第五章 再燃
瞬く星々に見守られ自らの覚悟を固めたあの夜から、イヴは一層精を出して働いた。父やトマの指導にめげず、口答えの数もめっきり減った。イヴ自身、言い訳できない重責というものを、課せられた期待というものをトマから受け取っている。逃げてはならない。それは自分を信じてくれる人を路頭に迷わせることだと、初めて分かったのだ。そんなイヴの姿勢を認めてか、父から次々に無理難題を振られるようになった。やったこともない工程を一人でやってみろ。一つの仕事を一から十まで自分で仕切ってやってみろ。終いには新規顧客を得るために自分で街を歩き回って交渉してこい。一人も見つからないなら飯はない。など数多の無理難題をこなした。後から思えばこれは棟梁に求められるすべてなのだと思う。ただ当時のイヴにそれは分からなかった。唯一わかることは、すべてに何かしら意図がある。自分がトマや、職人たちの期待に応えるために必要なものである。ということくらいだった。
昼も夜も、暇さえあれば仕事に励んだ。少しでも自分のスキルを磨こうと、少しでも期待に応えられる棟梁になろうと。思えばあの人のことなんて、この時頭になかったのかもしれない。
そうして日々を懸命に、疾走する馬のごとく駆け抜けるうちに木々の葉は生い茂り、下草は木々に守られ生命を漲らせる。溢れた生命は一瞬の煌めきを放ち、ふと気づけばその生命は、背筋を撫でる冷たい指先と共に消え失せている。息が白くなろうかという頃、町での依頼を終えたイヴはいつものように森の前を歩いていた。日々の忙しさからかつての夢のような日々、夢にまで見たあの荘厳なお屋敷、麗しい貴婦人との思い出は記憶の隅に隠れてしまったが、確かに彼女はイヴの心の一角に住み着いていた。周りの木々が枯れ、見るも寒々しい光景が広がるこのころになっても、彼女の森は青々と茂る木々に囲まれていた。まるであの日の記憶を残すように。その光景が一層、イヴにかつての美しい、手を伸ばしても届くことのない記憶を思い起こさせる。一方で街の人々にとっては、もうずっとこの様子であるとはいえ、やはり奇怪なものは奇怪に映ったらしい。やはり魔女だ。近づくもんじゃぁない。なんて意見もそこかしこに聞こえる。ましてやレオがこれを声高に叫び焚きつけるものだから、余計にそんな噂が再燃してしまった。本当、奴がいるといつだって良いことがない。
森の入口に立つ。やはりイヴを迎える声は聞こえない。もしかしてと霞よりも薄い希望をつかもうと、七年前と同じように屋敷を見やる。視線の先は二階の隅の窓。じっと目を凝らす。そして、ため息が出る。……今日もいない。あの日あの人は、僕の視線に気づいていたのだろうか。もう何年も、いつものことと、肩を落とすわけでもなくその場を後にする。ふっと、森の入口へと吹き込む風に体が煽られる。重い荷物がふらつき、思わずよろめく。いったいなんだと、風下、森の中を覗き込む。目を見開いた。風のいたずらか、いや、記憶の彼方から森の意思のようなものを感じずにはいられなかった。歩が前に進む。ついさっきまで感じていた森とこちらの境界を隔てる結界のようなものが、今は感じられない。それどころではない。吹き込む風に押されるように、足が一歩、一歩と前に出る。回転数が上がる。次へ、次へと歩を進め、屋敷が見えるようになっても、屋敷に目もくれない。一直線に、屋敷前の東屋へと進んでいく。
「あの……!」
東屋の影にしゃがみ込む姿に呼びかけた。鼓動が邪魔だ。胸を締め付ける息が邪魔だ。すべてが邪魔だ。
「……はぁ」
ため息が聞こえた。艶やかな黒髪が揺れ動く。
「あの!僕を……覚えていますか?」
「……」
返事はない。が、無視しているわけではないことはイヴにも見て取れた。彼女の右手は胸元のブローチをしっかり握っている。一瞬とも、千秋ともとれる時間の中、イヴはひたすら返事を待った。
「あの……エマリーさん!」
エマリーの耳がピクっと動いた。首が微かに持ち上がる。そしてまた、先ほどまでより深く首をもたげる。
「……あなたに……そう呼ばれるのは初めてね」
「僕を……覚えていますか?」
「えぇ。私としたことが、ちょっと油断したわね」
間が空く。何を言うべきか、どう問いかけるべきか、どう語り掛けるべきか、思案するうちに、今度はエマリーが声を出す。
「前に、家具を直してもらったわね、坊や」
その一言に、雫が一つ、二つと頬を伝う。
「あぁ、やっと……やっとまた会えた」
感嘆の言葉を漏らした傍ら、荷物を持つ左手も、持たない右手も、どちらも固く握られていた。
「そうね、坊や。久しぶりね。本当に」
エマリーが横顔でこちらを見ている。前髪に隠れた表情から、鼻先だけが顔を出している。ベールのごとく顔を覆った艶やかな髪の向こうから、エマリーの目線はイヴを捕えた。途端、イヴに背を向けうずくまる。
「人が老いるのは早いわね」
エマリーは以前と変わらぬ美しさで、ため息交じりに呟いた。
三日後、出向き仕事の帰り道、イヴはまた森の横を伸びる道を歩いていた。休憩も取らず仕事を予定よりも早くに仕上げたおかげで、まだ日は傾いていない。自らの横に生い茂る森の声が、久々に聞こえる。自分を歓迎しているのだとわかる。もう何年も聞いていなかった森の声が、こうもあっさり聞こえるとは思ってもみなかった。イヴの中で止まっていた、あの幼い頃のままうずくまっていた何かが、ようやく進みだしたような気がした。吹き抜ける風がイヴの髪を漉き、熱くなった体を心地よく撫でる。風が背を押しているような気さえした。足取りは軽く、しかしせわしなく、前へ前へと運ばれる。もう十分に待ったといわんばかりに。
森の入口で歩を止める。これは、夢じゃない。わかりきった事実を大切に飲み込む。目を閉じ、力を抜き、肺満杯に新鮮な空気を吸い込む。そうやって今度は木々の声を聴く。葉が、木々が、森が、イヴを歓迎している。もう一度息を吸い、そして吐く。……夢から現実へ。緊張した足取りで一歩、また一歩と森の中へ歩を進める。気づけばその足取りは力強くも浮足立つような不思議なものへと変化していた。次第にいつもの休憩所が目に映る。今日そこにエマリーの姿はない。が、東屋を見たイヴの心は安息を覚えた。どこか我が家に帰ってきたような温かさを。
止まっていた足をまた前へと送り出す。そうして一段上がり、いよいよ玄関の前に来た。見慣れたはずの玄関扉。時にイヴを歓待し、時に二人を隔てる絶対的な障壁と化した扉。今日はどんな顔を見せてくるのか。扉の表面を撫で、掌に滑らかな凹凸を感じる。「どうか、どうか開いて、僕を迎えてください」撫でた手に心からの祈りを込める。息を吸って、息を吐く。そしてまた息を吸う。全身に森の空気を送り込み、全身で木々の歓迎を感じ取る。鼓動がゆっくりと落ち着きを取り戻す。少し、また少しと。心臓の鼓動と、自分の不安が同じ波長になったのを感じて目を開ける。浅く息を吸い込み、握った右手を胸の前に構える。そっと、玄関扉を三回叩いた。返事はない。木々のさざめきさえ聞こえない。不安が増す。鼓動がまた荒くなっていく。イヴは再び拳を握った。もう一度ノックしようと拳を掲げたところで、扉の向こう側で錠が外される音がした。慌てて手を引っ込める。開かれた扉の先にはあの日と変わらない、胸に美しい青の宝石を湛えた美しく儚いままのあの人が立っていた。
「いらっしゃい。……本当に来たのね」
目線が合うことはない。それにどこか寂しそうに語り掛けた。
「えぇ、せっかくまたお会いできましたし、ゆっくり話したいことがあれこれとあるので」
努めて微笑んで答える。貴婦人からの返事はない。ただ「そう」と返すだけであった。
「……そこで待っていて頂戴。お茶を淹れてくるわ」
ばつが悪そうにそそくさと、ただ上品さは失わずエマリーは屋敷の中へと戻っていった。イヴの思いとは裏腹に自らの重さで閉じるドアに締め出されたイヴは、おとなしく東屋の椅子で待機した。目の前にはエマリーがいつも大事そうに手入れをしている花々が美しく咲き誇る。自らの美しさをその凛とした佇まいで余すところなく見せつけるように色とりどりの花がその顔をこちらに向けている。どの花もみずみずしく、またどこにも枯れた花も、邪魔な草もない。まるで少年のころのままだ。それだけで、いかにエマリーがこの小さな花畑を大事に思っているかが感じられた。
「お待たせ」
視線の右側からティーカップをトレーにのせたエマリーがこちらに歩いてくる。かつて見慣れたティーカップに懐かしさがこみ上げる。目の前に差し出されたカップにわずかに驚いた。
「このティーカップ、こんなサイズだったんですね」
「えぇ、ずっとそうよ。……あぁ、確かにそう思うのも無理はないかもね。人間の成長は自分が思っているより早いもの」
貴婦人は目をつむり紅茶を啜りながら答えた。それに倣いイヴも同様にする。
「前に、最後に会ったのもここでしたね」
「えぇ、そうね」
「あの日はまた来ればいいやって思っていたのに、急に会えなくなって」
「そうね」
「エマリーさん、いったいなぜだったんですか?」
思わず聞いてしまった。ほかに言いようを考えたり、タイミングを見計らったり、もっといろいろあっただろうとは思うが、聞かずにはいられなかった。
「なぜ?そうね……」
表情一つ変えず、手元のカップに目線を落とし考える。
「私がそういう気分じゃなくなったって、それだけよ」
「そういう気分?」
「言ったでしょう。私は誰かと一緒にいるような性格ではないし、普段来客もない。それこそ、足しげく通ってくる人なんてあなたくらいなものよ。……まぁ、言ってしまえば気まぐれね。あなたと話していたのも、話さなくなったのも」
表情一つ変わらないエマリーの内心は、その表情とは裏腹にさざ波立っていた。
「気まぐれ……」
「そう。気まぐれ」
「……でも、こうしてまた会えて、またお話しさせてもらえて、これも気まぐれですか?」
一瞬、エマリーの動きが止まった。
「……そうね、これも気まぐれなのかもしれないわね」
「かもしれない?」
「自分でもわからないわ。だって日頃人と話すわけじゃないし。でも、そうね、気まぐれでしょうね」
「それなら、またこれからも、エマリーさんの“気まぐれ”が続くまで、こうしてお話に来てもいいですか?」
返事はない。エマリーはイヴの目の前でうつむいた。考えているとも、別の感情とも取れない。長く艶やかな髪に隠れて表情が見えないから。しかし心なしか、ブローチの輝きは増しているように見える。やがてエマリーがイヴに向き直った。
「私の“気まぐれ”が……続くうちは」
表情をほころばせるイヴとは裏腹に、貴婦人の右手はブローチを堅く握っていた。
その日から、イヴの生活は変わった。元通りというわけではない。文字通り、変わった。朝起きて、まず考えることは一日の予定になった。今日はどういう風に行動しようか。仕事をどこで切り上げようか、どうやって屋敷へ行く時間を作ろうか。どうやって、家族や仕事仲間に不審がられずに行動できるか。今までの行き当たりばったりな生活からは考えられないほど緻密な計画を立てた。ただ一方で、屋敷に行きたいから仕事を雑にすればよい。というわけではないことも理解していた。次期棟梁としての自覚が、一人の職人としての矜持が、イヴにその自由を与えなかった。仕事は仕事できっちりと、満足のその上の状態に仕上げる。そのうえで仕事は早く切り上げられるようにする。この難しさが歯がゆく、またどう攻略するかを考えるのは、朝の楽しみにもなった。
今日の計画を立てて階下へ降りる。寝ている両親を起こさないよう慎重に、階段の軋みを避けながら降りる。居間の壁に沿って左側に進み、工房のドアを押し開ける。外の空気はまだ冷たい。肺に送り込まれる新鮮な空気がまだわずかに残る眠気を押し出していく。壁際に設置された棚にいくつも置かれた工具箱から、自分の箱を取り出し一つ一つの具合をチェックする。「道具は職人の命だ。粗末に扱うものではないし、そういうところに職人の内面が現れる。職人ならばまず道具の手入れを怠るな」父からの教えを忠実に守っていた。特に幼い頃からずっと使っている数本のノミはイヴにとってかけがえのない道具になっていた。道具の手入れが終わると早速昨日の仕事の残りに取り掛かる。今の仕事はマエルからの依頼で、商品を陳列するための陳列棚を作ってくれ。というものだった。ただし様々な国の商品を並べる棚が質素では味気ない。と、そういう理由でイヴに白羽の矢が立ったらしい。幼い頃からの憧れが脳裏に浮かぶ。マエルの出店を見るのは昔からこの上ない楽しみだった。どの品々も美しく、整然と、時に雑然と置かれ、それらを飾る台や明かりまでもが異国情緒溢れる魅力的なものだった。その一部を、イヴが作るというのだ。こんなに心躍る仕事はない。全体の工程は天板の切り出しと加工、足四本の切り出しと加工と、ざっくり分けると二班に分かれての作業だった。ただこの二班というのが父の仕事と共有の職人も混在しているため、納期が近いほうに優先的に職人が駆り出されてしまう。もちろん全員が向こうに行ってしまうなんてことはないので何とか仕事は回るものの、計画通りとはいかない進行速度になってしまっている。とはいえ、このぐらいのイレギュラーならイヴももう慣れっこだ。指揮系統を見直し、全体の遅れを補った。おかげで現状で天板の作業はほとんど終わり、天板の職人たちを足の工程に入れ込むことに成功した。自分のことながら良い采配であったとイヴは自画自賛した。残る天板の作業は彫り込みとつや出し加工のみ。ここからは町随一と謳われる彫師としての仕事だ。マエルの店は熟知している。どういう雰囲気か、どんなものを求めているか、それは意外に単純で、“この町に未だないデザイン”なのだ。ありふれたデザインではなく、異国かと思わせるようなデザイン。依頼が着た瞬間にピンときた。昔マエルから聞いたことがある。異国には植物ではなく人物や神々を彫刻とした芸術品があると。とある国ではベールのようなものを纏っている。と。それをもとに描いた設計図を広げる。美しいベールを纏った天女たちがまるで重力を感じていないかのように飛び回っているイラストだ。彫り込むのは天板の側面、四面ある幅の細い面である。そこで一つのストーリーを作らなければならない。こんなに気分の高揚する仕事はいつぶりだろう。夢中でノミを叩いた。四人の天女が誕生し、成長し、人々に祝福をもたらすストーリー。何ともありふれていて、何とも伝わりやすく、そして人々に美しさを感じてもらえるストーリー。一面で、そのノミで四人の天女を誕生させた。二面で天女は成長し、それぞれが下界に下っていく。三面で人類の苦しを目の当たりにし、最後四面で纏ったベールを風にたなびかせながら、人々に美しい祝福を授ける。最もお客に見せるのは四面。それだけに一面と四面は横幅の広いほうに彫り込んだ。
彫り終わるころにはほかの職人も来て作業を始めていた。まだ細部の調整が終わっていない作品ながら、やはりイヴは感嘆の息を漏らした。
「おぉ、これは……」
背後からニマけたトマが声を漏らす。
「イヴ、お前やっぱり、いい仕事をするなぁ」
「そう?」
「あぁ、そうだとも。こんなに美しい装飾、そうそうお目にかかれるもんじゃない。これを納品された日にゃぁ、一日中見とれちまうだろうさ」
トマからの惜しみない賛辞に鼻の下が伸びる。イヴまでさらにニマけてしまう。二人で作品に見とれているうちに、工房のドアが開いた。
「イヴ、そろそろ朝ごはん食べないの?」
「あ、いけね」
「また忘れていたのでしょう?食べないといい仕事はできないわよ」
「行く、食べる、ちょっと待って!」
食事が終わったのは午前十一時。起きてからすっかり五時間、作業に夢中になっていたばかりに朝とも昼とも取れない朝食になってしまった。朝食後はまた工房に戻り、引き続き作業に没頭した。
自らの作業を終え、他の職人たちの工程も終わりが見えてきたところで、イヴは一足早く工房を後にした。まだ青空が照らす道を、ぐんぐんと足を前に送って歩き続ける。酒場の分岐を右に曲がり、賑わい前の静けさを湛えた市場に足を踏み入れる。ここに来たのはほかでもない、カモフラージュだ。家に帰った時に外出が怪しまれないように工具の手入れに使うあれこれを買い漁る。幸いこういった類は一つの店でだいたいが見つかる。この迷路みたいな市場をあちこちに歩き回らなくてもよいことが救いだ。必要なものを鞄に詰め込み、市場を出て右に進む。左手に新聞社が見えたところで左に曲がれば、いつもの道だ。人気なく、小さく流れる水の音が日々の喧騒からイヴを連れ出してくれる。高ぶる心を落ち着かせ、突き当りを右に曲がれば、もうそこは彼女の領域に片足を突っ込んでいるようなもの。木々の歓迎が聞こえる。
一息ためて、ドアをノックする。ややあって、わずかにドアが開かれる。
「また来たのね」
言葉から感情は読み取れない。ただ落胆のようなものは感じられない。
「仕事が早く終わったので。ご迷惑でしたか?」
「……いえ、別に平気よ。特に何をしていたわけでもないから」
若干の間。表情に変化はないが、複雑な声色だった。
「どうぞ、入って」
案内されるままに体を引いたエマリーの脇を通り抜けて屋敷の中へと足を踏み入れる。屋敷の中も外観同様、あの頃と何も変わっていなかった。慣れた足取りでキッチンの方へ歩を進める。テーブルの上にはティーカップが二つとティーポットが一つ。ティーポットの口からは湯気が立ち上り、部屋に微かに華やかな香りを漂わせていた。
「来るってわかってたんですか?」
振り向きざまに問いかけると同時に立ち止まったイヴをエマリーが抜いていく。
「えぇ、まぁね。森の木々が教えてくれるのよ」
普通なら何を言っているのかわからないのだろうが、イヴは納得した。ありがたく頂戴しようと椅子に腰かけ、二人分の紅茶を注ぎ、一つを啜る。華やかな香りが腹の奥まで暖かく流れ込む。
「あぁ、なるほど!だから昔も、僕が来る前にお茶が準備されてたんですね」
「……えぇ、そうよ。その通り」
エマリーは若干の気まずさを飲み込むように紅茶を口に含む。
「それで、今は何をしているの?」
「あぁ、そういえば最後に会ったのもまだ学校に通っている頃でしたね」
「そうよ。だってあなたはまだ子供だったもの」
「ようやく“坊や”は卒業ですか?」
「いいえ、それはまだよ。言ったでしょ?私から見れば、みんな坊やなのよ」
エマリーの口元にはうっすらと、本人も気づかないほど薄く笑みが浮かんでいた。
「相変わらずおかしなことを言いますね」
「そうかしら。で、最近は?」
「あぁ、そうでした。今は父の工房を継ぐ準備中です。なので毎日朝から仕事漬けですよ」
「もうそんな年になるのね」
「だって、もう十八ですよ。周りの友人たちも、仕事を継ぐなり仕事に就くなりしてるんです。そりゃ、僕だって家業を継ぐようになりますよ」
「世間ではもう大人なのね」
「だいぶ」
「まぁでも安心なさい。私の中ではまだあの小さな子供のままだわ」
「それはそれでちょっと困るんですけどね」
「いいえ、だってあなたは坊やだもの」
「……そうですか、ならもうそれでいいです」
「あら、えらく素直ね」
エマリーが目を丸くした。
「そりゃもう大人ですから。しょーもないことにこだわっても仕方がない。ってことは分かってますよ」
「失敬な」
期待が外れたというようにむすっとした顔で紅茶に向き直る。
「それをいったらこの年に向かって坊やも失敬な話ですよ」
「仕方ないでしょ。坊やなんだから」
ふふふっと自然とエマリーにも笑みがこぼれる。それはエマリー自身も気づかないほど薄く、しかし間違いのない笑みであった。
「またこのお屋敷で何か仕事があれば言ってください。直しに来ますから。あ、新しい家具の注文とかでもいいですよ」
「ありがとう。ただ生憎、今はないわ。一人で使ってるからそうそう壊れないもの」
「まぁ、今後何かあればでいいですから」
「はいはい」
口元に笑みを浮かべたまま、エマリーはまた紅茶を啜った。こんなにも自然な気持ちになるのなんていつぶりだろう。と、エマリーは考えた。とても居心地がよく、とても暖かい。かつて当たり前だったもので、今は失われて久しかった感覚。頭の先までとっぷりと漬かってしまいたい欲望を感じながら、暖かさの隅の方に巣くう深く暗い一点も感じていた。それを思うと、この状況を素直に楽しむことなんて、できるはずもなかった。
それからというもの、イヴは週に何度かエマリーの屋敷を訪れた。最初の方こそ嫌とは言わないまでも怪訝な顔を見せていたエマリーも訪問が当たり前になるにつれてあきらめがついたのか、何も言わず屋敷に招き入れるようになった。そしていつも変わらず、イヴが来る頃に紅茶が準備されているのであった。




