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第九章 開戦

 季節は廻り、降り積もった雪が解け、豊かに茂る草花が目を覚ましたころ、バラケの町は混乱に包まれた。恐ろしい予感が、現実のものになった。交易都市カークバンド、内陸国家アースティン、そしてスラーヴァ帝国の連合軍が、とうとうエルブライト王国に宣戦を布告したのだ。これにより一国と連合国は戦争状態に突入した。この知らせはルイの来訪と共にイヴにもすぐに届いた。息を切らし、裏道の木々で足を取られ泥にまみれつつ、急いで彼はやってきた。姿を消したマエルは正解だった。やはり彼は情勢をよくわかっていた。最初は彼を非難していた町の人々も、それに続けと言わんばかりに次々と姿を消している。農場を経営するナトン・マトン夫妻も牛たちを連れ、隣町へ避難したらしい。

「じきに徴兵や、町境の封鎖が始まる。境界が封鎖されてしまえば、もう逃げのびる道はない。戦って死ぬか、ただ殺されるか、もしくは運よく生き延びるか、いずれにしても命が助かる確率が一番大きいのは今逃げることだ」

きわめて真剣な目でルイはイヴに訴える。二人を見守るように座るエマリーも、状況に目を伏せている。

「ルイは、どうするの?」

帰ってくる答えなんてわかりきっている。でも、聞かずにはいられない。

「僕は店をたたんで、侵攻ルートに入らなさそうな街に行くよ。そこでまた、一緒に逃げる仲間と新聞社を始める。でもずっとそこで生きるわけじゃない。戦争が終わって、安全になったら、この町に戻ってくる。この小さな町でまた、新聞屋を始めるよ。それは社員みんなの願いなんだ」

「そっか……」

わかっていた。わかっていたが、やはりきついものがあった。

「イヴ、君はどうする?」

「え?」

「僕と一緒に逃げるかい?」

「僕は……」

「逃げなさい」

姿勢よく俯いたエマリーの声が沈黙を破る。

「逃げなさい」

言葉を繰り返し、イヴと目を合わせる。その眼にはかつて見たことのない生気が宿っている。これは彼女の魂からの声なのだ。それが今、イヴに向けられているのだ。

「ここで逃げても誰もあなたを非難しない。非難される筋合いはない。逃げなさい。どこか遠くへ。あなたのことを悪く言う人がいない場所へ。家族もつれて」

「あなたは?」

「私はここを離れるわけにはいかないわ」

「でも……」

「大丈夫、この屋敷は森が守ってくれるから」

イヴの不安にエマリーの言葉が蓋をする。様々な思いが頭を駆け巡る。この町で過ごした二十数年、幼少期から今までイヴ・アングラードという人間を育み、こうして友や、エマリーと出会わせてくれたこの町のことが。

「いい?イヴ。聞きなさい」

名を呼ばれ心臓が大きく鼓動する。有無を言わさぬ雰囲気を感じる。顔を上げ、再び彼女の目を見据える。

「この戦争の最初の侵略地は、間違いなくこの町よ。連合を組んでいるのなら、カークバンドで兵力を結集し、一点突破でこの町に流れ込んでくるわ。元来、エルブライト王国がザルマを欲したのだって、ここが一つの侵入路に絞られた天然の要衝になり得るから。カークバンドに兵力を結集しているのなら、間違いない。連合はこのバラケを起点に、旧ザルマ王国領、欲を言えば、エルブライトを分割統治するに違いない。ザルマ領を占領したら、今度は三方向からの包囲殲滅に移る。誰が喜ぶかもわからない、喜ぶのなんて一部の腐った権力氏だけ。そんな戦争で、命を落とす必要なんてないのよ」

突然突き付けられた運命の岐路。どうすることもできないまま、エマリーもルイも、じっとこちらを見つめている。時を刻む細く長い針の音が、イヴの心に繰り返し、イヴの選択を問うように鳴り響いていた。


 翌日、新聞屋がたたまれたと、荷物を持ってきたトマに知らされた。ルイは昨日の別れ際、また生きてこの町で会おうと、イヴに告げた。実際にルイがいなくなった今、その言葉の難しさが実感となって押し寄せた。この戦争が終わるころに自分たちが生きている確証なんてどこにもない。自分は、どの道を選択するべきなのだろうか。

 三日後、いよいよエマリーの予感が現実のものとなる。町には今まで見たこともない国防軍がやってきた。バラケの町とカークバンドの国境沿いには防衛用の柵、土嚢、銃器が設置され、町のあちこちには志願兵を募るポスターが貼られ、地にはばらまかれたビラが無残な姿で散らばっていた。イヴの愛したバラケの町は、この数日間で、いや、実はもっと以前から、姿を変えてしまっていた。目の前にはこれから破壊されようとする、その避けられない未来を諦観するような空気が漂っているだけだった。町には早々に町を捨て他所へ行こうとする人々、前線指令所として接収されたルイの家に志願兵登録で長蛇の列をなす人々、この世の終わりと絶望し、すべてを諦め自暴自棄に陥る人々があちこちで騒ぎだしている。目前に迫った戦争という災禍に、今までの平和なバラケの面影はなかった。

「トマさんは、どうするんですか?」

すっかり肩を落とし、覇気を失ったトマに問いかける。

「俺か?かみさんたちはもう逃がしたよ」

「え?」

家庭好きで、いつも奥さんを大事にしていたトマからの予想外の返答に言葉が詰まる。

「俺には他に行くところはないしな。お前の親父には世話になったし、この町以外に生きる術を知らない。それに俺はお前にとんでもないことをしてしまった。だから俺は、たった一人じゃ何も変わらないかもしれないが、この町の為に、いや、俺の大切な人たちのために戦うよ」

「まさか志願兵に……?」

「あぁ、さっきここに来る前に行ってきた」

トマの目に希望の光は感じられない。命を投げ捨てる覚悟と、またどうしようもない諦観だけが彼の目に宿っている。

「そう……」

「馬鹿ね」

背後から腕を組み、怪訝な表情を浮かべるエマリーの声が響いた。

「戦争で命を落として何になるというの?死に急いでも何もいいことはない。残されるのは苦痛だけよ」

「あぁわかってる。そんなことはわかってる。かみさんにもそれはもう散々に言われたよ。でも、俺がイヴや、こいつの親父に償う方法なんてもうこれ以外にないんだ」

「それは気にしないでって……」

「気にしないわけにはいかねぇよ。お前の未来を奪ったのも、お前の家族に、俺の恩人である親方や、シエルさんに悲しい思いさせたのも俺なんだ。だから俺は、少しでもこの町を……お前らを守るために、命を使いたいんだよ」

固く握られた右の拳は、腰のあたりで小さく震えていた。


 それから一週間あまりして、バラケの町には多くの兵隊や兵器の類がなだれ込んだ。エルブライト王国もこのバラケの町を開戦の地に選んだらしい。多くの正規軍が流れ込み、反対に町の人々の数は減っていった。町のあちこちには市街戦に備えた銃器やバリケードが設けられ、無視することのできないもの悲しさが立ち込めている。それと同時に町では残った町民に対して徴兵が始まった。男は兵役、女は炊飯・衛生兵・工女として。老人と子供たちは疎開を余儀なくされた。次第に町から普通の人々の姿はなくなり、皆が軍服を身にまとい、町には活気と明るさあふれる声から緊張感あふれる声高な命令が響き渡った。歩け、進め、止まれ。町には訓練に明け暮れる軍隊の人々の声だけが響いていた。しかし不思議と、この森に兵士たちが入ってくることは一度もなかった。エマリーの言葉を借りれば、森が守ってくれているのだろうか。それともこんなところにある屋敷に人なんて住んでいるはずがないと、たかをくくっているのだろうか。日々兵士たちの数が多くなる。次第に町全体を把握するために町のあちらこちらを歩き、計測している姿が見えるようになった。いつものごとくやってきた母によれば、不思議とこの森のあたりで兵士を見ることはないらしい。本当に森が守ってくれているのかもしれないわね。と無理に明るい冗談を語っていた。

 空が淡い茜色に染まり、街中の行軍の音も遠くへ去っていった頃、屋敷の扉を叩く音が唐突に屋敷内に響いた。先日母がやってきてからまだそんなに経っていない。両親やトマが来るタイミングではない。ということは、とうとう徴兵か?とうとうここまで?恐る恐る階段を下りた。閉められた扉の前からエマリーがこちらをちらと見る。言葉を交わさずとも、姿を隠していろ。ということは理解できた。ちょうど階段が折れ下からは見えない死角に座り、成り行きに耳をそばだてる。

「はい、どなたでしょう」

努めて冷静に出したエマリーの声に、慣れ親しんだ声が返ってきた。

「ロットです。イヴに話があって参りました」

驚きに背を押され体が浮き立つ。開かれた扉の先には父が一人で立っていた。

「やけに急ですね」

「ちと急ぎ伝えないといけないことがありまして」

「ここで話すことでもないでしょうから、どうぞ」

半身で退いたエマリーの前を父が通り過ぎる。その表情には何とも言い難い心情が現れていた。その表情にイヴは何も言うことができない。

 食卓に三人、エマリーの紅茶を待って腰かける。気まずい空気に紅茶が進む。

「それで話というのは?お邪魔でしたら私は部屋に戻りますから」

「いえ、エマリーさんにも、聞いておいてほしいのです」

「私に?」

「えぇ。イヴに関わることですし、あなたにはイヴを守っていただいている。だからあなたにも知っておいていただきたい」

「それは良いですが……」

エマリーの言葉を脇にロットがイヴに向き直る。

「徴兵令のことは、知っているな」

空気がぴり付いた。エマリーも、イヴも、一番恐れていた単語が、ロットの口をついて出た。

「う、うん」

「昨日、うちにも届いた」

ジャケットの内ポケットから半分に折られた封筒が差し出される。差し出す手からは懐かしい我が家の香りがした。

「召集令状……」

「あぁ。シエルはもともと隣町の工場勤務だから工女としての召集がかかった。対して俺は年齢的にも召集は免れちまった」

ほっと暖かい感情が胸を流れる。その反面、母に対する別の感情も。

「……それで、どうするの?」

「うん、それでな、シエルと話したんだ。俺はシエルやお前を置いて町を出るようなことはしたくないし、それはシエルも変わらない。私たちの生きる場所はここだ。って、そう言ってたよ。だから話し合ったんだ。それで……」

息を吸って、そして吐いた。

「国防軍と話し合った。俺たちは離れて戦うつもりはない。どうせ死ぬなら、一緒に死にたい。だから、家を前線の治療所にすることにした。この町を守る人々を、助けるために」

「うちを?」

「家って言っても工房と一階だけだがな。それでも十分な広さがある。それに敷地だって、家の周りにテントでも張れば十分だ。国防軍も治療所の候補地を探していたらしくて、意外と快諾してくれたよ。医者や治療できる人員は派遣してくれるそうだ」

「……逃げないの?」

エマリーの視線がこちらに向けられた。そして、父へ。

「……あぁ。お前だけじゃない。俺だって今日まで、ここで生まれ育ったんだ。この町を見捨てるつもりはない」

父の決意に、これ以上何も言うことはできなかった。何を言っても変わらない。父の決意は、その表情を見るまでもなく明らかだった。

「呆れた」

今までの記憶を漁っても思い出すことがないほど冷たい言葉が、その温度感をあらわにイヴの耳朶を掠めた。

「理解ができない。これは戦争よ。遊びじゃない。命のやり取り。今ならまだ妻も、イヴも連れて逃げることもできる。なのに、この町に残るっていうの?」

静かな声の中に確かに燃え上がる怒り。エマリーの激情が部屋を満たした。言葉を出すこともはばかられる。ただ父の返答を待つしかない。じっと父を見つめた。

「私の町は……ここなんです」

重い口を開き。それだけをはっきりと言った。

 エマリーがため息とともに背もたれに体を預けるのと同時に、父は胸元の内ポケットに手を入れた。クシャッと紙を握る音がする。その姿勢のまま、父は止まった。わずかに動き出した右手は、上着の影から引き抜かれつつ、わずかに震えている。イヴはすべてを察した。

 机の上に置かれた茶色い封筒。中央に堂々と、赤いインクで「通達」と印が押されている。封を閉じた蝋には見まがうはずもない、王国の蝋印が浮き立っている。

「僕にも……」

「あぁ、徴兵の通達だ」

父も、イヴも黙ったまま動かない。お互いに、次の言葉を探している。とうとう来てしまった。そんな思いと、むしろこれですっきりまとまったような、腑に落ちた感じさえも感じていた。あの日、ルイに問いかけられてから、覚悟は決まっていたのかもしれない。

「イヴ、よく聞け」

震える拳を握り、大きく息を吸い、吐く。肺に残った汚れた空気をすべて吐き出し、体の内側に新鮮で清らかな空気を取り入れる。父は口を開いた。

「これは、断れるものではない。断れば間違いなく、重い罰が課される。……国家反逆罪に問われるかもしれない」

エマリーが何を言うのかと、背を預けたままじっと父を見つめている。

「でも、お前は今、家にいない。もう何か月も、ずっと。だから、エマリーさんの言う通り、お前はまだ逃げることができる。仕事を得ちまった俺らは無理でも、お前だけは逃げても顔が割れることも、名を隠せば気取られることもない。今ならまだ、逃げることができる……」

最後の一声が、のどの奥に引っかかっている。吐き出そうにも吐き出せない。吐き出したら、もうそこで、親子が終わってしまうのではないか。でも言わなければ、イヴを守ることはできないし、何より後悔しか生まれない。ロットの葛藤が、イヴにはわかる。

「僕は」

自分でも驚くほど、すっと。驚くほどはっきりと、声が出た。しっかりと父を見つめ、言葉を紡いだ。言葉が口をつくままに。

「僕は逃げない。僕が逃げるなら、父さんと、母さんと、トマさんと、それにエマリーさんも。みんな一緒だ。みんなで逃げる。僕以外誰も逃げない、逃げられない。このまま家族がバラバラで、それで生き延びても死んでも死にきれない。あの時逃げなければって後悔が絶対にやってくる。そんなのはごめんだ。だったら僕は、父さんたちと一緒に、この町で戦う」

父は泣き出しそうな、悔しそうな、奥底に芽生えた嬉しさから目を背けるような複雑な表情を浮かべている。

「そうか……」

「馬鹿なんじゃないの!」

父とイヴの感動の雰囲気は、エマリーが突然発し、二人の間に響いた声と、机をたたく音で打ち壊された。

「あなたたちは戦争がどんなものかわかってない。だからそんなことが言えるのよ!戦争は醜く、残酷で、戦ったとて何が残るわけでもない。残るのは後悔だけ。自らの命を無為に使い、すり減らし、それで得られるものなんて、下々の私たちには何もない。戦争で利益を得るのは国の高官たちだけ。そんな奴らのために、命を懸けるなんて、どうかしてるわかってるでしょう?この町の軍隊なんてすぐに壊滅する。そうなれば、たとえ命令に背いて逃げても、誰にも咎められることはない。なのになんで!」

矢継ぎ早に吐き出した言葉にエマリーの肩が揺れる。固く握られた拳は机に押し付けられ、美しい艶を放つ黒髪は魔女のように彼女の眼前に垂れている。胸に下げられたブローチを左の手で固く握りしめている。もう一方の握らられた拳は震え、彼女の抑えがたい心情が空気を震わせている。見たこともない剣幕に、イヴも父も動揺し、言葉が喉を通らない、いや、言葉自体が浮き上がってこなかった。

「エマリーさん」

沈黙を破ったのは父だった。

「お心遣い、感謝いたします。ただ、私と妻は、もう逃れることができません。これで逃れたら、それこそ反逆者の烙印を押されてしまう。仮にこの国が戦争に負けるとしても、息子にまでその烙印は押し付けられない。ここで命が果てるかもしれない。そのうえで、妻と私で下した決断なんです。ただ、イヴはまだ悩める。徴兵の書類にも即日の召集ではなく、四日以内の召集となっている。今ならまだ逃げられる。エマリーさん、もしイヴの心が変わったら、こいつを逃がしてやってください」


 扉を抜けた父は、一度こちらに向き直り、深々と頭を下げた。

「エマリーさん、イヴ、お互いこれが最後になるかもしれないが、どうにか生き残ろう。そしたらまた、家具でも直しに来るよ」

別れ際に父と抱擁を交わした。父の大きな体に包まれるのは、本当に久しぶりだった。この温もりを忘れまいと心に誓い、見えなくなるまで父の背中を見送った。裏庭に佇むイヴの横には、エマリーが腕を組んで立っていた。

「行かないの?」

去り行く父を見据えたまま、問いかけた。

「僕がいる場所はあっちじゃない」

「素敵な家があるじゃない」

「そうですけど、今僕が向こうに戻ったら、なんというか、父や母の決意を無駄にしてしまう気がするんです」

「……馬鹿ね」

「馬鹿です」

父が見えなくなり、イヴが屋敷に戻ろうとするのを、彼女は呼び止めた。

「イヴ、見なさい」

彼女の視線を追う。その先には、屋敷裏のクレーター。

「戦争とは、こういうものよ。いつまでたってもその跡が癒えることはない。土地だって、人の心だって。時間でも解決できないものがある。それはあなたが味わうかもしれないし、あなたが、直接じゃなくても、人に与えるかもしれない。それでも、行くの?」

さっきまでとは全く違う、穏やかな声でエマリーは問いかける。これが最後の警告だ。と、すぐに分かった。戦争は怖い。人を殺すことも、殺されることも。もしかしたら人じゃないものに殺されるのかもしれない。もしかしたら、家族を失うかもしれない。でも、もうここまで色々なものを失った。愛すべき町からはじき出され、家族と離れ、友も去った。それでも唯一残ったのは離れていても続く家族との絆と、こうして横に立ち、自らの心配をしてくれるエマリーだけ。

「僕はもう色んなものを失いました。でも、まだこの手に残ってくれているものがある。僕は、戦います。やったことはないけど。僕は、家族を守りたい。そしてあなたのことも、守りたい。……それが、僕がこの町で生きる理由だから」

本心だった。

 目を見開いた。同時に、この言葉を言う人間を止めても無駄だということは、痛いほどわかっていた。遠い過去の記憶が蘇る。止めたい。二度と目の前で悲劇を繰り返さないためにも、この子が戦争に行くなんてことは、なんとしても。それでも、私にはもう打つ手がない。同じ過ちは二度と繰り返さない。そう決めたはずなのに。

「好きにしなさい」

エマリーは長く美しいスカートを翻し、屋敷に戻っていった。残されたのはイヴと、無数に空いた戦争の残禍だけだった。湧き立とうとする鳥肌を必死にこらえ、踵を返した。

 自室にこもり、父が持ってきた徴兵令状に向き合う。日付は今日。配属先は「エルブライト王国軍 第六方面防衛隊」第六とはつまり、エルブライト王国の国境を内陸国家アースティンに面する東側から区切って六番目の防衛地点ということだ。つまり、このバラケの町に当たる。部屋には誰もいない。扉も締め切られた密室。今になってようやく、手が震えだした。ただ恐ろしい。人を殺すのも、殺されるのも。死ぬこと自体が恐ろしい。頬に涙が伝う。ただイヴの心はそう悪いものでもなかった。大好きな町から追い出され、ここにきて一年近く経とうとしている。家を出てから大きく波打つことのなかった感情が、動いている。まだ僕は、怖いと思うことが、泣くということができたんだ。そう再発見したことが嬉しくもあった。今まで状況に流されるだけだった自分が、ようやく自分の意思で、大切なものを守れるんだ。その心が、イヴを突き動かしていた。流れる涙をそのままに、鞄に荷物を詰め込んだ。死への恐怖、自らの手を血で染めることへの恐怖、そしてこの生活が終わる悲しさ、いろんな感情がまぜこぜになった涙が、一滴、また一滴、丁寧にたたみ、鞄に入れたシャツに染みを作っていた。

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