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プロローグ

 青。僕の頭上の遥か彼方、手を伸ばせば届きそうで、でも決して届かないそこに深く、広がっている青い空。太陽の光を遮るように右の手のひらを伸ばしてみた。空を切った僕の掌には何も残ってはいない。そこにあるのはもう何年もずっと見栄えの変わらない、僕自身の掌だけだ。空と言うものは、掴んだと思っても結局逃げられてしまうものなのかもしれない。それはまるで、僕が恋し愛したあの人のように。僕たちが愛したあの人のように。

 この世の全てを吸い込まんばかりに青く広く澄み渡るこの空は、この世界の、数えきれないほど多くの人間の頭上に平等に広がっている。時に荒れ、時に泣き、時に祝福を授け人間の頭上に覆いかぶさるこの空は誰に向ける顔も同じである。しかし、それは受け取る個人によってその感情を変える。今、あなたがこの空を見たらどんな感情を抱くのだろうか。今、僕はこの空を見てどんな感情を抱くのだろうか。昔の僕は。

 不毛な問いかけに、無意識に左の人差し指が胸元に冷たく輝くブローチに触れる。次いで中指、薬指。小指は隅で丸まっている。指にその硬さを伝えたブローチは、その冷たさとは対照的な、庭に降り注ぐ暖かな日に照らされて青い煌きをあちこちに振りまいている。その輝きは決して華やかなものではなく、質素で、でも格調と気品にあふれる色であった。少しはこの煌きに似合う人間になれただろうか。あなたはどう思う?

 足元で満杯の水をたたえる水桶を持ち上げ、僕は再び歩みだす。小さく佇む七つの墓碑に水桶から少し水をかける。

「今日は暑いみたいですね」

意味もない言葉を投げかけた。余った水で周りの花々を潤した。花弁にポツリポツリと浮かんだ水滴が、降り注ぐ太陽の光をその身に写しきらきらと輝いている。そんな顔なんて僕に見せなかったじゃないですかと、楽しいような悲しいような、よくわからない複雑な感情を胸にたたえ微笑んだ。苔むした墓碑は周りの花々同様に、水を得て命を吹き返したように青々と輝いていた。

 水桶をもとあったところに戻して玄関の前に立ち、ゆっくりと家の戸を開けた。静まり返る屋敷。僕一人しか住んでいないこの屋敷はドアが開いたところで歓迎の声はない。ただ静かに目の前に広がる大階段が僕を待ち受けているだけだ。室内は昼間だというのに薄暗く、家の中を照らすのは窓から差し込む日の光とわずかな蝋燭のみ。人の住んでいる気がしないと言われれば、そういわれても仕方ないと思う。ふと口の寂しさを感じて大階段の左側にある台所へ向かう。カウンターに置かれたバスケットを覘くと、残りわずかではあったがオレンジの鮮やかな外皮が僕に訴えかけてきた。そのまま手に取りキッチンに置き去りにされていたナイフで丁寧に切り分ける。空間にオレンジの鮮やかな香りが広がり、僕の鼻を撫でる。別に僕しかいないのだからそんなに仰々しくしなくても、そのまま噛り付いてしまっても良いような気がしたが、僕はこういう人間らしい面倒くささが好きだった。わずかな食器が仕舞われた食器棚、使用されている木材には年季が入り、その装飾がまた格調高い食器棚。そこから淵が金で彩られた小ぶりなボウルを取り出し、切り分けたオレンジを無造作に落とし入れた。皿に盛られたそれは先ほど水をやった花のように美しかった。テーブルの燭台に火を灯し、うす暗い部屋に暖かな色をつける。僕が座るのはいつも決まって壁を背にする一席で、首を動かさずともキッチンがよく見える席だ。横長で、元々はテーブルの四面に一人ずつ座って食事をとる用途で考えられていたであろうこのテーブルは、今となっては一人で全面を使うには広すぎて何とも勿体ない様相を呈している。

ボウルに盛ったオレンジを一つ口へ運んだ。今の僕にとって食事は必要不可欠なものではなく、あくまで趣味趣向というかその程度のもので、別にあってもなくても変わらないものだ。でもたまにこうやって、いかにも人間らしい行動をとりたくなるのだ。別に腹が減っているわけではないが、「口が寂しい」という理由をつけて満腹ではなく味を求めて食事をとる。その都度こうやって、わざわざ手間暇のかかる行動をとっているのを見たら、あの人は笑うだろうか。いや、多分呆れるのが関の山だろう。最後のオレンジを口に運び、名残惜しく味わうかのようにじっくりと、口の中でその果汁を噴出させる。舌を果汁の海で遊ばせ、そのままゆっくりと、舌で飽き足らず喉でも味わうように流し込んだ。ふぅ。と椅子に背をもたれ味わいの余韻に浸る。まだ口内に残ったオレンジの味が僕をなかなか離さない。時計を見やると時刻は午前九時。式典まではまだ三時間もある。どれだけゆっくり支度をしても間に合うであろう時間だった。

食べ終わった食器を洗い、キッチンから出、二階にある自室へと戻った。窓の外に広がる光景に、かつて見て、暮らし、慣れ親しんだ僕の大好きだったバラケの街は失われて久しい。僕より長く生きたあの人も、僕と同じ気持ちをここで抱いていたのだろうか。この気持ちのなんと虚しい事か。思い出の中に広がるバラケの街は今目の前に広がる都会のような理路整然とした美しさとは全く無縁のどこか田舎風味が残る街で、時代の潮流から見放され、発展から取り残された小さな町だった。田舎味が残る故に人と人の距離が非常に近く、夜になれば街の大勢が酒場に集いバカ騒ぎをする。端からみれば未開拓の野蛮人と思われるかもしれないが、それがとても心地よく、やはり僕は好きだった。そして人と人との距離が近いあの街で、誰と関わることもなく、誰と話すこともなく、誰からも孤立し過ごしていたあの人に、僕は恋をした。


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