ラミア・クレマチスという令嬢Ⅰ
過去のラミアの話になります。
名もない少女はクレマチス伯爵家の人間でありながら、その存在を誰にも知られることなく生を受けた。
彼女には父と母、そして一人の兄がいた。父はクレマチス伯爵家当主のガルフ、兄は次期当主として育てられているライルという。しかし少女に家族と呼べる者は一人もおらず、母親に至っては顔すら覚えていなかった。
物心がつくよりも前から、少女の世界は暗く狭い地下室だけだった。冷たい石壁に囲まれた部屋の中には鉄格子が設けられ、その向こうから時折父や兄が姿を見せるものの少女に優しい言葉を掛けることはない。
一言も話さず、笑うことさえない彼女を父は気味が悪いと罵っていた。
兄のライルもまた父に倣い、少女を家族として扱おうとはしなかった。
食事を運んできたかと思えば、わざと皿を床にひっくり返し、散らばったものを拾って食べようとする少女を見て笑う。時には熱湯を浴びせられることもあれば、意味も分からない言葉を浴びせられながら殴られることもあった。
それでも少女は、自分が不幸だとは思わなかった。
鉄格子に囲まれた暗い部屋で眠り、決まった頃になると食事が運ばれてくる。父や兄が現れれば酷いことをされ、二人がいなくなれば再び静かな時間が訪れる。それが少女にとって生まれた時から続いてきた当たり前の日常であり、他の生き方を知らなかったのだ。
外へ出たいと思ったことさえない。そもそも、この部屋の外に何があるのかさえ知らないのだから、出たいという願いを抱きようがなかった。
幼い頃から繰り返し痛めつけられてきた為か、少女は身体に感じる痛みにも慣れていた。浴びせられる言葉も、意味を理解していない彼女にとってはただ耳に入っては消えていくノイズでしかない。
けれども、食事だけは違った。満足な量を与えられることなど一度もなかったからこそ、一日の中で食べ物が運ばれてくる時間だけは少女にとって何よりも待ち遠しいものになっていた。
だからこそ、それすら与えられなくなった時、少女は初めて自分から何かを求めたのだ。
何が父の気に障ったのかは分からない。そもそも少女には、食事を与えられなくなった理由を理解するだけの思考さえなかった。
一日が過ぎても、誰も来ない。
二日目になっても、鉄格子の向こうには何も置かれなかった。
それでも最初の内は、いつものようにその時が来るのを待っていた。膝を抱えて座り込み、物音が聞こえる度に顔を上げては誰も来ないことを確かめて再び俯く。そんなことを何度繰り返したのか分からなくなった頃には、空腹で身体を起こしていることさえ難しくなっていた。
腹が痛い。喉も渇いた。
身体に力が入らず、目を閉じればそのまま眠ってしまいそうになったものの、それでも本能だけが眠ってはいけない、このままでは死ぬと訴え続けていた。
少女が言葉を知っていた訳ではない。それでも身体は、自分に迫っているものが何なのかを理解していた。
やがて耐えきれなくなった少女は床を這い、鉄格子へと手を伸ばした。
細い腕で何度も揺らし、それでも動かなければ身体ごとぶつかる。途中からは格子へ噛み付き、どうにか向こう側へ出ようと必死にもがき続けた。
―――食べたい。
少女の頭にあるのは、それだけだった。
すると突然甲高い音が地下室に響き、それまでどれほど力を加えても動かなかった格子扉が僅かに開いた。少女は動きを止めて、目の前にできた隙間をじっと見つめていた。
偶然だったのか、それとも最初から鍵が掛かっていなかったのか、そんなことを考えられるだけの知識を少女は持っていない。ただ、扉が開いたという事実だけは理解できただけだった。
恐る恐る手を伸ばすと、格子扉は簡単に動いた。
少女は暫くその場から動かなかった。これまで一度として越えたことのない境界を前に、何かを警戒するように辺りを見回してから、やがて四つん這いのまま外へと出たのだ。
そこには、父や兄が自分の様子を見に来る時に使っていた階段があった。格子越しに何度も見たことはあったが、こうして遮るものもなく目にするのは初めてであり、少女は自然とそこへと向かった。
衰弱した身体では立って上ることさえ難しく、一段ずつ手を掛けながら這うように進んでいったものの何度か足を滑らせた。それでも止まることなく上り続けていると、やがて目の前を一枚の扉が塞ぐ。
少女は手を伸ばし、試しにそれを押してみた。
けれども開かず、もう一度押しても変わらなかったからか今度は扉に爪を立てた。硬い表面を引っ掻く音が響き、それでも何も起こらないと分かれば何度も同じ動きを繰り返す。
爪が傷み、指先に血が滲んでも止めなかった。この向こうに何があるのか少女は知らなかったが、それでも自分が食べ物を与えられる時には必ず誰かがこの扉を通ってくることだけは知っていたから。
ここを越えれば何かがある。ただそれだけを信じて、少女は扉を掻き続けた。
「おい!うるさいぞ!」
そうしていると突然扉が勢いよく開き、すぐ傍にいた少女の小さな身体は弾き飛ばされると、そのまま壁へと背中を打ち付けた。
聞き慣れた怒鳴り声が頭上から降ってくる――ライルだった。
格子に何度も身体をぶつけた音が聞こえていたのか、苛立った様子で階段を駆け下りていく。気が付いていないのか視線が少女のいる場所へと向けられることはなく、彼女が苦労して上ってきた階段を瞬く間に下りていった。
少女は床に倒れたまま開け放たれた扉を見ると、そこから光が差し込んでいた。
地下室にはなかった明るさに思わず目を細めながら、それでも少女は手を伸ばした。閉まりかけていた扉の隙間へ指を差し込み、残っている力を使って押し広げる。
扉の隙間から漏れていた光は、外へ出た途端に少女の視界を真っ白に染めた。薄暗い地下室で育った目にはあまりにも眩しくて、少女は思わず顔を伏せた。やがて恐る恐る瞼を開くと、そこには風に揺れる草木や遠くに建つ大きな屋敷、どこまでも続く空間が広がっていた。
頬を撫でる風も、鼻をくすぐる草木の匂いも知らないものばかりだったが、不思議と怖くはなかった。むしろ少女は空腹さえ忘れ、その場に座り込んだまま夢中になって辺りを見渡した。
これまで少女にとって世界とは、鉄格子に囲まれた薄暗い地下室だけだった。その外にこれほど広い場所があることなど知らなかったし、胸の奥に込み上げてくる感情を何と呼ぶのかも、まだ言葉を知らない彼女には分からなかった。
ただ、もっと見ていたいと思ったのだ。
「いない!?どこだ!どこに行った!」
地下からライルの怒声が響き、少女は咄嗟に近くの草むらへ身を隠した。言葉の意味は分からなくても、何度も自分を傷つけてきた人間の声だけは覚えている。
やがて扉から飛び出してきたライルは少女の姿がないことに気付くと、怒りと焦りを露わにしながら辺りを見回した。暫く周囲を探した後、今度は屋敷へと向かって走り去っていく。
少女は草むらの中で息を潜め、その姿が見えなくなるのを待ってから漸く身体を起こした。
ここに残れば、また捕まる。そんなことを考えられるほど少女は何も知らなかったが、戻ってはいけないことだけは本能で分かっていた。だから、先ほどまで目の前に広がっていた景色にもう一度目を向けると、そのまま屋敷とは反対の方向へ歩き始めたのだ。
初めこそ覚束なかった足取りは次第に速くなり、少女は生まれて初めてクレマチス家の敷地から外へ出た。何もかもが知らないものばかりだったが、不思議と足を止めようとは思わなかった。
しかし、何日も食事を与えられていない身体では長く歩けるはずもなく、やがて足がもつれ、そのまま道端へと倒れ込んだ。
もう起き上がる力さえ残っていなかった。空腹も殆ど感じなくなり、霞んでいく視界の中で少女はただぼんやりと目の前の景色を眺めていた。
「――大丈夫!?」
その時、どこかから幼い男の子の声が聞こえた。
これまで聞いてきた怒鳴り声とは違う、これまで一度も自分へ向けられたことのない優しい声だった。
何を言われたのか少女には分からない。それでも不思議と恐怖は感じず、近付いてくる小さな人影をぼんやりと見つめる。
少女はその声を聞きながら静かに意識を手放したのだった。
◆
次に少女が目を覚ました時、最初に目に入ったのは見知らぬ天井だった。
身体の下には柔らかな感触があり、頬に触れているものも地下室の冷たい床とはまるで違った。自分がどこにいるのか分からないまま瞬きを繰り返していると、すぐ傍から小さな声が聞こえてきた。
「……目が覚めた?」
少女がゆっくりと顔を動かすと、そこには整った服を身に纏った少年がいた。彼は少女が目を覚ましたことに気付くと安堵したように表情を緩め、少しだけ身を乗り出して顔を覗き込んできた。
「大丈夫?どこか痛いところはない?」
何を言われているのか分からない。少女はただ、少年の顔を見つめ返した。
「……聞こえてる?」
やはり答えない少女に、少年は困ったように眉を下げる。それでも苛立った様子はなく、どうすればいいのか考えるように少し黙った後、今度は一つずつ確かめるように尋ねた。
「話はできる?名前は?」
少女は何も答えなかった。
答えたくないのではない。少年が何を尋ねているのか、それ以前に彼が口にしているものが何なのかさえ理解できなかったのだ。
それでも、一つだけ分かることがあった。
この少年は、これまで自分の周りにいた人間とは違う。向けられる眼差しには怒りも嫌悪もなく、声を荒らげることもない。何かをされるのではないかと身構えていても、少年はただ心配そうにこちらを見つめているだけだった。
そのことが少女にはどうしようもなく不思議に思えて、胸の奥が次第に苦しくなり、やがて頬を温かなものが伝っていた。
「えっ」
少年が目を見開く。
少女自身にも何が起きているのか分からなかった。けれども一度流れ始めた涙は止まることなく、次から次へと頬を伝い、柔らかな寝具へと染み込んでいく。
「えっと……どうしよう。どこか痛いの?」
少年は明らかに慌てていた。自分が泣かせてしまったのではないかと思ったらしく、何度も少女と傍に控えていたメイドを見比べる。様子を暫く見ていたメイドは、やがて遠慮がちに口を開いた。
「もしかすると……言葉そのものを理解していないのではないでしょうか」
「言葉を?」
「はい。先ほどからお声を掛けても、返事をしないというより何を言われているのか分かっていないように見えます」
少年は驚いたように少女を見た後、傍にいたメイドと何かを話し始めた。当然ながら、まだ言葉を理解できない少女には二人が何を話しているのか分からず、ただ黙ってその様子を見つめることしかできない。
けれど、先ほどまで自分だけに向けられていた少年の視線がメイドへ移ってしまったことだけは、どうしてか妙に嫌だった。
二人が言葉を交わしている間、少女は少年の横顔をじっと見つめていた。自分には分からない言葉で話していることも、その相手が自分ではないことも気に入らず、胸の奥には先ほど涙を流した時とは違う苦しさが込み上げてくる。
それが何という感情なのか少女はまだ知らない。ただ、もう一度こちらを見てほしいと思いながら、二人の話が終わるのを待ち続けた。
やがて少年は手近にあった紙とペンを用意すると、寝台の傍に置かれた椅子へと腰掛けた。少女が見つめる前で何かを書き、こちらへと差し出してくる。
恐る恐る受け取った紙には見たことのない形がいくつも並んでいた。何が書かれているのだろうと何度見返してみても、文字を知らない少女に分かる筈もない。
少年がわざわざ自分のために書いてくれたものなのに、その意味を理解できない。それがどうしてか悲しくて俯きかけると、そんな少女の様子に気付いた少年が手元の紙を指差した。
「アバンリッシュ」
少女が顔を上げると、少年は自分の胸元へ手を当てて、今度は一音ずつ聞かせるようにゆっくりと繰り返した。
「アバンリッシュ。僕の名前だよ」
少女は手渡された紙へと視線を落とし、そこに並んでいる文字をじっと見つめた。まだ読むことはできなかったが、目の前の少年が何度も口にするその音だけは不思議と頭から離れなかった。
「ア……バ、ン……」
ぎこちなく唇を動かすと、少年の目が大きく開かれる。その反応を見た少女はもう一度紙へ目を落とし、覚えたばかりの音を一つずつ確かめるように口にした。
「アバン……リッシュ」
初めて、自分の口から意味を持った言葉が出た。
「そう。アバンリッシュ」
嬉しそうに笑った少年を見て、少女の口元にも自然と笑みが浮かぶ。何故笑うのかも、この胸に広がる温かさを何と呼ぶのかもまだ知らなかったが、彼が笑っていると自分も同じように笑いたくなったのだ。
少女は渡された紙を胸元へと抱き寄せた。皺になってしまうことなど知らず、大切なものを誰にも取られないようにするかのように両腕で強く抱き締める。
そんな少女を見て、アバンリッシュは少し困ったように、それでも嬉しそうに笑っていた。
―――それが、少女とアバンリッシュの出会いだった。
◆
それから暫くの間、少女はアバンリッシュの暮らすナイーゼ公爵家で保護されることになった。
もっとも、どこの誰とも分からない少女を公爵家で暮らさせることにアバンリッシュの両親が無条件で賛成したわけではない。
身元が判明するまでの間だけであること。少女の存在を不用意に外部へ知られないようにすること。そして、保護した以上はアバンリッシュ自身も最後まで責任を持つこと。いくつかの条件を出されたものの、それでもアバンリッシュが頼み込んだことで少女はナイーゼ家に置いてもらえることになったのだ。
少女に与えられたのは、屋敷の中でも人目につきにくい場所にある一室だった。それでも地下室とは比べものにならないほど明るく、清潔で、寝台もあれば窓もあり、決まったメイドが世話をしてくれ、食事も毎日欠かさず部屋まで運ばれてきた。
初めてまともな料理を目にした時、少女は暫く手を伸ばせなかった。皿の上に並んでいるものが食べ物だと理解できなかったのだ。
恐る恐る口へと運び、それが食べられるものだと分かった途端に少女は夢中になって料理へ手を伸ばし始めた。
食器の使い方など知らない。手掴みで口へ運び、服を汚しながら次々と食べていく姿を見ても、誰も皿を取り上げなかった。
怒鳴られることも、殴られることもない。それどころか、傍にいたメイドは少女が喉を詰まらせないよう水を用意し、もう少しゆっくり食べるよう優しく声を掛けてくれた。
少女にとっては、それすらも理解できないことだった。
食べ物とは、床に撒かれたものを誰かに取られる前に口へと入れるものだった。次に何時与えられるか分からない以上、目の前にあるものは全て食べておかなければならなかったのだ。
そんな少女も、毎日決まった時間に食事が運ばれてくる生活を続けるうちに、目の前のものを慌てて食べ尽くすことはなくなっていった。
身体も少しずつ健康を取り戻し、痩せ細っていた頬には肉がついて荒れていた髪にも艶が戻っていく。食器の使い方や風呂の入り方といったそれまで知る機会すらなかったこともメイドから教わり、殆ど動かなかった表情にも年相応の感情が見えるようになった。
アバンリッシュも時間を見つけては少女の部屋を訪れ、物の名前や文字の読み方を一つずつ教えてくれた。少女が理解できなくても急かすことはなく、分かるまで何度でも繰り返してくれる彼から学ぶうちに、最初に覚えた「アバンリッシュ」という名前しか知らなかった少女にも、少しずつ多くの言葉が身についていった。
それまで少女の中に存在していながら名前を持たなかった感情にも、やがて一つずつ言葉が名付けられた。嬉しい、悲しい、寂しい、楽しい――そうした言葉を覚えるたびに、自分の胸の内にあるものが何なのかも少しずつ分かるようになっていったのだ。アバンリッシュが来れば嬉しくて、帰ってしまえば寂しい。翌日も来ると聞けば楽しみになり、姿を見つけただけで自然と笑みが浮かぶ。
そうして自分の感情を知っていくうちに、少女はいつしかアバンリッシュが他の誰よりも特別な存在になっていることにも気付いていった。
彼が自分のために時間を使ってくれることが嬉しかった。自分に笑い掛けてくれることも、何もなかった世界に次々と新しいものを与えてくれることも、その全てが少女にはかけがえのないものだった。
やがて少女は、それが恋と呼ばれる感情なのだということまで知った。
初めて覚えた人の名前も、初めて向けられた優しさも、初めて知った温もりも、そして初めて抱いた恋心さえも、全てアバンリッシュから与えられたものだった。
だから少女は、ずっとこの生活が続くのだと思っていたのだ。アバンリッシュの傍にいれば、もう暗い地下室へ戻ることも、食事を奪われることも、殴られることもなく、これから先も彼が守ってくれるのだと何の疑いもなく信じていたのだ。
けれど、その日々は少女が思っていたよりもずっと早く終わりを迎えた。




