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第十章 前線へ

 出立の日、膨れたカバンを担いで部屋を出た。静かで、暖かで、美しい。いつもの屋敷が一層愛おしく感じられた。部屋の扉を撫で、欄干を撫で、ゆっくりと、一歩を噛み締めながら階下へ降りる。これが最後かもしれない。そう思うとまた、涙があふれてしまいそうだった。でも、そういうわけにはいかない。エマリーを前に、涙は流さない。そんな弱い男に見られたくはない。涙をこらえ、止まっていた歩をまた前に進める。

「イヴ」

階下へ降りた時、右手から呼び止められた。見ればキッチンの扉を開け、エマリーがこちらを見ている。

「おはようございます」

「おはよう。まだ時間はあるでしょ。お茶くらい、飲んでいきなさい」

「はい、ありがたく」

エマリーは無言で紅茶を淹れ、イヴに差し出し、椅子に座り、紅茶を啜った。言葉はいらない。お互いに何を考え、何を思っているかはわかっている。イヴとエマリーの関係性は、ここに来てからの約一年でそこまでの進歩を遂げていた。

「行くのね?」

カップの淵からエマリーの鋭い視線がイヴに向けられている。その眼をまっすぐに見返した。

「そう。あなたたちはもう、私が何を言っても変わらないのでしょうね」

「一度決めたことですから」

 もはや日常になった一杯、もしかしたら最後になるかもしれない一杯で、懸命にゆっくりと口を満たす。暖かさを体の奥に流し込み、ゆっくりと、ゆっくりと舌に残る余韻を味わう。思えば初めて足を踏み入れてから随分経った。その思い出を皿に戻すカップと共に胸の奥にしまい込む。

「そろそろ行きます」

頭を下げ、屋敷のドアに向かって歩みだす。後ろからエマリーがついてくるのが足音でわかる。扉を開け、一歩を踏み出す。これが決別の一歩にならないよう、切に願いながら。扉で隔たれた内と外、境界を境にしてイヴとエマリーは向き合った。互いの視線をつなげ、じっと互いの言葉を待つ。

「イヴ」

一度俯き、向き直る。

「命を落とすことは許さない。何があっても、どんな手を使っても、たとえ裏切り者と呼ばれても、たとえ逆賊と罵られても、臆病者と揶揄されても、それでもあなたは生きなさい。戦争で死ぬことほど、馬鹿らしいことはない。あなたは、あなたを愛する人のもとへ帰る義務がある。戦争なんかで人を不幸してはいけない。何があっても、どんな手を使っても、生きて帰ってきなさい」

次の瞬間、イヴの体を、エマリーが包み込んだ。突然のことに頭が白くなる。これは夢か?幻か?いや、確かに今、自分はエマリーに包まれている。たとえこれが夢でも、死ぬかもしれない旅立ちの前に享受しない手はない。イヴもまた、腕をエマリーの背後に回し固く抱擁を交わした。

「またあなたを、ここで待っているわ。イヴ」

耳元でささやいた言葉は、すっとイヴの内側に入り込んだ。緊張のせいか温もりを感じないその抱擁には、イヴにだけ感じられる特別な温かみがあった。眼下に煌めく宝石が、まるでイヴに祝福を授けるかのように輝いている。エマリーが腕を解いたとき、意を決して問いかけた。

「そのブローチ、お守りにくれませんか」

エマリーは一瞬戸惑ったような、驚いたような表情を浮かべた。やがてブローチに視線を落とし、愛おしそうに撫でた。

「これはあなたには、まだ荷が重すぎるわ。言ったでしょ?宝石を身に着けるということは、その宝石に縛られるということなのよ」

笑顔で話すエマリーだが、イヴは見逃さなかった。ブローチを撫でるエマリーの手は、ほんの僅かに、震えていた。

 木々が静かに、二人を見守っている。こんなに森が静かになったことなんて、今まであっただろうか。最近は鳥なんてものも見なくなってしまった。何の音もしない空間が、余計に二人だけの空間を特別なものにしていた。息を大きく吸い、少しずつ吐く。吹き出す息とともに、心にある未練も心から押し流す。一息に未練を出し切った。少なくとも、イヴ自身はそう思っている。

「それじゃあ」

顔を上げ、エマリーをまっすぐに見つめる。

「行ってきます」

「えぇ、いってらっしゃい」

 出立は、振り返らないと決めていた。振り返ればまた、未練が襲ってきそうだから。せっかく固めた決心が、揺らいでしまいそうだったから。ただ肩に食い込む重い荷物だけは、イヴの心を未練から放そうとしなかった。

 だんだんと小さくなっていく。自らが送り出した背中を眺めて、私はまた、深い記憶の海に誘われる。また、送り出す立場になるなんて。こんなこと、全く思いもしなかった。イヴが帰ってくるかどうかはわからない。ひょっとすると、帰ってこないかもしれないし、おそらく帰ってくることはない。そんなの、この町の誰よりも自分が知っている。でも。その先の言葉をぐっと飲みこんだ。

「人とは何と脆く、その上死に急ぐのか」

独り言のように凛とつぶやいた貴婦人は、一人寂しく屋敷の中へ消えていった。そしてまた、屋敷の扉は閉じられた。


 徴兵された民間人はまず接収された新聞屋に設置された、前線指令所に行く。イヴが着いたのは昼下がり、指令所にはすでに長蛇の列が出来上がっていた。皆片手に召集令状を持っている。その表情は様々だ。町を守るとやる気に満ち溢れた者、ここにいる意味を見出せず不安げな者、抗うことができない権力に、自らの無力と命の無価値を知り絶望する者。皆それぞれの思いを抱えている。混沌とした空気の中、列は少しずつ前へ向かう。誰も話すことなく、無言の列に号令を叫ぶ軍人の声だけが響く。その声に合わせて列は少しずつ前へ進む。建物内は扱う者のいなくなった印刷機を背後に据えたカウンターに軍人が三人座っている。それぞれが窓口となり、一人ずつ並んだ列は三方向に分かれる形になっている。一人当たりの時間は長くない。徴兵令状の確認、形ばかりの身体検査、軍服など支給品の受渡しと配属先の告知。それが終わった者は晴れて兵士として送り出される。窓口の兵士と握手を交わし、そこからは別室へ。イヴも例外ではない。令状を提出し、身体検査、といっても問診のようなもので、健康に問題がないかとか、けがをしていないかとか、せめてその程度。試しに病気です。とでも言ってみようかと思ったが、どうせ聞き入れられない。聞き入れられたとしても、捨て駒扱いされるのが関の山と思ってやめた。受け答えに素直に応じ、必要最低限の支給品と配属通知書を受け取る。イヴの配属は変わりなく「エルブライト王国軍 第六方面防衛隊 第一小隊」……第一小隊?

「あの、この第一小隊っていうのは……」

「次、あっち!」

受付担当官は苛立たしげに端の方を指さす。それは以前、出来上がった新聞を組み合わせ窓から配達用の自転車へと受け渡していた場所。置いてあった多くの棚には新聞ではなく軍の種々用品が所狭しと並べられていた。置ききれないものや大きなものは床の上に乱雑に置かれている。それがどうも、王国軍の実態を表しているような気がしてならなかった。父に言われたことが脳裏をよぎる。

「道具は職人の命だ。粗末に扱うものではないし、そういうところに職人の内面が現れる。職人ならばまず道具の手入れを怠るな」

王国軍とは、結局のところ磨き抜かれた精神性を持つ組織などではない。紙切れ一枚で集められる大部分に、僅かばかりの正規軍人を混ぜた、いわば即席部隊。所詮は寄せ集めに過ぎないのだ。そう気づくと肩に覆いかぶさっていた緊張も、ちんけなものに思えた。プロと仕事をするのではない。僕も寄せ集めの一部なのだと。そう理解してからは、今までの緊張が急にばかばかしく思えてきた。

「配属通知書を見せろ」

部屋の中で立ちはだかった士官らしき人物にさっきもらったばかりの通知書を見せる。

「第一小隊か……。ご苦労なことだ」

何やら不穏な言葉を吐き出す。

「あの、第一小隊って、何ですか?」

「ん?あぁさっき説明されとらんのか」

鍛え抜かれているであろう大きな体躯の男が顎をさすり首を少しひねる。「さぼりおって」と悪態をつきながらため息交じりにイヴに視線を戻した。

「第一小隊というのは、このバラケを防衛するために設置された第六方面防衛隊の一部だ。第一から第三で構成され、第一はその先鋒。まぁ平たく言えば……」

ため息とともに吐き出した言葉を止め、真剣な表情でイヴの顔を見据える。

「真っ先に会敵するところだ」

「あぁ……そうですか……」

冷たい笑いがこみ上げる。僕の命運も、ここで尽きたか。

「まぁ安心しろ。この規模の戦争じゃ第一も第三も、小隊ごとの違いなんてそう生まれない。どこの隊にいたって、命の危険に差はない。ましてやこんな前線中の前線じゃ尚更だ。唯一違うとすれば、個人の悪運だ」

「そういうもんですか」

「あぁ、そういうもんだ。まぁせいぜい、無駄に死なないように命を守ることだ」

「軍人なのに、そういうことを言うんですね」

「軍人って言ってもみんな同じってわけじゃぁない。長くやってれば死も人一倍見ることになる。そりゃ、考えも変わる」

腕を組みまっすぐにイヴを見つめるその人に、この人の部下だったらよかったのに。と心の底から自らを憐れんだ。

 以前多くの自転車が置かれていたところは、窓から物資を受け取り前線に人や物資を運ぶ荷馬車の発着場になっていた。久しぶりに見る町は、本当にどこも変わってしまっていた。同じく前線に送られるのであろう憐れな人々と押し込まれた馬車に揺られながら歩きなれた町を進む。栗毛で黒い鬣の美しい馬が馬車を引く。その鬣越しに広がる、前方の景色に目を向ける。屋根がない馬車故に周りの景色を見、慣れ親しんだ風を感じられるのはここにきて大きな救いだった。しかしそこから見る市場も活気が失われ、店々も風に吹かれる廃墟のように見えた。それどころかあちこちに設置された戦争用の兵器たち、あれば大砲だろうか、のせいか、ひどく荒廃した町のように見える。大好きだった町がこの一年、いや、この一瞬で失われてしまった。不思議な郷愁にかられる中、背中の方から葉の擦れる音が聞こえる。森が、イヴに名残惜しそうに呼びかけていた。馬車の背後、遠くに過ぎて行く森を見据え、心を覚悟で満たす。“必ず戻ってくる”そう、森に誓いを立てた。


 町を抜け、イヴの家やエマリーの屋敷から遥か南西、道が切り開かれた林を抜け、ついにカークバンドとの国境付近に広がる、見渡す限り草木の一本も生えていない荒野に出た。マエルが言っていた。カークバンドは草木の茂らない乾燥した地域だと。つまりイヴがいるこの場所は、もう慣れ親しんだバラケの町ではないことをイヴはひしひしと実感していた。高々と掲げられたエルブライト王国の国旗が、まるでエルブライト王国そのものを表すかのように、遠くに見える巨大な木壁の上でたなびいている。濃紺に金の刺繡が映えている。次第に近づくそれは、逃れられない運命をこの場にいる全員に示しているかのようであった。

 目的地は第一防衛線。馬車は見張りの検査を受け木壁の中へ侵入する。カークバンドとの国境に長く敷設された木製のバリケード、その裏にはバリケードのてっぺんから敵を迎え打つための足場が設けられ何人かの兵士が遠く向こう側の大地に目を凝らしている。塀の内側にはいくつものテントが設けられ、小銃を携行した兵士たちがあちらこちらに動き回っている。塀に近いところで行進をしている一団は訓練中のようだ。素人感の抜けない行進。その光景を見たイヴの脳裏に一抹の不安がよぎった。彼らを脇目に案内された宿舎となるテントに最低限持ち込んだ荷物を置き、支給された制服に着替える。袖を通すと服に合わせて心までしゃきっとする。

集合のラッパが鳴らされ皆が急いで中央の広場へ駆け寄る。そして集合した一団を見てイヴの不安が正しいものであったと知った。集合した兵士たちは端の方から第一、第二、第三、第四師団とそれぞれが所属する師団ごとに綺麗に列を作っている。そのなかで最も統制が取れ、はたから見ても美しい隊列を組んでいるのは第四師団。まっすぐに伸びた背筋、身に着けている制服も凛々しく着こなされている。一方で第一から第三師団の隊列は整ってはいるものの、どちらかと言えば店に並ぶ一般市民の列のようで、身に着けた制服は新品のように皴一つ見当たらない。作った列には凹凸ができていたり一人一人の佇まいも第四師団とは比べ物にならないほど弱弱しいものだった。無論、イヴの所属する第一師団も例外ではない。前を見ても後ろを見ても、どこか垢抜けない子供のようなものだった。

「注目!」

臨時に設置された演台の上で一人の男が吠える。鍛え上げられたであろう熱い胸板の上には輝く徽章、汚れ一つない白亜の制服に帝国の国章があつらえられた帽子をかぶるその男は、誰が見てもわかる、この前線の指揮官であった。

「本日付でこの前線に配属された兵士たちをもって、前線の人員配置は完成した。改めて、本官はアンセス・トーレスである。諸君らは私の指揮下に入ってもらう」

途端、第四師団の方から地を揺らすような兵士たちの雄叫びが聞こえた。他師団の兵士たちは突然のことに戸惑っている。

「静かに!」

トーレス軍団長の一言で第四師団の口が堅く結ばれる。あそこの空間だけ、別の人種のようにすら感じられる。

「我々は、エルブライト王国を滅ぼさんとする蛮族たちから、われらが祖国を守る最初の砦である。故に万全の状態の敵と相対さなければならない。そのために、諸君らは選ばれた!この町で育んだ命を、この町と、そこに残る愛する人々を守るために、その責を果たすのだ!」

「おう!」

一人の弱弱しくも芯のある雄叫びが、澄み渡る空に消えていった。その男は目に涙を浮かべ、頬は紅潮し、口の端は上向いている。トーレス軍団長は微笑みを返して言葉をつづけた。

「町や、町に残る人々はわれらエルブライト王国第六方面軍の主部隊が死守する。そのために町に種々対策を講じているのは、諸君らが見ている通りだ。背後のことは気にするな!諸君らはただ、前だけを見て、迫りくる敵兵を一人でも多く仕留め、エルブライト王国を、諸君らの町を、諸君らの手で!守り通すのだ!」

「おう!」

雄叫びが大きく、そして、重なっていく。

「今日から諸君らは英雄だ!このバラケの町の英雄だ!」

「おう!」

第四師団もそれに混ざる。周囲の兵士は涙ながらに雄叫びを上げる。いまやこの場は、トーレス軍団長の言葉に心打たれ、生まれ育った町を守るという大義名分に絆された者で溢れかえっていた。その雄叫びを、トーレスが片方の掌で制止した。

「諸君らの熱意はよく伝わった。ともにこの町を守ろうぞ!」

ひとしきり話し終えた軍団長は演台を降り、代わりに細身の男が登壇する。とはいえさっきのトーレス軍団長と比べて。普通の男性からすれば体格は良いほうだ。

「私は貴様らが命を懸ける作戦を立案、監督するオーレイ・アトキンスだ。参謀を務める」

先ほどの人望の厚さを遺憾なく感じさせるトーレス軍団長とは裏腹に、彼の話ぶりには棘がある。人を人として見ていないような、まるで家畜を見るかのような目。参謀とは、人の命を駒として扱う人間とはかくあるものか。

「人員揃った今、貴様らの役割を、改めてはっきりさせておく」

決して大きくはない。けれど、それを聞く皆に鋭利に刺さる声だ。

「まずこの陣地を守る最後の砦、第四師団、貴様らだ」

軍服を着こなした男たちが雄たけびを上げる。心なしか、先ほどのトーレス軍団長へ発したものよりも大きなもののように聞こえた。

「敵と相対するまでに間がある。その間は前線の支援を行え。貴様らはこの陣地の最終防衛線だ。抜かれることはまかりならん。その命に代えても敵の侵入を許すな。次に第三師団、貴様らは第四師団の手前側、第三防衛線だ」

オーレイ参謀の前で二人の兵士が広げるテーブル一つ分ほどの作戦図に視線が集まる。第三防衛ラインとは、この町の防衛線をカークバンド側から順に引いて三番目、ということらしい。第四防衛師団は最もバラケの町に近い。

「返事!」

オーレイ参謀の一声で第三師団は狂ったように雄たけびを上げる。

「第二師団はさらに敵国側、第一師団、貴様らは先鋒だ。敵と真っ先に相対し、一人でも多く地獄に突き落とせ!」

周りが内容を理解しているのかいないのか、慌ててバラバラな雄たけびを上げる。

「重ねるが、この作戦は貴様らの故郷を守るためのものだ。その命に代えて、愛すべきものを守り抜け。以上」

そう言い残してオーレイ参謀は演台を降り指揮官用テントに姿を消した。

 その後何人かの登壇を終え、集会は終わった。終わるや否や師団長の声掛けで各師団ごとに場所を移動し、自らの師団に加わっての訓練が始まった。訓練のさなか、あちこちに見知った顔があることにはすぐに気づいた。皆各々が自らの命を守るため必死に訓練に励んでいる。そういうイヴ自身も、他の人を気にしていられるほど余裕のあるわけではない。銃器の扱い、爆発に対する防御姿勢、号令への俊敏な対応、敵との格闘戦、種々想定され、本来なら数か月をかけて完成させるであろう初歩を、わずかな期間で習得させようとしているカリキュラムについていくのに必死だった。小銃は思った以上に重く、長らく木工から離れたせいで筋肉の衰えというものを自覚せざるを得なかった。しかも予備の弾薬が入った腰つきのポーチ、これだけでもずっしりとした重さを感じる。この重さが人の命の重さか。そう思うと案外軽いものだと、そう思わざるを得なかった。

 訓練の合間の休憩中、背後から肩を、ひどく控えめな勢いで叩かれた。振り返った先には金髪の、くるくるパーマ……。目を丸くした。度肝を抜かれた。まさかここで再会となるとは。

「やぁ」

嫌に親しみのある笑みで片手の平をこちらに見せるその姿勢は、これまで飽きるほど見た、見慣れた光景だった。

「まさか君が……ここにいるなんてね」

「あぁ、意外だろ。僕もだ」

久しぶりに会う彼は記憶の中の、幼さといたずら心残る姿からは大きく変わっていた。スラっと伸びた身長、幼さ特有の肉が落ち、しっかりと青年のそれになった顔つき。変わらないのはくるくるとうねる金色の髪、鼻筋のあたりに広がるそばかす、そして美しい、青い瞳。

「見ない間に随分大人になったね」

「それはお前もだろ、イヴ」

数年ぶりの再会に互いがぎこちない。しかしそのぎこちなさが二人の間に開いた長い年月を、心地よく感じさせていた。ふふっ。おかしくなって吹き出した。つられてリュカも笑いだす。まるでここだけがずいぶん昔、まだ子供のころに戻ったかのように感じられた。二人が隔たれた時間を埋めるのに、そう時間はかからないことはすぐに分かった。

「おいそこの二人!」

耳障りなだみ声が背後から二人に浴びせられる。反射的に背筋を伸ばし振り向いた先には恰幅の酔い男が一人。熱い胸板に師団長の証を誇らしげに縫い付けている。第一師団長、オルレアン・バークレイの咆哮で二人は衆目を集めた。

「二人で談笑とはずいぶん余裕じゃぁないか」

「申し訳ありません!すぐに警戒行動をとります!」

気を付けの姿勢で叫ぶリュカの肘に小突かれリュカと共に師団長に頭を下げる。

戦場、それも前線での休憩とは、警戒行動であると初めて知った。臨時で設けられた木製のバリケード、そこに付設された足場から遥かカークバンドを見据えた姿勢のまま、リュカが教えてくれた。わずか数か月とはいえ、先に来ている俺の方が先輩だと、見慣れた鼻につく笑顔で。

「ここでの振る舞いには気を付けた方が良い。師団長やそれ以上の軍人たちが気に入らないとなれば、すぐに倉庫の整理だの備品の手入れだの、面倒くさい重労働を押しつけられる。今まで見た中で最悪だったのは、訓練に嫌気がさして脱走しようとした奴だな。あいつはすぐつかまって、次の日にゃ逃亡罪だか何だかで柱に縛り付けられてた。誰も口をきいてはならないと言われ、結局飲まず食わずで一日放置。そっからはひどく従順になっていたよ」

むごい話に身の毛がよだつ。そのまま二人の間には沈黙が訪れた。

「……なぁ」

リュカがこちらを呼んでいる。

「この一年、どこにいたんだ」

これが意を決した質問であることは彼の震える声から察せられた。

「町をはじき出されてからは、ずっとエマリーさんの屋敷にいたよ」

「そうか。やっぱり」

「やっぱり?」

「お前がレオ・フェルナンデスにハメられてから、俺もお前を探してたんだ。いろいろ聞いて回ったよ。ルイ、お前の両親、町の人々。誰もかれもが知らないと答えた。お前の両親でさえ、もう町から出て行ったんじゃないか。って言うくらい」

悪いことをしたと、そう思った。喧嘩別れのような形で、もう会うことはないと子供ながらに、いや、子供だから決心した。僕の気持ちを分かってくれないなら、もういいと。大人になってからリュカのことが思われることはあった。しかし心の何処かに巣食う”僕は悪くない”というプライドがリュカとの再会を阻んだ。今のリュカの気持ちが、イヴにはよくわかる。多分、今自分も似たような気持ちを抱いている。屋敷の情報をリュカに伏せたのは、彼を巻き込まないため。その気持ちに嘘はない。ただその気持ちが全てかといえば嘘になる。屋敷を拒んだリュカが、たとえ情報を教えたとしても来るはずがないと、そう思っていたのだ。

「悪かった。隠していて」

「いや、いいんだ」

荒野を吹く乾いた風がリュカの繊細な金糸のような髪を撫でる。陽の光を受けた髪は文字通り煌めいている。

「お前に悪気がないことはわかってる。それに、お前を信じなかった俺にお前を責める権利もない」

「リュカ、お前、そんな素直な奴だったか?」

「いつまでも子供のままだと思うなよ?」

「あれ、違ったか」

「このっ」

さっき師団長に怒られたばかりだというのに、親に怒られた子供のように、足場の上でじゃれ合った。


 訓練が始まって数日経ち、いよいよ自分の置かれた境遇がどんなものかが鮮明になった。軍団長の演説通り、第一から第四師団はその名称の順で前線に駆り出される。問題なのは、第一から第三師団の中に正規の軍人がいないことであった。正規の軍隊を見たことがなくてもわかる。誰もかれも、見渡す限り全員が銃器の扱いに慣れていない。猟師のいないこの街では当たり前だ。各師団長は訓練の指示こそするものの、実際の訓練は各師団に一人、第四師団から正規軍人がつき、指導をしている。やはり、ここに来たときの不安は正しい。その不安以上に良くない状況だ。要するに、

「第一から第三は使い捨て。俺たちに肉壁となる以外の役割は期待されていない。俺たちが集団で敵の侵攻を遅延させている間に、第四師団に軍団長や他の正規軍人たちはバリケードや大砲で武装した街に籠もり、敵を誘い込むつもりだ」

「地の利と高低差を活かした誘い込み戦法」

「その通り」

訓練と警備の間、イヴとリュカは他の目を盗んでは情報を共有しあった。行き着いた結論はどうしようもなく面白みのないものだったが、いっそそっちのほうが気楽だった。

「逃げよう」

そう提案したのはリュカだった。

「確かに俺たちは町を守るとか家族を守るとか、そういう理由でここにいるし、そのためなら戦える。お前もそうだろ?」

そうであってくれというようなリュカに、イヴは静かに首肯する。

「でもこのままじゃ無駄死にだ。俺は、それだけは御免だ」

これにはイヴも同意見だった。どうせ死ぬなら故郷の為に。家族とエマリーさん、愛する人々のために死ぬ。こんなところで命を捨てるのはまっぴらだ。

「戦いが始まって少ししたら軍人たちは踵を返して町に戻っていく。そこが狙い目だ」

武器庫の整理と装備の手入れを命じられた二人は大きめのテントに設けられた誰もいない武器庫の隅の方で忙しそうな装いで手を動かしながら密談を交わした。

「うん、それが良いと思う。ただ問題は状況が悪い。前方に敵がいる。後ろには撤退とはいえ正規の軍人がいる。これで堂々と戻ろうものなら敵前逃亡で反逆罪に問われてもおかしくない。うまく逃げないと」

「そう。それがどう考えてもうまいこと行かないんだ。もちろん方法は考えるが、何もないまま始まっちまったら、もうそん時はそん時だ」

「こんなところでひそひそ話かい」

静かに声を静め、しかし張りのある通る声、聞き覚えのある声、うんざりする気持ちと殺してやりたい気持ちが嫌にバランスをとっている。振り返った先には胸を張った凛々しい佇まいであの大嘘つきが立っている。

「よりによって……」

隣でリュカがうなだれている。

「一番面倒くさい奴に見つかった」

リュカが諦めて姿を隠すのをやめ、イヴもそれに続く。立ち上がる二人をレオは上がる口角と共にまっすぐに見つめた。

「どうした?いつもみたいに声高に妄言を吐き散らせよ」

リュカが餌をとられた子犬のように噛みつく。

「そうしたいところはやまやまだがね、言ってしまえば僕はそこにいるイヴ君のおかげで大きくなったようなものだ。ここは一つ、穏便に行こうじゃないか」

「驚いた。穏便なんて言葉、知ってたんだ」

今度はイヴが嫌味を言った。

「そりゃ僕だって立派な大人だ」

「どこが。ほら吹きめ。お前がいなけりゃ、イヴがあんな目に合うこともなかったんだ」

リュカの語気は荒く、表情こそ余裕の笑みを浮かべているが、彼の内側に湧き上がるものが平静を装うとする彼の口から暴言となって飛び出してくる。リュカの追及に面倒くさくなったのか、レオがため息をついた。

「いいかい?今の君たちの状況考えたまえ。僕が騒げば厳罰は免れないぞ」

あの酷く虫酸が走る嫌味な笑みが顔に浮かぶ。

「僕は上官に気に入られているからな」

「……望みは」

湧き上がる感情を奥歯で噛み潰してリュカが問う。

「君たちの脱走劇に、僕も混ぜろ」

思いがけない依頼に二人は顔を見合わせる。

「は?」

「僕だってこんなところで死にたくはない。君たちに策があるなら乗るのが定石だろう。特にイヴ、君はあれからずっとこの町で気付かれずに生きていたみたいだし、そういうことは得意だろう?」

レオのにやにやとした顔がイヴを捉えて離さない。

「そんなに逃げたいなら上官に直接言えば。気に入られてるんでしょ」

「バカを言うな。気に入られてるとは言っても所詮、都合の良い徴集兵ってだけ。多少の融通は利くがそんなの死ぬ前のナサケみたいなもんだ」

「あるだけマシだろ」

「それはひとえに、僕の人望だね」

レオは得意げにふんっと鼻を高くした。その姿が余計にイヴの神経を逆なでる。隣に立つリュカも同じ気持ちのようだ。

「……お前、第何師団だ」

「三だよ」

「じゃあやっぱり無理だ。そんなに離れてちゃ足並みが揃わない」

「それは問題ない」

「なぜ」

「君たちが請け負ってくれるなら、僕は第一師団に転向する」

最早言葉すら出なかった。呆気にとられている二人に自らの優位性を見たレオは言葉を続ける。

「第三師団は比較的後衛だ。それは間違いない。ただそれでも逃げる道はどこにもない。結局徴集兵は徴集兵。捨て駒が精々だ。それなら第一でも第三でも変わらないだろう?」

重くねっとりと絡みつく沈黙が武器庫を包んだ。受け入れるにも、受け入れないにも、リスクが大きすぎる。この沈黙にレオだけが希望を見たような表情を浮かべている。

「……わかった」

決断したのは、やっぱりリュカだった。昔からそうだ。リュカは難しい決断もいとも簡単に決めてしまう。その姿に憧れ、救われたのも事実だ。

「お前の参加は受け入れる。ただし、俺等はお前を助けるわけじゃない。自分の身は自分で守れ」

レオはしかめっ面で低く唸る。そこにリュカが追撃を繰り出す。

「悪いが俺たちも素人だ。自分の身を守るので精一杯。お前まで守る余裕はない」

「それじゃあ意味が」

「ただし!」

歯噛みするリュカの声がレオを遮る。

「逃げるタイミングと、方法は知らせてやる。それでどうだ」

「……わかった」

今度はレオが不満そうに頷いた。やはりリュカはこういう交渉事が上手い。

「ならさっさと失せろ」

「はいはい。言われなくても。作戦が決まったら教えてくれ」

レオが去った武器庫には不満が渦巻いていた。二人とも言葉には出さなかったが、同じ事を考えていたに違いない。レオをどうやって追い出そうか。と。

 翌日には早速、レオが第一師団に転属となった。演題に立っての発表などなされた訳では無いが、第一師団への転向とあってすぐに他の兵士たちが好奇の目で詰め寄った。そこはさすがレオである。うまい具合に話を盛り、自身がこの街を救うために戦うのだとほらを吹いている。上官たちもそれが兵士の士気高揚に繋がると踏んだのか、騒ぎを制止しようとする者は一人としていなかった。その様子を二人は遠くから鬱陶し気に眺めていた。大仰な仕草で話を盛りまくる彼の姿を見て、ピンときた。レオだからこそできる、レオを追い出す方法を思いついたのだ。

 師団長へ近づく機会をうかがいながら訓練をやり過ごす。が、レオの姿が見当たらない。作戦をリュカに話そうかと考えたが、失敗した場合のリスクをリュカにまで負わせるわけにはいかない。本当は二人で動ければ楽なのは間違いないが、仕方なく一人で動くことにした。訓練も終盤にさしかかった頃、風でめくれたテントの中にレオの姿が見えた。その朱色のテントは第一師団長 オルレアン・バークレイのものであった。一瞬ではあるが、目に映ったバークレイ師団長と親しげに笑い合うレオの姿はさすがとしか言いようがなかった。レオの知らないところで、イヴの期待は確信に変わった。


 ここに送り込まれて早数週間。いよいよ敵陣営に動きがあった。これまではわずかな勢力しか確認できなかった陣営に、ある朝突然その数倍ともとれる勢力が結集している。昨日まではほとんど人気のない、見張りもそれほど多くはない程度だった。その姿からの変貌に王国軍の誰もが戦慄した。視認できる限りでも圧倒的。壁の向こう側には幾人もの兵士が詰めているに違いない。そんな絶望がこちらの士気を下げに下げていた。それは正規軍人も例外ではなかった。彼らもここから撤退したとて町での防衛戦を繰り広げるに違いない。いずれ迫りくる敵の数の多さに、勇敢な声を挙げるものはいなかった。ただ一人を除いて。

「この状況こそ!神が与え給うた使命を、天命を果たすときぞ!」

唐突に始まった演題のパフォーマンスに周囲の兵士たちの注目が集まる。気をよくした演者は勢いを増して続ける。

「敵の数が何だ!我らは愛するこの町を守るという大義で繋がった同志ではないか!この繋がりは何人たりとも絶つことはできない!我らに負けはない!」

軍団長顔負けの演説にいよいよ歓声が上り出す。馬鹿が馬鹿を言っている。盛り立つ群衆の中、イヴは急いで視線を左右に配る。右、左、そのさらに奥、各師団長、軍団長がこの様子を遠目にのぞいている。誰も止めない。都合が良いから。第四師団も我関せずで後衛なりの仕事をしている。レオが急に右を向く。その先を指し示し、叫んだ。

「我らがバークレイ師団長!」

唐突な名指しにバークレイの肩がピクッと動かす。

「我ら第一師団には彼がついてる。あの勇猛果敢な姿を見ろ!彼が我らを守ってくれる!」

気をよくしたのか師団長は満足げに頷いた。チャンスだ。今しかない。

「リュカ」

昂る気持ちを押さえつけ、務めて小声で呼びかける。

「レオを追い出す算段がついた」

「本当か?どうやって」

「それは任せて。とにかくリュカはレオに作戦の詳細を伝えないようにして」

「どういうことだよ」

「敵は増えてる。みんな絶望してる。それはレオも同じはずだ。絶対に焦ってる。なら、今日のうちに作戦を聞きに来るに違いない。だから絶対に漏らさないで」

それだけ言って足早に群衆の中へ分け入った。

「おい!イヴ!」

追い縋ろうとしたが声を荒げては怪しまれると、不本意ながら諦めるしかなかった。

 歓声が上がる空間を耳を押さえたい衝動を堪えながら、誰にも見咎められないように進んだ。目指すはオルレアン・バークレイ第一師団長。イヴの計画の要となる人だった。

「師団長」

満足げに腕を組む師団長の背後から声を掛ける。

「うぉ!なんだ」

振り返った顔は耳の先まで興奮で赤く染まっている。

「一つ、意見具申がございます」


 戻ってきたイヴは言葉にしないが満足げな顔をしていた。きっと作戦がうまくいったのだろうが、リュカが何を聞いても教えてはくれなかった。何をしたのか追及したいところだが、リュカもそれどころではない。日に日に緊張感が増し開戦まで一刻の猶予もない。急ぎ作戦を練り上げる必要があった。

 突然警鐘が激しく打ち鳴らされた。意気揚々と演説を続けていたレオもさすがに黙って鐘を見つめる。

「前方に敵伝令兵!」

叫んだのは警戒任務にあたっていた第二師団の一人。第二師団の師団長が急いで足場を登る。慎重に防壁から顔を出し前方を見つめる。後ろにいる大勢の兵士たちはその様子を儚い期待を胸に、固唾をのんで見守っている。どうか、吉報であれ。と。

「連合軍司令部より、各国の同意に基づく戦争法に則り、ここに開戦を宣言する!」

壁越しにも聞こえるよく通る声。そしてその言葉が終わるやいなや、壁の向こうから轟音が聞こえ、地が揺れた。

「総員、隊列を組め!」

トーレス軍団長が勇み足で群衆の方へ歩みながら指示を出す。

「師団長は各々の隊を前進させろ!」

号令に合わせて拠点内は慌ただしく動き出す。防壁の扉が開かれた。あちらこちらで兵士たちが準備に追われる。武器の調整、防具の装着、さまざまな音が混ざり合う中で三人の師団長の声だけはよく聞こえた。恐れる気持ちを必死に奮い立たせて防具を身につける。横にいるリュカはもうすでに支度を終えていた。

「早いね」

「お前が遅いんだよ」

いつもと変わらないその口調も、固く握られ震える手を見れば、無理をしていることは容易に見て取れた。

「みんな同じだ」

リュカが口を開いた。

「みんな怖いよ。あいつも、あいつも、みんな手が震えてまともに支度ができてない」

周りの兵士を見ながらリュカが呟くように語り掛ける。

「それでも誰も声を上げないのは、助からないという絶望が、この場を支配しているからだ。この場で助けてと言うことを規制しているような空気のせいだ」

支度を終えリュカと相対する。

「で、どうする?」

「成り行きだ」

目を細めてニコッと笑顔を作っている。責任感も、切迫した感じも微塵も感じられない。でも聞き慣れたそのフレーズに、二人の不安は和らいだ。


 開かれた扉から出ると、敵軍はもう目の前に部隊を展開し終えていた。彼らの前には大きな穴が一つ、穿たれている。

「さっきの音はこれだったのか……」

あちこちで絶望の声が聞こえる。地面をえぐった大砲が不気味に砲身を光らせている。あれが自分たちに降り注ぐと思うと、今にも逃げ出したい気持ちに駆られる。しかし背後には第四師団。逃げたらどうなるかは火を見るより明らか。緊張と混乱、混沌とした空気そのままにバークレイ師団長の指揮のもと隊列が出来上がっていく。

「レオ・フェルナンデス!」

並び終えた部隊を前にバークレイ師団長がレオを指名した。

「はい!」

恐怖で上ずった声でレオが返事をする。

「貴様には弁論の才がある。最前線にたち、この防衛部隊全体の士気を上げろ!」

「え、……えぇ!」

予想だにしなかったであろう指示にレオが素っ頓狂な声を上げた。

「師団長、それは話しがちが……」

「何を言っている。これは師団長としての命令だ」

「そんな……」

怯み後ずさるレオの周りで、さっきまで演説を聞いていた兵士たちが騒ぎ出す。

「そうだ、レオがいる!」

「頼むレオ!何か言ってくれ!」

窮地に追いやられ、自分ではない誰かが自分の代わりに不幸を負おうとしている。その姿に誰もが縋っている。そんな姿を群衆の隅を陣取ったイヴはしめしめと眺めていた。横にいるリュカは突然何が起きたかわからないという顔をしている。やんややんや騒ぎ立てられ、要らぬプライドが「嫌だ」と言いたい気持ちを押さえつける。狙い通り。こうなっては彼は断れない。あっけなく最前線に送り出されたレオは、今や高らかにはためく旗を手に持ち、敵軍を弱々しい視線で睨みつけている。今にも敵軍から笑いが起きそうなものだ。

「お前の策って、これか?」

恐ろしいものを見るような目でリュカが問う。

「うん、そうだよ」

哀れなレオ。自業自得だ。

「あれだけ人の心を引きつけるんだ。長たちも例外じゃない。だから言ったんだ。具申です。彼を最前線に置き、軍全体の士気を挙げてはどうか。そうすれば、脱走を試みたり敵前逃亡をするような兵士はいなくなるでしょう。とね」

まっすぐに、小鹿のようなレオを見据えるイヴの口元には笑みが浮かんでいる。

「え?」

「だって長たちは戦いが始まったら町に後退するはず。なら一番気にするのはその時間が稼げるか否か。それなら、僕達徴兵隊が逃げるとか、即全滅とか、そういうことを恐れるんじゃないかな」

「な、なるほど」

リュカは呆気にとられた表情のまま必死に思考を整理する。

「お前……エグいこと考えるのな」

ようやく思考の追いついたリュカの顔にはイヴに対する畏敬の念が浮かんでいる。

「これくらい当然でしょ」

 自分だけでなくエマリーを貶めた男。両親に苦しい思いを強いた男。これくらいの仕打ち、安いものだ。戦争のルールはこうだ。まずは宣戦布告。次に布陣。そして両軍の準備が整ったら互いに準備完了を告げる角笛を吹く。かつて繰り広げられた戦争からの教訓だ。戦争に公平性を求めた、矛盾だらけの戦争法。レオの必死ともヤケクソともとれる演説は終わり、両軍は法に則り角笛を掲げる。全軍の後方でトーレス軍団長が角笛を吹いた。低く、唸るような音が臓腑を震わせる。第四師団と各師団長が雄叫びをあげる。つられて第一から第三師団、要するに徴兵隊も必死の雄叫びをあげる。こうでもしないとやってられないのだ。対して敵軍も角笛を吹き返す。向こうの音は高く遠くまで通る澄んだ音だ。雄叫びもなく、静止したまま音の終わりを待っている。先頭に歩兵、背後に騎兵、これだけでも数の多さも相まって壮観な布陣だ。しかしその背後には大砲が何門もならべられている。さっき地面をえぐったのはそのうちの一門に違いない。あんなのに打たれたらひとたまりもない。

 相手の角笛の、細く、しなやかによく伸びる澄んだ音色が次第に風に包まれていく。さながら、この戦場で散るであろう命を慰めるように鳴り響いている。その音に聞き入った。ふと敵軍の中に見慣れない旗があることに気づいた。深緑の中に白い紋章、エマリーの屋敷で見た本に書いてあった。今は亡きザルマ王国の王国旗。果たして本当にザルマ王国の復権など、望んでいるのか。ただ、その方が都合が良いとか、それだけではないのか。

 敵の笛吹兵が、肺に残された最後のひと吹きを吹き上げた。残響が戦場に木霊する。伸び、風に包まれ、揉まれ、残されたのは、人々の耳に残る記憶だけであった。戦いたくはない。人を殺めることも、自らが死に瀕することも、今すぐそんな危険から足を洗い、元の暖かな生活に戻りたい。

「全軍、突撃―!」

 軍団長の号令が、今はもう夢となった世界を無情にも引き裂いた。同時に敵軍の、大勢の歩兵たちが武器を掲げてこちらに駆けてくる。所詮寄せ集めに過ぎない徴兵隊は恐怖に恐れ慄き武器を構えるのが精一杯。誰も走り込んでいこうとはしなかった。イヴもリュカも例外ではない。あんな大群に駆け込んで、そこに死が待ち受けているのは火を見るより明らかだ。

ドンッ

背後から銃声が響いた。第四師団の総員が、敵軍に銃口を向けている。

「援護射撃は第四師団が引き受ける。貴様らは敵に突っ込み一人でも多く数を減らせ!いけっ!」

バークレイ師団長が鬼の形相で叫んだ。その手には第四師団よろしく煙を吐く小銃が握られている。

「督戦隊だ……」

誰かが呟いた。その恐怖は瞬く間に伝播した。皆が口々に、後方から前線へ、瞬く間に人を蝕む病のように。

「か、かかれぇぇぇぇぇ!」

涙混じりの必死の声で雄叫びをあげ、手に持った旗槍を前に突き出し、レオが土煙とともに迫りくる敵兵に駆け出した。

「おぉぉぉぉ!」

背後の味方が次々とヤケクソの突撃に続く。この波に乗れば死ぬ。乗らなくても背後から撃たれて死ぬ。命の瀬戸際の、悲しい雄叫びが戦場を埋め尽くした。

「イヴ、俺たちも行くぞ!」

突然突きつけられた選択肢に硬直するイヴの右肩をリュカが全力で引っ張る。ぐしゃっと握られ引っ張られる衣服につられ全力で駆け出す。思考なんか追いついていない。ただ眼前の敵に突っ込むことしかできない。後方で射撃音が轟く。後方から悲鳴が聞こえる。見なくてもわかる。督戦隊が仕事を始めたのだ。混乱なんかしていない。むしろ頭は恐ろしいほどに冴え渡っている。こちらに走りくる敵兵が舞い上げる土煙の向こうに鈍く光るものが見えた。――まずい。

 大地を揺らす轟音が再び鼓膜を震わせた。右を走るリュカを、咄嗟に押し倒した。低い視線。攻め立て、次の瞬間には逃げ惑う味方の足の隙間から、こちらに飛んでくる一発の砲弾がまるで静止画のように目に映る。その砲弾のめがける先には一本の長く伸びる旗槍。愚かな男の虚しい嗚咽が、四方八方から轟音押しかける戦場で鮮明に聞こえた。

 一瞬の嗚咽。その後に彼の前で砲弾が炸裂した。瓦礫混じりの突風に顔を背ける。吹き付けた風がやみ、顔を上げた先は、見るも無残な、果たしてそこに人がいたか獣がいたか、まったく区別がつかないほどに痛めつけられた肉片が散乱する黒と深紅の大穴が広がっていた。散乱する四肢の一部、原形をうかがい知ることすらできない何かの一部、この世のものとは思えない光景に、視線は落ち着かず、息ができない。臓腑は逆流を始める。大砲の土煙が晴れた先には、ボロボロにちぎれた旗を掲げる旗槍に、固く握りしめる腕がぶら下がっていた。最早それ以外に見る影もない。イヴを苦しめた男はこんなにも呆気なく死んだのだ。最後の一言はまるで言葉ともとれない一瞬の嗚咽。声帯を掠めて吐き出された、ただの空気の音だけだった。雄弁を誇る彼の死に際にふさわしい。荒れ狂う臓腑の中でそれだけが、彼の腹にストンと落ち着いた。

 雄叫びとともに土煙を敵軍が一人、また一人と駆け抜けてくる。背後では督戦隊の射撃音。地に這いつくばるイヴとリュカに構うことなく、第二師団が突撃を仕掛けていく。そして、また轟音が鳴り響く。今度は高いところから砲弾が空を切る音が聞こえる。砲弾はイヴの頭上を通過した。皆が突進を止め、砲弾の軌跡を辿る。着弾点は徴兵隊の後方。第四師団と、各師団長が座す、いわば本陣。背後からの射撃が止み、本陣は沈黙した。逃げることも、戦うことも、すべてはこの場にいる兵士に委ねられた。生き残った第四師団の兵士たちは我先にと町へ逃げ出して行く。その中に姿を隠すトーレス軍団長の姿を、イヴは見逃さなかった。

 逃げる正規軍の生き残り、向かってくる敵軍、撃ち込まれ続ける砲弾。この混沌とした戦場は、人の思考をおかしくする。指揮系統を失ったエルブライト王国軍、前線に置き去りにされた徴兵隊、この戦場は、人をおかしくする。最初の一人が雄叫びをあげ、敵軍に突っ込んでいく。気が触れたのか、全てを諦めたのか。その様子を眺めているだけのイヴにはわからない。しかし一人がそれに続き、その後ろに大勢が続く。まるで共に死にゆく友を求めるように。この戦場で生き残ろうとする者はいない。皆が死を受け入れ、いや、生を諦め、ただ目の前の敵に一矢報いるべく敵に突っ込んだ。

「今だ!逃げるぞ!」

先ほどの轟音で目を覚ましたリュカが、すべての音をかき消しそうな戦場で叫んだ。

 敵に向かう味方の中を、真逆に突っ走った。誰も止めない。誰もついてこない。敵に突っ込む者、立ち尽くす者、かつて人だった物、全てが物言わず、逆流する二人をかわしていった。


 塀の崩れた前線基地は撃ち込まれた砲弾で幾つもの大穴が口を開けていた。二人が密談を交わした武器庫も瓦礫が散乱したまま、使えそうな物は何もなかった。すべては瓦礫の中に埋もれてしまっていた。このまま歩いて町に戻るにも距離がある。そんなことをしている間に、まだ前線に出ていない騎兵が追いついてくる。逃げるにしても足が必要だ。周囲を必死に見渡し、視界の端で不安げに弱々しく嘶く馬を一頭見つけた。土埃で汚れてはいるが、栗毛に黒い鬣を持った美しい馬。その一頭だけがどの砲弾の着弾点からも遠く、町の方に口を開ける門に近い位置につながれていた。

「もう大丈夫、いい子だから」

馬を真正面に見据え、優しく声をかけながら、はやる気持ちを「ここで急いては死ぬだけだ」と必死に抑えながら、少しずつ歩み寄る。

「落ち着いて。もう不安はないから」

ゆっくりと近づき、指先が逞しい首筋に触れた。指先から指の腹へ、手のひらへ。柔らかく首筋を撫でた。興奮した不安げな嘶きは次第に落ち着いていった。馬の様子に合わせそっと体を馬の側面に回す。馬の興奮が解けたことを確認し、鞍に跨る。崩れた塀の向こうで、背を向けた戦いの音が鳴り響く。た。僕の死ぬ場所はここじゃない。ここで死んでは町は守れない目をつぶり。胸をさする。深く息を吸い荒野に残した罪悪感を断ち切る。

「やっ!」

馬が嘶きと共に足を前へと送り出す。

「リュカ!乗って!」

リュカに向けて走りよる馬から半身乗り出し右手を差し出す。こちらに気づいたリュカも右手を掲げる。互いの掌を固く握りしめた。勢いに任せてリュカを引き上げる。

「よし、町へ行こう。急げ!俺たちが戦うところはここじゃない」

「僕も同じことを考えてた」

背後の轟音が近づくにつれ次第に味方の声が小さくなっていく。余計なことは考えるな。まずは町に戻らなくては。

「やっ!」

砂埃を上げて馬は駆けだした。


 町はイヴたちが前線にいる間に戦闘準備が整っていた。バリケード、建物上の機銃、油の入った樽、様々なものがあちらこちらに配置されている。軍服を着ていたおかげか町に臨時で設けられた簡易監視塔付きの門は簡単に通過できた。正確にはここに来るまでにイヴは何人かの正規軍人を追い抜いてきた。故にまだ撤退が終わってはおらず門も解放されていた。かつての飼い主たる彼らの制止も振り切り全力で駆け抜けてくれたこの馬には感謝しなければ。

 門の内側で馬を降り鞍を外してやった。

「ここにいたらお前も死ぬよ。早くどっかに逃げてしまえ」

言っている意味がわからないのか顔を擦り寄せてくる。その頬をさすり額に馬の額を合わせる。ここまで二人を運んだ熱を感じる。馬の額から勇気をもらい、馬から身を離した。

「お別れだ」

一歩、二歩と後ずさる。

 轟音が地を揺らした。背後から瞬間的に強風が吹き付ける。振り返ると簡易ではあるもののそれなりに堅固そうに見えた見張り門が大きく損壊している。悲鳴のような嘶きと共に、馬は再び来た道を疾走していった。辺りには瓦礫にまみれて巻き込まれた人の亡骸が転がっている。

「おい待て!」

リュカの制止も聞かず慌てて瓦礫に登り外を覗き見る。共に飯を食い、笑い、恐怖した仲間たちはそこにはいなかった。代わりに崩壊した前線基地のあたりに堂々と布陣し、こちらに大砲の口を向けている連合軍と、高らかにたなびく連合軍旗が堂々と、傾く日の光を浴びている。

 敵将が自らの武器を高らかに掲げた。敵の砲門、並び立つ兵士たちが攻撃態勢をとる。瓦礫の影から多くの兵士が無言で見つめている。誰もの思いもむなしく、敵将の武器は振り下ろされた。途端、並ぶ砲門が次々と火を噴いた。背後から襟を掴まれ瓦礫の内側に転げ落ちた。空を仰いだ視界には幾筋もの砲弾の軌跡が目に写る。背後からいくつもの爆発音が聞こえてくる。

「この爆発音、どう考えたって砲撃だけじゃないだろ!」

「樽だよ!裏目に出たんだ!」

怒るリュカに近くにいた兵士が怒気を孕んだ声で返す。

「樽?」

振り返ってリュカが声の主に問う。

「建物の上にいくつも置いた重火器があるだろ。それに使う火薬とかを詰めた樽だよ。ちくしょう完全に裏目に出てやがる」

「引火したってのか!?」

「そうとしか考えられねぇだろ!」

振り返った町では幾筋もの黒煙が立ち上っている。降り注ぐ砲弾が町を破壊し、見る影もない。

「まぁ戦争なんてそんなもんだろ。どうせ高いところは重火器か狙撃手の天国だ。そりゃ潰すだろうさ!いてっ」

頭上から降り注ぐ木屑から身を守りつつ兵士が声を上げる。

「ここにいても死ぬぞ!さっさと移動しろ!」

「あなたは!」

兵士の提案にあわよくば一緒にとイヴは問う。が、すぐに後悔することになった。

「おう!と言いてぇがな、瓦礫に挟まって抜けねぇんだ。こりゃ無理だ。置いてけ!」

視線を下した先では兵士の左足の太ももまでが瓦礫に埋まっている。

「そんなこと言うな!今どける!」

「駄目だよ!」

「なんでだよ、止めるなイヴ!」

「よく見てよ!」

兵士の足元を指さす。

「この血の量だ。間違いなく刺さってる。このままどけるのは危険だ」

「でもこのままじゃ敵が来るだろ!」

「この人は、違う最期を迎えようとしてるんだ」

「え?」

リュカの動きが止まり、兵士に視線を戻す。

「へへっ、察しが良い。そいつの言う通りだ。俺はもう無理だ。足の感覚も鈍いんだ。痛みももう感じねぇ。これ以上は無理だ。お前ら、さっさと逃げな!これやるから!」

突き出されたのは小銃の弾薬。腰つきポーチいっぱいの。兵士の目は不思議と輝いている。不思議な熱が宿っている。

「……ありがとうございます」

受け取るときに触れた手は暖かい。まだ、生きている。もう一生分の生死を見た気分だったが、こんな死もあるのだと、現実とはかくも残酷なものかと、その温もりを握りしめた。

「来世は、幸せに」

思わぬ別れの言葉に兵士が一瞬目を丸くした。すぐに口ににやけた表情を取り戻しイヴを見据えた。

「おうよ。……早く行け!そろそろ来るぞ!」

「行こう、リュカ」

「……っ!」

 名残をしそうに何度も振り返るリュカの名をイヴも何度も呼び、町の中心部へと駆けていく。市場、旅籠、立ち並ぶ家々、そして皆が過ごした酒場。誰もいない町で大好きな記憶が煤となって立ち上っていく。逃げる背後で爆発音が響いた。大砲のものより小さい。煙は監視塔の残骸のあたりから上がってる。あの兵士の最後だろうか。自らの命をとして町を守ったのだろうか。風に流され薄くなる煙の向こうには数多の敵兵が見える。彼の亡骸の上を敵兵が堂々と跨いでくる。

 いよいよだ。敵兵がやってくる。ここが街を守るための、自分の戦場だ。そう直感した。震える足を叩いて喝を入れる。震える手に噛みついて小銃を構える。

酒場の残骸に隠れ敵を待つ。道を挟んで向いに身を隠すリュカと目配せを繰り返す。次第に大きくなる足音。不揃いな大勢の足音が徐々に大きな音へ変わる。来た。

 大きく吸い込んだ息を止めて瓦礫から身を乗り出す。突然の人影に敵兵の動きが止まる。その一瞬の隙を見逃さなかった。思い切り引き金を引く。人を殺したくないとか、そういう思いは感じなかった。ただ、無心だった。必死だった。

 鼓膜を震わせる破裂音と共に目の前で敵兵が鮮血を飛び散らして倒れる。混乱の中敵兵も反撃の体制を整え銃口がイヴたちに向けられる。急いで瓦礫に隠れる。向かいではリュカがガッツポーズを見せている。人を……殺した。そう深く実感するまもなくまた敵兵の足音が聞こえる。今度は大勢がこっちにやってくる。怖がっている暇はない。怯えている暇はない。殺らなければ、殺られる。自分が殺されれば、この町を守る者がいなくなる。意を決して瓦礫から身を乗り出し向かってくる敵に向かって発砲する。先を走っていた敵兵が倒れる。リュカの放った弾丸で別の兵士が倒れる。一人ずつではあるが着実に敵の数を減らしている。しかし敵も即座に迎撃態勢を整える。瓦礫を遮蔽にして、練り上げられた戦法で絶え間ない弾幕を浴びせてくる。硬直状態になった戦局は、次第に防戦一方になってしまった。たまに顔を出して敵を倒してもキリがない。じり貧だ。その隙にじわじわと敵軍が迫ってくる。逃げようにも後退にちょうどよい遮蔽になる物が何もない。イヴだけなら何とか、酒場の角を曲がって隠れることはできるかもしれない。しかしリュカは……彼だけ置いていくことはできない。戦うしかない。負け戦と分かっていても、とにかく敵を一人でも多く倒すしかない。

「イヴ!弾がねぇ!」

咄嗟にさっきの兵士から託された弾薬ポーチをリュカに向けて投げる。敵の弾丸に邪魔されることなく無事手元に届いたポーチを小さく掲げてリュカが笑う。リュカが装填している間はイヴが敵を引き付ける。弾薬はなくなっていき、イヴ自身のポーチが軽くなっていることには気づいていた。万事休す。死に場所はここかもしれないと、心に浮かんだ。後悔がないと言ったら嘘になるが、それでもあんな荒野で死ぬよりましだった。慣れ親しんだこの町で死ねるなら。まだましだと。最期の弾薬を装填した。迫りくる死を身近に感じ呼吸を整える。これを撃ち切ったら、もう終わり。

 呼吸を整え遮蔽から身を乗り出そうとした時、どこかから雄叫びが聞こえた。途端、敵兵の左右にあった建物の残骸が音を立てて倒壊した。崩壊に巻き込まれた敵兵は何が起こったのかわからず混乱に陥った。それはイヴとリュカも変わらなかったが、二人はすぐにその正体に気づいた。

「侵略者を叩き潰せ!」

「町を守るぞ!倅が帰ってくる場所を奪わせるな!」

「家を壊された恨みを思い知れ!」

倒壊した瓦礫から次々に武器を持った男たちが足並み乱れる敵軍めがけて突っ込んでゆく。だれも軍服を着ていない。だれも銃器なんて持っていない。せめて弓やボウガンなような物だけ。大勢が持っているのは斧やノミ、鋤など日常の見慣れた道具だけ。駆け抜ける人々の中には見知った顔もある。

「おい!大丈夫か!」

背後から呆然と眼前の光景を眺める二人を呼ぶ声がした。

「お前ら徴兵された兵士だよな、よく生きてた」

がっしりと肩を掴まれしゃがめと地面に押される。

「しっかりしろ、まだ生きてる」

「あの人たちは」

「俺たちゃパルチザンだ」

「パルチザン?」

「かっこよくいや義勇軍、かっこ悪くいや町の死に損ないだよ。それよりお前、イヴじゃねぇか?」

「あ、はいっ。そうです」

見知らぬ人に言い当てられ目を見開いたまま硬直する。

「やっぱりな、でかくなったなぁ」

頭をわしわしと撫で回す大きく肉厚な手。最後に温かみを感じたのが随分と昔のように感じられ、不覚にもうるっと感じるものがあった。

「お前の親父には随分世話になった」

「父は?」

「生きてるよ。おふくろさんも一緒だ。今はお前の家でけが人を手当てしている。お前も早く行ってやれ」

男はイヴの肩を掴んだまま向かいにいるリュカに手招きした。

「仲間が敵兵を乱してる今がチャンスだ。今のうちに走れ」

「でも見捨てていくわけには」

がっはっはと男の大笑いが轟音あふれる戦場にこだました。

「そんな心配いらねぇよ。それよりいつ死んでもおかしくねぇんだ。会えるうちに、会える人に、会っておかないでどうするんだ」

「それはあなたたちも!」

リュカがぐいっと前のめりに問い返す。

「俺等はいいのよ。もう大事なもんは、外に出してきた」

「え?」

「俺等は自分の意志でここにいるんだ。この町を未来に託すためにな。誰も彼もが待ち受ける死を受け入れている。でもお前らは、まだ未来がある。お前らみたいな若人がここで死ぬのはちげぇだろうよ」

轟音が地を揺らす。ちかくで砲弾が炸裂したようだ。

「ほら、行け!命あるうちに!」

それを言い残して押し返されるパルチザンの群れに男は突っ込んでいった。

 背後から突風が吹き付け鼓膜を破らんばかりの轟音が耳を打ち付けた。不意の突風に気付いた時には地面が目の前に広がっていた。

「こうしちゃいられない、行こう!」

リュカに掴まれた腕を引き体を起こす。そのままリュカに引っ張られるようにして酒場から走り去った。背後からはパルチザンの雄たけびが、眼前からは砲弾の炸裂する轟音が、常にイヴの耳を打ち付けた。

「危ない!」

咄嗟にリュカと繋がれていた腕を強く引く。後ろに引かれたリュカが地面に倒れ込む。それに覆いかぶさるようにイヴが倒れ込む。次の瞬間、今度は背中に突風を感じる。服の裾が勢いよくはためき、背中に瓦礫が当たり、視界の端では木片が吹き飛ばされていく。

「助かった……」

起こした体の下でリュカが放心気味につぶやいた。

「無事で何より」

手を握り思い切り引いてその場に座らせる。

「お前がいなきゃ死んでた」

「それは僕も同じだよ」

散乱する瓦礫の中、まるでこの世界には二人しかいないかのような静けさを感じた。そんなはずはない。今だってそこかしこで戦闘が巻き起こっている。でもなぜだろう。こんなにも心穏やかなのは。

「懐かしいね、昔はこうやって、一緒に走って、転んで、助けて助けられて、平和で楽しかった」

「何いってんだこんな時に」

「本当だよね」

二人は立ち上がる。服にまとわりつく汚れをはたき、前を向く。

「……でも、こうやってまた手を取って走って、嬉しかった。……イヴ、すまない。ガキの頃、お前を突き放して」

いざ進まん。と、踏み出そうとした足に枷がつく。こちらを見るリュカの顔は真剣そのものだった。許しを請い、慈悲を求める者の目。なんだ、そんなこと気にしてたのか。

「いいよ。そんなの。おかげで僕は、エマリーと親しくなれた。それで十分だよ」

「そうか」

くしゃっとはにかむ笑顔に一筋の涙がこぼれた。真正面からこんなにもしっかりと、リュカの顔を見たのはいつぶりだろう。気づけば少し老けたか、顔には浅い皺ができている。しかし美貌はあの頃のまま、いつまでも美しく、鼻につく自信家のリュカのままであった。仲直りの握手だ。そう思って右手を差し出す。差し出された手を見つめ、ゆっくりとリュカが腕を持ち上げる。手と手が触れ合う。その瞬間。

「……危ない!」

胸を両手で力強く押されよろめく。体が地面に倒れ込む前に突風が吹き付ける。そのまま何メートルか吹き飛ばされた。地面にたたきつけられ、何度も転がった。舞い上がる土煙、何が起こったか理解するのは難しくない。ただ、受け入れたくない心が、理解を邪魔した。

「リュカ!……リュカ!」

何度も呼びかける。上ずり、鼻水交じりになり、みっともない声をあげながら、土埃のなかを必死に探す。目の前にあったのは、空から降ってきた砲弾が地面を抉った大穴。リュカの姿はない。その事実に安堵した。が、土埃が晴れるにつれて現実は無情に、イヴを現実へと突き落とした。

「そんな……」

大穴のあちこちに肉片が散乱している。あの憎きレオ・フェルナンデスの最期、胸のすくような感覚とともに記憶した光景と同じ。しかし今度は腹の底から別のものが沸き上がる。

「うえぇぇっ」

イヴは吐いた。大して満たされてもいない腹の底から。嘔吐は次第に嗚咽に変わり、気づけば手を赤く濡らして肉片を集めていた。

「ごめん、ごめん……」

沈痛な嗚咽が、見計らったかのように静けさを生み出した空間に落とされた。

 集めた肉片をどうすることもできず、その場に埋め、近くの瓦礫で簡素な墓標を作った。

「ごめん、リュカ。戻ってきて、ちゃんとしたのを作るから」

返事は聞こえない。いつものおしゃべりで、憎まれ口をたたくリュカの声は、もう聞こえない。せっかく仲直りをしたと思ったのに。ようやく素直になった。ようやく、何年もの時を経て再び友人に戻れると思っていたのに。淡い絶望に突き落とされた。でも、ここで死ぬわけにはいかない。溢れる涙を拭い、力の抜けた体を小銃を支えにして起き上がる。立ち上がった瞬間右足に激痛が走り倒れ込んだ。さっきの爆風で吹き飛ばされた際に折れたのかもしれない。先の長い家路、背後から迫りくる敵軍、死のあふれる、愛する町、このまま死んでしまおうか。そう思いさえした。でも、まだ死ぬことはできない。エマリーに必ず生きて帰ると約束した。こんなところで自分から生を投げ出すことは許されない。再び小銃を杖に立ち上がる。痛む足を杖代わりの銃ともう一方の足で庇いながら前へ進む。背後からの声が遠のく。レジスタンスがうまく戦っているのだろうか。脂汗がにじみ折れた足の感覚が鈍くなっていく。懸命に、必死に歩き、何ヶ月ぶりだろう、ようやく家の屋根が見えた。帰ってきた。その感慨は、イヴが思うよりずっと大きかった。遠くにイヴを見つけたレジスタンスの二人がイヴに駆け寄ってきた。

「ケガは?大丈夫ですか?」

足が悪いとすぐに気づき、一人がイヴの腕を肩に回す。

「……」

大丈夫です。その一言がでてこない。促されるままゆっくりと歩を進める。家の玄関先には大勢の負傷者が横たわっていた。遠目に見える工房の中も同じようなものだった。工具がどかされ広々とした床に、大勢の負傷者が横たわっている。

「あなた……」

倒れ伏した男性に寄り添っていた女性がイヴを見留めた。たおやかで繊細な、金糸のような髪をたたえた女性、年はシエルと同じくらいに見える。

「あなた……イヴくん?」

「あなたは、リュカの……」

「えぇ、リュカの母です。あなた、前線に行っていたのよね」

「……」

答えられるわけがない。次に来る質問は分かっている。やめてくれ。問いかけないでくれ。

「教えてちょうだい、リュカは?あの子はどこにいるの?」

藁にも縋る。その顔を直視することができなかった。リュカはもうどこにもいない。その現実を突きつけるのは酷だ。かける言葉が見つからない。

「ねぇ、答えてよ、知らないなら知らないでいいから……」

近づき足にしがみつこうとする腕を、イヴを迎えた男性が優しく制止した。

「ラミダさん、とりあえずこの人を治療させてください」

「……えぇ、ごめんなさい」

再び促されるままに歩を進める。絶望する母親の、生きる希望を奪うことなどやはりできなかった。

「イヴくん!」

一息深く吸い込んで、言葉を続ける。

「あの子はあなたに会うために、あなたなら必ず、この街を守るために戦うだろうって、そう言って戦場に行きました。あなたに、謝るんだって、今度こそ自分が、あいつを守ってやるんだって、あの子はその願いを、果たせたんですか」

全部、僕のせいじゃないか。涙が一粒、また一粒、次第に数を増して頬を伝い、地面に滴る。僕があそこで意地を張らなければ、リュカを屋敷に招いていれば、そうすれば、リュカは死なずに済んだじゃないか。なんと自分の愚かなことか。立ち上る黒煙がまるで自分の悪意なき悪意であるかのように、イヴの心を抉る。それでも、この質問には、この母の最後の願いには応えなければならない。

「リュカは……そのリュカの願いは、果たされたと思います」

涙交じりの声を、母の慟哭が打ち消した。

 その声を聞きつけ、家の中からロットとシエルが飛び出してきた。

「イヴ!」

一目散に駆け寄ってシエルがイヴを抱きとめる。

「よかった生きてたか!」

ロットがシエルごとイヴを抱きとめる。抱きとめたその先で泣き伏すリュカの母をみとめ、二人はイヴを家の中に連れ込んだ。

「イヴ、リュカくんは?」

言葉も出せず、力なく首を横に振るだけだった。自分だけが生きて、自分だけが両親に再会できてしまった。うれしさを感じる一方で、その嬉しさを素直に享受する気にはなれなかった。

「リュカが、ぼくを助けてくれたんだ」

「そうか、とにかく、お前が生きててよかった」

重い空気をロットが遮った。

「前線は?どんな状況?」

「地獄だよ。母さんも聞こえるでしょ?この砲撃の音。開戦してすぐ、この砲弾が何発も、周りの兵士を吹き飛ばしたんだ」

「酷い……」

「でも良い知らせもある」

無理やりふざけるような笑顔を作りロットに向き直る。

「レオは最初の砲撃で死んだ。砲弾が直撃して、跡形もなく」

普段のイヴなら絶対に言わないセリフ。呆気にとられたような表情を浮かべた父も、イヴの心中を察したのかすぐに不敵な笑みを浮かべた。

「そうか、やったな。これで憎きレオ・フェルナンデスはいなくなったわけだ」

父と笑い合うには不純な内容、でも今はそれでよかった。それがよかった。

「ここにいてもいいかな、ここで手伝いをしても」

「もちろんよ。私たちも医療は素人だけど、素人なりにやってるの。あなたも手伝って」

 両親は家の中で、イヴは外で負傷者の手当てに回った。重傷者は中、軽傷者は外、まばらに現れる負傷者を仕分け、できる限りの処置をする。折れた足はロットが急ごしらえの装具を作って固定した。それとあり合わせで作った松葉杖でなんとか動き回れるようにはなった。

「なんか怖くないか?」

「なにが」

治療の傍らで話し合う患者の声が聞こえてきた。

「さっきまであんなに聞こえた戦いの音が聞こえないじゃないか」

「あぁ、レジスタンスが押し返したんじゃないか?」

「本当か?言っちゃ悪いが……あんな装備で?」

「おい!」

「わかってる、わかってるよ。でもそうだろ?お前だって、これが時間稼ぎにもならないって……わかってるだろ?」

「……」

男は押し黙った。そうだ。イヴにもわかっている。数多の死体、瓦礫に埋もれた兵士、友の肉片、ここまで、ここにいる誰よりも現実を見てきた。その頭は嫌になるほど明晰にこれから先の現実を予測している。言われて気づいた静けさも、間違いない、レジスタンスの抵抗が鎮圧されたのだ。いまだ町には空に弧を描き火球が飛来している。町のあちこちが破壊され、王国軍の置いた樽に引火し大爆発を起こしている。

「地獄だよ」

思わず口をついてでた言葉が、引き金だった。次の瞬間轟音と突風が吹き付けた。風によろめき地面に倒れる。頭についさっきの、惨たらしい光景が蘇る。視界の端では人が瓦礫にまみれて吹き飛んでいく。

ーまさか。

よろよろと起き上がった視線の先、イヴの暖かな思い出が崩壊している。何度もくぐった母屋の玄関、外を眺めた二階の部屋、父と、トマと、互いに切磋琢磨し、時に褒められ時に叱られた工場までも、目の前のすべてが瓦解している。

「父さん!母さん!」

瓦礫に駆け寄り目の前の瓦礫を手当たり次第に放り投げる。どこにいるかなんて分からない。でもやめられない。ここでやめたら、もう何もかもを失ってしまうような気がした。無我夢中で瓦礫を押しのける。指先が木のササクレに刺さり血が噴き出る。手のあちらこちらが赤く染まる。けれどそんな事を気にしてはいられない。痛みも、感じない。必死にかき分けたその先で、柔らかな、その奥の硬い感触を指先に感じた。

 慟哭は、新たな火球にかき消された。爆風からよろめき立ち上がり、生き残った人々はイヴを前に立ち尽くした。今この子に何をしてやれるだろう。そう思っても、何もない。ただ悲しみに暮れる一人の青年を見守ることしかできない。

 現実は無情にも、次の場面を運んでくる。このタイミングを待っていたかのように遠くから大軍の押し寄せる足音が聞こえる。次第に足音に金属のぶつかる音も重なる。空気がピリつく。だれもがこの先を分かっていた。一人一人が目を合わせ、頷き合い、座り込んで力なく俯くイヴに歩み寄る。

「イヴ、よく聞け」

イヴの隣に座り優しく語りかける初老の男性。その姿には見覚えがある。

「お前も、お前の両親もこの上なく勇敢だ。責任感、使命感、誰にも負けないものを持っている。お前の気持ちはわかる。ただな、ここで死んじゃいかん。ここで死んだら、彼の世で親方やおふくろさんにどう説明する。お前はまだ若い。まだ未来がある。お前がいなくなった時もずっと、お前の両親はお前の未来を信じてた。いいな、生きろ。ここは俺らがなんとかする。まだいるんだろう?お前の大切な人が」

肩に手を置き、優しく揺する。

「じゃあな。達者でな」

向き直った初老の男が鬨の声をあげる。皆が呼応する。

「未来ある若造を守れないで、そんなんで死んではられねぇよ!そうだろ!」

「おぉ!」

「何としても時間を稼げ!逃げおおせるだけでいい!イヴを逃がすぞ!それが、親方の指示だ!」

「おぉぉぉ!」

耳になじみのある声が、何個も何個も重なり合った。

振り返った視線の先には、ぞろぞろ遠ざかる見慣れた男達の背中があった。

 そうだ。行かなきゃ。すべてを失っても、あの人のところへ。松葉杖を頼りにヨロヨロと起き上がる。ごめん、父さん、母さん。必ず戻って、ちゃんとした墓を作るから、それまで待ってて。イヴの家から屋敷までは一本道。瓦礫に埋もれる両親に最期の別れを告げ、一人歩き慣れた道を下る。リュカを失った。両親を失った。最期に残ったのはエマリーだけ。こうなると最早レオに感謝するべきなのかもしれない。彼の死を悼むべきなのかもしれない。そんな逡巡の最中、眼前に一人の兵士が立ちはだかった。一人レジスタンスの抵抗を超えてきたのだろうか、いや、臆病なだけか、小刻みに震える足、照準の定まらない銃身、この体じゃたとえそんな相手でも逃げられない。ここまでか。

「どけ小童!」

銃を構えた敵に斧が投げられる。紙一重でかわした兵士が再び銃を構える。チッという舌打ちとともに背後から突き飛ばされ道の脇に生い茂る藪に転がり落ちた。ドンッという重い音がイヴの鼓膜を叩く。反射的にまとわりつく落ち葉から顔を上げ、遥か上方の道を見上げる。

「行け!イヴ!」

白い歯を見せたトマは雄叫びをあげて敵兵へつかみかかる。そこから先は道が遮蔽になり見えない。ただ一発、再びイヴの鼓膜を重い音が叩いた。

 みんな、死んでしまう。戦争をいかに軽いものと考えていたか、なぜあの日、エマリーと一緒に父を止めなかったのか、過去のすべてを恥じた。後悔した。だからこそ、最期に残された一人だけは、裏切ってはいけない。その一心がイヴを突き動かす。転げた松葉杖を拾い上げ、安定しない足元に注意をはらいながら一歩、一歩と懸命に歩を進める。この森は歩き慣れている。たぶん目を瞑っても迷うことはない。おかげで足が不自由ではあったが休むことなく進むことはできている。背中にかけた銃を降ろせればもっと楽になる。エマリーと会うのに、これは要らない。何度もそう思った。でも、至る所と鳴り響く銃声、あちこちで立ち上る黒煙、この最期の一発だけが、イヴの命綱であるという現実が、この銃をイヴの背中に貼り付けていた。

 どれほど歩いたかわからない。額には脂汗がにじみ、松葉杖を抱える脇は擦れて痛みも鈍くなっている。のどが渇いた。足が痛い。いっそ休んでしまいたい。その思いを必死にこらえ、ようやく屋敷裏にたどり着いた。数多口を開けるクレーターを避け、屋敷裏へ。屋敷の脇を抜け、見慣れた東屋が目に入る。あと一息。エマリーの大事な花壇の前で、屋敷への道を歩く人影に気づいた。人影は真っすぐこちらを見据え、銃を構える。ーこんな時に……。松葉杖を捨て、痛む足を地面に押し付ける。立っていられないほどの激痛が電流のごとく頭まで突き抜ける。必死にこらえ汗のしたたる瞳の前に照準器を合わせる。

 三発の銃声がこだました。森の木々が驚いたようにさざめきを増している。薄れゆく意識の中、そんなことを思っていた。敵兵は倒れた。イヴに残されたたった一発の銃弾が、敵兵の顔を射抜いた。極度の緊張。そこから解き放たれた全身は力が抜けて立っていられない。たまらず石碑を背に倒れ込んだ。太腿と腹のあたりに生温かいものを感じる。触れた手は赤黒く染まっている。今度こそ、ここまでか。木々を囲いに吹き抜ける空を見上げる。死んでいった愛する人々の顔が浮かぶ。リュカ、ロット、シエル。ここまで生き抜いたんだ、前線から帰り、この屋敷まで。虚しい達成感が体から抜けていく。

 霞む視界の端で屋敷の扉が開く。中から出てきたドレスをまとった女性がこちらを見、また屋敷の中に戻った。再び現れた女性はイヴに駆け寄った。

「だから逃げろと言ったのに……」」

両手でイヴの顔を支え苦々しく吐き捨てる。

「最期に……また会えた」

血に塗れた手でエマリー頬を撫でる。声にならぬ声。もはや聞こえているかもわからない。

「森の木々が教えてくれたのよ」

持ってきた箱から包帯を取り出し止血を試みる。あまり芳しくないらしい、エマリーの顔が悲痛に歪む。

「もう、悲しむことはないと思ってた。あの日からずっと」

エマリーの肩が震え、声が震える。

「こんなつらい気持ち……もう……たくさんよ」

鼻を啜る音が聞こえる。

「今までいろんな人の死を看取ってきた。この三百年、ずっと。人が死ぬのは自然なこと。死にゆく人に、過ぎ行く日々に、行ってほしくないと思うことはなかった。でも、あなたには死んでほしくない。なぜかしらね」

涙ながらに笑顔を見せるエマリー。胸元の、彼女が大切に肌身はなさず付けている宝石を愛おしそうに撫でる。

「あなた、これを欲しがっていたわよね。……あなたはあの人と同じ。私に光を見せてくれた」

首から外し、震える手で固く握りしめる。落ちた涙に宝石が濡れる。宝石に不思議な光が宿った。イヴの手を握り、宝石をイヴの手に滑り込ませる。握られたその宝石はイヴの血を吸って赤く染まった。痛みが引いていく。薄らいだ意識が、徐々に明晰さを取り戻す。

「いい?それはね。私からあなたへの、祈りと祝福よ。やっと、私はこんなにも長く生きてきた意味を見いだせた」

涙を流す頬、初めて見るくらい嬉しそうに微笑んでいる。そのままぎゅっと、きつくイヴを抱きしめた。その足元から、エミリーの体が徐々に灰となり空にエマリー舞う。

「えっ?待って、待ってよ」

「さようなら。私のもう一人の、いとおしい人。それは呪いではない。私みたいに過去にとらわれないで。未来を見て、明るい世界を生きて」

足から膝、腰、次第に失われていく彼女の体。最期に彼女の心からの笑顔と祝福を残して、彼女は戦火に灰となって消えていった。

 抱きとめられなかった。彼女がいなくなった空間を、いつまでも空をつかむように抱えていた。体は実体のあるものとは思えないほど軽く、冷たかった。打ちひしがれるその体に、エマリーの祈りが詰まっている。手のひらで輝く深紅の宝石が、徐々に青さを取り戻していく。終いにはエマリーが持っていたときと同じに戻っていた。脂汗は消え、汗でベタついた髪もシャワーを浴びたあとかのように風に揺れている。

 そっと立ち上がる。足の痛みもない。疲れもない。軽い体を、今にも風に舞いそうなレースを静かに扱うように、慎重に動かし屋敷の中へと姿を消した。

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