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第二章 貴婦人

 窓から差し込む朝日で目が覚めた。部屋の窓を開け、まだ冷たい空気でまとわりつくk眠気を飛ばす。せわしなく跳ね回る心を必死に落ち着けるが浮足立った気持ちは止まらない。急ぎ足で階下へ駆け下りる。階段の途中から暖かな小麦の香りと香ばしい肉の匂いがイヴを包んだ。食卓に並べられた朝食はパンとベーコンだった。「おはよう」と父母と挨拶を交わし席に着く。いつもと変わらない朝食。しかしイヴにとって、今日の朝はいつもとは違う特別なものだった。ようやく森の魔女と会える。ようやくあの屋敷に足を踏み入れることができる。それがイヴの今朝を鮮やかに染め上げていた。三日前、父から依頼の話を聞いてから二日間はいてもたってもいられなかった。はやる気持ちを抑えられず魔女の屋敷に行ってみもした。母と来た時のように遠くから眺めているだけではやはり屋敷の中など見えるはずもなく、あの日の暖かな日差しとやや強めな風はやはり奇跡の産物であったのだと改めて感心した。入り口から見るだけでは好奇心は満たされず、森の中に足を踏み入れようかと何度も悩んだ。足を踏み入れればもっとよく屋敷を見れる。そのあらがい難い誘惑を何度もその身に感じた。しかし、“魔女”という言葉がイヴの心を制した。足を踏み入れればそこは魔女の領域で、自分の身に何が降りかかるか分かったものではない。いくら怖くないと思っていても、心のどこかではまだ噂の実在を恐れていた。イヴにはその森がある種の結界のように感じられ、一歩踏み出すことを躊躇し、空中で居場所を失ったた右足はとうとう前へ踏み出されることはなく、元々の位置へまた降ろされた。イヴは初めて、自分が魔女の噂を信じてしまっているのだと自覚した。結局自分もリュカと変わらない。いや、リュカも自分と変わらないのだと思い知った。そう思うと途端に、ケンカ別れとなっているリュカに申し訳なく思うのであった。

気づけば朝食を平らげていた。別のことを考えていただけにまだ若干の空腹感が残る。ぼさぼさの髪をそのままに目の前でまだ食べている父がもどかしい。僕はもう、行く準備は万全なのに。

「父さん、まだ行かないの?」

今朝もルイのところから届いていた新聞を眺める父が顔を上げた。

「ん?そりゃだって、十時に来いって言われてんのにまだ八時だしな」

十時?時間の指定など聞いていない。そうならそうと先に言っておいてほしかった。ここからまだ二時間。普段ならなんてことない時間でも、イヴの沸き立つ心にとっては何とも耐え難い長さに感じられた。後二時間どう過ごしてやろうか……。

「まぁでも、やることがないわけじゃあない」

イヴの不満を感じ取ったのか、ロットはイヴの目をまっすぐに見据えた。口元が嫌な感じに歪んでいる。父なりの得意げな顔、何かを企んでいる顔だ。

「今日の依頼は食器棚の修理なんだ。食器棚の戸が開かなくなったらしい。修理するには……」

父の意味ありげな視線からすべてを悟った。

「いろんなパターンに合わせて道具を使い分けろ。だよね。わかってる。今まとめてくるね!」

父が言い終わらないうちにイヴは工房へと駆け出した。矢先に背後からシエルの声がイヴを引き留める。

「楽しみに駆られるのは構わないけど、あなたまだ寝間着のままよ。とりあえず着替えてからにしなさい」

本当だ。下を見ればまだよれよれの薄青い寝間着のまま。自身の準備もへったくれもないではないか。頬に血の上る感覚を覚えながら急いで上階へ向かった。

 階段を上がり私室の扉を開けた。ベッドの上には今日が楽しみで、昨日のうちにまとめてしまった荷物が置かれている。中にはタオルと少量のキャンディー、小さな手帳と鉛筆を入れてある。空腹を紛らわせるためにキャンディーを一つだけ口に含む。甘いフルーティーな風味が口いっぱいに広がり、それが余計にイヴの空腹感を刺激した。クローゼットから白いシャツと鼠色のズボン、サスペンダーを取り出して着替え始める。シャツは襟のあたりがくたびれてしまってはいるものの、何とか襟の起立した状態は保てている。シャツをズボンの中に入れ、持ち上げたズボンにサスペンダーを取り付け肩に通す。仕上げに細く白いチェック柄入りの黒柿色に近いジャケットにベレー帽をかぶれば、イヴなりの作業日にできるお洒落の完成だ。クローゼットの扉裏にしつらえられた姿鏡で細部の修正を施す。少しでも良く見せようとベレー帽からはみ出す髪の一本までもに注意を払い、手を入れた。

 軽快な足取りで鞄を持って一階に降りる。イヴの姿を見たシエルが「あらあら」とうれしそうな顔をする。その様子が、イヴはにちょっと気恥ずかしかった。

「相当楽しみにしてたのね」

恥ずかしがる息子をからかう母の目と笑みはイタズラ心溢れる少女のようだ。言い返す言葉がすぐには浮かばず、「うぅ……」と小さな呻きが漏れる。

「だってあのお屋敷に入れるんだよ。ちゃんとした格好で行かないと。……道具まとめてくるね!」

そのまま逃げるように工房へとイヴの姿が消えていくのを見守った両親は顔を見合わせた。

「大丈夫だとは思いますけど」

先に口を開いたのはシエルだった。

「一応気を付けてくださいね。馬鹿げているとはいえ、よくわからない噂もありますから」

「うん、まぁ噂は噂だし、魔女なんているわけないさ。そんなものがいるならむしろ会ってみたいくらいだ」

「ほんと、イヴの好奇心はあなた譲りですね」

「そうかもしれないな。よくわからない物は、どうしても興味が向いてしまう。職人には必要な要素だが、イヴのはちょっと激しすぎるな」

「本当ですよ」

うすら笑顔にため息をついて見せる。

「とりあえず、気を付けてくださいね。作業中にケガとかしないように」

「大丈夫。イヴもまだ一一だが、作業でいえばそこらの職人に劣らない。一応、俺も気を付けとくよ」

ようやく朝食を食べ終えた父も、置いてあったベレー帽をかぶりイヴの後を追って工房へ向かった。二人の背中に何か同じようなものを感じた喜びを、シエルは嬉しく胸中に仕舞った。


 工房ではイヴが踊るように軽やかに準備を始めていた。作業に必要な工具はあらかた仕事用の父の鞄へ入れ終わり、あれも必要かこれも必要かと、さらに入れ込むものを並べて思案していた。

「学校で友達に、今日のことは言ったのか?」

イヴが並べたものを片っ端から手際よく片付けながら父が問う。

「ううん。まったく。だってこんなの言ったら呪われる。ってみんなうるさくなるもの。実際は会ってみないとわからないことなのに」

「そう言ったって、相手が本当の魔女だったら会った瞬間に終わりだぞ?」

「まぁね、怖い気持ちもあるけど、でもそれより会ってみたい。あんな美しいお屋敷に住んでいる魔女だもの、どんな美しい人なのか見てみたい。とても綺麗な人に違いない!」

「まったく」

そう言いながら休むことなく目をキラキラさせて語るイヴを見つめる。父の横顔は柔らかく、口角が上がっていた。


 家から緩やかで長い坂を下り、ちょうど酒場が見えてきたところでトマと出会った。ちょうど工房へ行くところらしい。手には奥さんから持たされたであろう弁当の包みを抱えている。遠目から先にこちらに気づいたらしく、空いている右手をこちらに振ってきた。

「おう!イヴ引き連れてどこ行くんだ」

「ま……」

イヴの言葉をロットの声が遮った。

「家財修理の依頼が来てな、イヴが見学したいってんで連れて行くところだ」

何食わぬ顔で嘘をつく。訂正できる雰囲気ではない。黙って二人のやり取りを見ているしかなかった。

「今度はなんだ?家の扉でも壊れたか?」

「それが何も書いてないんでな、行ってみないとわからないんだよ」

それを聞いたトマはうぅんと唸った。胡乱な目がロットとイヴの間で行ったり来たりする。一往復、二往復、再び唸って下を向く。

「そんな変な依頼中々見ないけどな。まぁ、何はともあれ無事に終わらせて戻って来いよ。あんたらが返ってくるまでは工房にいるからよ」

「仕方ねぇな」とでも言いたげな口調とあからさまなつくり笑顔。不承不承な気持ちが丸見えだ。歩き出したトマがポンとロットの肩に手を置いて二人の横を過ぎて行った。父と振り向いてみれば歩き去りながらこちらに向けて手を振っていた。

「イヴ」

父に呼びかけられた。顔のほうを向くと、父の視線はこちらに向けられずトマのほうを見ていた。

「むやみに魔女の名前を出すのは、やめておきなさい」

意外だった。父はこの手の噂なんて信じない人だと思っていたが、どういうことだろうか。

「お父さん、あの噂を信じてるの?」

「信じているかいないかで言えば、信じていない。ただなイヴ、俺はあの噂が持っている影響力は信じている。魔女の名を聞いた村人がどう思うかなんて、想像するまでもない。だからむやみに、魔女の名を出さないほうがいい」

「でも、トマさんは平気なんじゃない?」

「トマは確かに信頼できる。秘密は秘密で守ってくれる。でもな、もし噂が本当なら。トマは自分の罪に苛まれることになる。なんで止めなかったって、ずっと後悔し続けることになる。だから、ダメだ」

なるほど。とイヴは思った。静かにうなずいたイヴを見てイヴの頭をくしゃくしゃとかきまぜた。

「とはいえ噂はただの噂だ。そんな本気にすることもない。今日もいつも通りの仕事だ。しっかり終わらせて、さっさと帰ろう」

前を歩きだしたロットの背を慌てて追って、ぴたりとロットの横につけて歩を進める。

景色がどんどん流れていく。父との会話はない。しかし次第に近づいてくる巨大な森を目にしたイヴは、今にもあふれ出そうな高揚感を覚えるのとともに、隠し切れない不安が、その姿を大きく表し始めていた。「魔女に魅入られれば、二度と戻ってくることはない」。本当に魔女だったらどうしよう。本当に帰れなくなったらどうしよう。イヴの心は不安に囚われていた。頭ではただの噂と分かっていても、本能的に感じてしまう。これが父の言う、噂が持つ影響力なのだろうか。父とそろっていたはずの歩幅も、気づけば徐々にずれが大きくなっている。徐々に徐々に、父とイヴの間には差が開いている。まるで恐れの差というものを世界がイヴに見せつけているような気がして、慌てて父の横に戻った。目の前にはすでに森を構成する木々が所狭しと林立している姿が、堂々とこちらにその存在感を示している。

「お父さん、もしかしたら魔女って、本当は魔女じゃないのかもしれない」

不意に口をついて言葉が飛び出した。

「そうかもな」

ロットは一瞬こちらを見たがすぐに視線を前方に戻し、微かに上がった口角を隠すように口元を手で覆いながら答えた。

「お前がそう思うなら、そうなのかもしれないな。まぁ何にしろ、自分の目で確かめてみればいい」


 目の前の森が開けた。この前は気づかなかった。屋敷へと森が口を開き、その身全体をもって客人を屋敷へ招き入れようとするような、神秘にも似た雰囲気をもつ森の奥で、屋敷はイヴを待ち構えていた。風はなく、木々に生い茂る葉が揺れることはない。葉をたわわにつけた枝も、今日ばかりは生命力を漲らせるように風に踊ることもなく、その身に着けた葉の重さに首をもたげている。動くことのない木漏れ日に照らされた屋敷と、その屋敷へイヴたちをいざなう石敷きの舗道が、まるで絵にかいた世界であるかのように美しい。暖かな日差しによって際立った白練の外壁が、森の奥で静かに佇む荘厳な屋敷の存在をこちらに訴えかけてきていた。ふと二階の窓を探した。しかし今日は首を垂れるように垂れ下がった枝葉によってその姿は遮られてしまっていた。どうやら魔女との対面はもう少しお預けらしい。

「いつまでも突っ立っていたってしょうがない。いくぞ」

進んでいく父の背を追って森の中へ一歩を踏み出す。まるで屋敷を守る結界のように感じられるこの森の境界線は、砂まみれで生命力の感じられないこちら側と、草木生い茂り生命の喜びが満ち満ちるあちら側とを明確に分けていた。ここから先は魔女の領域。その思いが、上げた一歩を再び地に下ろすことを躊躇させた。一方の父は一人で奥に進んでいく。その背中は大きく、何物も恐れない堂々とした強さのようなものを感じた。一人は心細い。あのお屋敷をもっと近くで見てみたい。……魔女に会ってみたい。様々な思いが逡巡し、ようやく上げた一歩を地に下した。足を下したからと言って何ら変わるものはない。周りの雰囲気が変わるわけでもない。ただちょっとだけ、空気の柔らかさをその身に感じた。木々に包まれたこの空間は日の光が遮られ、外とは違う独特の涼しさで満ちていた。ひんやりとした涼しさを持っている。木々が含んだ水分が空気中に滲み出て、心なしか肌を包む空気が心地よい。足元の舗道も敷かれた石一つ一つが湿気を帯びた艶を放っている。本当に異界みたいだ。この森がバラケの町で異質な存在なのだと、一歩また一歩と歩を進めるごとに実感を増していく。同時に、こんな素敵な森に住み続ける魔女はどんな人だろうと、イヴの期待も大きくなっていた。舗道は曲がることなくまっすぐにイヴたちを屋敷へと誘う。左右の森は相変わらず揺れ動くことはなく、来客をもてなすようにその首を垂れ続ける。一方で、イヴは次第に大きく鮮明になってゆく屋敷に気を取られていた。近くで見れば見るほど前時代的な作りだ。白練の外壁の、窓の淵や玄関の両脇を挟むように聳え立つ二本の柱、いたるところに生き生きとしたアザミの葉が交差する。アカンサスの装飾が彫り込まれている。長く、うねりを持った無数の葉が織りなす装飾は終わりを知らず、どこまでも伸び続けるような美しさを見るものに印象付けていた。イヴもロットの手伝いで装飾を彫り込む際にアカンサスを手掛けたことがある。よく使われる装飾で目にする頻度も高い。その装飾性の高さからあまりに建築に取り入れられるものだから、ついた花言葉は「芸術」「技巧」「建築」と一風変わっている。確か起源は古い神殿の柱に使われたんだっけ。それだけ長い歴史を持って使い古された装飾文様だが、やはりその美しさは見るものを惹きつける。一方でそれだけ多くの職人が手掛ける文様故に職人の技量が試される。掘り手によって、その完成度は大きく変わってしまう。この屋敷の装飾は、やはり美しい。壮麗という言葉がうってつけであろう。うねりを持った葉はイヴの目を離さない。つい端から端までゆっくりと目で追ってしまう。まだまだ未熟とはいえ、腕は確かなイヴにとって、この装飾はこれまで見たどんなアカンサスよりも美しく、魅惑的なものだった。横に立つロットも、まじまじと装飾に見入っていた。荷物を持ったまま頭上を見上げ、ただひたすら右手で顎をさすりながら深く長い息を吐きだしていた。いま父に何を語りかけても無駄なようだ。こうなった父はもう自分の世界に入り込んでしまって、外の声なんて蚊の羽音ほども聞こえない。イヴはこんな装飾を彫れるようになりたい。と思う反面、自分ではここまでのものは無理であると気づいていた。見る者の目をこんなにも惹きつける装飾を掘れるようになるには、いったい何年の修業が必要なのだろうか。ましてや、今の時代にこれほどの完成度を持ったアカンサスを石材に彫り付けられる人間などいるのだろうか。果たしてこの屋敷はいつのものなのか。誰かに尋ねようにも教えを乞う相手はもういない。そう思うとなんだか寂しいような気がした。イヴの中でこの屋敷は、一つの完成形、こと装飾においては手本そのものであった。

 入り口近くまで進むと、イヴの高揚感は最高潮に達していた。心臓の鼓動をその身に感じ、いかに自分が浮ついているかをいやでも感じるほど、自然と口角が上がるのを必死に抑えていた。入り口に向かって左手の花壇の中に苔むした石碑が二つ、それに対するように小さなドーム状の東屋が見えた。イヴの興奮で散らかった心は一つに収束し、木漏れ日の中で静かに佇む東屋に一心に向けられた。屋敷と同じ白練りの細い四本の柱と傘のような丸みを帯びた青銅色の屋根、その淵を褪せた金色の装飾が彩っている。東屋の周囲は色とりどりに鮮やかな花が咲き誇り、屋敷の主の惜しみない愛情を誇らしげに見せつけている。東屋の屋根の下には白い金属製の小さなテーブルと、椅子が二つ置かれている。木漏れ日をその身に受ける東屋は本当に幻想的で、今にもここで物語が演じられるのではないかと、イヴは思わず息をのんだ。ここで紅茶など飲みながら読書をする生活なんて、いかに優雅なものなのだろうか。もっと見たいと思わず東屋のほうへ足が向いてしまう。しかし父が自分とは違う方向へ進んでいることに気づき、未練をぐっと飲みこんでイヴは軌道を戻した。

 コン、コン、コン、コン、父がドアを四回ノックした。この瞬間、イヴの高揚はすっかり姿を潜めてしまっていた。残ったものは緊張と、やはり恐怖。ついに魔女との対面。何が起こるかわからない。本当にもう戻ることはできないのかもしれない。そんな恐怖を感じていた。ただ、こんな屋敷に住めるならまるで夢のようだ。いっそ帰れなくても、それはそれで幸せなのではないかと、心のどこかでささやく自分も自覚していた。

父のノックからドアが開くまで実際には一分もなかっただろう。しかしイヴには途方もないほど長く感じられた。いまか、まだか。もし本当に魔女だったら?やまぬ期待と不安に心臓が大きく脈打つ。その脈拍の大きさに息が詰まる。今にも心臓が押しつぶされそうだ。気が遠くなりそうだ。もうここから動くことも、よそを見ることもできない。イヴの意識は屋敷のドア一点に囚われていた。横の父を見る暇もないが、おそらく父のことだ、なんでもない顔をしてそこに立っているのだろう。

カチャン、とようやくドアの金具が動いた。途端、永遠にも感じられたイヴの時間も流れ出す。使い込まれ艶のある木製の扉が、ギィと木の軋むような音を立てながら重々しく開かれる。

「はい」

色素の薄い、美しく透き通るような肌。細く長く、しなやかでたおやかな指がドアノブを握っている。肘から袖口が優雅にフレア状に広がったドレスの形状が、人類の理想を描いた大理石像のように整ったその指の細さと美しさを際立たせる。儚く繊細なその指の持ち主がどれほど美しく気品にあふれた人であるかは火を見るより明らかであった。視線を落とすと足元まで覆う白のロングドレスにほんのわずかに足先が見える。ドレスといっても大仰に広がった社交的なものではなく、日常に差支えのない、しかし裾の広がりが着るものの美しさを醸し出す質素と優雅とがうまく共存しているようなもので、そのドレスの上にネイビーのワンピースを纏っている。ワンピースは背中から体の左右を包み、肩と胸元の紐で結ばれている。胸元には紺色の美しい宝石が輝き、それを包む細長くゆったりとしたリボンが風に揺れていた。サファイアだろうか。木漏れ日を浴び反射する様に息を吞んだ。華奢な首筋の麓で、艶やかな黒の長髪が肩にかかって波打っている。その黒髪は滔々と流れる川のように滑らかで、その艶やかな黒色が肌の透き通るような白さを際立たせていた。しゅっと細めな顔立ち。静止した顔の中で緑の瞳だけが父と僕を行ったり来たりして動いている。魔女……なのだろうか。どうにも魔女というには違和感がある。どこか儚げで、イヴたちを出迎えた「はい」という声に張りはあるものの覇気なんてものはちらとも感じられない。快活や邪悪というわけでもなく物静かな印象だ。とても落ち着いた声だった。魔女というより貴婦人といったほうがしっくりくる。彼女は魔女なんかじゃない。イヴはそう確信した。

「依頼されていた家財の修理に参りました、アングラードです」

父が切り出す。合点がいったようにわずかに目が見開かれる。

「あぁ、お忙しい中わざわざご足労いただいてありがとうございます」

「いえ、依頼があればどこでも」

「そう言っていただけるとありがたいです。一緒にいらっしゃるのは……お子さんですか?」

イヴと貴婦人の目が合った。自然と背筋が伸びる。

「息子のイヴです。まだ子供ですが、腕は確かです。まぁ、親バカかもしれませんが」

父は真面目な顔で笑みを浮かべている。その顔に嬉しいという感情は感じ取れても、恥ずかしいという感情は感じられない。

「今日は仕事の見学に来たいというので連れてきた次第ですが、ご迷惑でしょうか」

「いえ、なにも。どうぞ中へ」

 招き入れる貴婦人の横をすり抜けて屋敷の中へと足を踏み入れる。一歩を踏み入れ眼前に広がる光景を目にした瞬間、イヴは感嘆の息を漏らした。屋敷の外装から想像した通り、内装も立派なものだった。美しい艶を放つダークブラウンの床、そこから入り口正面に聳え立つ大階段には深紅の絨毯が敷かれている。これまで学校の本でしか見たことがなかった、夢にまで見た理想の建築が目の前に広がって、いや、今まさにイヴを包み込んでいる。威厳と優美を兼ね備えた大階段はたおやかな曲線を見せる手摺までもが美しい。長年使われ続けた独特の光沢を放ち、いかにこの屋敷が由緒ある場所であるかを感じさせる。入り口から左右にはそれぞれに扉が二つずつ、頭上には階段を囲うように設けらえたコの字型の二階と欄干が見え、階段の真上は二階を通り越して天井までの吹き抜けになっている。はるか天井から二階に差し当たるほどの高さに質素なシャンデリアが釣り下がり、刺された蠟燭に灯る火が揺らめいていた。見るものすべてが美しい。見るものすべてが、なんと優雅なことか!イヴはこの屋敷を探検したい欲求をぐっと堪えた。果たして父は顎をさすっているのか、確認することも忘れて眼前の光景に見入っていた。

 カチャと、背後で扉が閉まる音がした。音に気を取られて背後を見ると貴婦人が玄関扉の鍵を閉めたところだった。

「こちらです」

指先までしゃんとした美しい所作で貴婦人が先行する。彼女が置き去った空気は甘い良い香りがした。入り口左手、階段の側の扉の先は調理場だった。扉を開けた目の前にはテーブルとイス四脚が置かれ、テーブルの右手にキッチン、さらに扉のすぐ右側に食器棚が据えられている。貴婦人はイヴたちが部屋に入ったことを確認し、部屋の扉を閉めると食器棚の脇へ立ちこちらに向き直った。

「依頼というのはこの食器棚のことです。しばらく使わなかったものだから扉が開かなくなってしまいまして、直してくださいます?」

「えぇ、とりあえず見てみましょう」

父は仕事道具を床において食器棚の前に屈みこんだ。

「ねぇ、これって食器棚ですよね?」

イヴの目的は父の仕事の見学ではない。父が食器棚を観察し始め手持無沙汰になったイヴが話しかける。

「えぇ、そうだけど、どうしたの?坊や」

「坊やって年じゃないけど……」

ちょっとムッとした。齢十を超えた身で坊やはひどくはないか。

「あら、ごめんなさいね。私からすればみんな坊やみたいなものなのよ」

本当に魔女みたいなことを言う人だ。

「で、どうしたの?」

貴婦人の声は落ち着いていた。好奇心で聞いているのではないことはイヴにも感じられた。単に話しかけられたから話しているだけ、暇つぶしにちょっと口を開いているだけ、そんな雰囲気が容易に感じられた。表情に微笑みは浮かんでいるものの、その微笑みもどこか乾いた印象を受けた。

「食器棚なのに、そんなに使わなかったんですか?食器棚って、うちは毎日食器を出したりしまったりで開け閉めするけど、いつもはどうしているんですか?」

あぁ、と貴婦人は合点がいったような顔をした。

「そういうことね。えぇ、本当にしばらく使ってなかったの。全然開けたり閉めたり、動かさなかったわ。中にある食器を眺めることはあったけどね」

イヴの疑問は深くなる。微笑み話す貴婦人の表情は変わらない。こともなげに言う貴婦人にイヴの疑問はますます深くなる。

「本当に?だったらいつもは食器、どうしてるんですか?」

「食器って言っても私はこの家に一人で住んでいるからそんなに使わないのよ?たまに使うにしても、ほんの一皿二皿とか、カップ一つとかそんなものだから、もう出ているもので事足りてしまうのよ。ほら、それだと食器棚って、開かないでしょう?」

「え?こんな広いお屋敷に一人で住んでいるの?」

思わず素っ頓狂な声を上げた。まさに森の主、屋敷の主のような、おとぎ話のような話ではないか。

「えぇ、そうよ?」

「だってこのお屋敷は農場のマトンさんのところとかそういうの以外だったらこのバラケで一番大きいお屋敷なんですよ?それにこんな優雅な昔の貴族みたいなお屋敷なんだから、執事とかメイドさんとか、少なくともお手伝いさんとか、そういうひとがいるものだと思ってました。僕の周りの家でも、さすがに執事とかメイドさんはいないまでもお手伝いさんくらいは家に出入りしていたりするから、てっきり」

ようやくイヴの疑問に納得がいったのか「あぁ」という声と共に貴婦人が語りだした。

「昔はいたのよ。もう結構昔ね。でも今はもういないの。だからこの家には私一人だけなのよ。ね、ほら」

貴婦人が手のひらで指示したほうを見ると、キッチンのシンク横に食器、ティーカップ、カトラリーが三セットずつ置かれている。あとティーポット。どれも手入れがしっかりされていて使い込まれたような印象は受けない。逆にそれ以外の食器はすべて父が作業中の食器棚に入っていたものの、その数は多いとは言えなかった。

「だいたいあそこにあるのを使うから、ほとんど開かないのよ」

「お客人とかはこないんですか?」

「えぇ、わざわざこんな森にまぎれた屋敷に来る人なんてそういないわ。私からお呼びでもしない限り、この家は私一人よ」

「なんだか寂しいですね……」

「そうね。でも私はこの生活を気に入っているのよ」

貴婦人は微笑みの表情を浮かべて話した。しかしずっと変わらない、どこか物寂しそうな雰囲気を、放っておいたら崩れ去ってしまいそうな雰囲気を、貴婦人から感じ取っていた。

 ロットの作業は着々と進んだ。本当に手際が良い。イヴと貴婦人が喋っている間に食器棚の戸を触って状態を確認し、すぐに原因が分かったように道具箱から必要な道具を二三取り出して作業に移った。そんなに大きな音を立てるでもなく、少々の金具の音を響かせながら両開きの片方の戸が取り外された。見ると扉を開く金具が錆びついてしまっている。確かにこれでは動かないのも無理はない。いつもなら金具を新しいものに取り換えて終わりだが、生憎今日は持ち合わせがなかったらしい。代わりに工具箱から研磨用の道具を取り出して金具の錆を落とし始めた。錆が落ちてまるで新品のような光沢を取り戻した金具を再び戸に取り付け、同じく錆を落とした複数の金具を組み合わせて再び取り付ける。先ほどまで頑なに開かなかった戸が、自らの主に恭順を示すかのように滑らかに開いた。片方の戸を終え、父は満足したようだった。そのままもう一つの戸に取り掛かる。父の仕事はいつ見ても鮮やかだ。どんな障害があっても軽々と飛び越える。困っている素振りも見せず、次の瞬間には対抗策を打っている。わが父ながらさすがだ。とイヴは心の中で腕を組んでうなづいた。

 片方の戸の修理を見届けた頃、先ほどまで向かいに座って父の作業を見ていた貴婦人がスッと立ち上がり、そのままシンクのほうへ向かった。追った目線の先で貴婦人は足元の戸棚から缶を取り出した。蓋を開け少し揺らして香りを確認したのち、置いてあったティーポットへ缶の中身を二振り入れ、マッチでかまどに火を入れてやかんを沸かす。

「よし、これで大丈夫なはずだ」

やかんが音を吹くのと同じようなタイミングで父の作業も終わったらしい。

「エマリーさん、終わりましたよ」

「ありがとうございます。いまお茶を入れますから、坊やと一緒に座っていてください」

また坊や。やはりムッとした。多分何を言ってもあの人からの呼び方が変わることはないであろうことを察してイヴは文句を言うのをやめた。そんなイヴを横目に見た貴婦人はクスっと小さな笑みを浮かべた。が、その顔はイヴからもロットからも見えなかった。沸いたお湯をティーポットに注いで蓋をし、茶葉を蒸らす。その間に貴婦人は父が直したばかりの食器棚を開け、中からティーカップを二つ取り出した。食器棚を開いた貴婦人に扉の開き具合に驚いたような表情はない。シンク横と食器棚とでティーカップの柄が異なるあたり、どうやら食器棚の中は客人用らしい。本当に食器棚が錆びつくくらいには客人の出入りはないようだ。食器棚から出した二つと、もともとシンク横に置かれていた三つのうち一つを持ってきて、ちょうど味のしみだした紅茶が注がれる。部屋に意外と庶民的な紅茶の香りが満ちていく。

「お待たせしました。どうぞ」

父とイヴの眼前にティーカップとティースプーンが並べられた。朝から続く若干の空腹ゆえに、ビスケットの類など何も出ないことにわずかな落胆を覚えた。その心を身体が外に伝えようとしているかのように、静かな空間におなかの音が鳴り響く。

「あら、お腹がすいているの?」

顔が熱を持っているのを感じる。今の自分は耳まで真っ赤に染まっているに違いない。そんなイヴの気持ちも知らず、貴婦人が困ったように首に右手をあてた。

「ごめんなさいね、今お出しできるようなものがないのよ」

声音から発せられる謝意に思わず首をすくめた。

「家、お気になさらず。ご丁寧にどうも」

傍らで父が紅茶を飲み始めるのを見てイヴもそうした。喉から胸へ。紅茶が暖かく流れ込む。暖かな流れが不思議とイヴの緊張をほぐし、空腹を満たした。

「して料金のほうですが」

父が飲み終わり、貴婦人がちょうど紅茶を口に含んでる最中に父が切り出した。貴婦人は焦る様子もなく静かにティーカップを置いた。所作一つ一つが磨かれ、整っている。背筋はしゃんと伸び、飲んでいる最中も自身の美を崩さない。カップの中を飲み干そうと若干上を向く首筋が何とも美しい。カップを置くにしても音は全く立っていない。まるで陶器ではないかのような静けさのまま、そっとカップが皿の上に置かれる。その所作の一つ一つがイヴの気を惹いた。貴婦人にそれぞれの所作を意識しているような感じはない。つまり、演技ではないということ。おそらく貴婦人の体にしみ込んだ日常の所作なのだろう。そこからつい、貴婦人が本当に貴族そのものか、貴族の末裔なのではないかと疑ってしまう。繊細でたおやか。星空の下に咲くカラーの花のように静かに美しい。そんな貴婦人が、イヴは気になって仕方がなかった。そこには否定しようもない純粋な好奇心もあった。今まで出会ってきたどんな人とも違う。このバラケの町では絶対に会うことはない種類の人。そんな人を知りたいと思うのは極めて当たり前なことだった。なにより、このエマリー・リオンその人の存在がイヴの心を離さなかった。

 貴婦人が書類に署名しようと身を乗り出したとき、胸元の宝石が明かりを受けて煌めいた。まるで命を持っているかのように青い輝きをこちらに放った。その光が真っすぐにイヴの目を照らし、視線をその身に釘付けにした。

「綺麗……」

思わず口からこぼれたひと言に、父も貴婦人もこちらを見た。一息分の間をおいて貴婦人がイヴの視線に気づいた。

「あぁ、これね」

いとおしげに胸元の宝石を撫でる。今にも消えてしまいそうなものを触るように、指一本一本でその感触を確かめる。

「その宝石、とても綺麗です」

「あら、ありがとう」

貴婦人の顔が暖かく柔らかな微笑みに変わる。今日初めて見た人間らしい表情にイヴの胸は高鳴った。

「手にとってもいいですか?」

「おいイヴ」

横から父が慌ててイヴをたしなめる。

「すみません、こいつ装飾品とかきれいなものとかに目がない奴で、そういうものを見るといまみたいなことを言うんですよ。気にしないでください」

「いえ、全然気になんてしていませんよ」

「それがよいです」

「でも坊や、ごめんね。これはダメだわ」

宝石のはまったブローチを両手に包み、持ち上げ、貴婦人は手の中を見下ろしている。

「これはね」

さっきまでと雰囲気が違う。イヴたちを迎えた時のような静かで寂しい口調。冷たく凍り付いた表情で語りだした。

「私の大切な人からもらったの。もうずっと、昔にね」

「じゃあ宝物みたいなものなんですね」

「そうね……。宝物ね」

じっと手の中で輝きを潜める宝石を見つめ、何かを胸の中へ押し込むように、一息分ほどの間をおいて答えた。貴婦人はイヴに向き直った。

「だからごめんね坊や。これはダメだわ」

微笑む表情に、やはり暖かさは感じられない。元の寂しそうな貴婦人に戻っている。もうこの際「坊や」という呼び方はどうでもよかった。というより、あきらめた。多分何を言っても坊やのままなのだろう。それにこんなにも優雅な人なのだ。願わくばイヴという名で呼んでほしいが、それ以外に何と呼ばれるかを考えても、「坊や」以外に見つからない。「君」なんてのはなんだか他人のような冷たい感じがするし、それならまだ「坊や」のほうが、なんというか身内のような温かさを感じる。

「それにね」

貴婦人が続けた。

「宝石を身に着けるって、その宝石に縛られることなのよ。あなたは、それにはまだ早いわ」

イヴには貴婦人の言っている意味がわからなかった。宝石だったら、規模も輝きも違うけれどシエルだって持っている。でもシエルが何かに縛られているような様子なんて見たことがない。そもそも宝石に縛られるという意味が分からない。考えれば考えるほど貴婦人の意図が遠ざかる。まるでイヴから逃げるかのように、答えはぐんぐんと、イヴとの差を広げ闇の中へ消えていく。

「ところで」

困惑するイヴをよそに、貴婦人は父に向き直った。いとおし気にブローチを包んでいた両手は机の下に戻され、宝石は再び胸で青い煌めきを放っている。

「今回はこの食器棚での依頼でしたけれど、今後他のものでも必要があれば修理をしてくださらないかしら。見てわからないかもしれませんけれどこのお屋敷もだいぶ長い年月を経ておりますから、細々としたところに痛みが生じております。よろしければまた何か不便がある際に依頼をしたいのですが」

「えぇ、構いませんよ。いくらでも依頼をよこしてください基本的にはどんな修理でも承っていますよ。もしくは新しい家具の納品などでも」

「それは心強いです。とはいえうちは見ての通り一人で暮らすには広い屋敷ですから、生憎家具は余ってます。なのでおそらくまた今度も修理でお願いすることになると思います」

「それならそれで構いません。なんなりとご依頼ください」

「僕も来て良い?」

「学校がないならな」

「また来た時も、紅茶くらいご馳走しますよ。坊や」

「坊やじゃないやい」

貴婦人から顔を隠すようにイヴは紅茶を啜った。


屋敷を出て家路につく。相変わらず空は透き通るように青く広がり、頭上に天高く位置する太陽が過ぎた時間を教えてくれた。森を出ると木々が風に鳴いた。ざわざわとした葉擦れの音がイヴと父を見送ってくれる。不思議と森から意思のようなものを感じることに違和感は覚えなかった。

「どうだった?イヴ」

横を歩く父がイヴの問う。

「魔女じゃなかっただろ?」

その一言で今までの自分の思考が一気に蘇る。一瞬でも彼女を魔女と疑った自分が恥ずかしい。噂に踊らされたことが悔しければ、あんなにも素敵な人を疑ってしまったことが、何より恥ずかしかった。

「うん。とても素敵な人だった」

口から流れ出るように言葉が零れた。。溢れ出た言葉を慌てて訂正する。

「あくまで、貴族みたい。って意味で!」

慌てた身振り手振りのイヴを見てロットはおかしそうに笑う。

「そうかそうか。わかったよ」

「ははは」という父の笑い声が、家路につく二人の後ろに消えていく。


家では食卓を挟んでシエルとトマが談笑していた。卓上に広げられている紙切れはまだ幼かったイヴが母に宛てた手紙たち。描かれた家族の絵にはトマもいる。昔懐かしい思い出話に花が咲いたところに帰ってきてしまったらしい。バツの悪い状況に居間へと続く廊下で父と目を合わせていると、こちらに気づいたトマが手を挙げた。

「おう、帰ったか」

まだ作業着の姿から見るに、休憩中だろうか。

「留守番ご苦労」

「何を偉そうに」

親父たちの何気ないやり取りに「現実へ帰ってきた」という感じがした。まるでさっきまで夢を見ていたみたいだ。

「作業の進捗は?」

「予定通り進んでる。問題はない」

「そうか」

荷物を置きロットがソファに腰かける。居場所のないイヴは手招きする母の隣に収まった。

「ところでロットよ、今日どこに行ってた?」

空気がピリ付いた。

「どこって、仕事だが?」

「どこの家だ」

「はぁ」と観念したようにロットはため息をつた。

「あの森の中にある屋敷だよ。依頼が来たんでな」

「やっぱり……」

トマが面倒くさそうに後頭部をボリボリと掻く。

「お前、あそこの噂を知らないわけじゃないだろう」

「噂は噂だ」

あっけらかんと答えるロットに「そうじゃない」とため息交じりの反論をする。

「噂は噂だけどな、普通に考えりゃ誰も寄り付かないだろう。万が一があったらどうするつもりだったんだ」

「どうもこうも、そん時はそん時だよ。結局何もなかったんだし良いじゃねえか、ただの噂。尾鰭のついた噂だよ。それに……」

ロットが顎でイヴを指した。

「随分良い刺激になったと思うぞ?」

「は?」

トマの呆れかえった視線とシエルの期待の眼差し。二人の視線がイヴに注がれる。助けを乞うようにトマの後ろのロットを見ると、笑顔で頷くだけだった。そんな顔で頷かれても困る。観念した父を真似てため息をつく。その姿に父が笑う。

「とても素敵なお屋敷だった。アカンサスの模様が見事で、造りはどこを見ても優雅だった。あんな建築、見れたことが奇跡だ」

「お前なぁ……」

「それは良かったわね」

トマの言葉はシエルのひときわ大きな声に打ち負け消え失せた。

「貴重な経験ができて良かったわね」

「うん、本当に良かった!」

ここで母の助け舟にならない手はない。三対一の状況に陥ったトマは再び後頭部をボリボリと掻いた。

「まぁお前らが良いなら良いが……せめて気をつけろよ」

「あぁ。わかっているよ」

トマの心配をよそに。ロットはいかにも楽しそうにケラケラ笑いながら請け負った。


 翌日の学校で、イヴは貴婦人に会ったことは口に出さないと決めていた。自慢したい気持ちがなくはなかったし、何より魔女なんかじゃない。本当はもっと素敵な人なんだと声を大にしてみんなに伝えたかった。しかし昨日のトマの言葉、父の言葉、大人二人の言い分もよくわかる。彼女の為じゃなく自分のために話さないほうが良い。そんな真面目な言い分で自分を納得させる。しかし実際のところは貴婦人との出会いは自分だけの秘密として抱えておきたかったのだ。あの出会いをわざわざ自慢して回るのは野暮な気がしてならなかった。

 貴婦人に会ってからというもの、日々の授業が手につかなくなった。いつなら熱心に聞き入り、時折窓外の景色に空想の羽を広げる歴史の授業も聞こえていない。先生の声を流れてくる環境音のごとく聞き流し、その頭の中にあるのはただひたすらに木漏れ日に照らされる屋敷と貴婦人の姿。美しく、凛々しく、しかし相反する儚さや寂しさを併せ持つ。そんな美貌を持つ貴婦人の姿。イヴはすでに、貴婦人に囚われていた。次はいつ貴婦人に会いに行けるだろうか。いつ仕事が舞い込んでくるだろうか。一日が千もの秋に感じられるほど、その時を待ちわびていた。学校帰り、いつもならリュカと一緒にゆっくりと下校する。リュカとは入学してすぐ知り合い、若干のズレは感じつつもすぐに意気投合した。二人が仲良くなるのに時間はかからなかった。それからずっと二人で帰った。どちらかが学校を休みでもしない限り、そうしなかった日はない。なのにあの日以来、イヴはリュカを待たずにサッサと下校していた。寄り道もせずまっすぐに家へと帰る。家のドアを開け、開口一番家族に問いかける。

「新しい依頼とか来てない?」

“屋敷から”と言わないのはせめてもの強がりだった。齢一一の少年の気持ちなど、大人たちからすれば可愛い見栄程度のものだが、それが何日も続くとさすがに辟易する。

「イヴ、毎日聞いてくるけどね、そんなすぐには来ないわよ。この前直したばかりなんだから」

シエルが呆れたように答える。

「でも、また依頼するって言ってたよ」

「そんなにすぐじゃあないでしょう。気長に待ちなさい」

「あれから一週間もたってるのに……」

「一週間で次の依頼がまた来たら、もう俺たちは大金持ちだな」

ロットがケラケラ笑っている。悔しそうに二人を見るイヴをからかって遊んでいる。それがまた腹が立つ。しかしここでイライラを悟らせては、また依頼に連れて行ってもらうという約束が反故にされかねない。

「ちぇ」

飲み込み切らない不満を吐き捨てて足早に階段を上がる。廊下を足音を立てながら進み上階の自室の扉を閉めた。部屋の机の上にはあの日帰ってきてから描いた屋敷のスケッチが乱雑に散らばっていた。あの日受けた衝撃は計り知れない。イヴの理想ともいえる美。その粋を集めたような奇跡の産物。それがあの屋敷なのだ。いつからあるのか、どういう歴史や由緒を持っているのか、一切わからない。その謎が、またイヴの心を鷲掴みにしていた。あの日は帰ってきてから夕飯も食べず、ひたすら記憶の中の屋敷を描き続けた。今まで数多描いた製品の完成図、そのどれよりも多く、どれよりも真剣に描き続けた。あの美しい屋敷を記憶の中だけにとどめておくのはもったいない。寝ても覚めても、たとえ親にご飯だと呼ばれたとて描き続けた。おかげで母に夕飯を抜きにされかけたこともあった。さすがのイヴも描くのをやめ母に謝った。許す代わりにスケッチをやや控えるように約束させられた。そうして描き出された諸々は、イヴの記憶にある屋敷をほぼ忠実に再現し、それさえあれば同じものを建てられるのではないか。と思うほどの出来だった。最後の一枚を描き上げた頃にはスケッチの枚数は数十枚に上り、仕舞い切れない紙束が机周りに散乱していた。イヴの机の上はスラムのような様相を呈し、居場所を失った鉛筆が削りカスにまみれて転がっていた。

最初はそれで満足すると思っていた。思い描く何もかもを書き出し、イメージを形にすることで満足すると。しかし三日が経ち、完成が近づくにつれ次第に別の思いがイヴの心をくすぐっていた。あのお屋敷をもっと見て回りたい。もっといろんな部屋を見たい。もっといろんな角度であの美しい装飾を見てみたい。そうやってさらに四日過ごしているものだから、もうイヴの胸中は落ち着いたものではなかった。


 そんなイヴを見かねたシエルが、イヴを市場へ連れ出した。市場へ行くのだから当たり前のはずなのに、シエルが酒場のあたりからのびる分かれ道、市場と貴婦人の屋敷へと別れる道を迷うことなく市場のほうへ進んだことにはがっかりした。

「ねぇ、本当にこっちに行くの?一回反対の道を通っちゃだめ?」

「今日は仕事じゃなくてお夕飯を買いに行くだけだからそっちにはいかないわよ」

「でもまだ夕方じゃあないし、ちょっと寄り道しても平気じゃない?」

「いいえ、今日はこっち。それに、ついてきたらいいことあるかもしれないわよ?」

母が意味深にイヴに微笑みかける。振り返る母の口角がいつも以上に上がっている。これはよろしくない。とてもよろしくない。母がこの顔をするときはだいたい何か楽しんでいる時だ。親子として母のいろいろな面を見てきたイヴは知っていた。母は元来、性格がちょっとばかし悪いのだ。幼いころはイタズラばかりして大人を困らせていたと離れて暮らす祖父母に聞いたことがある。祖父母曰く今の母はそんな一面を脱ぎ捨てて随分“おしとやか”になったらしい。何年か前に最後に会ったときに言っていた。しかしイヴは知っている。対外的にはそうなのかもしれないが、それは彼女の本質ではない。シエル・アングラードという人間には、身内にだけ見せる卑劣な一面がある。まさに今のように、苦笑と冷や汗を誘発するような表情をまれに見せる。あの人の本質はいまだ、いたずらが大好きな少女そのままなのだ。

 母の恐ろしい笑顔に文句を言いう気力もなくなったイヴは、母に導かれるまま市場にたどり着いた。ここはいつ来ても煌びやかで、モノを売る人買う人の活気に満ち溢れている。いつもイヴが足を運ぶ学校終わりの時間よりまだ早いし日も落ちていないが、それでもすでにあちらこちらで人々の笑顔が飛び交っている。歩いているだけで楽しい雰囲気に包まれ、たまに面白い話が聞こえてくる。やはりこの市場は最高だ。僕の人生で欠かすことのできない空間なのだと、改めてイヴは噛み締めた。母の後をついて市場を進んでいくものの、一向に母が足を止める様子はない。夕飯の買い出しに行くと言っていたのに食料品を扱う出店には見向きもせず、母は市場の奥へと突き進む。左右に並ぶ様々な商品やイヴたちを呼び止める声に目も耳もかさずに、大きな歩幅で突き進む。どんどんと進むシエルにちょっとばかし息を切らしながらイヴがついていく。多少見失っても迷うことはない。この道をイヴは知っている。リュカと何度も通った道だったから。

「お母さん、本当にこっちであってる?だってこっちって……」

「いいのよ。それよりイヴ、持ってきなさいって言ったあなたのスケッチ、ちゃんとある?」

「あるよ、机の上に合ったものを全部持ってきた。でもこれが何になるの?」

大量の紙束が入った肩掛けの鞄をきゅっと掴み母の顔を伺う。

「それは行ってみてのお楽しみよ。今知ったらおもしろくないじゃない」

シエルの顔がさらにひそかな愉悦に染まる。

「面白いも何も、どこに行くつもりなのさ」

なんとなく行先はもう察していた。ただ、なんだって母がそこに行くのかが理解できなかった。

「マエルさん、こんにちは」

イヴのちょっと先でシエルが出店に呼びかけた。

「お、シエルさん、久しぶりじゃないか!元気だったかい」

やはり母の目的地はここだった。近隣諸国を放浪しその国の商品を買っては別の場所、別の国で売る露店商。不定期にこのバラケに帰ってきては珍しい品々を広げている。

「マエルさん帰ってきてたんだ」

「あぁ、ついこの前な。今日はお母さんとかい」

「うん、なんか急に買い出しについて来いって言われて」

「親孝行じゃないか。感心感心」

「面倒なだけだよ」

「まぁそういうなよ。お母さんと出かける機会なんてどんどん減っていくんだから。今のうちに楽しんでおかなきゃ損だぞ。ね、シエルさん」

「おっしゃる通り。あなたも今後友達と、それこそリュカ君とかね、一緒に出掛けてばかりみたくなるんだから、私と出かけられることに感謝したほうがいいわよ」

「そうだそうだ」

「……はいはい」

大人たちの攻撃になす術なく返事をさせられた。はいを繰り返したことがせめてもの抵抗のつもりだった。効果は極めて望み薄だけど。

「そういえばリュカは元気か?」

「たぶん元気だよ」

「たぶんってなんだよ。たぶんって」

「最近あまりリュカと話してないんだ。別に喧嘩をしたとかでもないんだけど、ちょっと口論はしたけど、ただ今はリュカと一緒にいるよりやりたいことがあって、つい話すタイミングが減っているんだ」

「そいつは感心しないな。せっかくの友達なんだ、話せる時に話しておいたほうがいい。俺みたいな仕事をしていると世界中に友達はいるがな、それこそ一期一会みたいなもんだ。もう会えない友達だっている。お前はせっかく仲の良い友達がすぐそこにいるのだから、その縁を無下にするのは何とももったいない。いまある縁に感謝して、面倒くさがらずに、大切に向き合いなさい」

くしゃくしゃの髪を大きく揺らし、両手を目いっぱいに広げて悠々と語る。

「そんな大仰な」

思わぬ大真面目な返答に狼狽えた。そんなに壮大なスケールを想像していたわけではない。しかしマエルの言っていることが理解できないわけではなかった。貴婦人のことを聞きに行ったあの日以来、リュカとの間には言葉にしがたい気まずい雰囲気が流れていた。イヴも話しかけることはないし、リュカもない。ましてや最近は強い敵意をにじませた冷ややかな視線を向けてくる。それは単に「自分の話に乗ってくる」という期待が裏切られた失望感から。というものでなく、リュカの中でもイヴに対する何かが変わってしまったようだった。イヴも屋敷から帰ってきてからというもの、他の誰にも屋敷に行ったことを言わなければ、もちろんリュカにも言っていなかった。話題がなければ会話が成り立たない仲ではなかったはずなのに、今では話題があっても会話に発展しなくなってしまっていた。リュカはどうか知らないが、リュカとのわだかまりは壁から突き出したささくれのようにイヴの心にチクチクと巣くっていた。知ってか知らずか、いや、おそらく知らずだろうが、マエルの心配は見事に的中し、重い霧に包まれていたようなイヴの心に入り込んだ。

「でも、最近全く話してなかったんだ、いきなり話しかけたりなんてちょっと変じゃない?」

マエルは待ってましたと言わんばかりにイヴに人差し指を向けた。親指をピンと張り、まっすぐにイヴを見つめる。

「それだ。人間が誤解を解こうとかわだかまりを解こうとするとそういう言葉が一番邪魔をする。言っておくがな、変なんてことは一切ない。そもそも今まで話していたのに全く話さなくなることのほうが大分変だろう。いちいち気にすんな。自分の心がそうしたいってんなら、そうするのが一番いいんだよ」

ニッと笑う笑う彼の顔が、彼の言葉を深いところにスッと押し込む。イヴもリュカと今のままでいたいわけでは二。元の通り、いや、二人で屋敷の話で盛り上がりたかった。そんなイヴの心にマエルの言葉が鋭いガラスのように突き刺さった。重く淀んだ雲に風が吹き付ける。薄くなった雲を通り抜けて心に暖かな光が差し込んだような気がした。

「わかった。次学校で会えるときに、ちゃんとリュカと話してみる。うまくいくか、わからないけど」

マエルの言葉から数拍の間考え込んで、答えた。いくら強がっても、やはりリュカのいない学校生活なんて面白いはずがない。心のどこかではそんなことはとっくの昔にわかっていた。マエルの言う通りだ。その気持ちに気づいていながら、イヴは自分で「変」という言葉でその気持ちに蓋をしていたのだ。

「よく言った。それでいいのさ」

こちらに向けていた指を下しながらマエルが答える。まるで親であるかのような優しい微笑みを、マエルはイヴに向けた。

「ところでマエルさん、見ていただきたいものがありますの」

「ほう、なんだい」

シエルからの目線にイヴも気づいた。「例のブツを出せ」とでもいうようにシエルは目でイヴに訴えかける。最初こそ何のことを言っているのか意味が分からなかったが、そんなにかからず合点がいった。急いで鞄の中から数十枚の紙の束を取り出した。そのどれもがイヴの夢を写し取り、またイヴ自身に忘れがたいあの夢のような時間を思い起こさせた。

 手渡されたスケッチをマエルはまじまじと見つめた。スケッチの隅から隅まで嘗め回すように、一つ一つに時間をかけながら。無言の時間が続いた。周囲の市場の賑やかしい喧騒がイブたちの頭上を通り過ぎていく。

「これはどこのスケッチだ?」

マエルが静かに沈黙を破った。その顔は真剣そのもの。いままで見たことがない表情にイヴも返答に詰まる。恐ろしい人物でないことは知っているが、実は自分の知っているマエルさんは偽物なのではないか。こっちが本物なのではないかとよからぬ想像が働いてしまう。助けてくれとでもいうようにイヴはシエルを見上げた。シエルだけは、この場においても笑顔だった。見上げたイヴの顔をちらと見、さぁ、とイヴの返答を促した。

「えっと、森にある屋敷のスケッチだよ。ついこの前父さんと仕事で行ったんだ」

「森にあるお屋敷って、たまに噂で聞くあの魔女の屋敷か?あの老けないっていうか、見た目がずっと変わらないだか何だかの」

魔女、という言葉に引っかかる。彼女は魔女なんかじゃない。

「そうだけど、あの人は魔女じゃないよ。とても美しい貴婦人だ」

「おぉ!お前さん、魔女に会ったのか」

途端にマエルの目が輝きだす。

「どんなだった。噂の通りか?」

「ちょっと待ってよ。まず、あの人は魔女じゃない。現に僕はこうして屋敷から無事に帰ってきてるし、あの人に何の悪さもされてないよ」

「わかった、魔女じゃないのは分かった。で、どうなんだ、噂通り、見た目は変わってないのか?」

マエルの好奇心に燃える目と質問に若干の嫌悪感を覚えずにはいられなかった。なぜだかはイヴにもわからない。しかし、よく知りもしない人間に、貴婦人のことを好奇心に満ちた目で詮索されることが不快だという感情だけは確かだった。

「昔の見た目とか知らないし、それは分からないよ。でも、とてもきれいな黒髪で、物静かで高貴な人だったよ。人形とは違うけど、人を魅了する美しさを持った人だった」

一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに「うんうん」とマエルは目を閉じ何度か首を縦に振った。

「そうか、そうだったか。いやぁ、イヴ、おまえ良い出逢いをしたなぁ」

「い、いきなり何さ」

マエルの口元がニヤけている。これは不埒なことを考えているに違いない。無駄だと思いつつ、次に襲い来る言葉にイヴは身構えた。

「いやぁ、おまえ、その貴婦人に恋してんだろ」

「は、はぁ⁉いきなり何を言うのさ!」

「的外れなことは言ってないと思うけどなぁ」

「何をもってそんなことを言うのさ」

「そりゃおまえ、自分の顔を鏡で見てみればいいさ。魔……じゃなかった。貴婦人のことを話すときのお前は真剣そのものだ。いつもの空想を語り散らかすときの煌めいた目じゃない。それはそれは真剣なきらめきを持った目で話すんだ。しかも魔女なんて言えばむきになる。それのどこが恋してないっていうんだよ」

「恋なんて僕は知らないよ。したこともないし」

「じゃあこれから知るこったな。お前のそれは恋だ。俺が保証する」

「保証するって、本人が違うって言ってるんだから違うでしょう!」

「じゃあ質問するがね、その貴婦人はどうなんだ?こびりついて取れない錆みたいに、イヴ、おまえの意識に張り付いているんじゃないのかい」

肩眉を上げて得意げなマエル。これにはイヴもぐうの音も出なかった。この数日、確かにイヴの思考の片隅には、常に貴婦人がいた。あの美しい人にまた会いたいと、そう思い続けて一週間が経過していた。しかしまだこれを恋と認めるのはおこがましいというか、恥ずかしいのだった。助けを求めるようにシエルを見れば、やはりいたずらっ子の気質を秘めた母だ。他人事だと思って「あらあら」とこちらを見て微笑んでいる。いや、これは違う。ニヤついている。母が自分を連れてきた理由がこれならさすがに恨むところだ。やるせない恥ずかしさに耳朶まで赤く染まっているのが分かる。今すぐにでもここから逃げ出してしまいたかった。しかし、逃げ場がないことだけは明白であった。

「まぁ、それはそうだけど」

ちょっとした憤慨を抱えつつ渋々答えはしたものの、マエルと目を合わせることはできなかった。目を合わせればすべてを認めさせられそうな気がしてならなかった。

「ほらな」

「でも、それだけじゃないよ!このスケッチを見てよ。このお屋敷、とっても美しいんだ」

「おいおい話を挿げ替えるなよ」

「でも見てよ、あのお屋敷の装飾、作り、すべてが規格外なんだ。あんなお屋敷見たことないよ」

はぁ、とため息をついて手元のスケッチに視線を落とした。

「あぁ、このお屋敷は確かに美しい。おまえのスケッチがどこまで正確かはわからないが、まぁ正確なんだろう、あちこち歩いて回る俺からしても、このお屋敷の美しさは随一だ」

「でしょ、特にこのアカンサス文様。ここまで優雅で、気品に満ちて、目が離せなくなる装飾は見たことがない。こんなの、人間の手で彫れるなんて信じられないよ」

「職人にそこまで言わせるとは、余程なんだな」

「それでマエルさん、どう思います?」

急にシエルが口をはさんできた。先ほどまでのニヤけ顔は消え失せ、微笑を湛えたまじめな表情で問うている。

「どうっていうと?」

「そのお屋敷、いつのものなんでしょうか」

母の質問の真意が見えない。まさか母も貴婦人のことを魔女と思っているのだろうか。人を簡単に判断するな。といつも言う母が?そんなことはあり得ない。あり得て欲しくない。

「いつって簡単には分からないよ。なにせ俺に与えられた情報はこのスケッチだけだしね」

でも、とマエルは続ける。

「こんな壮大で装飾に満ちたお屋敷を、この産業革命を成し遂げた時代に作るなんて時代遡行のようなことをするとは思えない。それなりに金もかかるだろうしな」

「つまり?」

我慢できずにイヴも問うた。

「少なくとも産業革命以前に作られたものだとは思う。ついでにこんなものを立てられるのは間違いなく金持ちだろう。産業革命以前で金持ちっていえば、このお屋敷を建てたのは、まぁ貴族とかじゃあないのかな。詳しくいつごろ建てられた。とかはわからないけどね」

「三百年前、っていう可能性はある?」

マエルの推測は理にかなっている。そして以前ルイから聞いた話もある。どこまで正しい話なのかは分からないが、聞く価値はある。

「三百年前っていうと、統一戦争のころか?まぁ、なくはないだろうな。ちょうど三百年前っていえばザルマ王国の時代だし、当時は王侯貴族の時代だからこのくらいのお屋敷を作るだけの金と権力はあっただろうな」

なるほど、ルイの推測はどうやら誤っていないのかもしれない。そもそも疑ってなどいないし、それだけ古い話なのだから事実かどうか確かめる術もないけれど、あのお屋敷の壮麗な姿に合点がいった。確かに王侯貴族なら、名のある職人を雇ってあの夢のように壮麗な装飾を掘らせることができるかもしれない。

「それと」

マエルが続けた。

「あの規模の屋敷はいま買おうと思っても庶民に手が出るような額じゃぁない。別にバラケに限った話じゃなくそこかしこの街、他の国でも同じ事だ。だからあそこに住んでいるのは、おそらく二通りのどちらか。一つは金持ちが買い取った可能性」

「もう一つは?」

「このお屋敷を建てた貴族の末裔。だろうな」

なんとなく答えは察していた。貴婦人の振る舞い、佇まい、所作の端々に垣間見える彼女の気品、そして魔女という噂の根源、この説が本当なら全てが解決する。バラバラだった不確かな情報をつなぎ止め、結び、一つの線とすることができる。エマリー・リオンという人間の、魔女の正体はこんなあっけないものだったのだ。やはり彼女は魔女ではない。ただの旧貴族の末裔というだけの、一人の人間だったのだ。


 食事の買い物を済ませた帰り道、母と荷物を一つずつ抱えて歩いた。母はどうして僕をマエルさんのところに連れて行ったのだろうか。果たしてこれは問うてもよいものなのだろうか。逡巡を繰り返し、市場を出て人通りが減ったあたりで腹を決めた。

「ねぇ、どうしてマエルさんのところに連れてきたの?スケッチも持って」

「ん?だってイヴ、あのお屋敷のことで頭がいっぱいだったじゃない」

「そりゃそうだけど、マエルさんと何の関係があるのさ」

「別にマエルさんじゃなくてもよいのだけど、マエルさんならイヴのスケッチから何かしらヒントをくれそうじゃない。それに、あの人は私、似たようなものを感じるの。以外でしょ?だから面白いかなって」

以外でも何でもない。あんたたちは同類だ。と言ってやろうか。人を手の上で転がして愉悦に浸るようなにやけた口元、目が細くなってもしかとこちらを捉え離さない不快な眼光、普段のシエルからは感じられないし予想だにしない姿とは言え、正真正銘彼女から産み落とされたイヴはこれまで何度も、シエルのそんな姿を見てきた。世間では「美しくて、おしとやかで、働き者で、こんなに揃った人はないわ!」なんて言われるが、現実はそううまくはない、こんな人にも人を転ばせて楽しむような嫌な一面があることをよく知っていた。

「面白いって……。それだけで連れてきたの?」

「まぁそれだけってわけでもないわよ。あの人あちこちの国や街に行っているからあのお屋敷についても何か知っているかもしれないし、それに何も情報がないよりは、ほんの少しでも、ほんの噂程度の信憑性の低い情報でも、何かあるだけで、ワクワクするでしょ?」

確かにそうだ。僕だってマエルさんの情報でルイの推測が正しいという確証が得られたような気になって、何より彼女が魔女じゃないと確信を持てた。内心どれだけ舞い上がったことか。結局母の手のひらの上で転がされていたことには若干悔しさを感じるものの、今回ばかりは母に感謝しないわけにはいかなかった。

「でも、」

続いた言葉に母の顔を見上げると不自然に口角が上がっている。目元も嫌に嬉しそうだ。まずい。と思う間もなく、シエルは言葉をつづけた。

「イヴ、エマリーさんのことが好きになってしまったのね」

「ふふふ」と楽し気に、嬉しそうに目を細めて笑う。たちどころに背筋に不快感が表れる。

「母さんまで……。別にそういうのじゃないって!だって、いくつ年が離れてると思ってるのさ。普通に考えてありえないでしょ」

「いやどうだろうね、噂だと、あの人は見た目が変わらないんでしょ?」

「見た目が変わらないのと年が離れているのは関係ないでしょ」

「そう?私は関係あると思うけどな。だって、見た目が変わらないなら、年を取ってないのかもしれないじゃない」

確かに一理ある。仮に歳を取っていないなら……。思いを馳せた顔を母は目をにこにこと曲げて眺めている。

「……そんな魔法みたいなことあるわけないでしょ!魔女って言われているのだって、結局みんなそう思うからだよ」

自分の失態を取り繕おうと早口でまくし立てる。そして一拍ほどの間をおいて続ける。

「……でもあの人は違う、寂しそうな一人の女性だよ」

「ふぅん。そう」

母は自分の中で勝手に答えが出たかのようにこちらを向かずに答えた。最悪だ。おそらく母の中では僕が貴婦人に恋をしていることが決定づけられてしまっている。いつも以上にルンルンと弾んだ調子で歩いていく母の後ろ姿が、いかにこの話題が母を楽しませているかを物語っている。そんなことはないと声を大にして言ってやりたいが、今の母に何をどう言っても「はいはい」という一言で片づけられる気がした。

「とにかく、違うって、マエルさんの悪ふざけだよ」

「はいはい、そうなのね」

ほら、やっぱりこうなる。こうなってしまった母はもうだめだ。何を言っても自分の都合の良いようにとらえてしまう。大きく長い溜息を洩らしながら、母の後を追うしかなかった。


 家に帰りついたのは、もうすぐで夕方を超えようかという時間だった。家の奥に見える木々の向こうで空が真っ赤に燃えている。その赤いキャンバスに淡くオレンジに染まった雲が漂い鮮烈な風景を形作っている。そういえば貴婦人の家からは周りに木々が高すぎてこの空は見えないのではないか。それとも二階の、前に貴婦人の姿を遠目から見たあの窓からなら見えるのだろうか。シエルはあまりこういうことに感動を覚えるタイプではないし、この景色を一人で堪能するにはもったいないような気がした。家では仕事終えた父がくつろいでいた。こちらに気き、新聞から顔を上げてこちらを見る。

「おかえり。気づいたらいなかったからちょっと驚いたよ。どこへ行っていたんだ?」

「ちょっと母さんと夕飯の買い出しにね」

「それにしちゃ珍しく遅いじゃないか。……何か面白ことでもあったか?」

すでに新聞をたたみ興味津々な目でこちらを見ている。声色も表情も、どうやら帰りが遅いと怒っているわけではないようだ。

「あなたイヴのスケッチは覚えてるわよね?」

遅れて居間に入ってきたシエルが買い出しの荷物を置きながら問いかけた。

「あぁ、あの森のお屋敷のスケッチだろ?あの仕事以来イヴはそれっきりだもんな」

笑って手を空中でひらひらと揺らす父に思わず文句が口をつく。

「やめてよ、ほかの仕事もちゃんとやってるじゃん」

「そりゃ知ってるさ。ただ心ここにあらずとはまさにこのことか!って感じだぞ」

「……そんなに?」

「そんなに」

えぇ……。と困った表情を浮かべた。そんな気はないのだが。脳裏にマエルの言葉が浮かび、次にシエルの顔が浮かぶ。ちょっとムカつく。

「でね、」

そんなイヴを尻目にシエルは続ける。

「そのスケッチをマエルさんに見てもらったのよ。ほら、あの旅人みたいな」

「市場の奥にいるやつか。それで?」

「あのお屋敷はたぶん、三百年位前のものなんですって」

「まぁ、そうだろうな。あんなデカいお屋敷を建てられる人なんてこの町にいないだろう。それにそんな財力のあるやつが、こんな国境沿いの田舎町に住まないだろうよ」

「あら、ロマンのない人ね」

腰に手を当て、さも呆れたような声音で頬を膨らせる。

「ロマンはあるともさ」

「だったら、森に守られ、主を守るあのお屋敷が三百年もの長い間この町にひっそりとたたずんでいるいかにも物語チックなこの状況に心弾まないわけ?」

うんうん。イヴも強く首肯した。イヴの妄想癖は母譲りなのだ。

「確かにすごいとは思うし感動してないわけじゃないんだ。ただわかっちまうんだよ。見れば。あの文様やあのつくりは少なくとも貴族時代のものだ。貴族様が作ったんでもなければあぁはならんよ」

「そう」

シエルはやれやれという顔でため息交じりの返事をした。最初から通じると思ってないわ。とでも言うような感じで手をひらひらと振る。シエルの感性は群を抜いている。普段の何気ない風景がちょっと変わっただけで大げさに思えるような感動と、表現を繰り出してくる。イヴもその血を継いだのか、シエルの気持ちが理解できるし、共感できる。一方でロットはそうではない。シエルが日々の感動を毎回ロットに報告するが、ロットにその気持ちは通じない。わかっているならやめればいいのに。と幼いころから思っているが、一向にやまない夫婦漫才のような様子を見ることは嫌いではなかった。やはり父の感動は、すべて作品そのものに余すところなく注がれているに違いない。

「ちなみにあの女性についても聞いてきたわ」

「エマリーさんか?」

「そう、その人」

「貴族の末裔だろうって?」

「もう、先に言わないで頂戴」

「大方そうだろうよ。あの身だしなみ、立ち居振る舞い、並のもんじゃない。あの洗練された動きはまさに貴族のそれだよ。なぁイヴ」

言葉もなしに全力で首がもげそうなほど縦に振りまくった。それを見たシエルはまた呆れ顔だ。

「あなたたち、貴族というものを見たことがあるの?」

ついイヴとロットは顔を見合わせた。

「あるわけないだろう。貴族様がこんな国境の街に来るなんてありえない。でも何となくわかるよな。イヴ」

シエルの体越しにロットの視線が飛んでくる。同時にシエルもこちらを振り返っている。いたたまれずにまた大きく首を縦に振りまくった。

「そんなに言うなら、私も会ってみたいものだわ」

「次の依頼があったらお母さんも一緒に行く?」

イヴの問いにシエルは苦笑いを浮かべた。

「いいえ、遠慮しておくわ」

「えー、もったいない」

「いいのよ。いろいろやることあるしね。それより、夕飯にしましょ」

イヴとロットから離れてシエルは夕飯の準備に取り掛かった。焚かれた火の揺らめきを瞳に映しながら、その向こうにイヴはずっとあのお屋敷と、屋敷に住まう貴婦人の姿を見つめていた。


 翌日の学校へ向かう足取りは重かった。まるで靴の底に粘土でも詰まっているのかというくらい重く、足を地面から離そうとしなかった。その足を何とか使命感で引っ張り上げ、現実逃避という名の誘惑にかられる心を何とか視界の外に追いやって酒場の分岐路を右に曲がった。学校へ通うのにこの道を通るのは久しぶりだった。最近はいつも左に曲がり、貴婦人の屋敷を見ていくが、今日はそのまま屋敷の前に座り込んでしまいそうだった。学校の坂を上りきるころ、前方に小ぶりに渦巻く美しい金糸が見えて足を止めた。どうしても尻込みしてしまう。こっちから一方的に遠ざけたようなものではないか。なのにこっちから謝って受け入れてもらえるのだろうか。それに、なんて話しかければいいんだ?どうしたって話しかけづらいではないか。そうこうしているうちにイヴとリュカの距離はどんどん離れていく。リュカは元来歩くのが早い。あまり離れすぎるとこの上り坂で駆け足にならないと追いつかない。あの健脚に追いつくくのは何とも面倒くさい。急いで腹をくくるしかない。不意にマエルさんの言葉を思い出した。そうか、ここで話しかけるのは決して変ではないのだ。むしろ今のこの状況のほうがより一層変なのだ。そう思うとなんだか靴の底に詰まった粘土が少しばかり溶け落ちていくような軽さを感じた。

「リュカ」

後ろから呼びかけた。前を歩くリュカはそれを聞いて立ち止まる。しかし、顔はこっちに向けない。じっと前を見つめたまま動かない。それを顔も知らない学友たちが面白いものでも見るように、興味津々なまなざしを向けて通り過ぎて行く。

「なんだよ」

依然として彼はこちらを向かない。頭の向こうから声だけが飛んでくる。

「その……ごめん!」

思い切った一言が周囲の木々に響き一斉に小鳥が飛び立つ。

「ごめんってなんだよ」

まっすぐで、静かな声で問い返す。赤く染まる耳朶。鞄を掴む右腕は少し震えている。

「なんというか、リュカを避けるようなことして」

「別に避けてなんかないだろ。話すことがないだけだ」

返す言葉に詰まって視線を落とした。リュカの掌は震えるほど固く握られている。

「いや、僕が避けてたんだ。あの貴婦人の話で、リュカと合わなくなってから」

「貴婦人って……」

リュカの肩がこわばる。一息吸い、吐き、こちらを向いた。

「あいつは魔女だ!みんな言ってるだろ!」

語気の荒い返事が返ってきた。振り返る彼の目には怒りや嫌悪、それに若干の恐れが混ざることなく浮かんでいた。

「ううん、あの人は魔女じゃない。ただの人だよ」

「何を言ってるんだ!魔女に会って魔法か何かにやられたか?あれは魔女だ。だって、何年も何十年も見た目が変わらない?老いることがない?おかしいじゃないか!そんなのがただの人なんて、そんなことあってたまるか!」

彼の目が、訴えかける感情が、さらに深さを増していく。リュカからこんな感情を向けられたのは初めてだった。果たしてここまで話の通じないやつだったろうか。こんなにも「普通」にこだわるやつだっただろうか。もっと自由で、一緒に「普通」では思いつかないこともやれるやつではなかっただろうか。そういうやつだから、一緒にいて楽しかったのに。イヴの中のリュカが音を立てて崩れていく。かつての親しかったリュカは、もういないのかもしれない。否応なく感じてしまったその事実に、どうしようもない虚しさと、変わることのないリュカへの失望を嚙み締めた。

強く握られていた手のひらから、ふっと力が抜けた。

もういい。もう、いい。

俯いたまま横を通り過ぎるイヴを、リュカも止めなかった。何も言わず、互いの進む道を、もう交わることのない道を進むかのように、立ち止まるリュカを背に、イヴは重い足を一歩、また一歩と遠くのほうへ伸ばしていった。背後で立ち止まったまま、リュカの方は震えていた。


 玄関を開けた途端、今日の夕飯はビーフシチューであることが分かった。家中に濃厚で、鼻を通り過ぎて胃袋を刺激する香りが漂っている。

「あらおかえり」

キッチンからシエルが顔を出した。

「ただいま」

母に心配されまいと浮かべられるだけ自然な笑みを浮かべる。

「どうしたのよ、元気ないわね。そんなんじゃ楽しいことも見逃しちゃうわよ」

「まぁ、いろいろあるんだよ」

「いろいろって何よ、大人みたいなこと言っちゃって」

「大人みたいって、僕もうそんなに子供じゃないと思うんだけど」

「まだまだ子供よ。私たちに養われている間はね」

「あとたった四年くらいじゃないか」

「十五で成人になったって、そんなにすぐ稼げるとは思わないことね」

「それは……」

返す言葉もない。

「で、リュカ君とは仲直りできたの?」

意表を突かれうげっと変な声が口から漏れる。

「……覚えてたの?」

もはや気まずさを隠すこともできず、恐る恐る様子をうかがう。

「もちろん、私、記憶力はいいのよ。知らなかった?」

「いや知らなかったって言うか、あれ聞き流してたかと思った」

「そんなわけないでしょ。まぁ、その感じだと良い感じにはならなかったみたいね」

残念そうに「あらあら」と片方の手のひらを顎にそえて首をかしげる。

「結局、リュカもわからずやなんだ。リュカだけは違うと思っていたけど、そんなことなかった結局リュカも、魔女は魔女なんだ」

思った以上に静かに、しかし心の奥ではくすぶるドロドロとした思いを抱えて吐き捨てる。

「それはね」

とシエルが優しく語り掛ける。

「実物を見ていないとね、人はどうしても考えを変えられないのよ。だいたい、怖いものをわざわざ見ようなんて酔狂な人もそういないしね」

「でもあの人は魔女なんかじゃない」

「それはあなたが毎日のように口うるさく言ってくるから知ってるわよ」

面倒そうにまた手を揺らす。

「お母さんだって会ってないじゃないか」

「そうよ?でも私を誰だと思って?あなたを生んだ母ですよ?あなたが本当のことを言ってるかウソを言ってるのかくらいは分かるわ」

「そういうもん?」

「そういうもん」

笑顔で首肯したシエル。

「さ、夕飯よ」

緩んだエプロンを直し再びキッチンに姿を消した。

 それから数日、学校には行くもののリュカと話す機会はめっきり減った。必要に迫られた時以外、リュカの前で口を開くこともなくなった。仕方なく話すときでさえ、会話は最低限に減ってしまった。知ってはいたが、やはり退屈すぎる。リュカに対する鬱憤を据えた腹はいつもどこか落ち着かない。時に腹に巣くう何かが暴れだしたり、またときに静かになったり。抱えた鬱憤はイヴを蝕み、常に視界に黒いレースのカーテンでも敷かれたかのような不快さを生み出していた。リュカもリュカで、時折視線を感じはするものの、互いに意地を張って話しかけようとはしなかった。


 屋敷での仕事から約二週間、待てど暮らせど待ちわびた貴婦人からの依頼が来ることはなかった。父と母は気にも留めていない。そもそも依頼なんて来ると思っていなかったかのように、めっきり話題に上ることもなくなった。イヴだってうすうすは分かっていた。あれはお世辞だって。あの日、修理を見学する傍ら見渡した屋敷の中で、傷んでいる家具なんて全くなかった。あのほんの一部屋の中で使い古されたような家具はロットが修理した食器棚くらいなもので、その他の家具はちょっと古風な新品と言われてもうなずいてしまうくらいに綺麗に整えられていた。家具だけではない。中に収められていた食器、修理後に差し出されたカップ、僕らには使われなかった、シンクの近くに置かれていた二つのティーセット、どれを見てもきれいに磨き上げられ、いかに愛情をこめて使われているものかが一目でわかる代物だった。そんな家で、再び依頼なんてあるはずがない。短い期間で物が壊れることも、恐らくない。そんな当たり前に考えてありえないことにも縋っていたいという気持ちに、イヴは負けたのだ。依頼があればもう一度あの屋敷に足を踏み入れることができる。屋敷を観察し、貴婦人といかに素晴らしい建築であるかを語らうことができる。何かの間違いでもそうなってしまえと願う気持ちが、イヴをあの日に縛り付けていた。


 翌日の学校からの帰り道、「バラケ日刊新聞社」の看板、坂道を下った分岐路。いつもなら左へ踏み出す足を、今日は右へ踏み出した。左手に家々が並び、右手は広い空き地とその奥に静けさの中で川が滔々と流れる景色の中を、イヴはまっすぐに進んだ。高揚と戸惑いがせめぎあったぎこちない足取りで眼前に広がる森に向かって歩を進める。一歩、また一歩とイヴの視界を森が染め上げていく。突き当りを左に曲がり、いよいよ森が口を開けた。招かれているような気がした。前に来た時とはまた違う、森がイヴを招いているような感覚。ここに来ることを待ちわびていたイヴに呼応するように、森もまたイヴを待ちわびていたような気がした。外側から内側へ、吹き込む風に木々の葉が揺れる。ほら、風までもが僕の背を押している。前と同じ道を、前よりまっすぐと、風に背を押され、木々の葉ずれに促されるまま屋敷へと進む。

屋敷は変わらず涼しさの中でそこにあった。周りの木々も何ら変わらない。二週間前、イヴが訪れた時そのままに、青々とした葉を茂らせてイヴを待ち構えていた。枝葉に隠れた窓が視界に映る。二階の窓に貴婦人の姿はなかった。ちょっと落とした肩を戻し、再び歩を進める。だんだんと近づく屋敷を目に焼き付けた。いつ見ても美しい。しかし、これだけでは足りない。以前ならこの屋敷だけで完璧と思われたこの空間に、何かが足りない。あるはずのものがない空白感、何かが欠け落ちた不完全さに胸のあたりがむずむずする。

「きれいだなぁ」

思わず口からこぼれた感想は木々の葉ずれに消えていく。ここならどれだけ思いのたけを呟いてもすべて葉ずれに隠されてしまうような気がした。

 屋敷の全景が見えたとき、イヴは思わず立ち止まった。前に来た時とは違う、白亜のキャンバスが夕日に染め上げられ朱々と燃えている。さながらイヴの思いを投影しているかのような、鮮やかな朱。どうしようもなく胸をくすぐられる。どうしても立ち止まって見惚れないわけにはいかなかった。この絶景を忘れまい。隅から隅まで、その場に立ち止まって観察した。視線を屋敷の正面から右端へ、一階を回ってまた正面へ、今度は左へ。

すると東屋の下に人影が見えた。屋敷を向いた椅子に腰かけている。滔々と流れる大河を思わせる長く美しい黒髪は、葉に磨かれた清々しい風を受けてたおやかに揺れている。その姿が、イヴの胸に引っかかっていた空白感を埋めた。イヴの見ていた絵に足りない何かが、しっかりとはまった。この朱々としたキャンバスでたった一つ、見るものを惹きつけるアクセントのような一点がそこにいた。イヴから彼女まで、まだ少し離れている。おそらく向こうを向いている彼女からでは気づかないほどの距離。そこから自身の瞳に移る景色に、イヴはくぎ付けになった。妖精のような儚さと、この森の主たる存在感が共存する器がどうしようもなく美しく、どうしようもなく悲しいものに思えた。そんな彼女から目を離すことも、彼女の領域に足を踏み入れることもできない。頭では声をかければ。と分かっているつもりでも、肉体が言うことを聞かない。まるでほかの生物であるかのように、自身の足が地面に貼り付いて動こうとしない。迫る闇に気ばかり焦る。嫌な汗をかいた。これ以上踏み込んではいけない。これ以上は、何かいけない気がする。彼女の聖域とでもいうべき何かが、目の前に見えない結界を張っているようだ。……魔女。一瞬よぎったその言葉に、激しい自己嫌悪を感じずにはいられない。違う。彼女は魔女なんかじゃない。それは自分がリュカにも言ったことではないか!自身の周り、薄皮一枚隔てた至近距離で、熱の膜が張っているような気がする。嫌に暑い。風は涼しいはずなのに。

彼女がこちらを振り向きかけた。瞬間、足の拘束が外れた。気持ちとは裏腹に屋敷に背を向け、脱兎のごとく森の出口へと一目散に走った。

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