第一章 イヴ・アングラード
燦燦と自らの存在を主張する太陽がバラケの街を照らしている。家々の屋根はその光を反射して輝き、道行く人々は日を避けるように帽子をかぶり、外働きの人たちはその肌を光らせながら仕事にいそしんでいる。教室の窓からやや遠くの方に見える農場では、主人のナトンさんが牛の世話に追われていた。さらに奥の方で妻のマトンさんが畑に這いつくばって作物から害虫を取っている姿が見て取れた。いたって普通の、いたって平凡な日常の風景。これまで幾度となく見てきた光景だが、教室の窓際に座り授業よりも集中して外を眺めるイヴにとっては、その目に写るバラケの町はいつも新鮮で、どれも好奇心や想像力を掻き立てるものだった。あの市場ではちょうど夫人と店主が値切り戦争とでもいうべき熾烈な心理戦を展開しているのだ!と、イヴの頭にはこの街で起こる様々なことが手に取るようにわかった。それに、たまに突拍子もない事も起こる。ナトンさんのところの牛が逃げただの、いたって平和に見える市場に実は他国のスパイが紛れ込んでいるだの。とどのつまりイヴはこの町で起こる物事を容易に想像することができた。仮にそれが突拍子もない事だとしても、イヴにとってはそれこそが真実であり、この町の歴史なのだ。かといって本当にいつも何かしら変化が起こる町が好きかと言えばそうではない。ちょうどこのバラケくらい何も起こらず、言ってしまえば退屈な町の方がイヴにとって想像の余地があり、都合の良い町なのだ。だからこそ、イヴはこの学校の誰よりも、この町が大好きだった。確かにそう言い切るだけの自信が、彼にはあった。
「ここまでで分からない人はいるかい?」
世界の外から不意に降ってきた問いかけが、イヴの想像に介入してきた。途端にイヴが見ていたバラケの町は渦を巻くように溶けていき、窓の向こうに遠く広がる本物のバラケの町がイヴの視界を捉えた。気づけばナトンさんに抵抗していた牛だって寂しそうに尻尾をこちらへ振りながら、もう既に牛舎の方へ連行されていた。途端にその現実のバラケの町がイヴの視界や好奇心を支配し、最早イヴだけのバラケの町に潜ることは至難の業となってしまった。こうなってしまったらもう無理だ。諦めて黒板を見ると、今度はこっちが僕の心を支配した。大きいのか小さいのかわからない黒板の半分にぎっしりと書かれているのは、この国、エルブライト王国の歴史だった。
イヴの暮らすバラケの町は、元々はエルブライト王国の町ではなく東のエルブライト王国と南方の交易国家カークバンドに挟まれたザルマ王国という亡国の町であり、町の東をエルブライト王国と、南をカークバンドとの国境に位置するいわば国家・都市交流の玄関口であった。そもそもザルマ王国は隣国であったエルブライト王国とは仲が悪く、亡国ザルマ王国の歴史でも長い間領土争いを繰り返していた。まさにこのバラケの町も、もとはエルブライト王国の都市であったところをザルマ王国が奪い取ったらしい。一方で南方の交易国家カークバンドとは盛んに交流していたため、貿易の玄関口であったバラケの町は今とは別物のように栄えた町であったという。しかし三百年前、隣国であったエルブライト王国と再び戦火を交え、開戦の地となったバラケの街は壊滅、ザルマ王国は亡国となった。その戦争の際、群衆によって展開された抵抗戦線にエルブライト王国は苦戦を強いられたらしい。イヴはこの“民衆の抵抗運動”の話が昔からのお気に入りだった。誰が戦った、どう戦ったなど詳細は分からない。しかしその勇ましくも儚い雄姿に心が引きつけられたのだ。勇敢に戦いつつも果てには凶弾に倒れる民衆たち。そこにはザルマ王国の徴兵を逃れた高齢男性や、女性もいたという。なんと勇ましく、なんと格好いいことか!イヴの心はこの話を聞くたびに、まるで毎回初めてその場を目にしているかの如く激しく燃えた。彼らの勇気を讃えるかのごとく、胸が高鳴り、耳には民衆の雄叫びが木霊した。
戦争が終結したのは開戦から二年後の一五五六年。そこからバラケには戦火を逃れたかつての住民やエルブライト王国からの移住者が集まり、また旧ザルマ王城に設置された総督府の管理の下で町の再建がなされた。一方でエルブライト王国に併合されて以降はカークバンドとの交易窓口は別の街となり、バラケのかつての繁栄は失われてしまったらしい。
「先生!なんでバラケは交易を外されてしまったのですか?」
起立に挙手でこちらに背を向ける先生に問いかけた。
「さぁ、なんでだろうね。何か大事な事情があったのかもしれないね」
老齢に立ち入ろうかと言うくらいの小柄で眼鏡をかけた白髪交じりの男性は、真実を濁すでもなく本当にそうなのかもしれない。という風に言った。期待外れの答えに肩を落としつつ、しかしそこに大人の事情など存在しないことをイヴは知っていた。そもそもカークバンドは交易国家であり、当時もザルマ王国だけでなく、このエルブライト王国とも交易は行っていたし、戦後バラケの町は焼け野原の状態。そこから復興しているさなかに交易なんてしている暇はない。故に旧来よりエルブライト王国で用いられていた交易窓口にその機能を移しただけなのだ。とはいえ復興後も交易窓口として機能しなかった、あるいはその必要がないとみなされたバラケの街は案の定商品の流通がなくなり、伴って人通りも一気に寂しいものになったに違いない。唯一残るものは隣町からやってくる行商人や、バラケの商人が外から仕入れてきたものを購入することくらいになってしまった。悪く言わせれば「活気がなくなった」と言われても文句は言えない。しかしイヴは、少なくともかつてのバラケの町を見たことはないが、このほどほどに寂れ、どうしようもなく落ち着いたバラケの町が気に入っていた。また、イヴが好んだものはそれだけではない。隣国との交流がないバラケの町では、行商人から聞く異国の奇妙で荒唐無稽な土産話が若干一一歳のイヴの心をいつも鷲掴みにした。
下校を告げる鐘が鳴らされた。周囲がさっさと教室を後にする中、一歩出遅れて荷物をまとめるイヴの背中を平手打ちが襲った。全く注意を払っていなかったイヴは瞬間の痛みと驚きに慌ててしゃがみこんだ。
「いつまでここにいるつもりだよ。早く帰ろうぜ」
綺麗で繊細な金色の髪をくるくるとさせ、鼻から頬にかけて薄っすらとそばかすを浮かべた美青年がこちらをニヤッと見ていた。
「リュカ!そんな叩かなくたっていいじゃないか。ちょうど準備してたんだし」
何とも美しく、しかし不完全な美しさを持つその顔は、こういう嫌な笑みを浮かべるときにその憎らしさを最大限に発揮する。その様は幼いころから変わらない
「にしたっておせーよ」
腕組になったリュカは眉間に弱く皴を寄せたが、すぐにその表情は柔らかくなった。さっきまでとは反対に、こういう時の彼の表情は何人をも惹きつける不思議な魅力があった。それは彼の不完全な美しさ故にもたらされるものだということを、長年の付き合いの中でイヴは見抜いていた。
「帰りにちょっと市場によっていろいろ見て帰ろう。だから早くしろ」
「わかったから、ちょっと待って」
片づけにもたつきながらようやく校門を通り過ぎたが、その頃には既に周囲に生徒らしき人影はなかった。日も西に傾き、空を鮮やかで鮮烈な朱に染めていた。学校から今日の想像の舞台となった牧場へ続く道へ下り、右手の川にかかる橋を渡る。この橋はどうやらバラケがまだザルマ王国の一部であったころからあるらしい。この話が本当かどうかは最早誰にもわからないが、それを信じてしまうくらい、歩くと音を立てて軋む傷んだ橋だった。とはいえ若干一一歳のイヴたち生徒はお構いなしにドンドンと音を立てながら走って渡った。
橋を抜けると右手には家々が、すぐ目の前には市場が広がっている。家の建ち並ぶ未舗装の道では学校を終えた子供たちが笑い声をあげながら楽しそうに遊んでいる。楽しそうだとは思ってもそれに混ざる二人ではない。二人はもっと楽しいことを知っているのだ。二人はお構いなしに市場の中へ足を踏み入れた。屋台が所狭しと軒を連ね、食料品を売っていると思えば隣では工具や入れ物などの小物類を扱い、また向かいでは煙草、蝋燭、食器類。まとまりもなく、各々が売れると信じたものを好きなように売っている。このごちゃごちゃして店のひしめき合う狭い道をこれでもかと言わんばかりの買い物客が往来している。老若男女、年齢関係なく。まさに二人のような客も、買う気はないから客と言うかは分からないが、ちらほらと見て取れる。時刻はちょうど夕方、仕事終わりの買い物客で見事にごった返していた。おそらく繁盛もピークであろう。産業革命と言う文明の進化を迎え、この端っこの街にも大量の製品が流れ込み、男性のみならず女性も働きに出る時代。隣町の紡績工場での仕事を終え、いざこれから家事に勤しむのであろう主婦たちも、今日の夕飯を求めてこの人波の一翼を担っていた。イヴとリュカは時に人波に乗り、時に抗い、時にすり抜け、この迷路のような市場を目当ての店めがけて奥へ奥へと進んだ。途中、肉の焼ける良い匂いや芳醇な香り漂わせるハーブに心奪われ何度も涎を飲んだ。本音を言えばその場で食べてしまいたい。何度思ったかしれないが、その都度「そもそも買えるほどの金を持っていない」という現実問題を突き付けられ泣く泣く断念した。
「イヴ!こっちだ!」
リュカに引かれた腕がひしめく人波に押しつぶされ見えなくなる。そのまま自分もまるまる見えない腕の先へ飲み込まれた。数多の人にぶつかりながら進むが誰も気にも留めない。こちらを気に掛ける人もない。皆それぞれの目当ての商品に夢中なのだ。進み続ける両端から主婦と商人の値引き合戦の言い合いが聞こえる。ほら、僕の見ていたバラケの町は間違っていなかったんだ!自信が体にこみ上げついにやける。誰もこちらを気にしないしこちらも誰も見えないことを幸いに、にやついた顔を隠すことなくさらに酷いものにした。
急に視界が開けた。人のひしめく食料エリアを抜けた先にあるのは職人エリアともいうべき、様々な工芸品などを扱う店が並んだエリアだ。置物や家具、キャンドルホルダーなど子供心をくすぐる品々が所狭しと並んでいる。この時間ではもう既に繁盛時を終え、店じまいの支度をはじめているところも少なくはない。そのエリアの一角に、イヴとリュカの目当ての店があった。店名を掲げていないその店は日によって開いていたり開いていなかったりまちまちで、どちらかと言うと開いていない期間の方が多い不思議な店だ。陳列された商品も周囲と雰囲気がだいぶ違う。何の統一性もない種々様々な、一瞬眩暈がしそうなほど様々な色を持った商品が所狭しと窮屈そうに並べられている。そのどれもがこのバラケの町にはない他の街のもので、中には異なる文明を持った他国の商品も並べられていた。異国と言うものを話に聞き、その豊かな創造の羽を広げ続けていたイヴにとって実際にそういった国の商品を見ることは、彼の想像の先にある異国の存在を証明するものでもあったのだ。
「お、また来たのか坊主ども」
店の奥から商品同様に窮屈そうに店主のマエルが顔を出した。
「マエルさんお帰りなさい!」
イヴの言葉にマエルは片手を振ってこたえた。
「今度はどこに行っていたの?」
イヴは我慢できずに問うた。
「今回は隣のカークバンドだよ。見渡す限り砂と岩の国だ。悪いが今回は商品が多すぎてな。お土産はなしだ」
「えぇー、まじか」
リュカがあからさまに不満を口にした。そばかすが憤るその残念そうな様子はイヴを楽しませたが、イヴにとってお土産は物でなくても構わなかった。
「また旅の話を教えてよ!」
「そうだなぁ……」
こうやって毎度、マエルはバラケに帰るたびに二人に土産話をせがまれるのだった。とはいえマエルも自分の見たこと聞いたことを誰かに伝えるのは嫌いではなかった。ましてや目を煌かせて自分の話を聞く二人には、無論言われずとも自分から土産話を語ってしまう。それを我慢しろというほうが無理がある話だった。
市場を出てリュカと別れた。そのまま住宅街と、対面に旅籠が立ち並ぶ道を抜け、酒場のある分かれ道を左に進んだ。日も暮れようというこの時間に酒場は大いに賑わっていた。イヴの住む家はこの道をまっすぐ進んだ先、ちょうど学校とは正反対に位置する山の辺りにある。というのも家は父が木工製作所を営んでおり、その工房も兼ねているので材料となる木が生い茂る山の辺りの方が都合がよいのだ。家の周りにそれなりにある、ちょうど材料として切られた木の切り株はイヴのちょうどよい遊び場になっていた。家には併設された工房を職場にしている父がいる。外へ納品や修理などに行っていない限りは大抵いる。逆にイヴは学校へ、母は隣町の紡績工場へ働きに行っているため、日中家にいるのは、むしろ父と頻繁に出入りする職人たちだ。ちょうどこの時間は職人たちが仕事を終えて酒場で一杯やっている時間であり、酒場を横目に歩を進めながら、少年心にそこはどんなに楽しいところなのだろうと心躍らせた。扉や窓からのぞくその内側の、煌びやかで暖かな内装と雰囲気がさらに少年心をくすぐった。大人になったら……!と何度決意を固めてもこればかりは年月しか解決しない。それを知っているイヴは目の前の現実を振り払うように歩を急ぎ足へと変え、その場を後にするのが常だった。
酒場を通り過ぎると人家もまばらな道が続く。足元に轍の跡が見える。うちの荷馬車が通った後だ。この道を通る家で轍の付くようなものを持っているのはうちしかない。轍は地面に深く跡をつけている。昨日までこの轍はなかったし、今日雨は降っていない。つまりこの轍は、今日それなりに重い荷が出荷されたことを意味している。工房を手伝うイヴの脳裏で嫌な予感がした。緩やかな傾斜に似合わない前傾姿勢で足を力強く前に蹴りだした。
荷物も降ろさずに工房の扉をはね開けた。
「お父さん!あの棚、出荷しちゃったの?」
「あの棚って……あぁ、昨日まで作ってたやつか」
「そう!出荷しちゃったの?」
その棚はイヴも製作を手伝っていたもので、父や職人集団が全体を組み上げつつ、イヴが扉の装飾部を設計図通りに削り込んだものだった。
「今日の夕方前くらいかな、出荷したよ。今朝になって納期を早められないかとお客が問い合わせてきて、見てみればあとはほんのちょっと装飾を加えて組み合わせれば完成だったからな。こっちでやっといた」
「えぇー」
誰が見ても分かるくらい肩を落とした。父の言っている装飾と言うのはイヴが任されていた部分のことであり、イヴの中では今日中に仕上げてしまうつもり満々だったのだ。ここまで数週間、力を入れて取り組んできただけに最後の一手を持っていかれてしまった悔しさは言葉で語れるようなものではなかった。それこそ「えぇー」というため息交じりの感嘆がせいぜいだった。
「残念だったな、イヴ。でもあの装飾の出来は良かったと思うぞ」
脇から作業をしながら大きな声を出したのは、イヴが生まれる以前から父であるロット・アングラードと共に働いている熟練工のトマ・ガルシアだ。イヴを生まれた時から知っており、それこそ赤子で生後間もない頃に両親以外で最初にイヴを抱っこした人物でもある。それだけにイヴにとって家族以外で家族と呼ぶ唯一の存在だった。トマもイヴの性格をよく心得たもので、たった一言で腐っていたイヴの心を明るく刺激した。
「本当に!」
「あぁ、本当だとも。そんなことに嘘はつかないよ。次こそはイヴが仕上げたものを俺にも見せてくれよ」
「やった!次こそは絶対ね!」
掌で転がされるとはよく言ったもので、扱いを心得られた人間はかくも扱いやすいものかとトマはロットと口元に呆れの笑みを浮かべて目くばせした。おかげで「なんで出荷しちゃったんだ!」というイヴの不満は次の機会というマシな方向へ流されたのだ。
「じゃあ次にお前向きな仕事が来たら回しておかないとな」
ロットはイヴの頭に手を置いてにこやかに言った。
翌日、雲が押し流されどこまでも突き抜ける青空の下、イヴは母と共に買い出しに出かけた。母は産業革命と言う時代の潮流を体現するような、女性としてはあまりに自立し、逆風までも打ち払っていくような芯の強い女性だった。納品した棚に文句をつけてきた髭の生い茂った大男を手軽く追い返したこともある。イヴにとって手本とするべき女性であった。
普段なら母だけで買い出しに行くことが多いのだが、今日は出かける寸前に「シエル、市場に行くなら一緒に工房の資材も買ってきてくれないか」という父の依頼が入ったことで荷物持ちとしてイヴが動員されたのだ。イヴも暇を持て余していたし、イヴ自身も工房に入り浸っていているせいで、日ごろ一緒に出掛ける機会の少ない母との稀な外出に静かに心躍った。
「最近学校はどうなの?」
家から出たところでシエルが問いかけた。つばの広い、下の方に薄緑のリボンを結んだ白いハットに普段着用のスッキリと着やすそうなドレスと言ういでたちで、風になびくスカートのすそや赤茶のゆったりと波打つ長髪が美しく、その艶やかな色が、母の整った顔立ちの、透き通るような白さを際立たせていた。その姿は道行く男たちからうっとりとした視線を奪い取っていたし、そんな母の隣を親しく話しながら歩くイブは勝手に鼻が高くなったような心地がした。
「楽しいよ。特に放課後が」
母の横を歩き、風になびく髪を目で追いながら答えた。
「放課後は学校の時間とは違うでしょう」
「帰り道まで学校だよ。だいたいリュカと一緒にいるんだ」
「リュカって、あの大工のところの?」
「そうそう。大工じゃなくて建築家だってリュカは言うけどね」
「そうだったわ。人様の仕事を間違えるなんて、いけないわね」
「リュカの家にもうちの作った家具とか納品してるんでしょ?」
「それはもちろん。向こうは家とか作るわけで、うちは家具だからね。どっちかでも欠けたら、家は建たないわよ」
軽い口ぶりに母が楽しそうなのを感じ取る。そんな母の横顔を見ながら酒場の前まで来た。イヴだけで市場に行くなら右に曲がり旅籠が立ち並ぶ道を進むところだが、母はそちらの道に気付かないかのように左へ続く道をまっすぐ進みだした。
「市場はこっちじゃないの?」
右側の道を指さして問うた。
「こっちからでも行けるのよ。それにね、私はこっちの道が好きなの」
「なんで?」
「進んでいればわかるわよ」
よくわからずではあったが、母の声が弾んでいる。母が言うならきっとそうなのだ。通ったことのない道への不安と遭遇するかもしれない未知の存在への期待をまぜこぜにして母の後ろを歩いた。初めて歩く道はやはり新鮮だった。右手には道に沿って家々が立ち並び、左手には木々がうっそうと茂る森が広がっている。そのまま変わり映えしない道を進み続けると、左手に森の中へと折れ続く小道が見えた。小道の前で母が立ち止まり小道の奥を指さした。
「私がこの道を好きなのはね、あのお屋敷が見えるからなの」
指さしたその先には、小道に差し込む木漏れ日のさらに奥、少し薄暗い中にぽつぽつとした光に照らされた大きな屋敷があった。ぱっと見でわかる、なんと重厚で優雅な建築か。一昔前の貴族が住んでいたのではないかと思わせる屋敷は、木漏れ日に照らされてその存在感を静かに、印象深く、見る者に与えていた。イヴは、この屋敷を知っていた。
「このお屋敷って、魔女が住んでいるっていう、あのお屋敷だよね」
「魔女?」
「そう、魔女。何十年も、何百年もここに住み続ける魔女」
「そんな噂があるの?」
「お母さん知らないの?」
「さぁ、聞いたことないわ。学校で流行っているの?」
「いや?町の人みんな言ってる。この屋敷の魔女は何十年も何百年も、ずっと見た目が変わらないままここにいるんだって」
母は今の仕事場のある隣町から父との結婚を機にイヴの住むバラケの町に移り住んできた。そんな母なら町の噂を知らないのも仕方ない。
「そんなに前から?」
母の反応が新鮮で、自分は知っているという優越感がイヴの心を満たした。自然と頬は上気し、口ぶりが軽くなる。
「うん、新聞屋のルイなんておじいさんの代から変わらないらしいって言ってたよ。ルイは学校で一番物知りなんだ」
「そんなに変わらない見た目なら私も欲しいわね」
シエルは実に楽しそうな笑い声をあげた。
「いいイヴ」
シエルはかがんでイブと目線を合わせた。イヴが見た母の瞳はさっきまでの朗らかな明るいものから、理知的で冷静で、物事を透き通すようなものに変わっていた。この目をするときの母は真剣だ。
「人っていうのはね、周りからのイメージとか、評判とか、そんなもので判断することはできないのよ。周りがどう言っても結局は自分と合うか合わないか。自分の目で見て、直に話して感じてみないとわからない。たとえそれが魔女だとしても。ね。だからそんな噂で人様を判断してはダメ。もちろんその、ルイ君?が嘘を言っているとは言わないし、そんなことは分からないけれど、機会があるならまず相手を知って、感じようとしてみなさい。その先に、その人がどんな人なのかを判断する機会が訪れるのよ」
シエルはこの文句をよく口にする。イヴはこの時も真剣に受け止めた。
「大丈夫。わかってるよ。でも、魔女はちょっと怖いかな」
「そうね、いつか会う機会があるのなら、素敵な魔女だといいわね」
シエルは立ち上がり「行くわよ」とイヴの背に手を当てた。イヴはまだ物足りない、まだこの美しいお屋敷を見ていたい。そんな気持ちで名残惜しく、荘厳で美しい屋敷を目に焼き付けようと視線を向けた。改めて見ると、前時代的な荘厳な作りは周囲を取り囲む木々によってその陰影を際立たせ、静かにその存在感を訴えている。あそこに住むというのはどんな心地なのだろうか。さながら亡国の貴族。時代に取り残された、いや、そこだけ時間が止まった永遠の時間の中にいるような、とても物語的な心地になれるに違いない。途端にイヴの心は空想の空に舞い上がった。雲を抜けようとした矢先、強い風が屋敷を囲む森へ吹き込んだ。二階の窓を覆い隠していた木々の枝が風にしなり、瞬きくらいの短い間その姿を現した。差し込んだ光は窓に反射し、木々によってつけられた陰影に焦点が生まれた。ほんの一瞬、窓の向こうに人の姿が見えた。窓辺に佇みこちらを見ているようだ。ちらと黒い長髪が見て取れた。白い衣服に黒髪が映えている。魔女だ。直感的にそう思った。胸元に日の光を受けて青く輝くあれは宝石だろうか。ただ、なんと美しく神聖な雰囲気を纏った魔女だろうか。静かに沸き起こった感想はイヴの背後に置いて行かれ、その残りカスだけがイヴの胸に残った。
用事を済ませ家に帰ってから、イヴは自室にこもった。月明かりが薄暗く部屋を照らす中、イヴは静かに、昼間のことを思った。あの屋敷はいつのものだろう。あの人は魔女なのか、どんな人だろう。湧き立つ想像の泡は留まるところを知らず、次から次へと疑問と好奇心が押し寄せる。すでにイヴの中で、恐怖心はなりを潜めていた。いつか直接、間近で見たい。いつかあの人と話してみたい。そんな願いが、イヴの胸中を満たしていた。
授業が終わると、イヴはリュカのクラスへと足を運んだ。イヴの学校のクラスは大きく二コースに分かれている。イヴとリュカのような自営業の子息、言ってしまえば勝手に労働力として機能する人材を、より優れた労働者となるように教育する養成科。もう一つは自営業ではない家庭の子息。つまり道が決まっているわけではなく、自ら働き口を探さねばならない職業科。二コース共に母国語・歴史学・数学は共通の必修科目で、養成科はゆくゆく自らの家業を継ぐために経済学を、職業科は働き口を得るために実技科目が定められていた。職業科は実技のために種々教室を移動する必要があるのに比べ養成科はひとたび教室にたどり着いてしまえば終わり。あとはひたすら机と本に向かって将来の自分への投資として、持ちうる時間と言う財産を支払って得られるだけの知識を身に着ける。それ故教室のありさまはコースによって異なり、すぐに移動できるように道具や教科書がすべて机上や周辺に整然とまとめられている職業科に比べ、養成科の教室後部に木枠を組み合わせただけの粗末なロッカーが設置されている。そこはたまに母の作るごった煮をさらに混沌としたもののような様相を呈していた。いくら時代が女性に光を当てたからと言って、こんな田舎の学校では大きな時代の中、昨日の今日のようなタイミングで女子生徒が多く在籍するわけはなく、やはりほとんどが男子のみで構成されるクラスのロッカーなど、綺麗であるはずがなかった。町の多くの女子たちはひたすら家事や炊事に追われているのが現実だ。この町でも女性労働者は増えたが、その多くは隣町の紡績工場で働く出稼ぎに近い働き方をしている。そう思うと、この学校に女生徒が入学することなんて、まだまだ先のことに思えた。
イヴが教室前方の扉からリュカを探していると、彼はちょうど今日使ったものをすべてロッカーへ詰めているところだった。入れ方の問題かはたまた入れすぎか、ロッカー全体が紙や教科書の端が突き出したような様相を呈し、区画によって手入れのされない牧場の草地のような、はたまた人が手放した荒れ地のような姿を演出している。一方で、リュカの棚だけは唯一人の手入れが行き届ているような整然とした区画を作り上げていた。まさに誰がどこから見てもこれはリュカの棚であるとわかるようなものだった。荷を入れ終わったリュカがこちらを向いた。
「よう」
目があったリュカが呼びかけた。
「そんなところに突っ立ってどうしたんだよ。帰るんじゃないの?」
手は止めないながらも浅い緑の瞳はずっとイヴを捉え続けていた。
「あぁ、帰るんだけどさ、ちょっと聞きたいことがあるんだよ」
西日が差し込み人気のなくなった教室で向かい合わせになった机に座るリュカは真剣な顔をして考え込んでいた。腕を組み、目を瞑り、消え入りそうなうめき声を上げつつ、返す言葉を探している。この時ばかりはいつも挑発的に揺れ動く彼のくるんと丸まった前髪も、揺られることのない頭の前方にただぶら下がっているだけになっていた。
「いや、ないな」
こちらに顔を向けず、腕を組み目も明けないまま彼は答えた。
「俺は魔女を見たことも、ましてや魔女の住む館も、今まで一度だって見たことはない」
意外な答えだった。面白いと思ったものにはすぐに飛びつくリュカでさえ、異国情緒をごった煮にしたようなマエルの店に入り浸るリュカでさえ、イヴたちの間で知れ渡り、最早知らないものなどいないくらいに広まった魔女の噂、その屋敷を見たことが無いなんて。
「そもそも、噂を知ってて見に行こうなんてふつう思わないだろ?」
いたって真面目な意外な問いに素っ頓狂な声を上げた。
「なんだよ」
思わず硬直したイヴに剣呑な声が投げられる。頬はうっすらとピンクに染まり顔は下を向いているが、そのくるくるとした前髪の奥で目だけはこちらを捉えて離さない。その姿は虚勢を張る小動物のようでイヴの心を小さく擽った。
「いや、ごめん。リュカならこういう噂とかそういうの好きだと思ったから、気になって屋敷くらいは見たことあるんじゃないかと思ったんだけど、違ったから意外だっただけ」
「悪かったな。臆病で」
彼はとうとう視線を窓の外へ向けてしまった。両腕を胸の前で組み、いつも以上に背筋を伸ばして座っている。このまま放っておいてやろうか。という悪戯心も生まれたがやめといた。跡が面倒くさそうだ。
「でもあのお屋敷、すごい立派だったよ。おとぎ話に出てくるものなんかよりずっと幻想的で、まるで森の主みたいな感じだった」
「そりゃ主だろうさ。だって魔女って、僕らが生まれるよりもずっと前からあの森に棲んでいて、見た目も変わらず若いまま。中々町に出ないから最近じゃその姿を見た人も少ないらしいけど、それでも魔女の美貌は変わらずそのままだなんていうじゃないか。ただでさえそんな超常的な人が森の主でしたなんて言われても、もう何にも驚きゃしないさ」
「リュカ、怖いの?」
額に汗をにじませ早口にまくしたてる間、リュカは瞬き一つしなかった。目を見開き一心に脳内に浮かぶ言葉を吐き出していた。頬は薄ピンクから朱に染まり、頭髪はいつも以上にそのくるくる度を増していた。何より彼のこぶしは机の上に平行に並べられていたが、そのどちらもが固く握りしめられていた。今度こそ、イヴは悪戯心に耐えられなくなていた。
「怖いのって……そりゃ……」
またも彼は目を伏せた。こぶしは依然固く握られている。これも当然か。魔女の噂では「魔女に魅入られれば二度と戻ってくることはない」と言われている。真実かどうかなんて馬鹿馬鹿しい。考えなくとも愚問であることは明白である。と母譲りに思うイヴは少数派であり、学校の多くの生徒は魔女を本物の魔女と認識し、魅入られればよくわからない呪いの贄とされるのだ。と戦々恐々としていた。噂を楽しむのはよいが、噂に踊らされることには感心しない。それはリュカも同じようなもののはずだった。まさかリュカがこれほど頑なで、イヴの考えを理解してくれないとは思ってもみなかった。イヴは諦めと若干の失望を確かに感じながら、両手を握りしめ出ない答えを求め続けるリュカの思考を遮った。
「そうだよね。そりゃ怖いよね。噂でも言われているし、仕方がない。むしろ僕よりもそっちの方が普通だと思うしね。今のは忘れて。」
手早く荷物をまとめ上げると立ち上がってリュカに背を向けた。高鳴る足音も気にせず足早に教室を出る。リュカへの失望か、いや、彼を信じた自分への憐憫が、歩くたびに廊下に鳴り響いていた。
リュカのいない帰り道は初めてではない。そりゃリュカもイヴも家業の手伝いが入ったり体調を崩したりすればどちらかが欠けることはよくあったし、珍しい事でもない。今まで喧嘩をしたこともあった。その度に心のどこかにモヤモヤしたものを抱えていたが、今日はなんだかいつもと違った。モヤモヤした気持ちも何もなく、おかしいくらいに落ち着いている。心という名の泉は鏡のような水面を崩すことはなかった。イヴ自身不思議だった。本来なら怒ったり、嘆いたりして、それこそ泉は大小関わらず波打つはずであるのに。こんなことは初めてであった。
夕日に照らされる斜面を今日は一人で下る。その足も不自然なまでにゆっくりとした歩みを刻んでいる。授業が終わってから既に二時間以上経っている。多くの生徒は家に帰り着き、親の手伝いなり気ままに過ごすなりしている時間だろう。この時間に下校中の生徒なんて大体いつもイヴとリュカくらいなもので、おかげさまで周りに生徒の人影はなく、ましてや隣にリュカもいない。おかげで自分の足取りが本当にゆっくりしたものか、それともそう感じているだけなのかを判断することはできなかった。今日はいつもより夕日が遠く感じる。
木々がまばらに影を落とす坂を下りきり、静かな小川にかけられた橋を渡り、道が二手に分かれる境目に来た。まっすぐ行けばいつもの市場、右に行けば魔女の屋敷へと続く道。さぁ、どちらに歩を進めるべきか。このまままっすぐ家に帰るのは味気ない。かといって心の一部を切って置いてきたようなあの屋敷へ歩を進めるのも、決して噂のせいという訳ではない。断じてないが、これから暗くなるこの時間に行くというのも気が引けた。道のど真ん中で腕を組んで右往左往考え抜いた後、結局イヴはそのどちらでもない第三の選択肢を選んだ。どちらの道に逸れるでもなく左右に伸びる道の真中に三角形に形作られた住宅地の先頭に位置する目の前の建物へと直進した。頭上に質素に掲げられた看板には大きく書かれた「バラケ日刊新聞」の文字。市場に面して広く取られた建物左横の駐輪場には一家として使うには多い自転車がきゅうきゅうに並べられていた。ドミノ倒しをしようにも固まった自転車同士が互いを支えてしまいうまく倒れなさそうだ。大体早朝五時とか四時くらいに個々の自転車は乗り手を背負って一斉に走り出す。思い思いの方向を照らす明かりが右へ左へと首を振りながら薄暗闇に包まれた町をを疾走していく。それは遠く離れたイヴの家にも。彼らがやってくるのは大抵寝ている時間だ。しかし父の仕事が忙しかったり、まだ空気が冷たく湿っている時分に材料調達へ行くときなど、ごく稀に早朝から父の仕事を手伝うときは、この新聞が届くことが仕事開始の合図だった。建物は隣り合う住宅街の建物よりも作業場を擁している分縦横に大きく構えられており、広く取られた一回が新聞社としての作業場、その上にちょっこりと乗っかる望楼ように二階が建てられている。一階には正面入り口のほかに駐輪場側に扉が一つ見えた。もしかしたら他にも出入り口が細かく設置されているのかもしれないが、今のイヴの角度からは見えなかった。まるで探偵のようだと浮足立つ心を静め、意を決して表の扉を押し開く。扉は両開きのやや重い作りになっていた。扉を押すイヴの手に扉そのものが滑らかに、自らの重さを活かしてしっかりとのしかかり、何の違和感もなく、不思議なくらい馴染んだ触り心地でイヴの手を迎えた。それは木や木材と言うよりもっと流線的な、風や水の浸食で削られ自身を滑らかで艶やかに描き出す岩石のように細やかな起伏に富み、まるで大理石を触っているかのような滑らかさがあった。不思議と馴染むこの手触りがまた、「これまで数多の人間がこの扉を押してきたのだ」という心躍る歴史の語り手からのメッセージのように思えた。この地に長く新聞社として座している実感を、扉を開くその腕に重く感じるようであった。この場所のことは毎日の生き帰りで知っていたものの、新聞はいつも自宅に勝手に来るものであり自分からここへ足を運ぶことは初めてであった。扉は大きさの割に、もしくは美しいその見た目故に抱く期待通りに、意外にも音を立てず静かに滑らかに開いた。扉に吸い込まれるようにして中に入ったイヴを出迎えたのは、むせ返るほど強く香る紙とインクの匂いだった。扉にむけてしつらえられたカウンターの奥には所狭しと印刷機が並び、それぞれに人間が張り付いて明日の朝刊になるのであろう新聞を擦り付けていた。その機械のせいだろうか、この空間全体がむっとする熱気とその熱を溜め込み漂い続ける湿気に包まれていた。その中で動き続ける人間の首筋や頬は光に照らされてきらめいている。部屋の右端、印刷機の右手側の壁に沿うように置かれたの棚にはまっさらな紙がきれいに整えられて並べられており、反対の左側の棚では既に印刷作業を終え、これから組み上げられいよいよ新聞となるであろう紙束が積み上げられていた。それらは印刷前の紙よりもいつも手元に届く新聞のようによれており、そのよれ具合がまた味があって乙なものだと、イヴは内心腕を組んで大きく頷いていた。刷られた新聞のタワーはいくつかまとめて、左側の棚の、さらに奥に開けた空間に設けられた別室へ持っていかれる。たしかあちら側の壁の向こうにはこの新聞屋の自転車が止まっていたはずだ。なるほど新聞は最後にあの部屋で組み合わされ、手元に届く一部が出来上がるのだ。そして組み上げらえた一部は部屋の窓から配達の自転車へ受け渡され、かごにきゅうきゅうに詰められ、まだ肺を洗い流すような冷たさが残る早朝の空気をその身に受けながら、町はずれに位置するイヴの家に投げ込まれるのだ。そう考えるとたった一部の新聞といえど、その中にとてつもない時間が含まれているのだとイヴは感心し。
遥か彼方の空想に飛ばした意識が新聞とともに家に届けられたところで、イヴの意識は紙とインクの匂いが充満するこの空間にようやく戻ってきた。同時に、そもそもルイを訪ねてここへ踏み入ったのだと思い出した。
「あの……」
誰もいないカウンターから呼びかけたものの、イヴの不安げな声は稼働する印刷機の轟音によってかき消された。もちろん、誰も気づく者はいない。皆せわしなく明日の新聞づくりに勤しんでいる。誰一人として手を止めず、次々と新聞が仕上がっていく。この町全ての人々へ新聞は届けられる。いかに小さな町と言えど、それがどんなに大変な仕事なのか、その片鱗を垣間見たような気がした。もう一度、今度はもう少し大きな声で呼んでみる。
「あの!」
それでもやはり気づかない。あの轟音の中で常に働いているのだ。耳も馬鹿になっているに違いない。呼びかけるのをあきらめてカウンター手前から左右を見回した。部屋の入口に近い右手に二階へと続く階段が伸びている。が、階段の始発点には立ち入り禁止の木札がぶら下がっていた。どうしようかともう一度周囲を見回したものの、結局誰もこちらには気づかない。数少ない視界に入る人間たちも自分たちの仕事に集中しているのか、手元の作業を凝視するばかりでこちらに目を向ける者はいない。ここまでくると若干の狂気を感じなくはないのだが、仕事と言うのはそういうものだとイヴ自身がよく心得ていた。家で父の仕事を手伝うとき、自分に任された部分を彫り込むとき、興味が乗らない瞬間は全くと言っていいほど気が向かない。いいアイデアは降りてこないし、掘り始めようとしても手は動かないし、仮に彫っても後悔しか生まれない故にすぐに飽きる。が、稀に訪れる極度の集中状態となれば、まるで神の意識がこちらへ向いているかのようにアイデアが降りてくる。故に手も動く。その時の自分は作品と一対一に相対するというよりむしろ、雑音もない、ただひたすら無の空間の中に自分と作品だけが浮かんでいるような空間に意識が陥っている。そこでは時間と言う概念も消え失せ、精神の続く限りその作品との対話を繰り返す。作品の声を聞いては彫り、駄目と言うなら別の提案をする。そうしているうちに日が暮れることもあった。しかし職人と言う身分において、この瞬間は何物にも代えがたく、まがうことなき最高の瞬間だと言えた。今目の前で作業に没頭している彼らにも同じようなものを感じた。彼らは今何を見ているのだろうか。何と対話しているのだろうか。
人を呼ぶことを諦めて階段に掛けられた立ち入り禁止の木札を跨いだ。階段を上りきったところは廊下であり、目の前にいくつか扉が並んでいた。二階は一階とは異なり何とも庶民的な、イヴの家だけでなくおそらくバラケの町の多くがそうであるような、簡素な作りになっていた。飾り気のない板で作られた壁に床。足元はカーペットが敷いてあるところもあるが、壁にはほとんど何もかけられていない。他人の家に出迎えられた訳でもなく勝手に入っている状況に不安な感情は抱いていたが、むしろ背徳的な状況に心躍る自分もいた。すぐ端に行きつく廊下をゆっくりと進むと、奥から二つ目の扉に「ルイ」という木札が打ち付けられていた。ここだ。扉の前で一度深呼吸をする。なにせ学校でも大して話したことのない友人だ。たしかに複数人で遊ぶときに一緒にいたり、会話の中にいたりはするものの、こうして二人で面と向かって話すというのは初めてだった。それがほぼ不法侵入も同然なこの状況というのだから、ルイになんと言って話しかければよいのかわからなかった。しかし、それに勝る好奇心がイヴの背を押し足を動かした。魔女の噂をもっと知りたい。あの屋敷についてもっと知りたいという欲が。
意を決して扉をノックした。中から「はい」と言う返事が返ってくる。
「あの、イヴです。同じクラスの。……ちょっと聞きたいことがあって」
「えっ、ちょっと待って今行くから、ちょっと待って!」
扉の奥で慌てているような足音が聞こえる。急に約束もなく人が来たのだから無理もない。普段の大人しい見た目からは想像もできない大きな足音。普通の家なら一階から怒られそうなものだが、この足音も下の従業員たちには聞こえていないに違いない。引き開かれた扉の奥でルイが素っ頓狂な顔をしていた。
「ごめん下の人だれも気づかなかった?」
「あ、うん、みんな仕事に夢中っぽくて、誰も」
急に訪れた気まずさをごまかすようにイヴの目線はルイと背後の景色を行ったり来たりする。
「ごめんよ、あの人たち仕事に一生懸命なもんで、客人が来ても誰も気づかないんだ」
「あの音じゃ仕方ないよ。何も聞こえないもの」
「そういってくれると嬉しいよ。ちなみに僕の友達は大抵勝手に階段を上がってくるから気にしないで」
片目を器用に閉じて笑顔で答える。
「で、どうしたの?イヴが僕を訪ねるなんて珍しいね」
「ちょっと聞きたいことがあってさ」
「わざわざ家に来るって、学校じゃ聞けないことなの?」
「聞けなくもないんだけど、ちょっと学校で聞くのは面倒で……。魔女について聞きたいんだ」
「魔女って、あの森に住んでいる老いない魔女?」
「そう。前に学校で話してただろ?」
「そういえばそんな気もするけど、僕だってそんなに知らないよ?」
「なんでもいんだ。あの魔女と屋敷について教えてほしい」
「え、魔女の噂を?本気?」
正気を疑うようなルイの瞳がイヴを見つめる。いつものイヴなら怯んでしまいそうだが、この時ばかりは好奇心が恐怖に勝った。
「うん」
「まぁ良いけど……」
ルイは眉間に皴を寄せ、首をかしげて「うーん」と唸る。ややあって再びイヴをまっすぐに見つめる。
「……わかった。とりあえず中に入って。廊下でする話でもないでしょ?」
悩む腕を解き手招きするルイに促されるまま、ドアを抑えるルイの横を通り過ぎて部屋の中へ入る。さすが学校一の物知り。部屋の入口左手には天井まで届きそうな本棚が壁一面に設けられ、その中に所狭しと本が並べられている。入りきらなかったのであろう本は床に丁寧に積み上げられている。イヴが魔女の話を信用しているのも、学校での振る舞いからルイのこういう面を知っているからだ。さらにルイが無類の歴史好きであることは授業を見ていれば一目瞭然だ。イヴもなかなかの歴史好きであり、そこら辺の大人よりもよくこの町の歴史を知っていると自負しているが、ルイはイヴから見てもそれを優に超えてくる。おそらくイヴの周りでこの町について一番よく知っているのはルイであろうと、イヴは常々思っていた。そして今、初めて彼の私室に足を踏み入れ、確信した。この町のことを聞くのなら、彼が一番だと。
「それにしてもなんだってそんな急に……」
扉を閉めて僕に座るよう促しながら問いかける。ルイが座ったのを見届けて余った椅子にイヴも腰を下ろしつつ続けた。
「実はこの前、母さんと屋敷の前に行ったんだ」
「え、そうなの?酔狂なことするね」
「それは思ったよ。さすが我が母だって。でも、すごかった。今でも記憶に焼き付いて離れないんだ。あの屋敷の荘厳さと、柔らかな木々によって描かれる優雅な佇まいが」
記憶の中の屋敷が頭に浮かぶ。興奮で握った拳がさらに固く握られる。
「だから知りたい。あの屋敷が何で、主の魔女はどんな人なのか」
「そりゃぁ、あの屋敷はもう三百年近くあそこにあるからね」
こたえは予想外にあっさりと帰ってきた。
「そんなに長く?」
「うん、どうやらこのバラケの町がまだエルブライト王国になる前の、ザルマ王国だった頃からあるみたいだよ。もっと細かく言うなら、ちょうどザルマ王国がエルブライト王国に負けたエルブライト統一戦争の頃くらいかな」
「……よくそんなこと知ってるね」
聞きたいことは山ほどあるのにあまりの衝撃に思考が働かず。思ったことそのままを口にするのが精いっぱいだった。
「一応僕も魔女の噂は気になって調べたことがあるんだ。老いないなんてありえないし、もし本当なら色んな事を聞きたくて。僕も屋敷の前、森の入口までは言ったことがあるんだ。でも屋敷を遠目から見ても魔女らしいなにかは見つからないし、魔女って名前では文献も全く見つからなかった。だから諦めて歴史書を見てみたら、あの屋敷だと思われるものがあったんだ」
ルイは黒い髪を得意げに揺らして答えた。
「どんな?」
初めは渋っていた顔も知識を離せる喜びに楽しげなものに変わっている。浮足立つ心地で机の脚元に入っていた踏み台を抱えてルイが左側の壁に設置された背の高い本棚へ向かった。高所で絹を扱うように丁寧に取られた本は装丁の端々に痛みが見られる。
「そんな古めかしい本よく持ってるね」
「父さんのだよ。新聞を作るための資料にしたりするんだって。今は使わないっていうから僕がもらったんだ」
タイトルには『バラケ史(写本)』と銘打たれている。
「このバラケの町は今と昔で町の位置が違うんだ。ちょうど町一つ分くらいかな。三百年前のエルブライト王国による統一戦争の開戦の地がここバラケ。そして最初の市街戦が行われたのもここだ」
ルイが見せたページには「バラケ市街戦」と書かれ街中で兵隊同士が争い、傍らで民衆たちも武器をもって立ち向かう挿絵が描かれていた。今まで何度もイヴの心を鷲掴みにしてきた場面が、ありありと眼前で広げられた。
次に見せたのは町の全体図。
「これだけだとよくわからないけど、今のバラケと町が違うでしょ?」
言われたところで見ただけではよくわからない。なにせ今まで町の地図なんて見たことがない。第一バラケ自体が大きな町ではない。だから地図を見ずともどこに何があるかなど、全て把握していたから。首をひねるイヴを見て、ルイはページを戻り今のバラケの地図を見せた。
「ほら」
確かに、今のバラケと見比べれば形は変わっているが、
「でも形なんて三百年もあれば変わるもんじゃないの?」
「そりゃもちろん。でも問題はそこじゃなくて、町の位置が違うんだよ」
「それがここからわかるの?」
「もちろん!」
自信満々にルイが頷く。気づけば彼の眼には興奮が色濃く表れている。
「ここをご覧」
ルイが指さしたのは今の地図。ちょうど魔女の屋敷がある森だ。
「次にこっち」
今度は古い方。なるほど、古い地図には森が存在しないのだ。
「本当だ、森がない」
「でしょ。でもそれだけじゃなくて、ここを見て」
指さした先は古い地図の中心に描かれたバラケ中心部からやや外れたあたり。何か神殿のようなマークが書かれている。
「このマークはね、かつてここに大きな屋敷があったことを示すマークなんだ。当時は貴族もいた時代だから、そういう屋敷は権力が集まって重要な政治拠点になるからね。それにバラケは田舎町だから、目立つように書かれてるんだろうね」
「へぇ、やっぱりルイはいろんなことを知っているね」
「新聞屋の息子なんて、イヴやリュカと違って特にすることもないから、ずっと本を読んでいたらつい覚えるんだよ」
こちらに目を合わせずに地図と向き合いながら答えた。次の瞬間「あっ」と何かに気づいたようにルイの目が大きく開く。
「そういえばリュカと一緒じゃないの?大体いつも一緒だよね」
「あぁ」
まだ温かい傷口を一突きされ多様な心地。呻くように言葉をつづける。
「もう話したよ。リュカにも。話したんだけど、あいつ魔女が怖いんだって。リュカなら一緒に手伝ってくれると思ったんだけど、がっかりだよ」
まずいことを聞いてしまったと、ルイも急に肩をすくめる。気まずい話を逸らそうと努めて明るい声でルイが問う。
「ところでこのお屋敷、何かわかる?」
再開した話題にイヴの心を覆った雲が押し流される。眼前に広げられた地図を見比べる。
「これがあの、森のお屋敷ってこと?」
「そういうこと」
ルイがこちらの目を見て微笑んだ。
「ね、わかるでしょ。昔このお屋敷は、バラケの街の中心に近いところにあったんだ。でも今では町の端に移動してるでしょ?だから、この町は三百年前と位置が違うんだ」
「でもなんで街を移動する必要があったんだ?いくら時間が経っていてもそんなに変わるものなの?」
「たぶんだけど」
そういってルイはもういちど挿絵のページに戻った。
「この市街戦で、バラケの町は一回壊滅的な被害を受けたんだと思う。その後エルブライト王国によって再建されたんじゃないかな。ほら、背景の建物はみんな倒壊しているし」
「じゃああのお屋敷は?あそこが三百年前のものってなんでわかるのさ」
気づけばイヴもルイの話に夢中になっていた。次々に疑問が浮かび、問わずにはいられない。
「それはこれ」
挿絵のページから一ページ。ページをめくるルイの手の陰から新しい挿絵が現れる。見覚えのある屋敷の前で、民衆が障壁を築き抵抗している挿絵。多少の違いはあれど、それは紛れもなくあの屋敷だった。
「ね?わかった?あの建物って、この挿絵とよく似てるんだ」
「じゃあ本当に、バラケは町の位置が変わったんだ!」
「そうとしか思えない。もともとあの屋敷は町の中心にあったんだ」
「でも……」とルイが口ごもる。
「なんで同じところに再建しなかったのか、それは分からないし作為的なものを感じなくはない」
「もしかしたら、それが魔女の噂と関わりがあるのかも!」
興奮にイヴの声も大きくなる。それに対してルイが冷静な声で答える。
「それも否めない。でも、確証がないんだ」
真実が見えない。情報も、確証もない。そんな話がイヴの心をつかまないはずがない。何が真実なのか、知る方法はないものか……。そうだ、一つだけあるじゃないか。イヴの脳裏に閃光が迸る。そうだ、これだと心が湧き立つ。
「屋敷に行ってみればいいんだよ!実際に話を聞いてみれば!」
ルイがぎょっとした目を向けた。
「それ、本気?」
「もちろん。何か問題?」
ルイは答えづらそうに口を開く。
「君が良いなら良いけど……だって魔女にはよくない噂があるじゃないか」
気まずい沈黙が流れた。お互いに次に何を言えばいいのか全く分からない。確かに魔女は恐ろしい。だって、「魅入られれば二度と戻ってくることはない」なんていうじゃないか。噂がどこまで本当かは分からない。でも、不確かなものほど人間の恐怖心をくすぐるものだ。ただ、イヴの中では別の感情も蠢いていた。不確かなものほど人間の恐怖心をくすぐる。しかし、不確かなものほど人間の好奇心を掻き立てる。イヴの心は両の葉を芽吹かせ揺れ動いた。風か、いや、どちらに最後の一滴が落ちてくるかにかかっている。そんなとき、母の言葉を思い出した。……イヴの心は傾いた。一つの葉が落ち、残った葉にイヴの意識が乗っかった。
「ルイは魔女に会うのは怖い?」
口を突いて出た質問にルイは俯いて考え込む。
「怖くない……わけじゃない。でも会ってみたい気もする。でも、怖い」
どっちともつかない返答を返してきた。
「僕は、会いたい。会って、本当に魔女なのかっていうよりも、どんな人なのか見てみたい。どんな人なのか、直に会って確かめてみたい。もし本当に魔女なら、聞いてみたいんだ。この町の歴史を」
噂、その恐怖をも上回る好奇心。そこに母の教えが、前へ進む一歩を後押ししている。
「イヴはすごいね」
そういってルイはまた踏み台に上がって本を片付け始めた。
「僕はまだ、ちょっと怖いや。でも、いつかは会ってみたいと思ってる。会って、魔女にこの町の生の歴史を聞いてみたいと、先の大戦の話を聞いてみたいと」
本を棚に戻し踏み台から降りた。視線をイヴに向ける。
「そう思った」
「いいね、仲間だ」
湧き上がる感情と上がりそうになる口角を何とか抑えて答えた。
新聞屋を出るとすでに日は暮れていた。空には月を囲うように星々が瞬き、道は家々から漏れ出る明かりでぼんやりと照らされている。まずい。さすがに両親に怒られる。身の危険を感じたイヴは家路を急いだ。さすがの暗さに道には大人たちの姿こそはあれ、子供の姿は見受けられなかった。いつもなら煌々と明かりが照らされ人々でにぎわう市場も、この時間では人もまばらになり早々に店じまいにしているところもある。逆に酒場は盛況だった。仕事を終えた男たちが今が最高潮と言わんばかりに大声で喋り歌っている。ちょっとのぞいた感じ、父はいなさそうだ。トマの姿もない。まだ二人は家で仕事をしているのだろうか。
家に続く坂を上り、ようやく家の明かりが見えてきた。イヴの家は町の端に位置する酒場からさらに坂を登った人家のほとんどない場所に位置している。そのため夜の明かりは空から降り注ぐ月明りを頼りにするしかない。それでも木々の背が高く道はほとんど真っ暗で、歩き慣れた道をほんのわずかに漏れ出して地を照らす月明りを頼りに進むしかないのだ。いくら歩き慣れていると言ってもこの暗さの中を一人で歩くのは、青年と言うにはまだほど遠いイヴには恐ろしい。おそらく魔女に会う以上に恐ろしい。ふと暗闇から何が出てくるかと想像することさえ憚られる。いつもは喜んで飛び込む空想の海も、今だけは出てこないでくれと願わずにはいられなかった。そんな中ようやく見えた家の明かりにイヴは胸をなでおろした。あとは両親の雷に備えるだけだ。
扉を開けると家の奥の方から暖かな香りが漂ってきた。靴を脱ぐのも忘れ鼻をひくつかせる。しかし遠くの方から足音が近づいてくるのを感じる。途端に身構えた。この足音は、母だ。
「ずいぶん遅かったじゃないの、どこに行っていたの?」
予想に反して静かに、穏やかな声でシエルはイヴに問いかける。
「ルイのところに行ってたんだ」
母の予想外な雰囲気に、相手の出方を伺いつつ慎重に答える。
「ルイってこの前話してた新聞屋の?」
「そう、一緒に行った魔女の屋敷について聞いてたんだ」
「へぇ、そんなに面白い噂なのね、あのお屋敷。でも帰りがこんなに遅くなるのは感心できないわね。相手の家にも迷惑でしょ」
笑顔の奥で母の赤茶の髪がうねりを増している。語尾が上がるところが、また母の怒りを鮮明に映し出す。
「ごめんなさい……」
肩をすくめ、しゅんとした雰囲気を出してみる。
「本当に思っているのかしら」
さすが。母にはお見通しだ。
「本当に、次はないように気を付けます」
まじまじとイヴを足から頭へ見つめたシエルがため息をつく。
「そう」
背後でうねりを増していた髪がようやく落ち着きを取り戻した。ほっと胸をなでおろした矢先に、今度こそ本当にいつもの穏やかな声、イヴの好きな優しくて暖かい声でシエルが問いかけた。
「それで?そんなに面白い噂なの?そのお屋敷」
落ち着いた心に今度は好奇心の火が灯る。
「うん、だってあのお屋敷、三百年はあそこにあるみたいなんだ。三百年前の統一戦争の頃から」
「へぇ、道理でずいぶんと古い優雅なものだと思ったわ」
「それにどうやら、あの屋敷に住んでる……ほら、一瞬窓から見えた女性も、気になるし!」
興奮しているのが自分の鼓動でわかる。頬は紅潮しているに違いない。熱くなる顔にお構いなしに、次の問いかけはなんだと身構える。
「そんな人いたかしら……?」
確かにイヴは見た。が、先を歩んでいた母には枝葉に遮られ見えなかったのだろうか。
「僕からは見えたんだ。窓辺に立つ、長い黒髪で白いドレスの女性だった。それで……」
「森にあるあの屋敷か?」
イヴの言葉を遮って居間の奥、工房に続く扉からロットが顔を出した。
「森にある、あの古めかしい屋敷に興味があるのか?イヴ」
仕事を終えたロットが使い込まれた皮手袋を外しながらイヴに再び問いかける。
「うん、この前母さんと見たんだ。とても優雅で、忘れられないくらい美しい屋敷だったよ」
「んー」
顎をさすりつつ視線を虚空へ飛ばしている。父が何か決断をするときのポーズだ。
「どうしたのよ」
先にシエルがしびれを切らしてロットに問いかけた。
「うん、いや、まぁ、いいか」
ようやく決断に至ったロットはイヴの目を見据えた。自然とイヴに緊張感が走る。
「ちょうど三日後にその森の屋敷から仕事の依頼が来ていてな。噂なんて大抵あてにはなんないが、まぁ一人で行こうと思っていたんだ」
「……!」
なんという僥倖!これを逃す手はない。まさか合法的にあの屋敷には入れる機会が、向こうからおいそれとやってくるなんて!イヴは一心に父へ視線を送った。声は出なかった。代わりに視線を送った。
「……行きたいか?」
未だ腕を組み引いた顎から片目でイヴを見るロットに首を縦に大きく振った。ロットは「お前はどうだ?」とシエルに目を向ける。向けられた視線の意図を察してシエルも同意する。
「まぁ、噂なんて所詮噂なんだし、連れて行ってあげてもいいんじゃない?何かあるなら仕事ほっぽりなげて帰ってきなさいな」
「それもそうだな。じゃあ明日は仕事手伝ってくれ。朝食べたら行くぞ」
それだけ言ってロットは夕飯の並びかけた食卓へ戻っていった。雄たけびを上げたい、踊りだしたい気持ちをぐっと抑え平静を装いながらシエルとともにイヴも食卓へ座った。
その日の夜は眠れなかった。あの屋敷はどんな内装をしているんだろう、あの魔女はどんな人だろう。噂は本当だろうか。様々な思考がイヴの脳内を占拠した。しかし、その中に恐れと言う心情は感じられなかった。イヴにあったのは好奇心と高揚感、冒険心、未知へ向けられた期待のまなざしのみであった。シエルが部屋の明かりを消しに来た。訪れた暖かな闇とともに、イヴは眠りについた。




