7.向けられた刃
翌日の午後、リリアはアルテミスと共に庭へと出ていた。
朝から穏やかな天気が続いており、空には薄い雲が浮かんでいるものの雨の気配はない。夏の盛りほど強くない日差しが庭へ降り注ぎ、手入れの行き届いた花壇では色とりどりの花が風に揺れていた。
こうして母と二人で庭を歩くことも、今ではすっかり珍しいことではなくなっている。
「今年も綺麗に咲きましたね」
アルテミスが足を緩めた先には、淡い色の花がいくつも咲いていた。リリアも隣で立ち止まり、その中でも一際大きく花開いた一輪へと目を向ける。
「去年より増えている気がします」
「庭師が植える場所を少し変えたそうよ。日当たりはこちらの方がいいみたい」
「お母様、随分と詳しくなりましたね」
「毎日のように庭を歩いていれば、嫌でも覚えるわ」
そう答えたアルテミスが僅かに笑ったため、リリアもつられるように口元を緩めた。
以前ならば、母が庭の花について何を知っているのかなど考える余裕すらなかった。そもそも二人で庭を歩くこと自体がなく、同じ屋敷で暮らしていながら互いがどのように一日を過ごしているのかさえ殆ど知らなかったのだ。今では母が朝食の後に庭に出ることが多いことも、気に入った花があれば部屋に飾らせていることも知っている。アルテミスの方もリリアがどの菓子を好み、どの本をよく読み、何をして過ごしているのか以前よりずっと知るようになった。
四年余りという時間の中で積み重ねてきたものは、どれも一度目の人生にはなかったものばかりだったのだ。
「リア」
「はい?」
「少し背が伸びたのではない?」
突然そんなことを言われ、リリアは自分の身体へと視線を落とした。
「そうでしょうか」
「ええ。最近、新しいドレスをお願いしていたでしょう?」
「あれは袖が短くなっていただけです」
「それを背が伸びたというのよ」
可笑しそうに笑われてしまい、リリアもそれ以上は言い返さなかった。こんな何でもない会話ができるようになるまで随分と時間が掛かったが、それでよかったのだとリリアは思った。
急に何もかもが変わったわけではなく、互いに距離の取り方さえ分からなかったところから少しずつ言葉を交わし、四年余りを掛けて今の関係になったからこそ、リリアもようやく母と過ごす時間を当たり前のものとして受け入れられるようになっていたのだ。
「そういえば、お父様は今夜も早く戻るのでしょうか」
「朝はそのつもりだと言っていたけれど、どうかしら。昨日も同じことを言っていたのに結局少し遅かったもの」
「それでも以前よりは早いですよ」
「リアはすぐあの人の味方をするのね」
「味方をしたつもりはありません」
「どうだか」
楽しそうに笑うアルテミスに何も言い返さず、リリアはその横顔を静かに見つめた。一度目の人生では母とこうして冗談を交わしながら庭を歩くことなど一度もなかった。それが今では特別なことでもなくなり、二人で過ごす時間もすっかり日常の一部になっている。
以前ならば、ふとした瞬間に一度目の人生との違いを意識することも多かったが、最近ではそれも随分と減っていた。
「どうしたの?」
視線に気付いたアルテミスが不思議そうに首を傾げ、リリアは小さく笑った。
「何でもありません」
「そう?」
「はい。そろそろ戻りましょうか」
「もう少しだけ歩かない?今日は風も気持ちいいもの」
「では、もう少しだけ」
二人は再び歩き始める。庭の奥へと進んでいくと屋敷から少しずつ距離が離れ、周囲を囲む植え込みも高くなっていった。けれど人目がなくなるような場所ではなく、少し離れたところでは庭師が作業をしている姿も見えていた。
やがて道が二つに分かれる場所まで来たところで、前方から一人の使用人が歩いてくるのが見えた。リリアは何気なくそちらへと目を向け、僅かに足を緩める。
最初はアリーかと思った。よく似た顔立ちに同じ使用人服まで重なれば、離れた場所から双子を見分けるのは難しいからだ。けれど、距離が縮まるにつれて歩き方や纏う雰囲気の違いが分かり、リリアは相手がアリーではないことに気付いた。
ノーマだった。昨日まで何度も名前を目にし、カルロとも話していた相手だけに、リリアは無意識にその姿を目で追ってしまう。ノーマも二人に気付いたらしく、少し離れたところで足を止めて頭を下げた。
「奥様、お嬢様」
「どうしたの?」
アルテミスが尋ねると、ノーマは顔を上げた。
「執事から、奥様に伝えておくよう頼まれたことがございまして。こちらへいらっしゃると伺ったものですから」
「私に?」
「はい」
アルテミスが僅かに首を傾げる傍らで、リリアはノーマへと視線を向けた。
「どのような伝言ですか?」
二度確認しても不審な動きは見つからなかったとはいえ、つい昨日まで調べていた相手である。たまたま母へ用があるだけだろうと思いながらも、リリアは何も気にせず聞き流すことができなかった。
「それが――」
ノーマが二人の前までゆっくりと歩み寄りながら、エプロンの辺りへと手を伸ばす。何を取り出そうとしているのだろうとリリアが思った、その直後だった。
「危ない!!」
背後から聞き覚えのある声が響き、振り返る間もなく何者かがリリアのすぐ横を勢いよく駆け抜け、次の瞬間アルテミスの身体が大きくよろめく。そのまま芝生の上へと倒れ込んだ。
「お母様!」
リリアは反射的に手を伸ばした。
「いた……何を――」
アルテミス自身も何が起こったのか理解できていないらしく、身体を起こしながら呆然と前を見ている。リリアは母を突き飛ばした人物へと顔を向け、どうしてこんなことをしたのかと問い詰めようとしたものの、その姿が目に入った途端に言葉を失った。
「殿下……?」
カルロだった。だがリリアたちのことはまるで眼中にないようで、僅かに身体を屈めたまま目の前に立っていたノーマの腕を強く掴んでいた。
なぜ二人がそのような状態になっているのか理解できずにいたリリアだったが、先ほどまでなかったはずの刃物がノーマの手に握られていることに気付き、ゆっくりと刃先を辿った。
瞬間、リリアは息を呑む。カルロの脇腹へと刃が深く突き立っていたのだ。
「――殿下!」
リリアの声が庭に響いた。思わず駆け寄ろうとしたものの、カルロの脇腹へ突き立った刃が目に入り咄嗟に足が止まる。何をすればいいのか分からないまま立ち尽くすリリアの前で、カルロは苦しそうに息を吐いていたもののノーマの手首を掴んだまま離そうとはしなかった。
「殿下、今――」
「来るな、リア!」
怒声にも似た声で制止され、伸ばしかけた手が止まる。カルロの服には赤い染みがじわじわと広がっていたが、ノーマは彼を気遣うどころか突き立てた刃物を引き抜こうと腕に力を込めていた。
動きを察したカルロが掴んでいた手首を捻り上げ、ノーマの顔が痛みに歪む。けれど彼女は一向に力を緩めず、空いている手まで使ってカルロを振り払おうとした。
「離しなさい!」
ノーマが声を荒らげる。先ほどまでアルテミスたちに話し掛けていた使用人のものとは思えないほど鋭い声色だった。
「お前……何を……」
カルロは苦しそうに息を吐きながらも腕を離さずに、ノーマの身体を押し返した。刃が刺さったまま動いたせいか滲んでいた赤が一気に広がっていくのを見て、リリアは思わず駆け寄ろうとする。
「殿下、動いては駄目です!」
「駄目だ、来るな!」
「離せ!離しなさいよ!」
腕を押さえたまま身体ごと地面へと倒れ込んだカルロは、芝生の上でもつれながら逃れようとするノーマの腕を背中側に回すと、痛みに顔を歪めながらも体重を掛けて押さえ込んでいた。
「お母様、人を呼んでください!」
リリアの声に、呆然としていたアルテミスが我に返った。
「え、ええ!」
「騎士を!早く!」
急いで屋敷へと向かって走り出したアルテミスの背中を、地面に押さえ込まれたノーマが激しい形相で睨みつけた。
「待ちなさい!!」
今まで聞いたこともないような声を上げて必死に抵抗するも、カルロは決してその腕を離そうとはしなかった。
「あと少しだったのに……!」
あの刃が向かっていた先にはアルテミスがいた。カルロが母を突き飛ばしていなければ、今頃あれが誰の身体へ刺さっていたのか。それを理解した途端、リリアの身体からさっと血の気が引いた。
「どうして……」
震える声をどうにか絞り出しながら、リリアは目の前で暴れるノーマを見つめた。昨日まで何度調べても何一つ見つからなかったというのに、その人物が今、自分の目の前でアルテミスを殺そうとしたのだ。
「ノーマ……」
名前を呼ぶと、地面へ押さえ込まれていたノーマがリリアを見た。その目に浮かんでいたのは捕らえられたことへの怒りだけではない。向けられた視線には明らかな憎しみが滲んでおり、やがてその目は屋敷へと走っていくアルテミスの背中に向けられた。
目の前にいるノーマの顔を見つめた瞬間、リリアの脳裏を一度目の人生で目にした光景が過った。突然首元から血を流し崩れ落ちたアリーと、その背後で返り血を浴びながら自分を見下ろしていた一人のメイドの姿を。
あの時はリリア自身も錯乱しており、あまりの衝撃にあの日の記憶を長いこと頭の隅へと押しやっていた。けれど、目の前にいるノーマを見つめているうちに、曖昧になっていた記憶が少しずつ鮮明になっていく。
あの日、アリーの背後に立っていたのも、この顔――ノーマだったのだ。
「貴女だったのね、ノーマ」
今になって思い返せば、あの日アリーの背後に立っていた女の顔も、目の前にいるノーマと確かに同じだった。一度目の人生でアリーを刺したのも彼女だったのだ。
どうしてこんなことをしたのか、何のためにアリーを殺したのか。聞きたいことはいくつも浮かんだものの、それより先に視界に映った赤い染みがリリアを現実へと引き戻した。
「殿下!」
地面へ膝をつきかけたリリアを、カルロが顔を歪めながら制した。
「大丈夫、だから……」
「大丈夫なわけがないでしょう!」
思わず声が強くなる。カルロの服には明らかに大丈夫とは言えないほど血が広がっているというのに、それでも彼はノーマの腕を押さえ続けていた。
「どうして、ここに……」
リリアが尋ねると、カルロは傷口を押さえたまま浅く息を吐いた。
「用が……あって…」
それだけ答えるのも辛いのか、カルロは顔を歪める。
「もう喋らないでください。もうすぐ騎士が来ますから」
リリアはそれ以上尋ねず、傷口を押さえるカルロの手元へと視線を落とした。
直後、屋敷の方から複数の足音が近付いてきた。アルテミスが数人の騎士を連れて戻ってきたのだが、その後ろから少し遅れて一人の侍女も駆けてくる――アリーだった。
リリアの胸が強く締め付けられる。
「お嬢様!」
こちらへ駆け寄ろうとしたアリーは、地面へ押さえ込まれている人物を見た途端に足を止め、その顔を認めると信じられないものを見るように目を見開いた。
「ノーマ……?」
名前を呼ばれたノーマも双子の姉妹へ視線を向ける。
「貴女、何をしたの……?」
震える声で問い掛けられてもノーマは答えず、アリーから逃れるように顔を背けた。
騎士たちが駆け寄ると、カルロに代わってノーマの身体を押さえ、手にしていた刃物を取り上げる。そこでようやくカルロも力を抜いたが、身体を起こそうとした途端に大きくよろめいた。
「殿下!」
騎士の一人が慌ててその身体を支える。
「すぐに医師を呼べ!」
別の騎士が声を上げると、一人がすぐさま屋敷へと駆け出した。
カルロは何か言おうとしたものの、浅く息を吐いただけで言葉にはならない。片手で押さえた脇腹からは未だ血が滲み続けており、先ほどまでノーマを押さえ込んでいたこともあって顔からはすっかり血の気が失われていた。
一方、残った騎士たちはノーマの両腕を背中側へと回して、その場で拘束していた。先ほどまでの激しい抵抗が嘘のように大人しくなり、逃れようとする様子も見せない。最初から無事に逃げ切れるとは考えていなかったようにも見え、その態度がリリアには却って不気味に感じられた。
「ノーマ」
もう一度名前を呼ぶと、今度はノーマも顔を上げた。
「どうして、お母様を殺そうとしたのですか?」
問い掛けても答えは返ってこず、ノーマはリリアを軽く睨み付けたあと、隣にいるアルテミスへと視線を移した。先ほどまでの怒りが戻って来たのか、その表情からは殺意が滲み出ていた。
「ノーマ、答えて――」
「お嬢様、今はそれよりも殿下を!」
騎士の切迫した声に遮られ、リリアははっとしてカルロを振り返った。ノーマの身柄を騎士たちへ任せたことで緊張が途切れたのか、カルロは先ほどより明らかに苦しそうだった。
「その女は別室へ連れて行け。決して目を離すな」
騎士の一人がそう指示すると、ノーマを押さえていた二人がその身体を立ち上がらせる。
リリアには聞きたいことがいくつもあった。一度目の人生でアリーを刺し殺した人物と、今目の前でアルテミスを殺そうとした人物が同じだと分かった以上、できることなら今すぐにでも理由を問い質したかった。
しかし、目の前で血を流し続けているカルロの姿を見れば、今はそれどころではない。
「……分かりました」
漸くそう答えたところで、リリアはアリーへと目を向けた。アリーは未だ信じられないものを見るように、騎士たちに拘束された姉妹の有様をじっと見つめている。
アリーの表情を目にした途端、リリアの胸にチクリと痛みが走った。
一度目の人生ではノーマに刺されたアリーが自身の目の前で命を落とした。そして今度は同じ人間がアルテミスへと刃を向け、身代わりとなったカルロが傷を負っている。
昨日まで何度調べても決定的なものを掴むことのできなかった相手が今こうして拘束され、目の前にいる事だけを考えれば、長く追い続けてきたものに漸く手が届いたと言えるのかもしれない。
けれど、リリアにはノーマ一人を捕らえたところで全てが終わるとは到底思えなかった。ノーマがアルテミスを殺そうとした理由も、一度目の人生でアリーを手に掛けた理由も未だ分からない。それどころか、これまで何年も不審な動きを見せることなく屋敷で過ごしながら、何故今になって突然アルテミスに刃を向けたのかさえ分からないのだ。
リリアが真っ先に思い浮かべたのはラミアだった。これまで何年調べても決定的な証拠を見つけることはできなかったが、ノーマがアルテミスに刃を向けた以上、彼女一人の行動だと決め付けるわけにはいかず、長く疑い続けてきたラミアとの関係を改めて確かめる必要があった。
聞かなければならないことが余りにも多い。
リリアは拘束されたノーマから目を逸らさずに、今度こそ何一つ見落としてはならないと強く思ったのだった。




