られている。彼には、大久保の政治的な謀略も、長州の志士たちの命も、何一つ意味をなしていないのだろう。ただ、目の前の標的に刃を突き立てるためだけの、完璧な人形として、そこに存在していた。

大久保俊光は、お兄ちゃんの姿を一瞥すると、満足そうに立ち上がった。


「新選組には、池田屋の時と同様に、表での大立ち回りを演じさせる。裏の仕留めは、すべてお前たちに任せる。長州の息の根を、完全に止めてみせよ。」


大久保が部屋を去っていく。

薩長同盟を目指して血の滲むような思いで動いている龍馬さんの裏で、現実の政治は、これほどまでに冷酷に、長州を圧殺するための罠を完成させつつあった。ご都合主義な奇跡など、どこにもない。長州の孤立は、薩摩の冷徹な意志によって、裏から完全に固定されていたのだ。


お兄ちゃんを、今ここで強襲して連れ戻すか。


私の指が短刀の柄にかかった。だが、室内に控える暗部の隠密たちの数、そしてお兄ちゃんの圧倒的な実力を前に、今の負傷した私の身体では、飛び込んだ瞬間に返り返されて死ぬのがオチだった。ここで無駄死にすれば、高杉さんとの約束も、お兄ちゃんを救うという執念も、すべてが泡と消える。

私は、奥歯が割れんばかりに噛み締め、悔し涙を雨水に混ぜながら、静かにその場から撤退した。

まずは、この情報を龍馬さんと桂さんに伝えなければならない。薩摩の裏切りを、大久保の冷徹な思惑を覆さなければ、長州に未来はなく、お兄ちゃんを闇から引きずり出すこともできない。

全速力で河原町の質屋へと戻ったとき、夜は完全に明けようとしていた。

裏口から室内に飛び込むと、そこには異様な緊張感が張り詰めていた。


「茜さん……! 戻ったか!」


桂さんが、血相を変えて私を迎えた。その視線の先――奥の寝所から、老医師の、これまでになく緊迫した声が響いていた。


「高杉様の呼吸が止まりかけております! 心臓の音が、急激に弱まっている……!」

「な、……っ!」


私は、自分の怪我の痛みも、暗部に関する重大な情報もすべて忘れて、高杉さんの枕元へと駆け寄った。

布団の上の高杉さんは、先ほどよりもさらに青白く、まるで本物の死人のようになっていた。胸の上下運動はほとんど視認できず、唇は紫色に変色している。彼の細い手が、氷のように冷たくなっていた。


「高杉さん! 高杉さん、目を開けてください……!」


私は、彼の冷え切った両手を、自分の両手で必死に包み込み、何度も何度も彼の名前を呼び続けた。

老医師は、静かに首を振って自身の道具を片付け始めていた。


「……もう、手を尽くしました。熱が頭に回り、お身体の芯が限界を迎えておられます。こればかりは、神仏の領域……おのれの生きようとする意志だけが、最後の頼みでございます。」


死神は、どこまでも無慈悲に、彼の命を奪い去ろうとしていた。


「晋作……! おまん、こんなところで終わる男じゃないろうが!」


龍馬さんが、太ももの傷の痛みを忘れたように床に膝をつき、高杉さんの肩を激しく揺さぶった。桂さんもまた、声にならない叫びを堪えるように、顔を覆って震えていた。

高杉さんの呼吸が、完全に止まったかのように見えた。

部屋の中を、耐え難い静寂が支配する。

嫌だ……。死なないで、高杉さん……!

私は、彼の胸元に自らの頭を押し当て、彼の消え入りそうな心音を必死に聴こうとした。

出会った時の、あの傲慢な三味線の音。御殿山の火事の後、私の手を包み込んでくれた、あの孤独な熱。

『お前は、お前の執念を果たすために、ここへ来たんだろう』と、死の間際でありながら私を鼓舞してくれた、あの凄まじい言葉。私の胸の中にある、彼への引き返せない想いが、涙となって彼の藍色の羽織を濡らしていく。


「高杉さん……! 世界をひっくり返すんじゃなかったのですか!? 松陰先生のいないこの世界を、おもしろく書き換えるんじゃなかったのですか……! 私の、私の志しを見届けてくれるって、約束したじゃないですか……!」


私は、喉が張り裂けんばかりの声で、彼の耳元で叫び続けた。大義も、正義も、時代も関係ない。ただ、この男に生きていてほしいという、剥き出しの情念だけが、私の口から溢れ出ていた。


どれほどの時間が流れただろう。

部屋の外で、雨の勢いが一段と激しくなり、激しい雷鳴が京の天を震わせた、その瞬間だった。


「……ハ、ッ……!」


高杉さんの胸が、大きく一度だけ跳ね上がった。

それと同時に、彼の喉の奥から、乾いた、けれど確かに現世へ踏みとどまろうとする力強い息が吐き出された。ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼の紫色の唇に、微かな赤みが戻り始める。老医師が慌てて彼の脈に触れ、目を見張った。


「……信じられん。脈が、再び力強さを取り戻しつつあります。死の淵から、おのれの意志だけで這い上がってこられた……!」


高杉さんは、完全に目は開かなかったものの、微かに眉をひそめ、私の髪に触れるかのように、指先をほんの数ミリだけ動かした。その口元には、まるであの世の門番をからかって帰ってきたかのような、いつもの、極めて不敵な笑みの破片が、確かに浮かんでいた。

死の直前から、彼は辛うじて踏みとどまったのだ。

私は、彼の胸の確かな鼓動を感じながら、溢れる涙を拭うこともせず、ただ深く息を吐き出した。身体の力が完全に抜け、脇腹の痛みが一気に押し寄せてくる。しかし、私の胸の奥には、絶望を消し去るほどの、強固な覚悟が定まっていた。高杉さんは、生きている。ならば、私もまた、私の戦いを続けなければならない。大久保俊光が描いた、長州圧殺の冷酷な筋書き。それに対抗するために、龍馬さんが命を懸けて進めようとしている、薩長同盟という唯一の希望。そして、その巨大な政治の嵐の裏で、暗殺人形として獲物を狙い続ける、私のお兄ちゃん。目の前には一筋縄ではいかない困難ばかりが待ち受けている。だが、高杉晋作という男の命の灯火が未だ消えていない限り、私の刃が鈍ることは絶対にない。


私は、眠り続ける高杉さんの手をもう一度だけ優しく握り締め、それから静かに立ち上がった。次なる時代の暴風雨が、この千年の都を跡形もなく塗り替えようとする中で、さらに深い、運命の最前線へと、再び真っ直ぐに歩みを進めるのだった。




激しい雷鳴が京都の天を震わせた夜が明け、どんよりとした灰色の雲からは、依然として細い雨が音もなく降り注いでいた。高瀬川の濁った水流が、せせらぎとは程遠い轟音を立てて流れていく。

河原町の古い質屋の最奥。行灯の灯すら消された薄暗い一室で、私は高杉晋作さんの枕元に座り、冷え切った井戸水で何度も手ぬぐいを絞っては、彼の額へと乗せていた。


「……ハァ、……っ、……ウ、っ……!」


高杉さんの呼吸は、昨夜の心停止寸前の危篤状態からは脱したものの、未だに浅く、肺の奥から微かな喘鳴が聞こえていた。意識は戻っていない。時折、高熱に浮かされるようにして短い呻き声を漏らすが、そのたびに彼の薄い唇の端から、乾いた血の破片が零れ落ちる。私は、自分の着物の下で頑固な痛みを主張し続ける脇腹の包帯に、そっと手を当てた。池田屋で負った衝撃、そして連日の無理が祟り、傷口からは今も微量の血が滲んでいる。身体を少し捻るだけで、焼火箸を突き立てられたような激痛が走る。私たちはただ、互いにボロボロの肉体を抱えながら、容赦なく進んでいく時間の激流に足を踏ん張っているだけだった。

…冷静にならなければ、全員がこの京の闇に呑まれて死ぬ……。

私は高杉さんの冷たい指先に触れながら、昨日、三条東山の古寺で目撃した光景を頭の中で反芻し、現状を整理していた。

大老・井伊直弼が京に配した最凶の暗殺組織『暗部』。その前線拠点に姿を現したのは、薩摩藩の最高幹部である大久保俊光だった。大久保は、池田屋事件で激昂した長州藩の過激派が御所へ向けて暴発するのをあえて静観し、長州を「朝敵」として幕府の軍勢に圧殺させる計画を立てていた。そして、その後に大老直属の暗部の権力を、すべて薩摩の手中に収めようと画策している。その謀略の最前線に、私のたった一人の家族であり、心を壊されて完全な人形となったお兄ちゃんが、刃を構えて立っている。

長州の破滅。暗部の台頭。そして、お兄ちゃんとの決戦。すべての最悪な未来が、数日後に迫る「長州の挙兵」という一つの特異点に向かって、じわじわと収束しつつあった。


「――茜さん。晋作の様子はどうだ。」

襖が静かに開き、部屋に入ってきたのは桂さんだった。その端正な顔立ちは、連日の不眠不休の政務と、池田屋で仲間を失った絶望によって、まるで幽鬼のように痩せ細っていた。


「熱はまだ下がりませんが、脈は昨日よりは落ち着いています。……桂さん、藩邸の様子は?」


私が尋ねると、桂さんは深く、胸の奥を抉るようなため息をつき、床に拳を突き立てた。


「……もう、誰の手にも負えない。久坂は、完全に正気を失っている。いや、彼にとっては、それこそが唯一の正気なのだろう。」


桂さんの声は、同じ松陰先生の門下生として、共に未来を語り合った同志の暴走を止められない悔しさと悲しみで、激しく震えていた。池田屋事件によって多くの優秀な仲間を惨殺された長州藩邸では、久坂玄瑞さんを中心とする過激派が、もはや一刻の猶予も置かずに御所へ進軍し、武力によって朝廷から幕府の勢力を追い落とすべしとの論が完全に主流となっていた。それは、軍事的な勝算など万に一つもない、ただの怒りと憎しみに任せた自爆特攻に等しい行為だった。


「私は何度も久坂を説得した。今、兵を動かせば、それこそ幕府や薩摩の思う壺だと。だが、彼は私の言葉を鼻で笑ったよ。『桂さん、あなたは松蔭先生の無念を、池田屋で流れた仲間たちの血を、このまま泥の中に捨てる気か』と。……彼の瞳には、もうこの現実の世界は映っていない。先生の後を追うこと、そして長州の誇りを示すこと、それだけが彼のすべてになってしまっている。」


桂さんは顔を覆った。

かつて吉田松陰という一人の天才の元で、共に学び、競い合い、新しい日本の夜明けを夢見た若者たち。

しかし今、その弟子たちは、それぞれの信じる道の狭間で、自らの身を切り裂きながら全く違う方向へと歩みを進めていた。久坂さんは、松陰先生の遺志を「烈火の如き変革」と捉え、自らがその炎となって長州諸共すべてを焼き尽くそうとしている。対して桂さんは、その遺志を「未来への存続」と捉え、どんなに泥水をすすり、仲間に裏切り者と罵られようとも、長州という藩を、そして志の種を後世に残すための冷徹なサポートに徹しようとしていた。そして、この病床で死の淵を彷徨っている高杉晋作さんもまた、松陰の最高傑作と呼ばれた男だった。彼は久坂さんの暴発を「くだらん熱病」と切り捨てながらも、その命の灯火が消えかける瞬間まで、おのれの野心のために世界をひっくり返そうともがいていた。


「それぞれの道が、あまりにも鋭すぎて、互いを傷つける刃にしかならない……。」


私は、昏睡する高杉さんの姿を見つめながら、そう呟いた。この京都という巨大な坩堝の中で、かつての同志たちが互いに背を向け合い、血を流しながら破滅へと突き進んでいく。その現実には、一切の妥協も救いもなかった。


「――何を湿っぽいツラをして集まっとるがじゃ、おまんらは。」


部屋の入り口から、不意に野太く、けれど確実に疲弊した声が響いた。

見上げると、土佐の坂本龍馬さんが、襖の縁に大きな身体を預けて立っていた。原田左之助の槍に深く切り裂かれた彼の太ももからは、未だに生々しい血の匂いが漂っており、巻かれた包帯は赤黒く汚れている。歩くたびに激痛が走るのだろう、彼の顔は歪んでいたが、その瞳の奥にあるギラギラとした執念の光だけは、少しも衰えていなかった。


「龍馬……! その足で、一体どこへ行っていたんだ!?」


桂さんが驚いて立ち上がった。


「決まっちゅうろう。薩摩の西郷じゃ。……あいつの滞在先を突き止めて、今さっきまで、なりふり構わず怒鳴り合いをしてきたところちや。」


龍馬さんは床にどさりと腰を下ろし、痛む足を乱暴に叩いた。


「西郷吉之助に会ったのか!? 薩摩の腹は……大久保の思惑は、どうだった?」


私が身を乗り出して尋ねると、龍馬さんは深く、苦い表情で首を振った。


「大久保の奴が裏で何を描いちょるかは知らんが、西郷の言い分は冷徹そのものじゃ。今の長州は、池田屋の恨みだけで動く狂犬じゃとき。そんな関わり合えば共倒れになるような相手と握る理由が、今の薩摩には一つもない、とな。……わしがどれだけ日本の未来を説いても、あいつらは冷めた目でわしを見下ろすだけじゃった。」


龍馬さんの言葉は、私が古寺で聞いた大久保の謀略を裏付けるものだった。薩摩は長州を完全に突き放し、彼らが御所で幕府の軍勢と衝突し、自滅していくのを待っているのだ。


「だがな……、わしは諦めんぞ。」


龍馬さんは、血の滲む拳を床に強く叩きつけた。


「長州がここで滅びたら、次は必ず薩摩が幕府に握り潰される。この二つの巨大な藩が、互いの面子や憎しみだけで牙を剥き合っとる限り、新しい時代など絶対にやって来んがじゃ! 犬猿の仲であろうが何だろうが、わしは西郷の袖を掴んででも、大久保の胸ぐらを掴んででも、この二つを絶対に握らせてみせる。……これが、わしの命の使い所じゃきに。」


龍馬さんの言葉には、大義名分や綺麗な理想論などは一切なかった。ただ、この最悪な現実を引っ繰り返すための、なりふり構わない強固な執念だけが、彼の大きな身体から熱となって放たれていた。桂さんは、そんな龍馬さんの姿をじっと見つめた後、静かに頭を下げた。


「……すまない、坂本くん。長州の面子を汚すと藩内でどれだけ糾弾されようとも、私は君の動きを全面的にサポートする。久坂たちが挙兵すれば、京は戦火に包まれる。その混乱の裏で、私は君が薩摩と交渉するためのあらゆる伝てと、長州藩としての最低限の言質を裏で整えよう。……長州の未来を、君に託す。」


孤立無援の長州を救うための、あまりにも無謀な試み――『薩長同盟』。

龍馬さんのなりふり構わぬ奮闘と、桂さんの血を吐くような裏でのサポートによって、その不可能なはずの歯車が、この最悪の状況下で、未だにギリギリと音を立てて回り続けようとしていた。二人が次なる交渉と政務のために部屋を去った後、私は再び、高杉さんの枕元で一人になった。

窓の外では、雨の音が一段と激しさを増している。数日後、久坂さんたちが御所へ向けて兵を動かせば、この京都の街は間違いなく、歴史上類を見ない規模の、本物の戦火に包まれることになる。新選組の浅葱色の羽織が表の戦場を血で染め、その影で大久保の意を受けた暗部の隠密たちが、長州の生き残りを容赦なく暗殺していくだろう。

……いや、それこそが、唯一の機会だ…!

私は、膝の上に置いた一対の短刀をじっと見つめた。

大混乱に陥る戦火の京都。すべての勢力が入り乱れ、表の歴史が激しく揺れ動くその瞬間こそ、暗部の包囲網が最も手薄になり、彼らの本拠地の守りが崩れる一瞬の隙が生まれるはずだ。大久保俊光の策略通りに長州を滅びさせはしない。龍馬さんと桂さんが薩長同盟のために命を懸けているなら、私は裏の歴史で、大久保の思惑を根底から叩き潰す。久坂さんたちの放つ炎のドサクサに紛れて暗部の全容を暴き、その最深部へと突入してお兄ちゃんを奪還する。私の身体の傷も、精神の限界も、もうどうでもよかった。これが、私のすべてだ。


「……茜、……。」


突如、枕元から、蚊の鳴くような掠れた声が聞こえた。

ハッとして見上げると、高杉さんが、本当に微かにだけ目を開けていた。その瞳は未だ熱に濁っていたが、私を捉えるその光だけは、やはり驚くほど鋭かった。


「高杉さん……! 意識が戻ったのですか?」

「……うる、せえ……。坂本たちが、相変わらず、無茶苦茶な、ことを言ってやがるのが、聞こえた……。」


高杉さんは、肺の痛みに耐えるように顔をしかめながら、無理に唇の端を吊り上げた。


「薩摩と、長州を、握らせるだと……? 狂ってやがる。……だが、それくらい、面白くなければ、このクソみたいな、世界をひっくり返す、価値もねえ……。」

「高杉さんは、話してはダメです。まだ身体の芯が限界なんです」


私は、彼の冷たい手を再び両手で包み込んだ。


「……茜。お前も、行くんだろ……。兄貴を、奪い返しに……。」

「はい。久坂さんたちが動くその日、すべての混乱に乗じて、私は暗部と決着をつけます。お兄ちゃんを、必ず連れ戻します。」


私は、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返して誓った。私の胸の中にある彼への引き返せない想いが、私の背中を強く、強く押し出してくれるのを感じていた。


「……フン、相変わらず、気の強い、山猫だ……。」


高杉さんは、満足したようにゆっくりと再び目を閉じた。


「死ぬなよ、茜。……俺の、この病気が、お前を見送る前に、俺を連れて行こうとしても……俺は、地獄の門番を、殴り倒してでも、ここで、待っててやる……。」


彼の呼吸が、再び深い眠りのそれへと戻っていく。その手のひらには、微かではあるが、確かに生きようとするおのれの意志の熱が、残り続けていた。

私は短刀の柄を固く握り締め、ゆっくりと立ち上がった。


松陰先生の弟子たちはそれぞれの信念のために身を切り裂き、龍馬さんは血を流しながら不可能に挑み、久坂さんは憎しみの炎へと飛び込んでいく。すべての因縁が、この千年の都を最大の戦火で焼き尽くそうとするその瞬間が、すぐ目の前まで迫っていた。


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