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第七章 追放

 それから数日、結局町はいつもと変わらぬ日常を過ごしていた。戦争の気配を感じないようにしているのは、誰しもが同じであった。そんな日々の中で変わったことは二つある。ひとつはマエルが店をたたみ、姿を消したことだ。あの演台以来、誰もマエルを見ていない。さしずめカークバンドにでも拠点を移したのだろう。マエルのいないバラケの街は、イヴにとって鳥のいないただの籠のように感じられた。二つ目はニュースの読み手がよく現れるようになったこと。日々最新の情勢を仕入れ、それを町の人々に伝えている。何でもないような雰囲気を装う町民も、読み手が現れるたびに集まった。集まり、静まり、耳を傾け、何も言わずに散っていく。何かを言ってしまっては良くないことが起きる。そう皆が思っていた。しかしその場にイヴの姿はなかった。代わりにイヴの姿は、新聞社でよく見かけられるようになる。ルイに直接、状況を聞きに行っていたのだ。

「やあ、イヴ」

戸を引きイヴを招き入れるルイの顔は、以前よりさらに疲労の色が増していた。誰かの手の上で転がされているかのように変わる情報に、新聞社の誰もが振り回されていた。とりわけルイは新聞社の長として、誰よりも奔走していた。ルイの言葉を借りるなら、“すべては町の人々を救うため”その熱い思いと行動を目の当たりにし、新聞社の結束はどこよりも固いものとなっていた。そんな折、イヴはルイに一つ頼みごとをした。イヴが唯一エマリーとの交流再開を知らせている人物。だからこそ、吸いに三百年前の戦争について、どういういきさつがあったのか、調べてほしい。と依頼した。ルイは快く引き受け、それどころか社員たちも、この戦争に何かつながるかもしれない。と、協力を申し出てくれた。

「忙しいのに悪いね。なにか新しい情報とか、ある?」

「あるにはあるけど、良いものはないよ。どれもこれも良くない話ばかりだ」

「聞かせてよ」

「まず周辺諸国、次の新聞からは連合と書くけれど、連合が軍備増強を急ピッチで進めているらしい。それに各国から派遣された軍がアースティンとカークバンドに集まっているって話もある。いまやカークバンドは未曽有の好景気。戦争に向けて駐留している軍隊で儲かっている。やっぱりこのタイミングで拠点を移したマエルは賢いね。さすが商人だ。大局を見る目がある」

「マエルさんはそういうところ抜け目ないから」

「でもう一つの方だけど……」

ルイが気まずそうに視線を逸らす。

「ごめん、こっちは何も新しいことは分からなかった」

肩を落とすルイにイヴがそっと「大丈夫」と声をかける。端からすぐに何かが分かるとは思っていない。全く何もわからない。というのも予想していないわけではなかった。

「申し訳ない。それにしてもなんで急に三百年前の戦争を?エマリーさんに関係が?」

「そういうのじゃないよ。僕が知りたいんだ。あの人が何を見ているのか」

「何をって?」

ルイの顔が不安とも好奇心とも取れない表情に変わる。

「戦争の話になると、雰囲気が変わるんだ。まるで過去の戦争を知っているかのように。本人は「先祖の記録で見た」って言うんだけどね」

「まぁ謎に包まれた人だからね。そういう人に近づいていこうっていうのも君くらいなものだよ」

「うるさいなぁ」

はははと笑う顔に反論できない悔しさと恥ずかしさを投げつける。

「悪かったよ。君、本当にエマリーさんに夢中だもんね。昔から」

疲労感が漂う顔に、いたずら小僧が上書きされる。こうやってルイはいつもイヴをからかうのだ。

「で、一応聞くけど、エマリーさんはどういう話をしていたの?三百年前の戦争の話?」

「いいや、そういうわけじゃないんだ。ただ戦争の理由なんてなんでもいいとか、なんというか、見てきたかのようなことを言うものだから」

「まぁあのお屋敷は確かに三百年前からあるっぽいし、何かあるのかもしれないね」

「そうだろ?だからちょっとでも知りたくて」

「僕たちももっと調べてみるよ。うちの社員は優秀だから。いろんなところから昔の文献をかき集めてきてくれたんだ。日記とか、当時の新聞とか」

「頼んでおいて編だけど、そんなに簡単に見つかるかな?」

「ほら、エルブライトにとってはバラケは辺境の土地だろ?だからザルマ敗戦後の統治も比較的緩かったんだ。だから文献も残ってるはず。それに戦後は真っ先にエルブライトと旧ザルマの住民が混ざり合ったから、色々と情報が残ってる。だから期待して待っててよ」

逸らせた胸をドント叩く。その手を下ろし「でも」と静かな声で話しだす。

「気を付けてね。日に日に状況が悪化している。このままじゃ全面戦争まっしぐらだ。それにこの町は三百年前も今も、最前線なんだ。戦いが始まるとしたら、この町でその火ぶたが切って落とされる。なんて考えたくないけど、十分に考えられる。僕だって……」

ルイの苦しそうな顔を黙って見つめる。

「僕だって、いざとなったらこの町を出る。だからイヴもそういう覚悟はしておいたほうが良い」

「それは、新聞屋としての忠告?それとも、ルイとして?」

「両方だよ」

ルイがまっすぐに見つめてくる。

「新聞屋として、状況は分かってる。だから友達として忠告しているんだ」

数秒間、イヴはルイの瞳を見つめた。

「……わかった。覚悟は、決めておくよ」

ルイはじっとイブを見つめる。視線から逃げるように立ち上がった。

「いろいろ調べてくれて、ありがとう。お互いに頑張ろう」

何を頑張るのだろう。意味も分からない言葉が口をついて出た。ただ、その意味が体の奥底にあることには気づいていた。相反する、二つの意味が。


 木々の歓待の声を聴きながら、自分たちの置かれた状況を報告した。エマリーは黙って聞いている。すべてを話し終えたところでエマリーが口を開いた。

「ね、言ったでしょ。戦争なんていつの時代もそんなものなのよ」

「エマリーさんは、三百年前の戦争を知っていたんですか」

ふぅ、と小さくため息をついた。

「あなた、本当に詮索好きね」

微笑みかけるエマリーの顔に、かつての冷たさや硬さは感じられない。イヴとの会話を楽しむ一人の女性の顔が、そこにはあった。この頃にはイヴもすっかり成長し、はたから見ればエマリーと似たような年齢に見えるようになっていた。

「いいわ。教えてあげる。この屋敷にはね、私の家族がずっと住んでいるの。それこそ、三百年前の戦争も乗り越えたわ。私の家族がこのお屋敷に立てこもって抵抗をつづけたもので、一時は戦場の女神のような扱いを受けたって聞いたことがある。そんなわけでこの屋敷には昔の文献とか、そういうものがいろいろ残っているのよ。それこそ、ザルマ王国時代の書物とか、色々ね」

「そんなものがこの屋敷に……」

ザルマの書物。それらは戦後焚書になっているはず。イヴの心は高鳴った。思わず見せてくれとこの場で頼み込んでしまいそうだった。でもそれはたぶん、この人にとっての財産に違いない。そう思うと言い出すことはできなかった。気を取り直し、まじめな顔でエマリーを見つめる。エマリーもその視線に気づき、口に運びかけたカップを受け皿に戻した。

「でもエマリーさん、戦争がすぐそこまでやってきています」

「えぇ」

「ルイの言う通りならこの町は危険です。どうか、逃げる準備はしておいたほうが良い」

「それなら……あなたはどうなの?」

たじろいだ。

「私に逃げろというけれど、あなたの言葉からは、あなたから逃げようという気持ちを感じない。あなたは?」

「僕は……」

様々な思いが頭の中で駆け巡る。……ルイからは逃げられても、この人からは逃げられない。心の奥底にあって、自分ですら見つめてこなかった思いを、エマリーに告げた。。

「僕は、逃げません。この町が好きだから。もしこの町が戦場になるのなら、僕はこの町を守るために戦います」

手に持っていたカップと受け皿を膝の上に降ろし、エマリーはまたため息をついた。

「やめときなさい。あなた一人が戦ってどうにかなるものじゃないわ」

イヴの返答を見透かしていたかのように、相手にする気もない様子でエマリーが言う。

「それはわかってます。でも、この町がみすみす壊されていくのは、気にくわないんです」

「生きていればこそ、なんでもできるのに、その命を投げ出すのはバカのやることよ」

「僕はバカでいいんです。だって、そうでもなけりゃエマリーさんとちゃんと話すこともなかったでしょうから」

ティーカップを胸の高さに持ったまま、あっけにとられたような顔でエマリーはイヴを見つめた。

「呆れた」

「今更でしょう」

「尚更よ」

「変わりませんよ」

かたや微笑み、かたや呆れ、夕日が二人の間に影の幕を引く。

「日が暮れるわ。そろそろ帰りなさい」

「そうします。また来ますね」

 木々の見送りを受け森を出たところで先を歩くトマを見つけた。

「トマさん」

声をかけて駆け寄る。トマはびくっと立ち止まり、振り返る。

「こんな時間に珍しいね。仕事の帰り?」

「いや買い出しの帰りだよ。たまには違う道を通りたくなってな。お前こそ、今どこから出てきたんだよ」

「ルイのところに行ってきた帰りだよ」

「ルイってあの新聞屋の倅か」

「そう。結構やり手だよ」

「そりゃ知ってるよ。町の皆あいつを認めてる。お前も頑張るんだな」

がははと笑うトマに拳をぶつける。

「じゃあ俺は一杯やってから帰るから、気を付けて帰れよ」

「うん、また明日」


 それから数週間、町には嫌なうわさが流れだした。町の外れに住む魔女は災いをもたらすまじないをかけている。とか、敵国のスパイだ。とか。噂の出どころは分かっていた。声高に陰謀論を振りかざす、レオ・フェルナンデス。彼が新聞屋の去った演題で根も葉もない出まかせを吹聴している。町の男たちはレオの行いをよく知っていた。故に誰もがその存在を無視したが、普段酒場に姿を現さない主婦層がレオの話に耳を傾けてしまった。その結果主婦層を中心に話が広がり、出所が曖昧になったあたりで、尾鰭のついた話があちこちに広まってしまった。それ以降、毎日のように開かれるレオの演説を聞く聴衆の数は拡大していった。

「今日もやってたよ」

酒場から帰ってきた父が嫌気の刺したような声で言った。

「ほんと、よくやるよね」

「これだけの聴衆が集まるのも初めてだろう。うまい蜜を味わっているんだろうさ」

「それにしたって、エマリーさんを悪者にしなくてもいいだろうに」

不貞腐れるイヴの顔を一目見て、父はため息をついた。

「仕方がないさ。レオが思いつく程度で、皆が食いつくネタなんて魔女の噂しか……」

「あの人は魔女じゃない」

やれやれとロットが首を振る。

「それは俺も会ったからわかるさ。でもな、町のほとんどの人間は会ってすらいないんだ。姿も見てない。仕方ないんだよ。お前も、噂が過ぎ去るまでは、変なこと言ったりしない方がいいぞ」

「……わかってる」

口では言う。頭では分かっているが、心では納得していない。自分は巷のそんな噂に黙り込むほど弱虫じゃぁない。そう自分に言い聞かせ屋敷に通うことをやめはしなかった。


 事件が起きたのはその三日後の夕方。家の扉が大きな音を立てて開かれた。驚いて駆け寄る父子の目の前には額を汗で濡らし、頬を上気させたシエルが立っていた。その後ろにはいつもの堂々とした覇気を失ったトマがいた。

「おいシエル、どうし……」

「どいて!」

歩み寄るロットを脇によけ、まっすぐにイヴの肩をつかんだ。

「イヴ、今すぐ荷物をまとめなさい!必要なものだけをまとめなさい!」

「おいどういうことだ!」

「いいから!早く!」

母の剣幕に押され足早に二階に向かう。後から両親もついてくる。

「しばらく身を隠すのに必要なものだけ持ちなさい」

「なに?どうして!」

落ち着きの戻らぬまま、シエルが憎らし気に口を開く。

「さっき、レオ・フェルナンデスが演台で話していたわ」

「いつもじゃないか」

「そうじゃない。魔女には手先がいる。その手先は……イヴ・アングラードだって!」

「は!?」

「なんだそりゃ、いつもの嘘だろう」

「私もそう思ってるわよ!でも、イヴがエマリーさんの屋敷に出入りしていると言っていた。それで町の人たちは、イヴを町に置いておくわけにはいかないって……」

そこまで言ってシエルは壁にもたれかかった。

「そんな、だれがそんなことを」

「俺だ」

声の主が階段を上がってくる。

「すまない。俺が不用心だったんだ」

「どういうこと?」

「イヴが森の屋敷に通っているっていうのを、俺が言っちまったんだ。酒場で、いつもの連中に」

いつもの連中。それはトマを長く勧誘している彼らのことだろう。それで合点がいった。彼らは、トマを自分たちに引き入れるために、この工房から居場所を奪うために、それをレオに密告したのだ。トマの言葉に憎悪が籠っている。自分自身に向けられた憎悪。過去の行いを悔いるかのように、俯いたトマの肩が震える。

「イヴが屋敷に通っているのは気づいていた。別に、今までだったら何とも思わないさ。ロットやシエルと同じだ。行きたいなら行けばいい。そう思ってた。ただレオのやつが変な噂を吹聴したせいで、あの屋敷が、とてもじゃないがうかうか行けるような場所じゃなくなっちまった。ただそれでもイヴは屋敷に通ってた。だからつい酒場で、気心知れた奴らの中で、ボヤいちまったんだ。周りには昔馴染みしかいなかった。その油断が、こうなっちまったんだ」

床に崩れ落ち、両の手と頭を地面に押し付ける。

「すまない!本当に、すまない」

これがうわづり、涙交じりに謝るトマに、誰もが言葉を失った。先に知っていたシエルですら、謝るトマをそのままにしておくことしかできない。

「トマさん、顔を上げて」

不思議と冷静だった。どこかで、こうなることが分かっていたみたいに。

「トマさんは悪くないよ。僕が、僕の行いが呼んだことだ」

「イヴ……すまない」

「いいって、それより父さん、母さん、迷惑かけてごめん」

「いや、すべてレオが悪い。お前は悪くない。第一魔女なんて根も葉もない噂に踊らされる方が馬鹿だ。とにかくほとぼりが冷めるまで身を隠すしかないな」

こういう時の父は頼りになる。非常時こそ冷静に。常にそうやって職人たちを率いてきた。

「うん、ここにはいれない」

「それで、どこに行く」

「屋敷に」

「イヴ、本気⁉」

シエルがじっと見つめてくる。

「うん。ほかに行くところもないし、どこに行っても誰かに迷惑がかかるなら、逆に屋敷に居座った方がいいと思う。虎穴に入らずんば虎子を得ず。って言うでしょ」

「こういうときだけ賢さを出すんじゃないわよ」

シエルが体を起こした。

「わかった。早く荷物をまとめて。私は誰か来ないか見てくる」

 急いで荷物をまとめた。鞄には最低限の服、ノートとペン、なじみの工具、母が暮れたパンにミルク。いつも通りの平和は唐突に崩れ落ちた。

「イヴ、こっちからいけ」

ロットが工場の扉を開けている。

「表は誰が来てもおかしくない。お前なら、森の中を通って屋敷の裏手にでも出れるだろう」

「行けると思う」

「こっちは任せろ。町の男衆は大抵俺の味方のはずだ」

「女性たちも、私が何とかするわ。こっちはいいから気を付けて行ってらっしゃい。落ち着いたら、便りを出すわ」

「イヴ……気をつけろ」

トマが赤くなった目でまっすぐに見つめて語り掛ける。

「うん、言ってくる」

イヴは一人、闇に埋もれる森に走り出した。背後では父、母、そして二人目の父も同然のトマ、三人がいる扉が閉じられた。扉が閉まるその瞬間まで、トマはイヴを見つめていた。


 月明りが照らす闇夜の中、暗い森を駆け抜けた。遠くで群衆の騒ぎが聞こえる。振り返りたい気持ちを必死に押し込み、夢中で走った。口に押し込んだパンとミルクを味わう余裕もない。とにかく早くと先を急いだ。どれくらいあるただろう。誰に会うこともなく屋敷の裏手に辿り着いた。かつて見た、地面に穿たれた大量の穴がイヴを出迎えた。下手に落ちないように慎重に足場を見ながら屋敷へと近づく。月は天高く上り、屋敷に明かりはない。闇夜に慣れた目だけが頼りだった。物置から屋敷の脇へ身を移す。屋敷の壁に身を隠し、ゆっくりと森の入口の方に目を移す。幸い明かりは見えなかった。屋敷の玄関に移動しドアを三度、ノックする。屋敷にも明かりがついていない。もしかしたら寝ているのかもしれない。そうしたら僕はどうすればいい?一抹の不安が頭をよぎる。逡巡する間もなく、ドアはあっけなく開けられた。

「こんな時間に何の用?大きな荷物まで持って」

「すみません、僕をしばらくこの屋敷においてもらえませんか?」

「え?嫌よ」

あっけない返事にたじろぐ。でもここで諦めては行く先がない。

「まぁそう言わず。ちょっと話だけでも聞いてもらえませんか?ここがだめだと行く先がないんです」

「家出でもしたの?」

「色々と違いますが……まぁそんなところです」

エマリーは困ったように眉間にしわを寄せ、イヴを見た。また視線をイヴの胸元に戻した。

「わかったわ。話くらいは聞いてあげる」

こんな時間にもかかわらず、変わらず紅茶が暖められていた。途端に疲労感が押し寄せる。緊張が解けたらしい。イヴの体は深く深く椅子に沈み込んだ。

「それで?どうしたの?」

目の前に座ったエマリーはいつもと変わらない。しかしイヴの切迫した状況はなんとなく気づいていた。そのせいかどこか自分に落ち着きを感じることができなかった。

「実は町から追い出されそうになりまして……」

気まずそうに視線を外して話し出す。

「え?」

「前に戦争が始まるかもしれない。って話をしたじゃないですか、その中でレオ・フェルナンデスっていう大噓つきが言ったんです。森の魔女は敵国のスパイだって。そんなことないのに、まるで嘘なのに……!」

自然と言葉に怒気がこもる。エマリーは、静かにイヴの話に耳を傾けている。この温度差に気づかないイヴではない。

「それでも、町の人々は、信じてしまった」

途端に自身の無力感が押し寄せる。言葉と共に、体も、心も机に重く縛り付けられる。

「もちろん、全員じゃない。レオのことは町の男衆なら知っていたし、彼らは信じない。でも、女性たちは違った。……母さんが、飛んできたんです。母さんが、それを教えてくれて、逃げろって。身を隠せって……」

「……もういいわ」

目の前で重くのしかかる現実に必死に耐え、それでも尚押しつぶされそうになるイヴに、エマリーは告げた。カップを置いて席を立ち、イヴの視界から消える。あぁ、ここもだめだ。とうとう、行き場を失った。うなだれ、席を立とうとするイヴに、また重さがのしかかった。が、今度は軽やかな重さだ。不意に後ろから二本の腕が、イヴの胸のあたりで交差された。

「それはつらい思いをしたわね。坊や」

「え?……エマリー……さん?」

「もう大丈夫。ここにいなさい。ほとぼりが冷めるまでは、ここを家と思いなさい」

その言葉に、緊張の糸が今度こそ完全に切れた。エマリーの冷たい手に自らの手を重ね。与えられる心に感謝し、甘え、胸に押し寄せる感動と共に、この夜初めて、イヴは泣いた。

 

まさかこんなことになるとは、思いもしなかった。泣きつかれて寝てしまったイヴを一階に残し、長らく使われていなかった客間を掃除しながらエマリーはため息をついた。溜まりに溜まった部屋の埃もそうだが、あのイヴの境遇は、間違いなく自分に原因がある。私がまた彼をここに引き入れてしまったから、もう会わないという意思に背いてしまったから、だからイヴは彼の愛す最愛の町から、省かれてしまったのだ。そう思うと、やはりイヴを置いておかないわけにはいかなかった。ただ、私は彼にどう接すればいい?どう、彼の生活をサポートすればいい?部屋と部屋を移動し、イヴの生活に必要なものをこしらえながらも、頭ではそればかり考えていた。

部屋の掃除が落ち着き、一階にいるイヴの様子を見に階段を下りた。依然として答えは出ないが、やはり今の状況は、私に原因がある。とにかく今は、この状況をやり過ごすしかない。月明りを受けて胸に輝くブローチを握り、深く息を吸い込む。「力を貸して」と握ったブローチに優しく囁く。気張るのよ。エマリー・リオン

滑らかな階段の手すりを撫で、一段一段降りていく。音を立てず。静かに。部屋を覗き込むと、イヴはまだ寝ていた。冷えないようにとかけておいたブランケットもそのままだ。そばに立ち、呼びかける。肩を叩いてみる。体をゆすってみる。イヴが起きる気配はない。仕方なくイヴをその両腕に抱え込む。身に感じるその重みに、改めてイヴの成長を感じる。随分と久しぶりに感じる温もりにため息が出る。

「もう、感じることはないと思っていたのに」

腕の中で眠るイヴは穏やかな表情を浮かべていた。無理もない。おそらく彼はこれまでの人生で最大の危機を迎え、これまで経験したことのない恐怖、緊張、様々なものを背負ってここに来たのだ。どうしてそんな彼を無下に扱えようか。

「はぁ……」

再びため息が出る。

「本当、あなたは厄介ね。イヴ・アングラード」


 イヴが与えられたのは、屋敷の二階、屋敷正面から見て左端の部屋。この廊下には三つの部屋があり、イヴの部屋から数えて二つ奥、廊下の反対側がエマリーの部屋であった。イヴの部屋の窓からは、今までイヴを歓迎し、住み着いたイヴを今尚歓迎する森が広がっている。エマリーの部屋とは違い森の外を見ることはできないが、今のイヴにはそれでよかった。一晩明け、改めて状況の深刻さに打ちひしがれた。このまま町に戻れなかったら?このまま家に帰れなかったら?家族は?職人たちは?ルイやリュカは?様々な顔が頭をよぎる。同時に、レオ・フェルナンデス、彼への憎悪もイヴの心に住み着いた。憎しみを心に巣くわせ、ただどうすることもできないことを自覚し、負の感情を、焦りや悲しみや憎しみを心の底に押し込めた。頭を切り替えたくて部屋の扉を開けた。目の前が吹き抜けで、天井と一階が見渡せる。今までは意識していなかったが、天井は天井で、質素の中に優美を感じることができる作りになっている。滑らかに使い古された手摺を撫で階下へ向かう。キッチンの方から嗅ぎなれた良い香りが漂ってくる。匂いにつられて空腹が存在感を強くした。思えば昨夜、夕飯を食べることもなく家を出てしまった。もう母のご飯は食べられないのだろうか。不意に襲い来る不安を意識の隅に押し隠し、キッチンの扉を開ける。扉の向こうではエマリーが焼き立てのパンと果物を皿に載せていた。

「あら起きたの、朝ごはんは作ってみたわ」

机の上に置かれた料理に、不意に涙が零れる。それは感謝の涙でもあり、エマリー・リオンという孤独で気高い絵のようなひとが、自分に食事をふるまってくれているという状況への感動でもあった。席に着きひとかじりしたそのパンはまだ少し生焼けで、カリッとした食感はなく、でもイヴの心を温めるには十分なものであった。

「おいしいです。……ありがとうございます」

一口、また一口と食べるたびに涙が頬を伝う。それもかまわず食べ続けた。

「そんなに喜んでくれるとは思わなかったわ。ごめんなさいね、あまり上手じゃなくて」

ふふっと笑うエマリーに、イヴも笑顔が浮かぶ。が、ふと気づいた。

「エマリーさんの分は?」

「私?」

一瞬驚いた顔をしたが、表情はすぐに微笑みに変わる。

「私はいいわ。あまり食事はとらないの」

そういうものか。と思い食べ進めるイヴに、今度はエマリーが問いかける。

「そういえば部屋の調度品はどうかしら。屋敷にあった色々を寄せ集めてはみたのだけど」

「へ?」

素っ頓狂な声が出ると同時に、恥ずかしさにかられた。声への恥ずかしさではない。起きてすぐ、貸してもらった部屋もよく見ずにこうして食事をほおばる自分への恥ずかしさだった。

「あ、すみません!あの、泊めてもらってありがとうございます!それで……すみません、起きてすぐ降りてきたのでまだ部屋をよく見ていなくて……」

「あはは!」

これまで聞いたことがないほど大きく、エマリーが笑った。

「昔の坊やじゃ考えられないわね。そんなこと」

あふれる涙を片手の指で拭いながらおかしそうにイヴを見た。

「本当ですね、昔の僕なら真っ先にいろんなものを見て、全然降りてこないでしょうね」

つられてイヴも笑いながら答える。

「いいわ、あとで見て頂戴。もちろん不足しているものだらけだろうから、何か要りようなら言ってちょうだい」

「いえそんな、ちょっと泊めてもらうだけで……」

「え?長丁場になるのではなくて?」

真顔で問うてくるエマリーに、言葉に詰まる。それはイヴ自身が心のどこかで理解している事実だった。すぐに家に帰れるとは思っていない。願わくばずっとここに泊めてもらいたいとさえ願っていた。それが思いもしなかった、エマリー自身の口から出てきたのだ。

「別に気にしなくていいわ。居たいだけ居なさい。もう部屋も作ってしまったし、それにあなたの状況に、私だって思うところはあるのだから。ちょっとした贖罪くらいさせてちょうだい」

その言葉に甘えていいのだろうか。それこそエマリーに迷惑をかけてしまう。という申し訳なさはありつつ、人生の大きな誘惑に打ち勝つことはできなかった。

「すみません、家に帰れるようになるまで、お世話になります」

「いいのよ。別に」

 しつらえられた調度品は、どれも美しいものばかりだった。木目の映える机に椅子、ベッドは質素だが、艶の輝く美しい見た目は衰えていない。洋服が入る小さなチェストもある。机の引き出しには紙とペンが整然と仕舞われていたが、案の定チェストにイヴの着る男物の服は入っていなかった。無理はない。エマリーがここに一人で住んでいる以上、男物の洋服など不要なはずだ。自分が買いに行くにも、エマリーに買いに行ってもらうのにも問題がある。頭を抱えているところに、一階でドアをノックする音が聞こえた。自分を追ってきたのだろうか、いや、村の人々がここを恐れるなら、わざわざ僕を追ってこんなところに来るはずはない。では一体誰だ?少しの不安を抱えたまま恐る恐る階段の踊り場へ降りた。一階の天井であり二階の床である一枚の板から、わずかに見える玄関を覗きこんだ。応対の為ドアの前にいるエマリーもこちらに気づき、一瞬視線を送った。

「はい」

ドアを開けずに問う。

「すみません!新聞の配達です」

微かに聞こえる聞きなれた声に頭が白くなる。

「新聞?頼んでいないけど」

「エマリーさん、それ僕宛だと思う!」

身を隠していた隅からドアに駆け寄る。

「え?」

「大丈夫、この声は知ってる」

戸惑うエマリーを脇にドアを引き開ける。途端、自分がこちら側に回っていることに新鮮でありつつ、何とも言えない心の動きを覚えた。

「やぁ」

ドアの向こうでは綺麗な光沢を放つ黒髪の青年が一人、すっと背筋を伸ばして立っていた。

「よかった、やっぱりここにいたのか」

「なんでここが分かったんだ、ルイ」

嬉しさのあまりイヴの顔に笑みがこぼれる。

「そういう話はあとで、とりあえず渡したいものがあるんだ。中に、入れてくれる?」

「あぁ、もちろん!」

ルイを招き入れようと体を寄せ、不意にエマリーと目があい、自身の失態に気づいた。

「あ、エマリーさんごめんなさい。この人は僕の友人で、この町の新聞社を経営している人で、ルイっていいます」

疑うような人じゃない。と言いかけたところで掌に制止された。

「いいわ、とりあえず入りなさい。ドアをずっと開け放っておくのも不用心だし」

そういってエマリーはまっすぐキッチン消えていった。

 エマリーの後を追って入ってきたルイの手には大きめの籠が下げられていた。表面には新聞が平積みされており、いたって普通の配達風景に見える。

「どうぞ座って」

イヴは定位置に、ルイはイヴの左手、キッチンを背に座った。籠は足元に置かれている。そういえば彼女が紅茶を淹れるところを初めて見た。慣れた手つきで茶葉を淹れ、湯を沸かし、とぽとぽと落ち着いた音を立ててカップに注いでいく。あっという間にイヴたちの前に差し出されたそれは甘い香りを漂わせ、各々の緊張を和らげた。

「それでどうしてここが?」

一口啜ったカップを置きながら問う。

「レオ・フェルナンデスが演台で嘘っぱちを言ったとき、僕は家にいて、駆けこんできた従業員から話を聞いたんだ。で急いで君の家に行ったのだけどもう君はいなくて。でも配達で行くから顔は知られてたし、お父さんに多分ここだろうって教えてもらったんだ。でも手ぶらで来るのはなんというか、周りの目もあるし、新聞配達を装って来てみたんだ。幸い道中は怪しまれなかったと思うよ」

「そこまでして来てくれたのか。なんか、ごめん」

「謝ることじゃない。別に君が何か悪さをしたわけじゃないし、それに僕もやっと、エマリーさんに会うことができた」

「私のことを?」

「えぇ、こいつ家族にも言わないけど僕にはあなたのことをよく話してくれるんです」

気まずそうにルイが「えっと……」と口籠る。

「実をいうと、僕も最初はここに来るのが怖かったんです。町の噂とか真に受けるわけじゃないですけど。どうしても」

「私は噂がどうとか知らないけれど、でもそれを怖がっていたことは気にしないで頂戴。そういうのを恐れるのは人間の本能でしょう」

エマリーの言葉が意外だったのか、ルイは目を見開いた。

「それに、あなたはそれを越えてここに来たんでしょう。なら、いいんじゃない?」

「えぇ……そうですよね。ありがとうございます。なんだか、元気が出ました。今日ここにきて本当に良かった。エマリーさんはイヴの言う通り、本当に素敵な人だ」

突然の告白に珍しくエマリーが固まった。それに構わずルイの話は続く。

「こいつは本当に“いい奴”なんです」

「“いい奴”なのは関わっていればわかるわ」

気まずさを紛らわすように彼女は口早に答える。

「そうですよね。実は前にここにきていた頃、もう何年も前ですけど、そのころから今日はどうだったとか、何があったとか、そういうことを教えてくれたんです」

「へぇ」

真正面から向けられる冷ややかな視線に思わず視線を逸らした。ルイからも、エマリーからも。

「まぁいいわ。ところで、ここのことは他の人は知っているの?」

エマリーが静かに問いかける。ルイは首を横に振った。

「ここを知っているのは僕と彼の両親、トマさんだけです。他は誰も知らない。リュカも」

はっと懐かしい気持ちが岬に打ち付ける波のようにイヴの心に流れ込む。子供のころにケンカ別れして以来、もう何年も会っていない。

「彼は……元気なの?」

控えめな声がぽつり、ぽつりと口をつく。

「うん。元気だよ。君の居場所を聞かれたよ」

心臓が大きく脈を打つ。

「教えたの……?」

ルイはまた首を横に振った。その答えに安心したものの、心のどこかで小さく肩を落とした。イヴの心中を察したのか、ルイが「教えておく?」と問いかけたものの、イヴは首を横に振った。

「それで、今日はどうして?無事を確かめに来ただけじゃないんでしょう?」

二人の会話の終わりを悟り、エマリーが問う。

「そうです」と言って椅子を引き、足元に置かれていた籠を膝の上に載せ、平積みされた新聞をどかしてごそごそと中をあさりだした。

「イヴ、君にお届け物だよ」

新聞の下には一枚の布が敷かれていて、その下は籠の淵が邪魔になって見えないが、紙とは違う音が聞こえる。「はい」と差し出された紙で覆われ紐で結ばれたた包みを両手で受け取る。紐をほどき、中身を包んでいた紙を上から一層ずつはがしていく。現れたのは、見慣れたシャツだった。

「あとはこれ」

籠から次々と食材がテーブルに並べられていく。

「ここに来る前に一度君の家に寄ったんだ。それで僕が様子を見てくるって言うや否や、ご両親があれもこれもって色々持たせてくれたんだ。でも僕も新聞配達っていう体裁があるし、申し訳ないけど、今回はこれで勘弁しておくれ」

目の前に広げられた光景に、涙を禁じえなかった。視界がぼやけ、胸が熱くなる。震える肩にそっと冷たさの心地よい手が添えられる。

「愛されているわね」

ここにきてようやく、涙が出た。緊張の糸が、今度こそ完全に、切れた。その様子をルイは優しく見守り、横に立つエマリーは背をさすり、涙を流すイヴを見守った。

「それで」

少し間をおいてから、話は続けられた。

「今後なんだけど、とりあえず君が必要なものはあるだろうし、何もかもをこの屋敷とエマリーさんにお世話になるのも申し訳ないってことで、僕や、君の両親とで君に必要なものを持ってくることにした」

「え?」

「それこそ着替えとか、洗濯とか。それにこの状態じゃうかうか食料を買いに行くのも難しいでしょ。だからそういうのも含めて」

「そんな、危険だよ。いくら何でもそこまでは頼めない」

「ねぇイヴ、聞いて」

まるでイヴの反論を予期していたかのようにルイが語りだす。

「僕たちは、君を助けたいんだ。そのためにロットさんやトマさん、シエルさんは町を奔走して方々に説得を試みている。僕だって、新聞を使って君たちを支援できないか本気で考えている。奇しくも噂通り、君は帰ってこなくなった。でも、僕たちの気持ちは同じなんだ。帰ってこないなら、会いに行けばいい。君のためにできることなら、なんだってやるって。そう決めたんだ。だから来るななんて言わないでくれ」

ルイの真剣な眼差し、暖かい口調、彼の決意、それらすべてがイヴの心を溶かしていく。

「でも……それじゃ町の人に怪しまれたりしないの?」

またしても読んでいたかのようにルイがニヤと笑う。

「その危険はもちろんある。だから表からくるのは僕だけだよ。僕は新聞社っていう名目で来れるからね」

「他の人は?」

「そう。そこだよ。そこでイヴと、エマリーさんに協力してもらいたい。町の人たちに怪しまれずに、この屋敷に来る方法はないかな」

「私は坊やの家を知らないから、それは坊やにしかわからないわね」

「裏を通っていいなら僕が逃げてきた道があるけど、そこは母さんは通れないだろうな」

「裏の道?」

「うん、屋敷の裏にはクレーターみたいな穴がたくさんあって、そこを通り抜けていくんだ。町の端を迂回しながら行けば、家の工房裏に着く」

うん。と頭に地図を浮かべたルイが頷く。

「わかった。多分行けると思う」

笑顔でイヴに向き直る。

「今日はその道をたどって、町に戻ってみるよ」


翌日、ルイが無事に帰れたか、来ない便りをそわそわと待ち続けた。その様子を見るエマリーも「大丈夫よ」など言ってはみるものの、内心穏やかではない。昼を過ぎ、三時に差し掛かろうかという時間、森の木々がざわめきだした。エマリーが反射的に席を立ちドアの前に向かう。「しっ」という指示にイヴはキッチンの隅から様子を見守る。開かれた扉の向こうには小さな鞄を背負った見慣れた顔が二つ。とうとう両親がやってきた。シエルが手に持っているのは手書きの地図。おそらくイヴの通った道を辿り、ルイが書き上げたのだろう。無事に再会できたことに、ルイが無事に辿り着いていたことに胸をなでおろす。母がやってきたことはもちろん驚きだが、何より一番の驚きは、母がスカートではなくズボンをはいていることだった。

「母さん、そんなズボン持ってたの?」

いかにも労働者、運動性抜群な見た目のズボンはいつも長いスカートでおぼろげになる母のスタイルを一層際立たせていた。またいつもは優雅に振る舞う降ろされた赤茶の髪は後頭部で結い上げられ、さながら女冒険家を彷彿とさせるようないで立ちであった。そんな勇敢ないでたちの母も、扉の前に現れたイヴを見た途端、イヴに飛びついてきた。イヴをぎゅっと抱きしめ、「無事でよかった」と、震える声で呟いた。その再会の儀式ともいうべき母子の抱擁をじっと見届けたロットはシエルが身を離した次に、固い握手を交わした。

 エマリーの入れた紅茶が暖かな湯気を立ちのぼらせ、空間がまろやかな香りに包まれる。

「急にもかかわらず倅を助けてもらって、感謝の言葉もない」

頭を下げる両親に、エマリーが珍しく慌てている。

「頭を上げてください。この件は何もこの子だけが悪いわけじゃないのでしょう?私も詳しくは知りませんが、そのレオ?とかいう人物の嘘だとか」

「えぇ、私が直接聞いていましたが、結局は一時の反響を得ようと、根も葉もない嘘っぱちを言っているだけです」

珍しく母の顔に憤怒の気配が浮かんでいる。日頃声を荒げることも、不機嫌を出すこともない母の珍しい様子に、あらためてイヴの中でももやもやとしたものが立ち込める。

「せめても、というわけではありませんが、イヴと、あなたの生活に必要なものは我々が持ってきましょう。これから当分の間は私たちやこの前のルイ君、その他この件を知っているわずかな人間が交代で、二三日ごとに来ます。何か要りようであればそこで言ってください」

「有難い申し出だけれど、それは坊やの分だけで十分です。私の分は今あるもので足りていますから」

「そうはいっても迂闊に外に出られないんじゃ食べ物だって不足するでしょう?」

「それはそうですが、何分私は、食事はあまり必要ないので」

首をかしげる母にエマリーが誤解を解こうと口を開いた。

「あまり食べないって意味です。だから今ある物や、それこそ坊やの分を作ったあまりでちょうど良いくらいですから、私用の食材などの工面をしていただかなくても問題ないです」

「それでも……」

食い下がるシエルをロットが手で制した。

「わかりました。とはいえ私たちも、ただで倅を住まわせてもらうのは申し訳ない。何かお役に立てることがあれば、いつでも言ってください」

「最後に……」

話を終え、長居しては申し訳ないと席を立とうとした父を母の言葉が制止した。

「イヴにお貸しいただいている部屋を、拝見してもよいでしょうか」

「えぇ。どうぞ」

食器を片付けるから。と、エマリーは階段を上がらず、キッチンへと引き返した。エマリーなりの、思いやりであった。

部屋に入るなり、両親はいつも通りの雰囲気に戻った。余所行きの雰囲気につかれたのか、母はイヴのベッドに腰かけ大きく息を吐いた。

「イヴ、良かったわね、優しい人に匿ってもらえて。それにここ、あなたがずっと夢に見ていたお屋敷でしょ?近くで見ると本当に立派ね。これ以上の幸せは、あまりないわね」

寝っ転がりながらイヴの方へ声だけ投げている。父は父で、部屋のあちこちの家具を開けたり閉めたり、建付けを確認したりとせわしない。

「うん、そうだね」

自身の声に明るいものは感じられなかった。話している自分でさえも。

「本当に……迷惑かけてごめん」

「ん?」

ベッドからイヴの方へ顔だけ向ける。わが子が自らを責めている。そんな状況が、シエルにはたまらなく哀しく映った。

「言ったでしょ。あなたは悪くない。悪いのはあのレオ。それに、それを信じた主婦と、それに言い返せない腰抜け亭主たちよ」

「それでも、結局父さんや母さんを困らせてる」

「それは別に大したことじゃない。出張作業のついでだ。それよりルイ君に感謝したほうが良い。彼が真っ先に、それこそ俺たちより先に、お前のところに向かったんだ。あんなに行動力にあふれ、お前のことを思ってくれる人間もそう得られるものじゃない。次に来たらちゃんと礼を言っておけよ」

話しながら、父はとうとうイヴの洋服をしまうチェストに手をかけた。中には昨日ルイが持ってきた衣服が入っている。

「うん、やはりこれじゃ少ないな」

「シエル、やっぱり次にもっと服を持って来よう。来るまでは裏道がどんなものかわからなかったが、次からはこんな軽装じゃなくても大丈夫そうだ」

「じゃあ帰ったら準備するわね」

傾きだした夕日に、両親がまた身支度を始めた。見慣れた光景、部屋だけが違う。再びイヴを罪悪感が襲う。でも、もう謝らない。そう決めた。意地ではない。ただ、両親がそれを望んでいないのだと、感じることができたからだ。

 日が傾き、窓から差し込む光線が白金から鮮やかな茜に変わる。それまでどこか寒々しかった空気が、途端に暖かなものに変わる。夕日に包まれる両親をイヴは二階の自室から見守った。両親の姿が森の中へと消えるのを見届けてそっとカーテンを閉める。部屋を振り返れば薄暗く、当たり前のようにイヴ以外誰もいない、静寂に包まれた寂しい空間が広がっている。さっきまでの嵐のような団欒が嘘のように。何かが足りない。そんな寂しい気持ちを感じつつ、その感情を出してはいけない。その感情に負けてはいけない。自分より両親の方が圧倒的に辛いのだ。そう自分に言い聞かせ、口を堅く閉ざし、目は前を見据え、確かな足取りを自分に感じさせながら階段を一歩、また一歩と踏みしめた。その一段一段が、イヴの、ここで生き抜くという覚悟だった。

 踊り場から下ろうとして、視界の端に光が映った。階段の右手から明かりが漏れている。光に導かれた先にはエマリーが一人、暖かな湯気を吹くティーポットを前に座っていた。背筋はしゃんと伸び、ただ一点、目の前のティーポットを無言で見つめていた。

「急にお騒がせしました」

イヴの声に肩がわずかに動く。振り返りはしないものの、彼女の耳はこちらに向いている。

「あなたは……愛されているわね」

「え?」

「こんな状況になって、ご両親や、友人が、あなたのために動いてくれている。こんなに愛されているなんて、あなたは幸せね」

不意を衝く言葉に、ただでさえ計り知れない真意が、さらに遠のく。

「それは、あなたも同じではありませんか」

「私?私は違うわよ。あなたがこういう状況になったことは、私にも非があるのだから」

顔は見えない。が、言葉には確かに、踏み込むことのできない壁があった。そこから先には、どんなに親しい人間でも足を踏み入れることが許されない、彼女だけの世界があるのだと、言葉を交わさずとも悟ってしまった。

返す言葉も見つからず、「おやすみなさい」とそれだけを言い残し逃げるように部屋を出る。背に「お休み」とエマリーの声が追い付いた。


 その日から、イヴの新しい生活が始まった。屋敷には数日おきに、代わる代わる誰かが何かを持ってくるようになった。ある時は父が、ある時は母が、またある時はルイが、そして、トマが。工房の人間は他には来ない。どうやら工房内では、イヴはどこかへ姿をくらましたことになっているらしい。レオの一件以来誰もかれもが口を閉ざし、安易に身内の話をしなくなったのだと、トマから聞いた。それは無礼講であった酒場でさえ、もしくは酒場だからこそ、より顕著に表れているらしい。前のような賑やかな雰囲気を装いつつ、その実、常に不要なことを口走らないようにという緊張感であふれているらしい。これにはマスターの二人も辟易してしまっているようだ。

 イヴのもとを訪れる面々も、決して安全というわけではない。町からイヴがいなくなったとはいえ、魔女の館は残っている。故に町から魔女の噂がなくなったわけではなく、表に出ないだけで以前に増して魔女の噂が取取り沙汰されるようになった。エマリーはこれを「現実的にぶつけられる恐怖の吐き捨て場」と評しているが、言い得て妙であるとイヴも思った。

 吐き捨て場といえどもやはり屋敷に入る姿を見られてはまずい。それがトマだろうが、父ロットであろうが、女性のシエルであろうが例外はない。魔女の館に足を踏み入れる者はいつだって、イヴと同じ目に合う危険が伴うのだ。それをわかっているのだから、彼らも表玄関から堂々と来ることはない。イヴの使った裏道を通って、こっそりとやってくる。やり取りは単純ながら名案。食料や衣類など、必要なものを籠に下げてやってくる。イヴは前回受け取った籠と交換する。その際に必要なものを紙に書き、籠と一緒に渡す。そうすると次回来る際にそれらが入っている。という寸法だ。これを考えたのはルイらしい。単純ながら効果的なあたり、さすがだと感服した。

 この共同生活は意外と心地よいものだった。部屋はある。服もある。仕事はない。しいて言うなら屋敷と庭の掃除や自分の食事の始末くらい。不自由のない生活を送ることができている。が、一つだけ問題だったのは食料だ。屋敷には食料の備蓄がない。その日食べる物をその日調達するくらい。エマリーに至っては一つの果実を数日に分けて食べるくらい、小食ともいえぬ様であった。心配していつもより多めに食材を持ってきてもらっても、エマリーが素直に受け取ることはなく、仕方なく“料理を作りすぎてしまった”という体でエマリーに食べさせた。しかしそれも見透かされるのは時間の問題で、終いには「私のために無駄にしなくていいわ。あなたが自分で食べなさい」と拒否されてしまった。食器もイヴが使う分は早々に取り寄せた。というのもこの屋敷には常に食器が三つずつ揃えられているが、そのどれもが使い込まれた様子はなく、きれいに磨き上げられている。それを使う気にならなかったのだ。エマリーになぜ三つずつなのか。と尋ねても「それは予備よ」と言うにとどまり、それ以上は教えてくれなかった。

 エマリーとの共同生活は、イヴが屋敷を知り尽くすのに十分な時間だった。日々の暇を見つけては屋敷を探検し、時には掃除をしながらあちこちを見て回った。どこを見てもシンプルながら壮麗な装飾が施され、往年の貴族の存在を感じさせる。やはり、エマリーの祖先は貴族なのだ。そう実感した。共同生活が始まってから一年のうちに、エマリーの私室とその隣、イヴとエマリーの部屋に挟まれた部屋以外はほとんど探検を終えていた。大体の部屋はどの家にもあるようなもので、一階のキッチンより玄関側の部屋は客間、とはいえ今はもう客間としての様相を呈しておらず、もともと客間だったところに色々と荷物や資材が置き去りにされた物置き部屋になっている。客間として利用しないのか。と尋ねても「私にその必要はないわ。そもそも訪ねてくるのもあなたくらいなものだし」と笑って済まされてしまった。

 夢を見ることもない眠りから醒め、部屋のカーテンを開ける。窓越しに伝わる寒気に寝起きの体はぶるっと震える。風が吹き、風と共に草木の命を運び去っていく頃になっても、森の木々だけは青々と茂っていた。もう何年も、いや、生まれてからずっと見慣れた光景だが、町の人々は不安に思っているらしい。どうやらこの日常的でしかし不思議な森が、彼女は魔女だ。敵国のスパイだ。という根も葉もない、不安に負けた懐疑的な意見を後押ししているらしい。森の木々が青々としているからと言って、では森が暖かいかというとそうではない。気温は外の町と変わらない。さすがにこうも寒くては二三日に一回だった物資供給も一週間に一回、良くて二回程度に頻度が下がってしまった。こうあっては外に出ることもないし、これといってすることもない。エマリーは寒さも気にならない様子で欠かさず花に水をやっているが、一緒に東屋でゆったり。なんて落ち着いてできるはずもない。と、なればやることは一つ。しばらく滞っていた屋敷の探索を再開するしかない。寒空を嘆いていた心を窓の外に投げ捨て、まだ見ぬ冒険と言わんばかりのワクワクを胸に湛え階段を降りる。

「あら、今日は早いのね」

歩みを止め振り返った先にはエマリーが立っていた。ちょうど部屋から出てきたらしい。屋敷の中、来客もないというのに彼女の姿はいつも変わらない。

「エマリーさん、おはようございます」

「えぇ、おはようイヴ。やけに楽しそうね」

「そうですか?」

「そう見えるわよ。顔というか、雰囲気が明るいわ」

「そう見えるならよかったです。今日は寒くて外に出るのもいまいちなので、せっかくなら久しぶりにお屋敷を探検しようかと」

「探索って言ったって、もう結構歩き回ってなかった?」

「まだ入ってない部屋があるんです。階段左手の部屋、バスルームの隣です」

「あぁ、あそこ」

「入ってもいいですか?」

鳩尾のあたりで腕を組んだまま彼女は首をひねった。うーんと考え込んでいるようにも見えた。……入ってはまずいのだろうか。やや間があって、エマリーが視線を戻した。

「どうせダメって言ってもそのうちこっそり入り込むんでしょ?」

「そんなことしませんよ」

「いいえ、あなたはするわ」

「心外だなぁ」

ふふっとエマリーが笑った。居候を初めてからもう季節を二つも過ごしている。これだけ毎日顔を合わせていたせいか、エマリーも最近は柔和に笑うようになった。以前のようなよそよそしさもだんだんとなくなり、まるで家族のような穏やかな時を過ごすようになっていた。

「心外で結構よ」

笑みがこぼれた口元を拳で隠しながら言葉をつづける。

「私の気が変わらないうちに見てきなさい」

「また気まぐれですか?」

ははっと、今度は少し声を立てて笑った。

「えぇそうね。気まぐれよ」

 嬉々として階段を駆け下りていくイヴの姿を、エマリーは欄干からほほえましく見下ろしていた。イヴの姿が見えなくなり、扉の閉まる音を聞いてから、ゆっくりと階段を降り、屋敷の外、苔むした石碑の前にしゃがみ込んだ。最近はここに来る頻度も増えた。以前は二日に一回や数日に一回、ここにしゃがみ込んでいたものが、この数か月、ほぼ毎日しゃがみ込んでいる。原因は紛れもないイヴであることは自覚していた。彼との生活が、失われたかつての輝かしい日々とどうしても重ねられてしまう。イヴの姿に、大切な人の姿が重なってしまう。イヴとの生活が、心の奥底に閉じ込めていた日々をつつき、刺激し、エマリーの心にかつての心躍るような気持ちを思い起こさせる。あぁ、困った。これでは私の決意はどこへ行ってしまったのだろうか。そもそも、もう何年も前にイヴを屋敷に招き入れたことが間違いだったのだろうか。頭ではそう考えることができたが、心では、どうしてもそれが過ちであるとは考えられなかった。

 階段を駆け下りた左手、玄関側がバスルーム、その左手の扉を開ける。途端に漏れ出す乾燥した空気に鼻の奥がひりひりする。古びた紙特有の匂がイヴの鼻を突く。扉を開けた先に机とランプ、その左側には本棚が所狭しと並べられていた。なるほど、ここは書庫なのだ。目の前にあった机と椅子がよく磨かれた手作りであることは一目でわかった。ただこれは職人のつくりではない。よく見なくてもそれは明らかだ。製材所で売っている一枚板と足になるそれぞれ別のパーツ直接買い、加工し、それに素人作業で嚙み合わせを彫り、はめ込み、補強とばかりに釘で固定した代物だ。ただ、いかにこの机が長く大切に使われているかは一目見れば明らか。角は完全に丸くなり、表面にも側面にも、人が撫でたのであろう光沢が見て取れる。どんなに豪華で美しい作品も、この美しさには敵わない。こういう作品を見ると、イブは嬉しくなるのだった。いとおしさを実感するように光沢を撫で、そこに秘められた長い歴史と、そこに触れた人々に思いを馳せる。きっとエマリーも、ここに座って書物を読んでいたに違いない。机から手を離し左手に目を向ける。本棚は壁に沿って向かい合うように立ち並び、この部屋の奥まで続いている。どこにも所狭しと本が並べられ、そしてそのどれもが今では見ない古臭い装丁が施されていた。好奇心からいくつかの本を手に取る。どれも落としたとか、ぶつけたとか、そういう外傷的な痛みは見られるが、経年劣化のような痛みは見られない。しかしそれら全てが、約三百年前に書かれたものであった。執筆者もバラバラ、ジャンルもバラバラ。統一性も何もない。

気づけば書庫の空気が凍えるような寒さを運んでくるまで、イヴはあちこちの本を読み漁っていた。他所の土地の風土が描かれた本、兵法、小説。どれも新鮮なものばかり。無数に並ぶ本の中で、一冊の本に背表紙を渡る指が止まる。『ザルマ史』失われていた、唯一残された前王国の歴史書だ。エマリーさんは本当のことを言っていたんだ。疑っていたわけじゃないが、素直に驚いた。興奮と畏敬の入り混じる胸の高鳴り。現王国が燃やし隠した幻の歴史。震える手でページをめくった。絶対王政・貴族社会が中核を担う典型的な王権社会。輝かしい歴史と、その裏にある言論の弾圧がありありと描かれている。エルブライト王国がこれらを焚書としたのも納得だ。学校で習う歴史では、三百年前の戦争はザルマから仕掛けられたとされている。しかしこの本によれば、それはエルブライト王国の策略であったという。拡大する領地に対し、未曽有の疫病災害で人口が減少。とくに働き盛りの男たちは度重なる戦役で数を減らしている。安い労働力を得るためにザルマに仕掛けた戦争。それが真実だった。しかもザルマから宣戦布告をするように仕向けたのだ。エマリーの言葉が脳裏をよぎる。なるほど。エルブライトは高慢だ。次から次へと読み進め、いよいよ最後のページをめくった時、イヴの手が止まった。ただ、本の末尾に誰かのメモが付け加えられている。それは、統一戦争開戦直後、まさに最初の激戦区となったこのバラケの町の惨状であった。このメモはほかのどの本にも描かれていない。恐らくこの世にたった一つの、本物の『バラケ史』であると直感が告げている。開戦直後、ザルマ王国はこの町に正規の軍隊を派遣することはなかった。対象を拡大した徴兵令によって集められた、いわば徴兵隊での戦闘を命じた。対してエルブライト王国は正規の軍隊を大規模に送り込んでいる。劣勢は明らか。しかし正規軍も援軍もやってこない。やがて攻勢を続ける敵軍に押されるまま、この町を守るために玉砕したのだという。その際徴兵されなかった人々は、彼らなりに戦争に参加した。その抵抗の最後の拠点となった激戦地を写した写真が貼られている。写真に写る屋敷は柱が折れ、積み重なる瓦礫にまぎれさながら亡国の屋敷化のような様相を呈している。が、見間違うはずがない。この建物は紛れもなくこの屋敷だった。屋敷には数多の砲弾が叩き込まれた。降り注ぐ砲弾の中に残された女、敗走する徴兵隊の生き残りは最後の抵抗を開始した。戦場で先頭に立ち、迫りくる王国軍に対し一歩も退かない戦乙女がいた。人々はその乙女を、女神と呼んだ。しかし抵抗むなしく、最後は屋敷の陥落と共にバラケでの戦争は終わった。物語る筆跡は整っていて、しかし落ち着かない気持ちを表すかのように、端々が乱れていた。これを書き込んだのは、バラケでの市街戦を生き延びた、もしくは生き延びてしまった生き残りなのだろうか。残念なことに、誰の書き込みなのかは全く窺い知ることができなかった。最後に一枚、写真が挟まっていた。床に落ちたそれを拾い、明かりに照らしてみる。言葉を失った。散乱する瓦礫と積み上げられた土嚢の上、民衆の先頭に立ち黒い長髪をたなびかせ、敵に向かって叫ぶ一人の戦乙女。自分はこの人を知っている。途端に頭が押し隠していた疑問で満たされる。まさか、そんなはずはない。だって不可能だ。人が三百年を生きるなんて。そんなの、本物の魔女でもないと無理なのだ。終わることのない苦悶が頭を支配する。考えるな。意味ないことに目を向けるな。襲い来る濁流を、必死に意志の力で抑え込む。自分が彼女を信じないで、誰が彼女を認めるんだ。手に持った写真を再び本に挟み、勢いよく本を閉じる。響いた音はイヴの疑念を断ち切る。息を吸い、本を棚へ戻した。

さらに奥の本棚へ、その途中にある本も手に取りながら進む。読んでも読んでもきりがない。本棚から溢れるほどの本に囲まれる環境は初めてだった。奥の本棚は薄暗く、手にランタンをもって進まなければ背表紙に書かれた作品名を見ることすら難しいほどであった。本棚と本棚の間にかけられたランタンに明かりを淹れ、眼前に掲げて本棚と向き合う。乾燥でだんだんと痛くなる鼻をさすりつつ、面白そうな本はないかと本棚の下段から中段、上段へと舐めるように視線を運ぶ。途中、大きな本ばかりが並ぶ中で一冊の小さな本に目が留まった。ほとんどが両手で開かねばならないような大きさの本である中で、この本だけは片手に収まるほどのサイズで、他の本より簡素なつくりをしていた。立派な装丁も、目を引く装飾デザインも施されていない。明かりを掲げよく見ても、背表紙にタイトルが書かれていない。手に取って見た表紙はやはり簡素で、飾り気なんて微塵もない。タイトルは『Dier Shirl』作者はユリウス・リオン。書き出しは「あの晴れた日、君のお屋敷で僕らは出会った」から始まる。書かれている文字も他の本のようなかっちりとしたものではなく、誰か一般の人が書いたのであろうことが分かるようなものだった。

次のページをめくろうとしたとき、書庫の扉が開いた。途端に閉じ込められた空気が外に流れ、書庫に新鮮な空気が充満する。

「まだここにいたの」

呆れた。とでも言いたげな顔でエマリーがこちらを見ている。

「こんなにも本に囲まれるなんて人生でなかったですから。つい熱中して読んでいました」

「何か面白い本はあった?」

「面白いもそうですけど、ここの本、相当昔のものばかりじゃないですか」

「えぇ、そうよ」

「中には焚書になったようなものもあるし、なんでこんな本が、こんなに残ってるんですか?」

一拍の間を間をおいて彼女は口を開く。

「さぁ。私もめったに来ないし、誰も来ないから特に見られることもなかったのよ」

「そういうことじゃ……」

「その手に持っている本は?」

「あぁ、本棚を漁っていたら見つけたんですよ」

「どこの本棚?」

「ここです」

指さした先を見たエマリーの瞳がわずかに揺れ動く。

「その本は?」

「なんか、小説みたいです。このユリウスって人が書いたみたいで……」

「見せてちょうだい」

エマリーの美しい衣装が床に溜まった埃に風を吹き込む。舞い上がる埃に構わず静かに、急ぐ気持ちを押し殺すような歩を進めてくる。胸に湛えた青い宝石が彼女の動きで揺れ、暗闇で光を反射して存在をこちらに訴えてくる。宝石が何かを言いたがってるような気がしてならなかった。

 イヴから受け取った小説をエマリーはじっと見つめる。愛おしそうに表紙を撫で、ページを慎重にめくる。ぱっと見のエマリーはいつものごとく落ち着いている。しかしここまで長く関わってきたイヴにはわかる。今のエマリーは、彼女の感情を、急く気持ちを必死に抑え込んでいる。次へ次へとめくろうとする手を、理性で必死に抑え込んでいるのだ。

 一ページをゆっくりと読み終え、ふぅと息を吐いた。彼女の美しい黒髪がもたげる首に合わせて垂れ、彼女の顔を隠す。もう一度息を吐き、いつになく暖かな表情でこちらを向いた。

「この本、私がしばらく持っていてもいいかしら」

「もちろんいいですけど、何かありました?」

「この書庫にある本はだいたい読んだと思っていたのだけど、この本はまだ見ていなかったのよ」

彼女の笑顔を見た。今まで見てきた笑顔とは違う。心の底からの、優しい笑顔。それを見せられては、いじわるにも断ることはできなかった。

「イヴ、ありがとうね。これはゆっくり読ませてもらうわ」

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