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3.洛中の烈火、揺らぐ境界-2

夜明け前の、最も闇が深くなる時間。高瀬川のせせらぎに混じり、遠くで烏の鳴き声が不気味に響いていた。

新選組の包囲網をかいくぐり、寂れた寺の床下に潜んでから数時間。私と龍馬さんは、息を殺して追っ手の気配が完全に消えるのを待っていた。龍馬さんの太ももの傷からは、じわじわと血が溢れて小袖を黒く染めている。私の脇腹の傷も、先ほどの無理な跳躍のせいで、焼火箸を押し当てられたような痛みを放ち続けていた。


「……龍馬さん、もう大丈夫そうです。行きましょう。」


周囲の気配を五感で探り、新選組が引き揚げたことを確認して、私は先に床下から這い出した。龍馬さんは「痛たた……」と顔をしかめながらも、私の肩を借りて巨体を起こした。二人で互いの身体を支え合うようにして、暗い路地を縫い、河原町にある長州の隠れ家――あの古びた質屋へと、どうにか辿り着いた。


裏口の引き戸を開けると、中にはすでに桂小五郎さんと高杉晋作さんが待っていた。行灯の薄暗い光の中に浮かび上がった二人の顔は、驚きと、それ以上の緊張に満ちていた。


「龍馬! それに茜さんも……その血はどうした!」


桂さんが声を潜めながらも血相を変えて駆け寄り、龍馬さんの巨体を支えた。


「いやあ、新選組の原田って奴に、少々派手な置き土産をもらっちまってねぇ。あいつの槍は、江戸の道場でお目にかかるものとは一味も二味も違ったちや。」


龍馬さんはそう言って不敵に笑おうとしたが、額にはべっとりと冷や汗がにじんでいた。


「笑い事か、この馬鹿者が!」


部屋の奥から、冷徹な、けれどどこか苛立ちを含んだ声が響いた。高杉さんだった。彼はいつも手元に置いている三味線を床に転がしたまま、厳しい目で私を睨みつけていた。


「茜、お前、脇腹の傷が開いているだろう。江戸で言ったはずだ。その身体で無茶をすれば、今度こそ骨まで噛み砕かれるとな。坂本の身代わりになって死ぬのが、お前の望みか?」

「私は……、龍馬さんが暗殺されそうになっていたから、助けに入っただけです。新選組の包囲は、普通ではありませんでした。」


私は高杉さんの視線を真っ直ぐに受け止めながら、そう答えた。言い訳をするつもりはなかった。だが、あの場で龍馬さんを見捨てていれば、私の心は二度と立ち上がれなかっただろう。


桂さんが手際よく龍馬さんを奥の部屋へ運び、傷の手当てを始めた。残された狭い部屋で、私と高杉さんは行灯の小さな炎を挟んで対峙していた。高杉さんは深くため息をつくと、懐から煙管を取り出し、火をつけた。紫煙が部屋の隅々に広がり、湿った空気をわずかに和らげる。


「原田の槍を弾いたのは、お前の一対の短刀か?」

「はい。ですが、まともに打ち合えば、こちらが叩き伏せられていました。里の煙幕を使って、辛うじて視界を奪って逃げてきただけです。」

「それでいい。新選組の連中は、ただの剣客の集まりじゃねえ。集団で獲物を追い詰める、戦専門の獣だ。まともに付き合う奴が馬鹿を見る。」


高杉さんは煙を吐き出しながら、少しだけ声を和らげた。だが、その直後だった。 


「――ウ、クッ……ゴホッ、ゴホッ!」


高杉さんが突如、胸元を強く押さえ、激しく咳き込んだ。彼の細い身体が折れ曲がるようにして震え、喉の奥から掠れた、胸を掻きむしるような音が漏れる。


「高杉さん……!?」


私は驚いて身を乗り出し、彼の背中に手を当てようとした。だが、高杉さんはそれを制するように、私の手を強く振り払った。その掌は、驚くほど熱かった。


「寄るな……、と言っている。ただの、夏の風邪だ。京のじっとりとした暑さが、どうにも身体に障る…。」


彼は懐から手ぬぐいを取り出し、口元を強く拭うと、それを素早く懐へと隠した。その一連の動作があまりにも不自然だったが、この時の私は、彼がただの体調不良を隠そうとしているのだとしか思わなかった。連日のように久坂さんたちの暴発を抑え、洛中の情勢を睨みながら寝る間も惜しんで動き回っているのだ。ただの過労だ、そう自分に言い聞かせ、それ以上深く詮索することはしなかった。まさか、その肺の奥で、彼の命の灯火を奪い去ろうとする病魔が静かに息を潜めているなど、夢にも思わなかったのだ。


「私の心配より、お前自身の身体を労え。お前の追う暗部の連中は、新選組の裏で動いている。」


高杉さんは呼吸を整え、冷ややかな瞳に戻って私を見つめた。


「龍馬から聞いた。三条や四条で殺された長州の志士たちの手口……喉元と心臓を一突き。完全に、お前の里のやり方だ。暗部は新選組という巨大な壁を盾にして、自分たちは闇に紛れて効率よく俺たちの仲間を間引いている。お前の兄貴も、その刃の一部として、今もこの街のどこかで血を流させているんだろうな。」


その言葉が、私の脇腹の傷よりも深く、胸の奥を突き刺した。私のたった一人の家族。かつて優しく私の髪を撫でてくれたその手が、今は大老の命令のままに、冷酷な暗殺人形として機能している。その現実が、どこまでも泥臭く、容赦なく私にのしかかってくる。


「……分かっています。だからこそ、私は一刻も早く、暗部の根城を見つけ出さなければならないんです。」


私は拳を固く握りしめた。

その時、奥の部屋から、久坂玄瑞さんの怒鳴り声が聞こえてきた。龍馬さんが襲撃されたという報せを聞きつけ、藩邸から駆けつけてきたのだろう。


「新選組め、ついに坂本さんにまで手をかけたか! これ以上、あいつらの専横を許してはおけない! 桂さん、もう猶予はありません。公家の方々を動かし、一刻も早く、あの幕府の犬どもを洛中から叩き出すための兵を挙げるべきだ!」


久坂さんの声には、松陰先生を失ったことへの絶望と、そこから生じた狂気的な焦燥が満ちていた。彼の掲げる大義は、もはや純粋な国防の意思を超え、周囲のすべてを巻き込んで自滅しようとする、暴走する烈火そのものだった。

桂さんがそれを必死になだめる声が聞こえるが、久坂さんの激昂は収まる気配がない。高杉さんは、奥の部屋から響く騒音を退屈そうに聞きながら、再び煙管を口にくわえた。


「どいつもこいつも、頭に血が上りやがって。あいつらが騒げば騒ぐほど、新選組も暗部も、より深く闇に潜んで獲物を待ち構えるというのに、それが分からんか。」


高杉さんは立ち上がり、部屋の隅に置かれていた漆黒の三味線を静かに引き寄せた。だが、今夜はそれを掻き鳴らすことはせず、ただ愛おしそうにその弦を指先でなぞるだけだった。


「茜。お前は久坂たちの炎に巻き込まれるな。お前が引き返せないほどの執念を持ってあの兄貴を追うというなら、俺はそれを止めはせん。だが、死ぬなよ。お前が死んだら、このクソ面白くねえ世界が、さらに退屈になる。」


窓の外では、夜明け前の薄明かりが、京都の複雑に入り組んだ街並みを徐々に白く染め始めていた。

私は自室に戻り、泥と血に汚れた衣服を着替えながら、一対の短刀をじっと見つめた。

現実はどこまでも冷酷で、私を助けてくれる都合のいい奇跡などどこにもない。新選組の原田左之助が見せたあの圧倒的な武力。そして、闇の中から一瞬で仲間を葬り去るお兄ちゃんの冷徹な刃。その二つの巨大な渦の真ん中で、私はただ一人、自らの感覚だけを頼りに生き延びなければならない。けれど、私の胸の奥には、高杉さんの言葉が、あの不器用な熱が、確かな灯火として残り続けていた。



京都の夏は、まるで底のない油壺に閉じ込められたかのような、重苦しい熱気に満ちていた。日が落ちても風は生温く、格子戸の隙間から這い入る湿気が、肌を容赦なく濡らす。

新選組の襲撃から数日が経過していたが、河原町の古い質屋の奥座敷には、未だに張り詰めた空気が淀んだままだった。太ももを深く切り裂かれた坂本龍馬さんは、薄い布団の上に身を横たえ、苦渋に満ちた表情で天井を睨みつけていた。


「薩摩の腹は、完全に決まっちゅうな。あいつらは、長州を囮にする気じゃ?」


龍馬さんの低い声が、薄暗い部屋に響いた。傷口の痛みのせいだけではない、時代が最悪の方向へ転がり始めていることへの焦燥が、その大きな身体から滲み出ている。傍らに座る桂小五郎さんは、行灯の細い炎を見つめたまま、微動だにしない。


「大久保の冷徹さは知っている。今、長州が洛中で兵を挙げれば、幕府だけでなく薩摩も敵に回ることになるだろう。久坂たちは朝廷の過激な公家と結びつき、一気に形勢を逆転させようとしているが、それはあまりにも危うい橋だ。」


私は二人の会話を、部屋の隅で静かに聞いていた。

江戸から京都へと舞台が移り、事態はより複雑に、そして冷酷に絡み合っていた。江戸にいた頃は、倒幕か佐幕かという単純な二元論のように見えていた世界が、ここでは同じ志を持つはずの藩同士の、醜い足の引っ張り合いへと変貌している。薩摩藩は大老・井伊直弼の専横を憎みながらも、長州藩が突出して主導権を握ることを極端に嫌い、彼らの暴発をあえて静観し、幕府の手で叩き潰させようと画策していた。


「このままじゃあ、長州は孤立無援のまま、新選組と幕府の軍勢に圧殺されるきに。薩摩と長州……この二つの巨大な塊が互いに牙を剥き合っとる限り、新しい日本の夜明けなど、絶対にやって来ん。」


龍馬さんは拳を強く握りしめ、傷の痛みに耐えるように歯を食いしばった。長州と薩摩を繋ぐ。その途方もない構想がこの修羅の如き京都の片隅で、龍馬さんの胸の中に確かに生まれつつあった。しかし、互いに血を流し、深く憎み合う両藩を握らせるなど、今の状況では絵空事、ご都合主義な妄想に過ぎない。現実の壁は、どこまでも厚く、冷たかった。


「茜さん、君の追う『暗部』も、この政治の闇に深く根を張っている。」


桂さんが私に視線を向けた。


「彼らは長州の過激派を裏から煽り、暴発の口実を作ろうとしている節がある。新選組が表で志士を狩り、暗部が裏でその手引きをする。君の兄上も、その謀略の渦中にいる可能性が極めて高い。」

「……分かっています。」


私は短く答え、懐の短刀の感触を確かめた。

私の脇腹の傷も、未だに動くたびに鋭い痛みを訴える。奇跡的に一瞬で治るような都合のいい身体ではない。一歩歩くごとに、自分の無力さと、現実の過酷さが身に染みて分かった。それでも、私は立ち止まるわけにはいかなかった。


その夜、私は再び洛中へと潜り込んだ。

龍馬さんから聞いた、暗部の手口で殺された志士たちの足取りを追うためだ。三条から四条にかけての裏路地を、気配を殺して徘徊する。だが、京都の網の目はあまりにも細かく、余所者の私を拒絶するように冷たかった。暗部が残したであろう微かな残り香や、隠れ里特有の足跡を探そうにも、洛中に溢れる人々の生活の臭いと、毎夜のように流れる志士たちの血の匂いが、私の感覚を狂わせる。地道に、一つずつの路地を潰していくしかない、気の遠くなるような作業だった。


「――相変わらず、泥棒猫のような真似を得意としてやがるな。」


高瀬川沿いの暗がりを歩いていたとき、背後の柳の木の影から、不意に声が掛けられた。咄嗟に身構えたが、影から出てきた見覚えのある顔にゆっくりと力を抜いた。

彼は藍色の羽織を夜風に微かに揺らし、いつもと変わらない不敵な笑みを浮かべて立っていた。だが、その手には三味線はなく、一本の抜き身の刀が握られていた。


「高杉さん……。そんなところで何をしているのですか?」

「退屈しのぎさ。久坂の阿呆どもが、近々、三条の宿屋で大きな密談を行うらしい。長州の過激派だけでなく、土佐や肥後の不逞浪士どもを集めて、御所の放火だの、中川宮の幽閉だの、血の気の多い作戦を大真面目に練り上げてやがる。」


高杉さんは吐き捨てるように言い、刀を鞘に収めた。その瞳には、仲間たちの暴走に対する深い冷ややかさと、同時に、止められない時代の激流に対する諦念のようなものが混ざり合っていた。


「行かないのですか、その密談には。」

「俺があの熱病に侵された連中の仲間守りをするように見えるか? くだらん。俺は俺のやり方で、この腐った国を叩き壊すだけだ。……だがな、茜。」


高杉さんは一歩、私に近づいた。その瞬間、彼の胸の奥から、乾いた、押し殺したような咳が漏れた。


「――クッ、ゴホッ、ゴホゴホッ……!」


彼はとっさに口元を袖で覆い、激しく身を震わせた。その細い身体が、一瞬だけひどく脆く、壊れそうなものに見えた。


「高杉さん! 大丈夫ですか。やはり、まだ風邪が治っていないんじゃ……!」


私は心配になって手を伸ばそうとしたが、高杉さんはそれを鋭い眼差しで拒絶した。


「触るな。京の生温い湿気が、少しばかり肺に障っただけだ。俺の身体など、お前が気にするようなことじゃねえ…。」


彼は荒い呼吸を整えながら、無理にニヒルな笑みを作って見せた。その顔色は、月の光の下でも分かるほどに白く、痛々しかった。私は、彼が連日の過酷な潜伏生活と、藩の行く末を一人で背負い込んでいることによる過労なのだろう、と自分を納得させていたが、少しずつ…もしかしたら…と疑惑が生まれてくる。ただ、彼の頑なな態度に、誰にも弱みを見せないという凄まじい孤高の覚悟にそれを口にすることはできなかった。


「お前は、自分の志しだけを見ていろ。」


高杉さんは呼吸を落ち着かせ、再び冷徹な声で言った。


「久坂たちが集まるその宿屋の名前は『池田屋』という。……そして、その池田屋の周辺で、お前の追う暗部の符牒が見つかっている。奴らはお前の兄貴を先頭に立てて、長州の過激派を一網打尽にするつもりだ。」


お兄ちゃんが、池田屋へ向かっている。その事実が、私の頭の芯を鋭く貫いた。


「新選組も、すでにその動きを察知しているはずだ。近藤や土方が、この好機を逃すはずがない。表の新選組が池田屋を強襲し、その混乱に乗じて裏の暗部が標的を確実に仕留める。……地獄のような絵図が、まもなくあそこで完成するぞ。」


高杉さんの言葉は、どこまでも容赦がなかった。志士たちを救う奇跡の策などない。新選組の圧倒的な武力と、暗部の冷酷な暗殺術が、池田屋という一つの点に向かって、じわじわと包囲網を狭めていっているのだ。


「私は……行きます!」


私は、脇腹の痛みを堪えながら、高杉さんを見つめた。


「止めても行くんだろうな。お前にとっては、国がどうなろうと、あの兄貴がすべてなんだろうからな。」


高杉さんはフッと笑い、私の頭を乱暴に一度だけ撫でた。


「死ぬなよ、茜。お前が死んだら、俺の退屈しのぎが、本当に一つ消えちまう。」


彼はそれだけ言うと、闇の中に溶け込むようにして姿を消した。



夜がさらに更け、三条通の周辺は不気味な静寂に包まれていた。私は息を殺し、町家の陰から池田屋の様子を窺った。旅籠の二階からは、微かに志士たちの激しい議論の声が漏れて聞こえる。彼らは、自分たちのすぐ足元まで、死の足音が近づいていることに、未だ気づいていない。

周囲の闇を凝視すると、路地の奥、建物の隙間に、隠れ里の者しか気づかない独特の「目印」が刻まれているのを見つけた。暗部が、すでにこの一帯を完全に包囲している。そして、その影の最前線に、冷徹な殺気が潜んでいるのを、私の本能が確かに感じ取っていた。

突如、三条通の向こうから、統制の取れた、けれど圧倒的な威圧感を放つ複数の足音が近づいてきた。闇を割って現れたのは、浅葱色の羽織を纏った一団。先頭を行くのは、新選組局長、近藤勇。その横には、沖田総司が長い刀を携え、いつもと変わらない無邪気で冷酷な笑みを浮かべて歩いている。その後ろからは、土方歳三率いる別動隊が、別の路地を固めるように進軍してくるのが見えた。


全ての因縁が、この「池田屋」という場所で、ついに激突しようとしてる。


私は短刀の柄を固く握り締め、浅葱色の羽織が進むその先へと、自らも死線の中へと飛び込むべく、静かに身体を躍らせるのだった。

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