第三章 相反
数日後、空の高さを思い知るような晴天の日、日の光が差し込むうす暗い私室でイヴは身支度を整えていた。今日は学校はない。いつもなら父の仕事を手伝うか、それともリュカや誰かと遊びに行くかするのだが、今日はそのどれでもない。仕事着に近い格好をしているが仕事を手伝うわけではない。鞄に紙とペン、昨日キッチンからくすねたパン一切れをナフキンで包んで突っ込んだ。鞄を肩に下げ、慎重に階段を下る。階段から顔をのぞかせると、一階に人の影はない。確かこの時間は、母は買い出しか仕事に行っているはずだし、父は工房で働いているはずだ。父の工房兼倉庫の扉を開け、ひょっこりと顔を出す。工房には父とトマ、数人の職人の姿があった。納期が迫った工房には絶え間なく木を削り、金槌を打ち付ける工具の音が鳴り響いている。
「ちょっと出かけてくるね」
「おう、遊びに行くのか」
父は手を休めずに聞いてくる。好都合だ。
「うん、そう」
「何時くらいに帰ってくる?」
「多分夕方くらいには帰ると思う」
「あまり遅くなるなよ。シエルが怖いぞ」
父のひらひら振られた手から会話の終わりを悟ったイヴはそっと扉を閉め家を出た。坂道を下り、酒場を通り過ぎる。市場へ通じる分岐路を市場とは逆方向へ進む。足取りは次第に早くなる。だんだんと大きくなる高揚感が、脳の機能を麻痺させる。息遣いが荒くなり、額に汗がにじむ。風が髪を漉き、額の汗が冷えて心地よい涼しさを感じる。この市場と反対の通りは右手に住宅街が広がる以外、何もない。それにこの時間は、大人は仕事に行っているか、買い物に行っているか、子供たちはこの先の空き地で遊んでいる頃合いで、イヴ以外にこの道を歩くものは誰もいない。イヴの理想郷へとまっすぐに続くこの道を独占しているような気分はそう悪いものではない。彼女が森の主であるなら、自分はさながらこの道の主であるような心持ちで、しかしはやる気持ちを抑えられず急ぎ足で、イヴはまっすぐに突き進んだ。
澄んだ空の下、今日も森はイヴを待ち構えているかのように、口を開けてそこにあった。立ち止まり、息を大きく吸って、また吐く。それを二回繰り返す。今日こそは。拳を握り、力を抜く。気持ちを固め、自身を確かめるように一歩を踏み出す。身体が涼しさに包まれる。一歩、また一歩。決してゆっくりではない。ただその一歩一歩がイヴの抱えた思いであるかのように、しっかりと地面を踏みしめる。今日は木々の葉擦れや差し込む陽光など気にならない。イヴの目はただまっすぐに、眼前に静かに、堂々と佇む屋敷を見つめている。屋敷の全景が見えても止まらなかった。ここで立ち止まったら、またこの前のようにそれ以上踏み込むことができないような気がした。東屋が見えた。確固たる、しかしぎこちない一歩を前に押し出しながら片目で見やる。今日は誰の姿もない。ただひっそりと主を待ちわびている。その事実にホッとした。ただその感情を受け入れることはしなかった。受け入れたら、負けだと思った
脇目も振らず直進し、とうとうドアの前に立った。使い込まれた木材の滑らかな光沢が映える、堂々たる扉の前に立ちすくんだ。この扉をノックすれば、その向こうに僕の夢が広がっているんだ。拳を胸の高さに上げ、こちらを向いた掌を握りこむ。勢いでここまで来てしまったが、本当に良かったのか。依頼もない状況で、なんと言い訳すればいい?父にバレたら怒られるだろうか。ありとあらゆる不安が脳裏に浮かぶ。一つ一つがイヴの拳にのしかかる。胸まで上げた拳は、すっかりへそのあたりまで下がりきってしまった。
「あら?」
背後から声がした。途端に背筋がしゃんと伸びる。
「あなた確か、この前の坊や?」
顔が熱い。坊やと呼ばれたことへの怒りなんてこの前もう消え去った。ただ、どうしてこの真っ赤になっているであろう頬を、耳を、見せることができようか。
「は、はい、イヴ・アングラードです」
綺麗な起立の姿勢のまま答えた。
「あら」
貴婦人がクスっと笑うのが感じられる。
「今日はどうしたの?あれからまだ、依頼など出していないと思いますが」
きた。予想通りの質問だ。
「はい、依頼は頂いていませんが、先日修理した家具の調子を見に来ました」
急ぎ調子に上ずった声が余計に耳を赤く染める。
「まぁ、それはどうも。ところで、なんでずっとドアのほうを見て話しているの?私はこっちよ?」
声色から貴婦人の楽しむ姿が目に浮かぶ。悔しいのだろうか。歯を食いしばって必死に顔の調子を戻そうと試みる。うまくいかない。でもこのまま扉のほうを向き続けても不自然だ。仕方なくゆっくりと、うつむきながら振り返る。視界には地面が広がるばかりで貴婦人の足元も見えない。ゆっくりと視線を上げると、冷たく、寂しい顔のまま片手に小さな桶を持って微笑む貴婦人が立っていた。
「あらあら」
そう言ってまた、冷たい顔を微笑ませ艶やかな黒髪を揺らしてクスっと笑った。
「そこで話し続けるのもつかれるでしょう?どうぞ、中へ」
頭の中でマエルの言葉がこだまする。違う。そんなはずはない。自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、マエルの声が大きくなる。いっそ耳を塞いでしまいたい。しかし脳内で流れるマエルの声は耳を塞げばさらに鮮明に聞こえるようになってしまう。やり場のない恥ずかしさを抱えたまま、貴婦人に招かれるがままに屋敷に足を踏み入れた。
「今日は一人なのね」
「はい、父は工房での仕事が忙しくて」
「そう。でも坊やもお仕事をしているのね」
「まだ父の手伝い程度ですけど」
「お手伝いって、何をしているの?」
「父や職人たちが作った作品に装飾を彫って仕上げたり、簡単な家財道具くらいなら職人たちと一緒に作ったりです。だからこのお屋敷に来た時に、外から見える装飾と内側の装飾と、手摺の細部まで本当に夢のようで、こんなおとぎ話にしか出てこないような場所に来ることができて本当に感動したんです!特に外壁に凝らされたアカンサスなんかはもう圧巻で……」
つい喋る過ぎている自分に気づいて慌てて言葉を止めた。額に滲み出る嫌な汗を感じる。イヴの後方、大階段のあたりからイヴを見つめていた貴婦人は、驚いたような様子も見せずに微笑み顔でイヴの話を聞いていた。
「そう」
イヴの突然の沈黙が会話の終わりを意味していると悟った貴婦人が口を開いた。
「このお屋敷を気に入ってもらえてよかったわ。ここには本当に色々な思い出が詰まっていてね。そのどれもが私にとって大切で、輝かしい思い出なのよ」
にこやかに語る貴婦人だが、顔の隅のほうに変わらぬ哀愁が漂っている。ふっとルイとマエルの話が頭に浮かんだ。
「このお屋敷って、いつからあるんですか?」
「いつから?そうねぇ」
まるで記憶をたどるかのように視線を上空に投げ、やがて答える。
「……だいぶ昔からよ」
「どのくらい?……三百年とか?」
「三百年?そんなに経つかしら」
細くスラっと伸びた人差し指を丸め、唇に当てる。眉間にうっすらとしわを寄せ、うーんと考え込んだ。いつも変わらぬ冷たく寂しい表情。その貴婦人の顔が疑問に歪む。イヴは貴婦人に、小さな生を見た。人形のような貴婦人の人間らしい一面を垣間見た気がした。一方で貴婦人はそんなイヴの感動に気づくこともなく考え込んだ挙句、答えが出なかったらしい。もとの表情に戻ってこちらに向き直った。
「ごめんなさいね、このお屋敷が建ってどれだけ立つのか、私にもわからないわ。……それにしても、なんでそんな三百年なんて思ったの?」
曲げた指を口元に当てたまま、困り顔で貴婦人が訪ねる。
「だってこのお屋敷みたいな豪華な建物、ここら辺に全くないし、この町でこういうお屋敷が建っていたのは貴族様がいた頃くらいじゃないとありえないし、それに……」
ルイとの話を思い出していた。三百年前のザルマとエルブライト王国の統一戦争前の地図の話、目の前の貴婦人に確かめてみようか。逡巡の末、その質問を腹の底に隠した。なんだかこの質問は、彼女に対して「あなたは魔女ですか?」と尋ねることと同義なような気がした。
「こんなに豪華な装飾が彫り込まれていますけど、今時ここまでの技量を持つ職人もいませんから」
取り繕った回答をごまかすように笑顔で貴婦人に向き直った。
「よく見てるわね。というよりも、よく知っているわね」
貴婦人はちょっと驚いた顔で答えた。
「友達が新聞社の子で、僕自身も歴史が好きですけど、いろいろ教えてもらったんです。そこで三百年前の地図を見せてもらって、このお屋敷と同じ位置に昔、屋敷があったことが分かったんです」
「良い友達をもっているのね。そういう友達は大事にしなさい。でもごめんなさいね、三百年も前のことなんて、私にもわからないわ」
ホッとした。この人自身が否定してくれてよかった。
「そうですよね、変なことを聞いてすみませんでした」
「いいのよ。せっかく来てくれたんだし、食器棚を見てもらう間にお茶の準備をしておくわ」
こっちよ。と、貴婦人はイヴを追い越してキッチンのある部屋へ消えていった。先を行く優雅で凛々しく弱弱しい姿に見とれていたイヴも、その姿が消えると我に返って後を追った。
様子見なんて建前で、実際のところ食器棚のその後の調子なんて見る必要もなかった。父であるロットが直した家具だ。どう頑張ってもこんな短期間で調子が悪くなることなどあるはずがなかった。背後で貴婦人がお茶の支度をする間、食器棚を無意味に開けては締め、開けては締め、開けたと思たら今度は金具のしまりが緩んでいないか持ってきたドライバーでちょっと占めるしぐさを見せ、気まぐれに「これは……」など言ってみて、いかにもちゃんと仕事をしています。という姿を貴婦人にアピールした。実は何もしていないことがバレやしないかと気が気でなく、視線というか頭ごとずっと食器棚のほうを向いていたものだから、貴婦人が何をしていたかイヴにはわからない。実際、貴婦人はずっとキッチンの椅子に座り、足を組み調理台に頬杖をついていそいそと下手な芝居を打つイヴをほほえましく見ていたのだから、イヴは気づいていなくてよかったのかもしれない。
「うん、えっと、リオンさん……?これと言って問題はありませんでした」
名前があっているかというよりどっちを呼ぶべきかという逡巡の末、何とか欺瞞の仕事の報告を終えた。見た感じ貴婦人は気づいていなさそうだ。一安心し、忙しさではなく緊張から額に浮かんだ汗の雫を、持ってきた“比較的綺麗な”タオルで拭った。
「ありがとう坊や。ちょうどお茶も入ったわ。さぁどうぞ、かけて」
言われるままにちょっと重い椅子を引いて座った。貴婦人が暖かそうな湯気を立ちのぼらせたカップをお盆にのせて運んでくる。目の前に差し出された紅茶は美しい琥珀のように透き通っていた。
「お気遣いありがとうございます」
「以前から言葉遣いは随分大人びていると思っていたけれど、坊やそういうことも言えるのね」
ちょっとムッとした。
「父の仕事についていくことも多いので、当たり前です」
口早に言い捨てて紅茶を一口すする。
「ごめんなさいね、そんなムキにならないで頂戴」
「ムキになんてなっていませんよ」
「そうかしら、なんにせよ、言葉遣いがしっかりしているというのは一生ものの魅力なのだから、誇っていいわ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「あらあら」
それこそムキになって普段使いもしない仰々しい返事をしたイヴを、またしても貴婦人はさも楽しそうに微笑んで観察していた。ただ見ているというよりも、イヴの反応をうかがい、掌の上で転がされるイヴを楽しんでいるかのように。そんなことはのは当のイヴ自身も気がついていた。
「そんなに人をからかうのがお好きなら、なんでこのお屋敷に誰も訪ねてこないんです?町の人とか、いろんな人を呼んだりしてお話すれば、もっと楽しいでしょう」
「そうかもしれないわね」
貴婦人があっさり認めた。
「でも、私はこの森が大事だし、ここから外に出る気はないわ。それに、私は一人で過ごす時間も、結構好きなのよ」
「そういう割には僕で遊んでるあなたも楽しそうですけどね」
「あらそう?ごめんなさね、普段あまり人と関わらないし、ましてや坊やくらいの年齢なんかだと特にね。だから……」
「……だから?」
「だから、新鮮なのよ」
「はぁ、そういうもんですか。でも僕は、もっといろんな人に会ったほうが良いと思いますよ」
魔女という疑惑を晴らすためにも。
「いいえ、別にこのままで構わないわ。それに多分、私はここにいるだけで、あなたは訪ねてくるんでしょう?」
紅茶を口に当てたまま固まってしまった。
「あら、なにかいけないこと言ったかしら」
貴婦人がしたり顔で見つめる。耳の端まで熱くなる。自分の顔が赤くなっているのを感じる。眼前のティーカップ越しに見る貴婦人は第一印象からは程遠く生き生きとした微笑みを浮かべていた。これまで見えていた寂しさのようなものは見えなくなっている。
「今日は仕事で来たので……」
「隠さなくても大丈夫よ。別にお父様に言ったりしないわ」
「何も隠してなんかないですよ」
「そう?そういうことにしておいてもいいけど、噓をつき続けるのもなかなか大変よ?」
こちらをまっすぐに見つめる貴婦人の目がイヴを追い詰める。蛇に睨まれた蛙とはこういう気持ちなのではないだろうか。体どころか臓腑までもが縮こまる心地がする。
「……すみません、確かに、今日の仕事というのは嘘です。普通は修理したらそれで終わりなので」
「そうでしょうね。それで?本当は、何用で?」
そこまで突っ込んでくるかと脳が急回転を始める。浅はかだった。仕事というウソがばれることは予測していたがこの状況は予想だにしなかった。貴婦人のすべてを見透かすような目に耐えられる気がしない。かといって真実をそのまま話してしまうのは、自身の名誉のためになんとしても避けなければ。
「今日は……本当はこのお屋敷を見たくて来ました」
「屋敷を?そうなの」
嘘は言っていない。ただベールのようにうっすらとした罪悪感には包まれた。
「屋敷が見たいなら、そう言っていらっしゃい。別に見るだけなら拒んだりしないわ」
仕方がない。という言葉をはらんだようなため息とともに貴婦人は告げた。
「本当ですか!」
思わず椅子から立ち上がってしまいそうになった。ギリギリ腰がちょっと浮いたくらいで動きを抑え、貴婦人に熱烈な視線を送った。
「えぇ、本当よ。見るだけなら減るものではないし、このお屋敷が好きって言ってくれるのは、主としても嬉しいものよ。ただし、次からはちゃんと玄関を叩いてちょうだい。無言で立っていても気づかないわ」
「わかりました!次からはぜひ!」
イヴは舞い上がりたい気持ちでいっぱいだった。屋敷を見に来る許可を得られたことよりも、今後もここに来て良いと言われたことに。嬉しさに胸を躍らせ、体も踊りださんばかりに椅子の上で気分が高揚するのを感じる。あぁ、なんと幸せな日だろうか。
「それで、今日はどこか見て回る?」
どうしようかと部屋を見まわしていると壁に掛けられた小さな時計を見つけた。お皿一枚ほどの小さな時計。静かにすれば耳に届く秒針の音が、あの時計はまだ生きているのだと知らせる。短針が四の数字に首を垂れ、長身は左へまっすぐ伸びている。これはまずい。そろそろ帰らねば不審がられる。こういう時の母の勘、母の言うところの女の勘は鋭い。この世界の隙間という隙間に潜んでいるのではないか。そして隙間から隙間へと瞬間移動でもできるのではないかと思うくらいにイヴの嘘を見抜いてくる。その母の前ではどんな作りこんだ嘘も、もちろん思い付きで口から出した嘘も役に立たない。さっさと白状してしまうのが一番楽とも思えてしまう。もっと貴婦人と話をしていたいという欲を理性で抑え込み、時計へ向けたまま固まっていた視線を貴婦人に戻した。
「本当はもっと見てみたいんですけど、ごめんなさい、これ以上遅くなると親が心配するので……」
「あら、それは仕方ないわね」
特に落胆する様子もないことに、わかっていたことではあるが、気落ちした。貴婦人はそんなイヴを尻目に席を立ちあがる。イヴは慌てて目の前でぬるくなった紅茶を飲みほした。自身とイヴのカップをシンクへ移した貴婦人はイヴに向き直り、掌で部屋の入口、貴婦人の視線からはその先にある玄関口を指示した。
「とりあえず早く帰ってあげなさい。あまり人を待たせるものじゃないわよ」
指示されたほうを見て立ち上がろうと手足に力を入れる。が、名残惜しさにどうもうまく力が入らない。どうしようもなくそのまま部屋の入口を見つめ座り続けるしかなかった。
「別に今日を逃したからって平気でしょ。私はこの森から出ないもの。町にもいかないし、ましてや他の場所へなんていかないわ。……この森は私の大切な場所だもの」
ゆっくりと貴婦人に視線を戻す。
「……わかりました。お言葉に甘えて、また来ます」
それだけ言って今度こそ重い尻を椅子から引きはがして立ち上がった。貴婦人の示す手のひらを追うように部屋を出た。貴婦人は後ろを歩いてくる。玄関扉を開け、夢と現実の境界が露になる。来た時とは裏腹にうっすらと嘆息をつき、右足を現実へと送り出した。続いて頭、肩、腰、左足。全身を現実の世界へと浸して、夢の世界へと向き直る。その先には貴婦人がいた。やはり彼女は、エマリー・リオンというこの人物は、イヴの夢なのだ。
「今日はありがとうございました。嘘をついてごめんなさい。お茶、おいしかったです」
深々と頭を下げて「では」と踵を返した。
「あ、そうそう」
歩き去ろうとした瞬間、貴婦人が呼び止めた。
「別にいつ来てくれてもかまわないのだけれど、お友達を連れてくるのはやめて頂戴ね。来るならあなた一人でいらっしゃい」
イヴ自身考えてもなかった願いに面食らった。やはり彼女は、巷で自身が魔女と呼ばれていることなど知らないのだ。別にそもそも行こうといってここに来るのなんてルイくらいしかいないし、リュカは絶対に来ないだろうから、わざわざ頼まれなくても願い通りになる。「わかりました」と返事をして、今度こそ歩き出した。森を出るまで屋敷を振り返らなかった。振り返ってしまえば、また心が屋敷につながれてしまうような気がしたから。
太陽が空を鮮やかな茜色に染めている。木々も、建物も、町行く人々までも、目の前の一切が茜色に染まる。思わず目を細めたくなるような夕暮れが町全体を彩っている。このくらいの時間、だいたいの人は家か市場に集まる。森を出たイヴを待ち構えていたのは人々の喧騒ではなく、鮮やかな光に彩られた静寂であった。誰もいない、美しい空間に思わず足踏みした。御伽噺に出てくるような世界が眼前に広がっていた。神々しさにおもわず嘆息する。それはまるで、運命の出会いに大きな一歩を踏み出したイヴへの祝福のようでもあった。
家々と森に挟まれた道を抜け、酒場の前に出た。酒場を覗くと、トマとロットが机を囲んでいる。楽しそうに酒を酌み交わす二人の表情から察するに、今日の仕事はうまくいったらしい。なにか手間のかかる製品を仕上げたとか、そんなところだろう。仕事中は険しい顔をする二人でも、こういう顔をすることもあるのだ。酒場のウエスタン扉を開き、汗とアルコールの混じった濃厚な臭い漂う空間に足を踏み入れる。途端に汗と油でべっとりとした空気が夕暮れの涼風に吹かれた素肌にまとわりつく。いつ来てもこの気持ち悪さは慣れることがない。髪までベタベタしている気がする。入って早速、外のさわやかな空気が恋しくなってしまった。あちこちのテーブルに座る男たちはみな恰幅が良く、盛り上がった衣服の下には隆々とした筋肉が詰まっている。普通にしていても巨大な体躯が所狭しと椅子に腰かけている、おかげで通路は驚くほど狭く、子供のイヴが横歩きでやっと通れるほどだった。
肉達磨のような群衆の合間を縫い、父のほうへ近づいていく。
「おや、随分小さいお客じゃねぇか」
左手から呼び止められたが、声の主は肉達磨たちに遮られて姿が見えない。姿は見えないがこの声は知っている。
「小さいは失礼ですよ、マクシムさん」
「すまんすまん、ついからかいたくなっちまってよ」
「あまり変なこと言ってるとまたルイーズさんに怒られますよ」
「大丈夫だよ、イヴ相手なら」
「どういうことですか?」
背後から声が重なった。振り返ると右手に空になったジョッキを三つ載せたお盆を持った女性が立っている。決して高くはない身長だが、その堂々たる佇まいからこの酒場の裏店主と呼ばれていることも納得できる。長いブロンドの髪は腰のあたりで結ばれ、歩くのに合わせて左右に揺れている。この肉達磨の集まる酒場において唯一異色な存在であり、にもかかわらず彼女にかなう存在はいない。それがルイーズだった。
「イヴ君だってもう数年もすれば一人前の大人になるんですから、そんな物言いは許しませんよ」
「そうはいってもよ、こんな小さいころから知ってるんだぜ?からかうなってほうが無理があるだろう」
「かんべん」というように鷹揚に両の掌を顔の両側にさらす。
「いいえ。現に私をごらんなさい。少しもイヴ君を子ども扱いしてないじゃありませんか。都合の良いものだけ見てお気楽なのは良いですけれど、そう言うところが玉に瑕っていうんですよ」
「おいマクシム!こりゃ勝ち目ないぞ」
「そろそろあきらめて謝っとけよ」
「夫婦漫才はもう飽きたよ!のんけならよそでやれ!」
「マクシムが謝んないならもうこの店にはこねーぞ!」
酒場中から冷やかしやマクシムへの同情が叫ばれる。酒場の空気がちょっとばかし変わり、イヴを挟んで立つ二人に衆目が集まる。
「わかった!わかったから、落ち着けよ野郎ども」
ふんっと肉達磨たちの声援を背に得意げに立つルイーズにマクシムは跪いた。
「俺が悪かったよ、最愛のルイーズ。もうこんな争いはこれっきりにして、一緒に魅惑の草原に旅立とう」
「素敵な冒険だわ」
茶番に一同が盛り上がる。あちこちで主演の二人に杯が掲げられ、酒場の隅では止められていた陽気な音楽が勢いを増して弾かれる。毎度毎度このやり取りに飽きもせず、皆が集うこの酒場は間違いなくバラケ一の娯楽だ。
「すまんかったな、イヴ殿」
マクシムから詫びでもらったジュースを片手に酒場を奥へと進む。皆イヴがいることに気づいて道を開けてくれている。通れば閉じるその道は、何とも汗臭い魔法の迷路のようであった。
「なんだイヴ、随分人気者になったじゃねぇか」
酒が入り頬を上気させたロットがゲラゲラと笑いながらイヴの肩をつかんだ。
「ほんと来るたびにあぁなるな」
「やってほしいなんて一言も言ってないんだけどね」
「まぁみんなあの夫婦漫才を楽しんでんだ、大目に見てやれよ」
そう言ってトマはグイっと杯を傾けた。
「そんでイヴ、今日はどこへ行ってたんだ?休みにちっとも工房に顔を出さないなんて珍しいじゃないか」
「友達に呼ばれて遊びに行ってたんだ」
「そうかそうか、今のうちに遊んどけ!大人になりゃお前も、問答無用で親父を継ぐんだからな。そうなりゃ遊んでる暇なんかなくなるさ」
「でも割と頻繁にここにいるよね」
「これが大人の、唯一の娯楽なんだよ」
「なんか大人って、寂しいね」
「なんだよ痛いところついてくるじゃないか」
笑いながら残っていた酒を、トマは一気に飲み干した。
「それにしても何か良いことでもあったの?」
「ん?どうした」
眠そうな目をこすりながら父が問い返す。
「いや、こんな時間から酒場にいるから、何か良いことあったのかなと思って」
「おー、名探偵。良い推理だ」
上機嫌に状態をそらした父。どうしよう。出来上がっている。これを連れて帰るのは至難の業だろう。いや、連れて帰った後が問題か。母が何というか。心配をよそにロットはトマと意味あり気に目を合わせた。二人してニヤっと口元をゆがめる。
「今日はな、特になんもない!」
ニカっと笑ったロットの屈託のない表情が余計に真実味を増幅させる。
「え、なんもないの?」
「あぁ!なんもない!けど今日はなんか良い日だったからな、祝杯だ!」
ロットとトマは杯をぶつけ合いグイっと飲み干した。
「本当大人って、時々理解できないや」
「それはまだお前が子供ってことだな」
「ほら、大将、杯も尽きたことだし、その辺にしとかないとシエルさんに大目玉喰らいますよ」
こちらも酔っぱらっているトマが赤面でロットをたしなめる。
「あー、それは嫌だな」
「そうだよ父さん、また夕飯抜かれるよ」
「うん、よし、帰ろう!」
ドンと机を掌で押しつけ立ち上がったが、そのまま背後にいた別の客に倒れこんだ。
「おいおいなんだよ、飲みすぎだよ木工屋」
「うちの大将がすみませんね。すぐに引っ張っていきますんで」
「おいトマじゃねぇか!」
倒れこまれた客もだいぶ酒に酔っているみたいだ。イヴは会ったことはなかったが、トマとどういう知り合いなのだろうか。
「トマ、前から言っているが、お前うちで働かないか?給料は弾むぞ?」
トマが引き抜き?仮にもそんなことになれば、ウチの仕事は回らなくなる。冗談じゃない。しかしトマは赤くなった顔で何を考えているか全く読めない表情で、相手をまっすぐ見つめている。
「それですがね、前から言ってますがお断りしますよ。私はロットさんの職人なんで」
「ちぇー、つれねぇな」
「もし俺にやってほしい仕事があるんなら、ロットさんに依頼してくださいよ」
見ている方としてはひやひやものだが、当の二人は笑顔で握手を交わして終わったようだ。イヴもホッと胸をなでおろす。「それじゃ」と挨拶を交わしたトマが倒れたロットを拾い、イヴがロットの財布を拾った。店を出るトマと引きずられる父を先に行かせ、イヴは父の財布をもってマクシムのいるカウンターへ。父の勘定をするのは初めてではない。とはいえ何度やっても違和感は拭えないものだ。
「おや小さいお客さん……」
カウンター越しに背後から何かを感じたようだ。
「じゃなくって、イヴ、お父さんの勘定かい?」
「はい、いくらです?」
「今日は……三千ライトだ」
「え、三千?」
ビールは一杯三百ライトだったはず。二人のテーブルにはジョッキ二つ。それ以外に皿も何も置かれていなかった。それが三千なら、だいぶ飲んだな。と、心の中で唖然とした。普通の人なら何も驚かないのかもしれないが、ロットは決して酒に強くはない。ロットにしては稀に見る呑みっぷりだった。
支払いを済ませウエスタン扉を開け、店の前で待っていたトマと合流した。父は汗で額に髪が貼り付いたまま、気持ちよさそうな顔でトマに片腕を担がれている。二人はそのまま、ゆっくりと歩を進める父に合わせてイヴの家へと歩き出した。さっきまでのベタついた空気や髪にまとわりついた嫌な感じを吹き流すように夜風が優しく髪を梳く。この調子なら家に着くまでに父の酔いも多少は冷めるだろう。最初に沈黙を破ったのはイヴだった。
「トマさん、さっきのお客さんって、知り合い?」
「あぁ、前からのちょっとした知り合いだよ。会うたびに俺のことを口説こうとしやがる。悪い気はしないが、相変わらずしつこいんだよ。でも問題になることはないから、心配すんな」
いつもの優しい笑みでイヴを見つめる。幼い頃からこの笑顔を見ると、全て問題ないかのような安心を感じていた。しかしこの時ばかりは、その笑顔がイブを余計に不安にさせた。
「でも、トマさんに来てほしそうだったよね」
「もうずっとだよ。顔を合わすたびに言ってくる。毎度断ってるし、行くつもりもないけどな」
「あの人のところは嫌なの?」
「いや、嫌ってわけじゃない。別に何かをされたとか、悪い噂があるとかでもないしな。ただ、俺は大将に昔っから恩があるからな。何があっても他へは行かないよ」
空いた方の手でイヴの髪をくしゃくしゃと荒らす。久しぶりに触れたトマの手は、大きくごつごつとしていて、それだけで彼がどういう人生を歩んできたのかを語っているようだった。
「イヴもそのうち俺らの棟梁だ。期待してっからな」
疑いのない信頼を向けられどこかむず痒い。
「うん、頑張るよ」
頭に置かれたトマの手に自分の手を重ねる。そっと握り、自分の気持ちに正直に、未来へ向けた決意をその手に包んだ。
家では玄関を開けたシエルが父を見るなり頬を引っぱたいて家の中に引きづって行った。玄関前で気の毒に思いながら笑うイヴとトマを見て、またシエルは角をはやした。トマに対しては連れ帰ってきたことの感謝を述べつつも「一緒になって寄ってないで止めてよ」と文句を吐く。「すまんすまん」と謝るトマの横に立つイヴに対しても、これまた角をはやした。
「なんでこんな時間まで帰ってこなかったの」
時計はすでに一九時。いつもなら夕飯が並べられる頃合いだ。
「夕方ごろに酒場前についたんだけど、中に父さんとトマさんが見えたから、つい」
「それならそうで構わないけど、こうなる前に連れて帰ってきてよ。大変なんだから」
母の指さす方を見やれば、地面で堂々といびきをかいて寝ている父がいる。今日はイヴが思っているよりずっと酔っていたようだ。
「しょうがないじゃないか、行った時にはもうこれだったんだもの」
「そうなの?」
胡乱な目でイヴを見つめる。
「もう、ほんと、夕飯が余っちゃうじゃない」
大きないびきをかいている父をそのままに、母は淡々と夕飯を並べ始めた。今夜はシチューだ。
週の短い休みが終わり、翌日からまた学校が始まった。いつもなら歴史の授業や、友人との語らいや、果ては教室の窓から眺める空想の世界か、何かしらに楽しみを見出し、一瞬一瞬を惜しく過ごす学び舎が、今のイヴにはもどかしく、まるで檻に入れられているかのように感じられた。まだ一週間が始まったばかりだというのに、どうしても週末の休みが思われてならない。本音を言えば、学校などすぐに終わらせて、いますぐにでも屋敷に行きたい気分だった。
週の半ばを過ぎてもイヴの思いは変わらない。学校の帰りは誰とも話さず急ぎ足で坂を下った。毎度毎度新聞社の前を右に逸れ、遠くからでも屋敷を眺めて帰路に就く。夕方の時間では、さすがに外から貴婦人の姿を見ることはかなわなかった。故に次の逢瀬の待ち遠しさが日に日に募っていくのだった。
週の終わり、土曜日は父の仕事の手伝いに費やし、日曜日、イヴは再び森へ足を踏み入れた。森は今日もイヴを歓迎している。ドアの前に立ち、今度は許可を得ているという自信を胸にノックする。少しして扉が開かれた。この前と、さらにその前と全く変わらない装いで、胸に青くきらめくブローチをとめた貴婦人が立っている。
「本当に来たのね」
驚く様子もなく、呆れたように貴婦人が言う。
「はい、来て良いって言われたので」
「まぁ、言ったけれどもね。軽率だったわ」
「……嫌でしたか?」
「いえ、いいのよ。気にしないで。私はお邪魔しないから、好きに見て頂戴」
思いがけない言葉に思考が一気に駆け巡る。どうしよう。どこから見よう。目に入るものすべてがイヴの好奇心を刺激する。今日こそこの屋敷の謎を解いてやる!そう急く心がイヴの頬を上気させる。
「裏のほうに回っても?」
決意を固め、まだ見たことのない屋敷裏を願い出る。
「えぇ。構わないわ。でも、裏は物置き以外には本当に何もないわよ。それでも良ければいいけれど。あぁでも、そこの東屋のまわりはあまり触れないで頂戴」
貴婦人の指さす先にはいつもの東屋。ドーム状の屋根がそよ風に吹かれて佇んでいる。その向かい、屋敷の側にはよく手入れされた色とりどりの花々が二つの石碑を守るように咲き誇っている。
「あの東屋のあたりに綺麗な花が咲いているのよ。私も手入れしているものだから、あの周りはやめてね」
以前来た時に貴婦人が眺めていたのは、その花なのだろうか。
「わかりました」
「じゃあ、何かあったらまた呼んで頂戴。私は中にいるから」
そう言って扉が閉まる。森の木々によって生まれた静寂に、イヴだけが取り残された。
屋敷の正面はイヴの記憶と、それを頼りに描いたスケッチと何も違わない。あの日以来夢にも見たそのままの姿だった。屋敷の右手を回って裏へ抜ける。裏手は貴婦人の言う通り長らくあけられていないであろう物置があるくらいで、表とは打って変わって手入れのされていない植物が生い茂る自然の空間だった。見渡して目に付くのはどこまでも続く木々と、あちこちに生い茂る低木だった。ただよく目を凝らせば目につく。緑に覆われてはいるが、ところどころに穿たれた不自然なくぼみがイヴの目を引いた。すでに草が覆いつくし、ぱっと見ただけではおそらく気づかないであろうその窪みは、ちょうどイヴの身長くらいのものからもう少し小さいもの、浅くともより大きな窪みまで種々雑多なものであった。歩いて近寄ってみても遠目から見るのと大して変わらない。まばらにあちこちに点在しているそれは自然にできたにしては狭い範囲に密集していて、光も、空気も、この荘厳な屋敷までもすべてが調和した美しい森の中で、屋敷正面からは想像もつかないような違和感を見る者に与えていた。屋敷に近い位置に建てられているやや大き目な物置も蔓に覆われ、長い間全く開けられていないことが見て取れる。ノブを握って押し込んでは見るものの、内側の金具が錆び切っているのかビクともしない。どうやらこの屋敷の影の部分を見てしまったに違いない。罪悪感のような気持ち悪さを抱えながら屋敷の表に戻ったイヴだが、不思議と後悔は感じなかった。
あの日と同じように、貴婦人は東屋の屋敷に向く椅子に座って、屋敷の壁をぼんやりと眺めていた。テーブルにはティーポッドと、ティーカップが二つ。貴婦人のものと先日と同じ客人用のものが置かれていた。
「紅茶、ありがとうございます」
貴婦人の斜め前に置かれた椅子に、屋敷の扉を背に腰かけ語りかける。
「いいのよ。ちょうどそろそろ戻ってくるかと思っていたところ。裏、何もなかったでしょ?」
視線が合わない。貴婦人はずっと、どこかわからないところを眺めている。
「はい。屋敷の正面と全く違いました。なんというか、荒れ放題で」
「そうでしょう。とても一人では裏まで手が回らなくてね。物置もあんななのよ」
「誰かに頼んだりはしないんですか?」
「前にも言ったでしょう?私はあまり人とかかわるのが好きじゃないの。あの物置はもう長いこと開かなくなっているから、別にあのまま開かなくても困らないわ」
「……良ければ修理しましょうか?」
「いいえ。大したものも入っていないし、今更新しく入れる物もないから」
イヴの目論見はあっけなく粉砕した。
「……裏の景色は……なんというか、悲しい感じがしました」
沈黙にぽろっと、口にはすまいと思っていた言葉がうっかり零れだす。言ってはいけないと理性でわかっていても本能が口をつく。貴婦人は黙って屋敷の壁を見つめている。気のせいか、胸元にとめられたブローチが輝きを増していた。
「……あのいくつもの穴は、とても自然なものとは思えません。本当に、お屋敷の表と裏で、世界が違いました」
ふふっと貴婦人が笑う。どこか冷たい、乾いた笑い。
「そうでしょう?美しいものはただ美しいだけじゃない。だいたい何かしら、影を抱えているもの。このお屋敷で言うところの、あれね」
ようやく貴婦人と視線が重なった。貴婦人は微笑んでいる。
「あれは、いったい何なんですか?」
「さぁ、あなたはまだ、それを知るには早いわよ」
まただ。またいつもの口癖。身体の内が熱くなる。
「……子ども扱いはやめてください」
今度はイヴが視線をそらし呟いた。
「ごめんなさいね。あなたを見ているとつい」
ふふっと口元に手を当てて貴婦人が笑う。今度はちゃんとした、暖かな笑い。
「でもね、別に子ども扱いしているわけじゃないの。本当よ。前にも言ったでしょ?私からすれば、誰でもみんな坊やみたいなものなのよ。それに、これは悪気はないのだけれど、あなたはまだ幼いわ。もっと大きくなって、世界のことをもっと知るようになったら教えてあげる」
ふぅとため息をついて、貴婦人が紅茶を口にする。イヴも倣って紅茶を飲む。紅茶はすでに冷たくなってしまっていた。そんなに長い時間話していただろうか。
「最近、日が長くなってきましたね」
「そうね」
「これだけ木々に囲まれていると、朝の鳥の囀りとか、心地よく聞こえるんじゃないですか?」
「そういえば久しく聞いていなかったわ」
貴婦人が意表を突かれたような素っ頓狂な顔を見せた。
「え?こんなに木々が生い茂っているのに、鳥、いないんですか?」
「多分いないわ。もうずっと見ても聞いてもいないわ」
「こんなに住みやすそうなのに、一羽もないなんて」
「人間にはわからない感覚なのかもしれないわね。動物の感覚って人間より鋭いなんて言うこともあるじゃない?そういうものが反応するのかもしれないわね」
「なにに?」
「さぁ。私にもわからないわ」
貴婦人はまたふふっと笑った。イヴも自然と笑みがこぼれる。平和な時間だった。
それからイヴは何度も貴婦人の屋敷に通った。毎週末に一回程度、たまに父の仕事の手伝いで行けない日もあったが、それでも一週間以上間隔を空けることはなかった。行くたびに新しい顔を見せてくれる屋敷は毎度イヴを楽しませたが、さすがに数か月経つ頃には大体の外装や、キッチン回りだけなら脳内で完璧に再現できるほどに観察をし終えていた。数か月経つうちに、貴婦人と何度も言葉を交わした。他愛もない話しかしていないが、それでも貴婦人と話すことができる時間はイヴにとって愛おしいものであった。貴婦人はいつも変わることのない寂しさの中に一人佇む悲劇のヒロインのようであり、ただ回数を重ねるうちに、ほんの少しばかり貴婦人の雰囲気が変わったような気がした。はたから見れば気づかないかもしれないほどの変化だが、イヴは確かに胸に煌めく宝石のように鮮明に感じていた。
翌週、町に昼過ぎの鐘がなる。そろそろ来るかと自室で読んでいた本を閉じ、マッチをこすって明かりに火をつけた。キッチンで湯を沸かし、客をもてなす準備を始めた。一人ではあまり使わないマッチもここ数週間でずいぶん減った。前に買ったのはいつだったろう。そろそろ新しいものを買わねばならないのではないか。いつもならあと数分ほどで扉がノックされるはずだ。ここまでの準備は完璧。後は坊やが来るのを待つばかり。キッチンの椅子に腰かけ読みかけだった本を再び開く。この本もすでに結末は知っている。既に何度も読んでいる。もう一回読んだ感動というものも発見しつくした本だが、それでもめったにない来客を待つ分には役に立った。本には心を落ち着かせる作用があるのかもしれない。
少年を待つ間に気づけば日は西に傾き、沸かしていた湯はすでに冷め始めた。
「今日は来ないのかしら」
胸に煌めくブローチを撫でる。まさかまたノックなしにドアの前に佇んでいるのではなかろうかと玄関を開けた。しかしもちろん、予想に反することなく少年はそこにはいない。
「仕方ないわね」
いないならいないで良い。いつも通りの静かな一日に戻るだけだ。冷めきった湯を玄関前の森に撒き、屋敷の戸を閉めた。
翌週も同じように湯を沸かし、同じ本を読み、少年を待った。しかし、待てど暮らせど玄関を叩く音は聞こえない。今まで二週も空くことなんてあっただろうか。それとももう飽きたか。
「仕方ないわね」
先週と同じ言葉を吐いて上げる腰はいつもより重かった。
それから数週間、決まった時間に湯を沸かし、同じ本を読んだ。しかし一向に少年は現れない。終いには読んでいた本も読み終わり、再び一ページ目をめくる羽目になった。さすがのエマリーもこんなに空いては無関心でいられない。あの少年のことだ、もう来なくなるならその報告くらいは来そうなものだ。それとも本当に飽きただけか。万が一にも少年に何かあったのではないか。尋ねに行くわけにもいかずやきもきした。長らく感じることのなかった感情、久しぶりにもかかわらずすんなりと、その感情が焦燥であると感じる。かつて感じたものと同じ、人の生き死に焦る気持ち。心地よいものではない。できることならもう感じたくない気持ち。再び感じてしまったもの悲しさを無意識に塗り替える。別に来ないなら来ないで、今まで通りの一人の生活に戻るだけ。この数か月が異常だっただけ。そう思えばいくらか焦りも減るように思われた。が、そう上手くは行きそうもない。エマリーの焦りは日を追うごとに大きくなっていった。自分がいかに、あの少年を心待ちにしているかということは自覚していた。それはもう、長い間訪れることのなかった来客だ。それにあの幼さだと他意や悪意というものも感じない。あってもわかりやすいもので、関わる相手としては何の苦労もない。ちょっと掌で転がしてやればそれはそれで面白い。エマリーはまたとないおもちゃを見つけた。ただそれだけではなく、純粋に少年との会話を、かつての日々と照らし合わせて楽しんでいる自分がいる。気づけば自分は、次はまだかと少年の来訪を待っていた。まさか来客が待ち遠しくなる日が再び来るとは思いもしなかった。ともすれば他人との関りを恐れていた自分が。しかしエマリーという人間の中で、ここまで少年の存在が大きなものになっていたことを、エマリーは今初めて、自覚した。それは自然のように見えて不自然で、エマリーにとって、起こしてはならないと誓った、心の動きであった。
町に昼過ぎの鐘が鳴る。ベッド脇の窓から吹き込む風が、汗ばんだ額を冷やしていく。心地よい風に撫でられながら、無念に染まった心を慰める。日頃病気なんてしないはずなのに、どうしてこう楽しみが待ち受けている時に限って病気なんてもらうのだろうか。ベッドの右側にある小さな棚には切られた果物が置かれている。そのうち一つにフォークが刺さっているが、体をおこして口へ運ぶ気が起きない。体が熱い。しかし布団から出ると真冬の山のように寒い。体を起こし布団に外の空気が流れ込むだけで死ぬんじゃないかと思うくらいに体が冷える。体の芯が冷えるとはよく言うが、なるほどこういうことかと実感した。窓の外を眺め、行くに行けない貴婦人の屋敷に思いを馳せる。来週にはよくなって、再びお屋敷へ行けるだろうか。あの森が、貴婦人の入れる紅茶が恋しい。できるなら今すぐにでも布団から飛び出して、駆けてゆきたい。が、それがかなわぬ願いであることは重々承知していた。自分の体調くらい、自分でわかっている。この熱はそうそう下がりそうにない。コンコンッとドアをノックする音が聞こえる。
「イヴ、入るぞ」
空いた扉から着替えを持ったトマが現れる。今日はちょうど両親ともに忙しい。母は仕事を休めないし、父は家財の納品期限に追われている。どうやらその仕上げに手間取っているらしく、ちょうど自らの工程を早々に終えたトマがイヴの看病に駆り出されているらしい。
「すみません、トマさん。こんなこと任せちゃって」
「こんなことって?」
「その、仕事じゃあないのに僕の看病をしてもらっちゃって」
トマは破顔した。
「なぁに、いまさらよ。こちとらお前のおしめから面倒見てんだ。これくらい糞のついたおしめと比べりゃなんともねぇよ。ほら、着替えろ」
汗でぬれた服を脱ぎ、投げ渡された寝間着に着替える。脱いで床に投げ捨てた服はビチャ!っと音を立てて地面につぶれる。なんと、絞れそうではないか。そりゃあ体も冷えるはずだと、イヴは納得した。
「ありゃ、果物全く食ってねぇじゃねぇか。せっかく剝いたんだ、ちゃんと食っとけよ」
乾いた服の代わりにびしゃびしゃになった服を抱えて、トマは部屋を出て行った。
寝込み始めて三日が過ぎた頃、いつものごとくトマが部屋の扉をノックした。
「イヴ、お前の友達が会いに来てるが、どうする?」
リュカかと思ったが、途端にその考えは霧散した。リュカが来るわけがない。だって、けんか別れしてそのままなのに、それでも家に見舞いに来る度胸なんて、魔女だと信じて疑わなかったリュカにできるはずがない。そうなると心当たりがない。
「え?だれ?」
思わずトマに問うた。
「同じ学校のルイって言ってたぞ」
「ルイ?」
再び扉がノックされ、返事をした。ドアがそっと押される。
「やぁ、イヴ。体調はどう?」
鉛のように重い体をぐっと起こす。
「あまり体調なんて崩さないからさすがにしんどいよ。それにしてもルイが来るとは思わなかった」
「うん、僕もてっきりリュカがいくと思ってた」
「あぁ……それは」
胸にほんのちょっとばかりの罪悪感が棘を刺す。
「ちょっとケンカしちゃって」
「あぁ、それでか」
「なにが?」
「学校でリュカに、見ないに行かないの?って聞いたんだけど、すぐに嫌な顔をしたから不思議だったんだ。あぁ、そういうことだったんだね」
「そんなに嫌な顔をしてたのか」
リュカの不満げな顔が目に浮かび思わず笑いがこみ上げる。さしずめ自慢の金髪をくるくるさせて、瞳の色に合わない闘志をたぎらせているに違いない。リュカは僕より圧倒的に、僕も他と比べてそうであるが、根に持つタイプなのだ。
「もうすごかったよ。だって……」
「いや、言わなくてもなんとなくわかるよ。リュカとは付き合いが長いから。で、学校の何か持ってきてくれたの?」
「いや、特に何も」
「え?じゃあ何でここへ?遠かったでしょ」
「まぁこのくらいの距離なら全然。新聞配達とかであちこち行ってるから。今日はただ様子が気になったから来たのと、あとは聞きたいことがあって」
「なに?」
もじもじしているルイの様子がもどかしくイヴから問いかける。
「あのお屋敷、どんな感じだった?」
「……え?お屋敷?あの森の?」
唐突な予想外な角度からの質問に頭が追い付かない。
「そう。ほら、前にお父さんの仕事で行くって言っていたじゃないか」
「あ、あぁ、そうだっけ」
ついうっかり、貴婦人のことは誰にも話すまいと心に誓うあまり、既にルイにあの屋敷への出入りを知られていたことを忘れていた。
「そうだよ。なのにあれから全く教えてくれないんだもの。だから今日来たんだよ。いつもは学校が終わったら吸いなくなるけど、今日なら君、ここにいるし逃げられないしね」
「うっ、あくどいな」
ルイの顔がニマっと歪む。
「……それはもう、凄かったよ」
観念してイヴは見たそのままを語りだした。自らが描いた、現実と寸分違わないスケッチを持ち出し、ありありと屋敷の美しさを語った。
「あぁ!やっぱりあのお屋敷は、はるか昔からあそこに佇んでいるんだね!」
全てを聞き追いえたルイが頬を紅潮させている。めったに見せない表情にイヴは面食らった。が、その気持ちはイヴも痛いほど理解できる。
「本当に魔女みたいな人だ」
「ルイ、それは違うよ」
「え?」
「あの人は魔女なんかじゃない」
「そうなの?でも、見た目は若々しかったんでしょ?」
「それはね、そうだよ。でも、あの人は魔女なんてものじゃない。そんな邪悪なものじゃないんだ。そんなものじゃなくて、ただの貴婦人なんだ」
「ただの……貴婦人?」
「そう。ただの貴婦人」
イヴのまっすぐ見つめる瞳を、ルイも見つめ返す。何かを悟った表情でルイが答えた。
「うん、わかった。じゃあ今日から僕も、あの人のことは貴婦人さんって呼ぶことにするよ」
それからひと月ほどが過ぎ、ようやくイヴの体調も元通りになった。久しぶりに外の空気を全身で感じ、思い知った健康のありがたみを噛み締める。溜まりに溜まった学校の勉強はさておき、イヴは一直線に走り出した。見送るシエルはどこか不安げな顔をしていたが、イヴが気付くことはない。後ろを振り返らず一直線に走り抜けていく。酒場を抜け、涼しい空気を全身でかき分けながら走る。肺が高鳴る。空気を取り込みすぎてむせ返りそうになる。しかし足が止まることはない。肉体の疲労を、心の高鳴りが回復し続ける。
見えた。森は今日も、イヴを心待ちにしているように佇んでいる。久しぶりの訪問に、期待と不安がまぜこぜになった、ぐちゃぐちゃした心の動きを感じる。木々がきれいに整列し、歩を進めるイヴを見下ろす。あの人がこの森の主なら、この木々はあの人の守り人なのかもしれない。そんな感慨にふけりながらまっすぐ屋敷へと歩を進め、玄関を三回ノックする。
「はい」
ノックから一拍おいて開いた扉の向こうから、貴婦人が出迎えた。
「あら、もう来ないかと思ったわ」
しばらく会わなかったおかげか、何事もなかったかのように答える彼女の顔が初めて会った時と微妙に違う、ほんの僅かに頬が緩んでいることに気が付いた。彼女の秘めた心に呼応するかのように胸のブローチが輝きを増す。「どうぞ」と婦人はイヴを屋敷の中へと通した。
坊やが来なくなってからどれくらい経っただろうか。坊やが来ない日々は前と変わらない、心地よい無色の世界。音も、光も、手触りも、何もかもがいつもと変わらない、変化のない穏やかな日々。もうあの坊やがここへ来ることはないのかもしれない。何か他に没頭できることでも見つけたのかもしれない。そう思ってはいるものの、身についてしまった習慣は抜けないもので、今日も来るとも限らない来客に茶を沸かす。いかにあの少年が日々の彩になっていたか、今なら痛いほどわかる。待ち遠しくすら感じてしまう。
……扉をノックする音が屋敷に響く。玄関に向かう足取りが心なしか早くなる。ノブを握って息を落ち着ける。
「はい」
扉を押し開けながら答える。開けた視界の向こうに坊やが立っていた。途端、体の中を安堵の感情が駆け巡る。よかった。また会えた。生きていた。これほど強い心の動きを感じたのなんて、いつぶりだろうか。そして安堵と共に、その感情を拒絶する自分もいる。自身の相反する感情を押し込み、坊やに一言、
「あら、もう来ないかと思ったわ」
そう言って坊やを屋敷の中へと通した。
坊やは家に入るなり、長らく屋敷にこれなかったことを謝罪した。身体の横で固く握られて震える手が、彼の悔しさを思わせる。坊やの話を聞く限り、体調を崩していたらしい。体調を崩すことなど人間ならよくある話だ。だが逆に、それが人間の脆さを物語っているように貴婦人には感じられた。
「あなた、体が弱いのね」
「ははは、いつもはあまり体調なんて崩さないんですが、ちょっと浮かれすぎたかもしれません」
病を経て現れた坊やは、どこかこれまでとは違う。間が空いたからか、今までよりも距離が近く、打ち解けたような話し方をしてくる。その話し方に、貴婦人もつい心が明るくなる。
「そんなに浮かれるくらいなら、もう来るのをやめてみたら?」
「え、それは困ります」
「なんで?」
「失礼な話かもしれませんが、、ここは僕にとってのオアシスのようなものなんです。いつもと違う非日常みたいな。だからもう来れないってなるのは困ります」
「そう」
沸き立った湯をティーポッドに映し、いつもの紅茶を淹れる。差し出された紅茶を坊やはさっさと飲み始めた。
「この味も久しぶりです」
「そうね。誰かさんが来なかったからね」
「本当、すみませんって」
坊やに背を向けて貴婦人はほんのわずかに口角を上げた。思えばおかしな話ではないか、こちらが呼んでいたわけでもなく、坊やが勝手に来て、勝手に倒れて、それなのに勝手に来れなかったことを謝っている。別に来なかったから困っているということもないし、謝られる筋合いはないのだが、やはり、この坊やは面白い。懐かしい。
少年が行きたいというので東屋に出た。木々の葉がその肌を撫でつける風に揺られて涼しげな音を立てている。向かい合って座った二人は何を話すでもなく周囲の景色を見つめていた。
「やっぱり、ここはいいところですね」
少年が呟く。
「僕、この屋敷が好きです」
「私もよ。このお屋敷には愛着が、離れがたいくらいありますもの」
「いいですね、そういうの」
懐かしいやり取り。随分前にも、こんなやり取りをした気がする。心が記憶の彼方に旅をした。かつて幸せを享受し、もう取り戻すことのできない輝く日々に。晴れ渡る青い空、木々のさざめきに賑わう市街。長い間自らを囚え、自らが拒絶した過去に。次第に貴婦人の表情が柔らかく、自然なものになっていくのを、イヴは見逃さなかった。いつもの冷たく悲し気な様子ではない、本来の貴婦人の姿を、本来の美しさを垣間見た気がした。
「懐かしい」
「え……?」
口からこぼれた言葉を坊やは聞き逃さなかった。
「なにか特別な思い出でもあるんですか?」
「えぇ、随分前にね。いま座っている、ここには特に……」
過去に耽り、緩まった頬が再び冷たいものに戻る。背筋がぞわっとした。頬からは血の気が引き、元の白磁のような美しさに戻っている。私はいったい、何を言っているんだ。途端に、これまでの自分が恐ろしくなった。思わず胸元のブローチを握る。もう話すまいと、もう思い出すまいと、自ら蓋をした過去をついベラベラと。自分ではない。何かにあてられ、彼女はエマリー・リオンという人間を見失った。
「どうしました?」
「いえ、なんでもないわ」
内心の焦りを心の奥底に押し込んで努めて冷静に答える。
「日が傾いてきたわね。次はいつ来るの?」
焦りと不安がごちゃ混ぜになった絵具が心を塗りつぶす。
「いつもと同じです。また、来週です」
「そう。またいらっしゃい」
貴婦人を背に森の口へと歩を進める坊やを見て、彼女はホッとした。
翌週、イヴは弾むような気持で屋敷へ向かった。森はいつも通りにイヴを出迎えた。いつもと同じようにドアをノックする。……返事がない。いつもならノックしてからすぐ、本当にすぐに返事が来るのだが、今日は一向に返事がない。不安になって再度ノックする。今度は強く。早く。やはり返事はない。次第に森がイヴを拒絶していることに気が付いた。葉のさざめきが荒々しい。森がイヴに出て行けと言っている。もうここに足を踏み入れるなと言っている。音が騒々しい。脳に直接語り掛けてくるようだ。衝撃で頭が回らない。つい先週まではいつも通りに話していたのに。いったいどこで、僕は、何かしてしまったのだろうか。貴婦人に嫌われるような何かをしてしまったのだろうか。返事が来ることがないドアを前に、イヴは立ち尽くした。風も、音も、全て気にならなかった。ただただ、開かない扉が何かの間違いであると願い続けた。やがて日が傾き、空までもが貴婦人に味方した。これ以上はここにいられない。子供の身であることをここまで恨めしいと思ったことはない。しかし、受け入れねばならない現実はわきまえている。扉に一礼し、静かに踵を返した。まるで森に追い立てられるように。身体の横で、握った拳を震わせながら。
翌週も、その翌週も、貴婦人が扉を開けることはなかった。重たく閉じられた扉の前で、イヴは立ち尽くした。答えが返ってくることはないとわかっていても、なぜ。と問いかけずにはいられなかった。とても、齢十を超えたくらいの一人の少年が受け止めるには重い現実であった。
周りの木々が葉を落とし、寒々とした景観で街を覆う季節になっても、屋敷の森は主を守るかの如く鮮やかに茂っていた。そしてまた、町は新たな葉で覆われる。季節が廻る。しかし時が過ぎてもイヴの心に住む屋敷への憧れ、貴婦人に焦がれる気持ちが変わることはなく、いつまでもイヴの心を蝕んだ。
貴婦人が扉を閉ざしてから約一年、卒業が迫るイヴには、自然と父の仕事が多く回されるようになった。父も若くはない。学校の卒業を見越してイヴに家業を仕込み、次期棟梁として育てるつもりだ。仕事は好きだった。一つのことにずっと集中していられるから。ただそれよりも、イヴにとって父のこの思惑はむしろ好都合であった。仕事に没頭している間は余計なことを考えなくてよい。ただひたすら、目の前の作品と自分だけの世界にその身も、その心も投じればよい。そうやって気を紛らわせることに安堵を覚えたイヴは仕事にのめりこんだ。
学校に行き、家に帰り、仕事を手伝う。それだけの充実した日々が戻ってきた。毎週毎週どこかへ遊びに言っていた倅が仕事に没頭している姿を見て、心なしか父も母も誇らしそうだった。「卒業が近づいて、いよいよ代替わりの自覚が出てきたに違いない」と、深夜に男二人が晩酌しながら話しているのを聞いた。当のイヴはというと、確かにそういう気持ちもあった。しかしそれが理由かと言われればやはり違う。心には拭いきれない逃避が重たく横たわっている。ただただ現実から逃避できるものが、この仕事であっただけなのだ。
学校は学校で、次第に求められる能力が高くなっていく。卒業すればいよいよいっぱしの職人になる。これまでの甘えていられた、守られた立場から、職人と依頼主という戦いの場へと放り出される。その点、家業を営むイヴたち養成課は恵まれているのかもしれない。と、学友たちと話しながらイヴは切に思った。




