3.洛中の烈火、揺らぐ境界-3
三条大橋に近い旅籠『池田屋』の周辺は、ねっとりとした京の夜気の中に、肌が粟立つような異常な静寂が立ち込めていた。
私は池田屋の真向かいにある町家の屋根瓦に身を伏せ、低く息を吐き出しながら、階下の様子をじっと窺っていた。動くたびに、着物の下で包帯に包まれた脇腹の傷が、引き裂かれるような鈍い痛みを訴える。江戸で負い、京で新選組の原田左之助の槍を受け流した際に再び開いたその傷は、日に日に私の体力を確実に削り取っていた。傷が一瞬で癒えるような都合のいい奇跡など、この泥にまみれた戦場には存在しない。痛みを意識の奥へ押し込め、ただ冷徹に五感を研ぎ澄ます。
旅籠の二階からは、格子戸越しに微かな灯火が漏れ、長州や土佐の過激派志士たちが激論を交わしているのだろう。彼らは、自分たちのすぐ足元まで破滅の足音が迫っていることに、未だに気づいていない。
しばらくして、その静寂が内側から爆発するように引き裂かれた。
「――御用改めである! 手向かいいたすにおいては、容赦なく切り捨てる!」
池田屋の表戸が凄まじい音を立てて叩き割られ、夜の闇を震わせる怒号が響き渡った。新選組局長、近藤勇の声だった。その直後、旅籠の内部から、人間のものとは思えない悲鳴と、金属が激しくぶつかり合う凄惨な音が、津波のように路地へと溢れ出してきた。
「新選組だ!」「防戦せよ!」
志士たちの狂乱した叫び声と共に、二階の格子戸が内側から突き破られ、血塗れの肉体が、三条通の路面へと激しく転がり落ちていく。表門からは、沖田総司を筆頭とする数人の浅葱色の羽織が、飢えた獣のように白刃を煌めかせて突入していくのが見えた。私は屋根から音もなく跳び、池田屋の裏手にある狭い中庭へと身を躍らせた。新選組の狙いが長州の過激派の一網打尽であるなら、私の目的はただ一つ。この大混乱のドサクサに紛れて動くはずの、大老直属の『暗部』――そして、その闇の先頭に立つ、私のお兄ちゃんを補足することだ。
中庭の潜り戸から内部へ滑り込むと、そこはすでに鼻を突く強烈な血生臭さと、硝煙の匂いに満ちていた。一階の薄暗い廊下では、新選組の隊士と志士たちが、互いの内臓をぶちまけ合うような凄惨な乱闘を繰り広げている。沖田総司の放つ、神速の三段突きが志士の胸を正確に貫き、鮮血が壁の障子を赤黒く染めていく。新選組の剣技は、道場のそれとは完全に一線を画していた。一撃で相手を確実に無力化し、命を奪うためだけに研ぎ澄まされた、狂気的なまでの暴力。志士たちはその圧倒的な武力の前に、次々と屠られていった。だが、私の目が捉えたのは、その華々しい乱闘の『影』だった。
新選組が正面から大立ち回りを演じているその背後、廊下の隅の完全な暗がりを、音もなく滑るように動くいくつかの影があった。彼らは浅葱色の羽織を着ていない。漆黒の装束に身を包み、新選組の突入に気を取られて逃げ出そうとする特定の重要人物を、声を立てる暇すら与えずに仕留めていた。
――いた!
その影の動き、刃の軌道、そして周囲の空気を一瞬で氷結させるような、あまりにも冷徹な殺気。
見間違うはずがなかった。私のすべてを奪い、隠れ里を滅ぼした大老の『最高の人形』。私のお兄ちゃんだった。
お兄ちゃんは、裏口から脱出しようとしていた肥後の重要な志士の背後に、文字通り煙のように現れた。彼の手にある一対の刀が、月光を反射して冷たく閃く。一閃。志士は悲鳴を上げることすら許されず、喉元を深く真横に裂かれ、崩れ落ちた。その手口は、先日木屋町の裏路地で見つかった死体のものと、完全に一致していた。
「お兄ちゃん……!」
私は我慢できずに、暗がりからその姿の前に躍り出た。腰から一対の短刀を引き抜き、お兄ちゃんの進行方向を遮るようにして立ちはだかる。
お兄ちゃんはゆっくりと顔を上げた。
雨水に濡れたような長い髪の隙間から、あの懐かしい、けれど完全に光を失った硝子玉のような両眸が私を捉える。そこに、私を「妹」と呼んで優しく笑ってくれた面影は、微塵も残っていなかった。大老・井伊直弼によって精神を完全に書き換えられた暗殺人形は、自らの前に立ち塞がる者が妹であることすら認識していない。ただの『排除すべき障害』として、その一対の氷の刃を私に向けて構えた。
言葉はなかった。
ただ、凄まじい突風が吹いたかと思うほどの速度で、お兄ちゃんの身体が目の前から消えた。
――速い!
本能が告げる危機感に従い、私は両手の短刀を交差させて前方に突き出した。ギチギチと、鼓膜を引き裂くような硬質な金属音が響き、お兄ちゃんの刀の切っ先が、私の短刀のわずか数寸先で止まっていた。凄まじい腕力だった。お兄ちゃんの刃から伝わる圧倒的な質量が、私の完治していない脇腹の傷を直撃する。激痛が走り、視界が真っ赤に染まりそうになる。
「う、あ……っ!」
お兄ちゃんは表情一つ変えず、受け止められた刀を強引に引き抜き、間髪入れずに変幻自在の二の太刀、三の太刀を繰り出してくる。その軌道には、人間らしい迷いや躊躇いが一切排除されていた。ただ標的を最も効率よく、確実に解体するためだけに研ぎ澄まされた、純粋な死の連撃。
私は防戦一方だった。隠れ里で叩き込まれた身のこなしを駆使し、紙一重で刃をかわし、短刀で軌道をそらすのが精一杯だった。一歩下がるたびに、足元の畳が志士たちの血でぬるりと滑る。脇腹の包帯がじわじわと温かい血で濡れていくのが分かった。体力が急激に奪われ、呼吸が浅くなる。ご都合主義な逆転の策など、今の私にはない。実力の差、そして負傷しているという厳然たる現実が、容赦なく私を死の淵へと追い詰めていく。
お兄ちゃんの冷酷な一突きが、私の肩の小袖を切り裂き、鮮血が飛び散った。バランスを崩し、私は池田屋の裏庭の濡れた地面へと激しく転がった。起き上がろうとする私の視界の先で、お兄ちゃんは無表情のまま、トドメの一撃を放つべく、刀を真っ直ぐに振り上げた。
ここまで、なの…!?
その刃が振り下ろされようとした、まさにその瞬間だった。
「――おのれ不逞浪士の残党め! 土方隊、裏手を固めろ!」
池田屋の表から、凄まじい数の足音と怒号が響き渡った。土方歳三率いる新選組の本隊が、ついに池田屋に到着したのだ。中庭の潜り戸からも、浅葱色の羽織を着た隊士たちが続々と乱入してくる気配が伝わる。
その騒動を察知した瞬間、お兄ちゃんの刀の動きがピタリと止まった。大老の『暗部』は、表の権力である新選組にその存在を知られるわけにはいかないのだろう。お兄ちゃんは私を見下ろしたまま、一瞬だけその濁った瞳を揺らがせたように見えたが、次の瞬間には、私の前から音もなく消え去り、夜の闇の深淵へと溶け込んでいった。
「……はぁ、はぁ、っ……!
」
私は泥まみれの地面に這いつくばったまま、お兄ちゃんが消えた夜空を、ただ茫然と見つめるしかなかった。またしても、届かなかった。彼を救い出すどころか、その圧倒的な実力を前に、自分の命を守るだけで精一杯だったという残酷な現実が、胸を締め付けた。
なんとか、新選組の隊士たちが中庭に踏み込んでくる前に、私は里の煙硝を地面に叩きつけ、辛うじてその場から這うようにして脱出した。池田屋の内部からは、なおも志士たちの絶叫と、近藤勇の豪快な斬撃の音が響き続けていた。歴史にその名を刻む『池田屋事件』の凄惨な嵐は、多くの若き命を容赦なく飲み込みながら、洛中の夜を赤く染め上げていった。
翌朝、河原町の古い質屋の奥座敷は、まるで墓場のような重苦しい沈黙に包まれていた。
私は血と泥に汚れた衣服を替え、新しく巻き直した包帯の上から小袖を着て、部屋の隅に座っていた。脇腹の傷は完全に限界を迎えており、少しでも呼吸を深くすれば、意識が飛びそうになるほどの痛みが走る。部屋の中央には、桂小五郎さんが頭を抱えて座り込んでいた。その端正な顔は絶望に歪んでいる。
「宮部殿も、北添殿も……皆、池田屋で討ち死にか。長州の、我が藩の未来を担うはずだった優秀な志士たちが、一夜にしてこれほど失われるとは……ッ!」
桂さんの声は震えていた。池田屋事件によって、長州藩の過激派は事実上の壊滅状態に追い込まれたのだ。久坂玄瑞さんは藩邸でその報せを聞き、怒りと絶望のあまり、今すぐ御所へ兵を進めると息巻いているという。長州の孤立は、もはや決定的なものとなりつつあった。布団の上に身を起こした坂本龍馬さんが、太ももの傷を押さえながら、険しい表情で口を開いた。
「桂さん、悲しんどる暇はなかちや。池田屋で長州がこれだけ血を流したとなれば、幕府は次こそ長州藩そのものを朝敵として押し潰しにくる。……こうなったら、やはりあの策しか残されちょらん。」
龍馬さんの瞳に、ギラギラとした強固な光が宿る。
「薩摩じゃ。薩摩の西郷や大久保を引っ張り出して、長州と握らせる。これしか、長州が生き残り、この国がひっくり返る道はなか。薩長が一つにならんと、新しい日本の夜明けは絶対に来んがじゃ」
孤立無援となった長州。それを救うために、犬猿の仲である薩摩との同盟――『薩長同盟』への動きを、龍馬さんはこの最悪の状況から、本格的に加速させようとしていた。しかし、それは決して簡単な道ではない。池田屋で長州が流した血はあまりにも多く、両藩の間の溝は深く、冷たく横たわっている。現実はどこまでも泥にまみれ、一筋縄ではいかない困難の連続だった。
「――お前、よくあの地獄から生きて戻ったな。」
部屋の入り口に、藍色の羽織を肩に掛けた高杉晋作さんが立っていた。彼の腕には、いつも手放さない漆黒の三味線が抱えられている。高杉さんは私の方へ歩み寄ると、私の青ざめた顔と、小袖の下の包帯の膨らみをじっと見つめた。
「高杉さん……。」
「新選組の近藤や土方が本気で牙を剥いたんだ。あの場にいた阿呆どもは、ほとんどが錆になった。お前がその程度の怪我で済んだのは、単に運が良かっただけだ。二度と、あんな無策な場所に飛び込むな。」
高杉さんの言葉は冷たかったが、その瞳の奥には、私を生還させたことへの微かな安堵のようなものが揺らめいていた。その直後、高杉さんは突然、胸元を強く抑えて激しく咳き込んだ。
「――ウ、クッ……ゴホッ、ゴホゴホッ……!」
彼の細い身体が折れ曲がるようにして震え、喉の奥から掠れた、痛々しい音が漏れる。
「高杉さん!?…やはり、ただの風邪じゃないんじゃ……。」
私は心配になって立ち上がろうとしたが、激痛で身体が動かなかった。高杉さんは、口元を強く手ぬぐいで拭い、それを素早く懐へと隠すと、無理にいつもの不敵な笑みを作って見せた。
「言っただろう、京の生温い湿気が肺に障るだけだ。俺の身体を心配する暇があるなら、お前自身のその引き返せない志しを、どうやって果たすかだけを考えていろ。」
彼の顔色は、昨日よりもさらに白く、どこか透明感すら帯びているように見えた。しかし、私が何か言うよりも早く高杉さんが口を開く。
「久坂たちが暴発すれば、京の街は本物の火の海になる。暗部も、新選組も、その炎の中でさらに獰猛に牙を剥くだろう。」
高杉さんは三味線の弦を一度だけ、ベベン、と低く鳴らした。
「その混沌の真ん中で、お前が次こそあの兄貴って奴を奪い返すって言うなら、俺はそれを見届けてやるさ。……俺の命がある内にな。」
「高杉さん…?」
彼の言い方がいつもと違う…。私を見つめるその姿が儚くて…今にも消えてしまいそうで…。
掴もうと手を伸ばしたかったけど、私の体は痛みと怪我でぴくりとも動かなかった。
池田屋事件の後も京都の街に立ち込めた血の臭いが消えることはなかった。それどころか、多くの優秀な志士を一挙に失った長州藩の怒りと絶望は、洛中を覆う湿った熱気と混ざり合い、爆発寸前の危険な火薬となって長州藩邸に充満していた。
「久坂の奴、もう誰の言葉も耳に入らんようになっちゅう……。」
河原町の古い質屋の奥座敷。布団の上に身を横たえた坂本龍馬さんが、苦渋に満ちた声で呟いた。原田左之助の槍に切り裂かれた太ももの傷は、包帯をきつく巻いていても尚、動くたびに鋭い痛みを訴えるらしく、彼の大きな額には絶えず不快な汗が滲んでいる。傍らに座る桂小五郎さんもまた、幽鬼のような顔で床を見つめていた。
「池田屋の報復として、藩内では御所へ向けて挙兵すべしとの声が大半を占めている。今、無策に兵を動かせば、幕府に格好の口実を与え、長州は朝敵として完全に押し潰される。だが、同志を惨殺された彼らの義憤を抑える力は、今の私にはない……。」
私は二人の重苦しい会話を聞きながら、自らの自室の片隅で、脇腹の包帯を取り替えていた。布を皮膚から剥がすたびに、血と膿が混じった強烈な痛みが走り、思わず奥歯がガチガチと鳴る。池田屋でお兄ちゃんの冷酷な連撃を受け止め、濡れた地面に叩きつけられたあの時の衝撃は、私の肉体に確実な限界を突きつけていた。傷が一瞬で消え去るような都合のいい奇跡など、この冷酷な現実には存在しない。私はただ、痛みに震える指先を無理やり動かし、新しい布を固く巻き直すしかなかった。
「……薩摩じゃ。」
龍馬さんが、痛みに耐えながらもギラギラとした目を桂さんに向けた。
「長州が孤立無援のまま滅びんためには、犬猿の仲であろうが何だろうが、薩摩の西郷や大久保と握るしか道はなか。薩摩の軍事力と、長州の志。この二つが一つにならんと、幕府という巨大な壁は崩せんがじゃ!」
龍馬さんはこの破滅的な状況から、なりふり構わぬ執念でその絵空事を現実に変えようと動き始めていた。しかし、両藩の間に流れた血はあまりにも多い。そして、その政治の濁流の裏で、大老直属の『暗部』はさらに獰猛にその牙を研いでいる。池田屋の混乱に乗じて志士たちを正確に間引いたあの手口。でも、お兄ちゃんは確実に、私のすぐ近くにいる。お兄ちゃんを救い出さなければならないという焦燥が、脇腹の痛みと共に私の胸を容赦なく締め付けていた。
その日の夜更け、熱気が引かない狭い裏庭の縁側に、高杉さんが一人で座っていた。膝の上には、いつも手放さない漆黒の三味線が置かれている。月明かりに照らされた彼の横顔は、江戸にいた頃に比べて明らかに肉が落ち、顎の線が刃物のように鋭くなっていた。
「……高杉さん。」
私が声をかけると、彼はバチを持ったまま、細い目をさらに細めてフッと笑った。
「なんだ、山猫。まだ生きていたのか。池田屋であの『人形』に手も足も出ずに転がされた割には、随分と気の強い目をしていやがる。」
「怪我は、もう大方良くなりました。お兄ちゃんの手口は分かりました。次こそは、暗部の根城を突き止めてみせます。」
「強がりを言うな。」
高杉さんは煙管を口にくわえようとしたが、なぜか手がわずかに震え、それを再び懐へと収めた。
「お前のその、引き返せねえ頑固さだけは認めてやる。だがな、茜。俺たちの時間って奴は、お前が思っているよりも遥かに短く、脆いもんだ。世界をひっくり返すなら、もたもたしてやるんじゃねえぞ?」
「……長州が、兵を挙げるからですか?」
私は、彼の言う「時間がない」という言葉を、久坂さんたちの暴発による軍事的な猶予のことだと思い込んでいた。
高杉さんは答えず、ただ愛おしそうに三味線の弦に指を触れた。
「一本、派手な曲でも聴かせてやろう。このクソ面白くねえ夜を、少しはマシに――ッ!」
彼がバチを振り上げ、弦を鳴らそうとした、まさにその瞬間だった。高杉さんの身体が、まるで背後から目に見えない刃で深く突き刺されたかのように、激しく強張った。
「――ッ、ガハ、ッ……! ゲホッ、ゴホゴホッ……!!」
突如として、彼の口から獣の呻きのような、凄まじい発作の咳が溢れ出た。これまでの、煙にむせたような軽いものとは明らかに違っていた。肺の底から絞り出されるような激しい音。
「高杉さん……!?」
驚いて駆け寄ろうとした私の目の前で、高杉さんは激しく身を折り曲げ、床に両手をついた。
「ゴホッ! ゲホッ……ガハッ……!」
次の瞬間、彼の口から、行灯の薄暗い光の中でもはっきりと分かる、生々しく鮮烈な紅い液体が、畳の上へと激しくぶちまけられた。どす黒い血の塊が、彼の自慢の藍色の羽織を一瞬で汚し、床に広がっていく。
「あ、…か…ッ。」
高杉さんは、自らの口から溢れる血を止めることもできず、そのまま視線を虚空へと彷徨わせた。彼の美しい瞳から急速に光が失われ、細い身体から完全に力が抜けていく。
「高杉さん!!」
私は、倒れ込む彼の身体を、無我夢中で両腕の中に抱きとめた。触れた彼の身体は、まるで真夏の夜の熱気がすべて集まったかのように、尋常ではない熱を帯びていた。呼吸は浅く、胸の奥からゼイゼイと、壊れた鞴のような不気味な音が響いている。
「桂さん! 龍馬さん! 誰か、来てください……!」
私は、喉がちぎれんばかりの声で、奥座敷に向かって叫び続けていた。
質屋の最奥、固く閉ざされた一室に、急遽手配された信頼できる老医師の重苦しい声が響いた。
枕元には、血を拭き取られ、青白い顔で深い眠りに落ちている高杉さんが横たわっている。桂さんも、龍馬さんも、言葉を失ったままその姿を見つめていた。
「……労咳です。それも、かなり病根が深く、すでに肺の大部分が冒されております。」
老医師は静かに首を振り、血の付いた手ぬぐいをタライの水で濯いだ。水がみるみるうちに赤く染まっていく。
「これまで、強い精神力と、おのれの熱量だけで無理に身体を動かしてこられたのでしょう。ですが、もう限界です。この京都の過酷な気候と、連日の心労が引き金となり、一気に病状が悪化した。……不治の病です。これ以上の無理を重ねれば、命の灯火は、そう長くは持ちますまい。」
労咳……不治の病――。
その言葉を耳にした瞬間、私の頭の中が、真っ白な雷に打たれたかのように激しく火花を散らした。直後に体中の血液が、一瞬で凍りつくような感覚に襲われる。
なぜ、気づかなかったのか…!
江戸の道場で、彼が時折見せていた不自然な咳。京の隠れ家で、私の手を包み込んだ時の、あの尋常ではない手の熱さ。少し痩せたのではないかと尋ねた私に、彼は「京の飯が口に合わんだけだ」と、いつものように不敵に笑って見せていた。そのすべてが、過労なんかではなく、彼の命を内側から無慈悲に食い荒らす、恐ろしい病魔の仕業だったなんて!
高杉さんは…彼は…たった一人で、この暗い死の影と戦い続けていたんだ。
老医師が去り、桂さんと龍馬さんも、藩の緊急の寄り合いのために重い足取りで部屋を出ていった。静まり返った部屋の中で、私は高杉さんの枕元に、ぽつんと座り込んでいた。…眠り続ける彼の顔は、驚くほど静かで、どこか儚かった。いつも世界を睨みつけていたあの鋭い瞳は閉じられ、薄い唇からは時折、苦しげな吐息が漏れるだけだ。
私は、彼の指先に、そっと自分の手を重ねた。
その瞬間、私の胸の奥から、今までに経験したことのない、引き裂かれるような強い感情が、濁流となって湧き上がってきた。
失いたくない……!
お兄ちゃんを想う時の、失った過去を追い求める切ない痛みとは、全く違う。今、目の前で確かに呼吸をしているこの男が、自分の世界から、この時代の光から、永遠に消え去ろうとしているという圧倒的な恐怖。
正義や大義なんてものは飾りだと言い切り、惨めでちっぽけな私の剥き出しの志しを「おもしろい」と肯定してくれた。誰もが私を道具として、あるいは哀れむべき存在として見る中で、あの人だけは、私を一人の意思を持つ獣として、対等に扱ってくれたのだ。
…あぁ、やっぱり。
私は、高杉さんが、好きなんだ……。
ここで初めて、私は自らの胸中にある、高杉晋作という男への引き返せない想いを、強烈に、残酷な形で自覚した。それは、出会った時から少しずつ、私の心の奥底に染み込んでいた、消すことのできない情念の灯火だった。しかし、その想いを自覚したと同時に、私の前に、この世で最も過酷な現実が立ちはだかった。
お兄ちゃんのいる『暗部』の尻尾は、池田屋の事件を経て、ようやくその全貌が見え始めようとしている。今、私が街へ飛び出し、あらゆる伝てを頼りになりふり構わず動けば、お兄ちゃんを大老の呪縛から救い出す拠点へと、確実に近づくことができるかもしれない。お兄ちゃんは今も、心を失った人形として、誰かの命を奪い続けているのだ。一刻の猶予もない。…だが、病に侵された高杉さんの余命は、もう短い。今、彼のそばを離れれば、私は二度と、彼のあの不敵な笑顔を、あの世界を揺るがすような三味線の音を、聞くことができなくなるかもしれない。彼の最期までの短い時間を、一分一秒でも長く、この目で、この手で支えていたいと強く思ってしまう。
兄を救うという、私の存在理由そのものである長年の執念と高杉さんのそばにいたいという、今、私の胸の中で激しく燃え上がった新しい情念。
「お兄ちゃん……、高杉さん……。」
二つの大切な存在。二つの、決して両立することのない引き返せない道の狭間で、私の心は惨憺たる葛藤に引き裂かれ、血を吐くような想いで悲鳴を上げていた。…奇跡など、この冷酷な世界にはどこにもない。病は治らず、お兄ちゃんは待ってくれない。時間は残酷に、二つの破滅に向かって進んでいく。
「……何を、情けねえツラをしてやがる、茜…。」
答えの見えない思考に囚われていた時、地を這うような、掠れた声が部屋に響いた。見上げると、高杉さんが薄く目を開け、焦点の定まらない瞳で私をじっと見つめていた。その口元には、微かに、いつものひねくれた笑みが浮かんでいる。
「高杉さん……! 起きてはダメです、まだ身体が――」
「うるせえ。医者の戯言など、俺が信じると思うか。……俺の命の使い所は、俺が決める。」
高杉さんは、震える手で私の頬に触れようとしたが、途中で力が尽き、畳の上へと落ちた。だが、その瞳の奥にある狂気的な光だけは、病魔ごときに少しも衰えてはいなかった。
「茜……、お前は、お前の志しを果たすために、ここへ来たんだろう。だったら、こんなところで泣きそうな顔をして立ち止まってんじゃねえ。……前を、向け。」
彼の言葉が、私の激しい葛藤の渦の真ん中に、鋭い楔となって打ち込まれる。
…私…私は…。
口に出そうとした言葉がうまく紡げない。それでも高杉さんはまっすぐに私を見つめて、ゆっくりと頷いた。
…この人は、いつも私の背中を強く押してくれる…。
私は、高杉さんの熱い手を強く握り締め、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、彼に答える様に深く、深く頷いた。




