4.空白の時間
それから三日後、ナイーゼ家では普段と何ら変わらない朝を迎えていた。
朝食を終えたアバンリッシュはいつもの時間に執務室へと向かい、アルテミスも午前中は自室で手紙の返事を書く予定だと話していた。リリアもまた食後しばらくは母と過ごしたものの、昼前には自室に戻り、アリーが淹れた紅茶を飲みながら読みかけの本を開いていた。
少なくとも表向きには何一つ変わったことはないが、今日屋敷の中では一つだけ存在しない予定が動き始めていた。
アルテミスが三日後ある人物と屋敷の中で密かに会う。その人物は凡そ4年前に起きたある出来事についてアルテミスへ直接話したいことがあると申し出ており、人目を避けるため面会については使用人たちにも広く知らせないでいよう。――数日前にカルロたちと話し合った末にノーマへと伝えることになった偽の情報である。
勿論そのような人物は存在しないし、時期にも敢えて明確な意味は持たせていなかった。ラミアやアルテミスの名を直接結び付けるような内容にしてしまえば、それを知った者がどのような行動へと出るのか予測できず、かえって危険を招く可能性があるためだ。
もしノーマが誰かへ情報を渡しているのなら無視するには少し気になる程度の内容であり、そして今朝その情報をノーマだけが知る状況が作られた。
簡単な話だ。アルテミスの予定を管理している使用人が別の仕事で席を外している間に一番上に面会予定の書かれた紙を紛れ込ませ、届けられた書類を一時的に預かったノーマがその紙を偶然目にする。ただそれだけの至極短い出来事だったという。
当然、ノーマへは何も尋ねていないし尋ねられてもいない。彼女が紙に視線をやったことさえ誰も気付いていないことになっている。
そんなことを考えていると同じページをもう三度は読んでいたことに気付き、リリアは小さく息を吐いて本を閉じた。
「お嬢様?」
傍らに控えていたアリーが不思議そうにこちらを見る。
「何でもないわ。少し集中できなくて」
「でしたら、お茶を淹れ直しましょうか?」
「いいえ、大丈夫よ」
答えながらリリアは無意識のうちに扉へと視線を向けそうになって、途中で止めた。今まで通りにしていればいい。カルロからもそう言われているし、実際特に重要な予定もないのに落ち着きのない方が妙である。
ノーマへ急に接触する必要もなければ自分で様子を見に行く必要もない。むしろ今までほとんど個人的に話すことのなかったにも関わらず突然リリアがノーマを呼び出せば、それだけで何かを察せられる可能性があるし、何よりまだ彼女が何かをしていると決まったわけではないのだ。
「アリー」
「はい」
名前を呼んでから、リリアは一瞬だけ言葉を止めた。ノーマについて尋ねようとしていたことに気付いたからだ。
「……いえ、やっぱり何でもないわ」
「そうですか?」
「ええ」
アリーは僅かに首を傾げたものの、それ以上尋ねることなく空になりかけていたカップへと紅茶を注いだ。その横顔を眺めながら、リリアは胸の奥に生じた落ち着かなさを押し込めた。
アリーには、今回のことを何も話していない。双子の片割れであるノーマについて調べているなどと聞かされれば、どれほど普段通りに振る舞おうとしても何かしら意識してしまうかもしれない。それに、ノーマが何もしていなかった場合、余計な疑念だけを姉妹の間へ持ち込むことになる。
だから今は、知らない方がいい。そう理解しているのに、アリーを前にすると僅かな罪悪感のようなものを覚えてしまった。
結局その日は何も起こらなかった。
少なくともリリアが知る限りではノーマが普段と大きく異なる行動を取ったという話はなく、屋敷の中でも変わった出来事は起きなかった。そもそも今回の作戦について知っている者はごく僅かであり、ノーマを四六時中見張っていたわけでもないのだから当然といえば当然なのかもしれない。
カルロたちが確認することにしたのもノーマの行動そのものではなく、偽の情報を知った後も彼女が普段通り与えられた仕事をこなしていたのか。その程度である。
露骨に後をつければ何も知らない使用人であった場合には無用な疑いを向けることになる上に、本当に何かを隠しているのなら、こちらが警戒していることを自ら教えるようなものだった。だから屋敷の中ではアバンリッシュが事情を知らせたごく一部の者だけが、ノーマやその周りの者の仕事や引き継ぎに不自然なところがなかったかを後から確認することにのみ留めていた。
カルロの騎士たちについても同じで、当然彼らがノーマの後を追うことはなく、これまでの調査と同様に屋敷の外側へと注意を向け、何か目立った変化があった場合にだけ拾えるようにしていた。
だからか、その日のうちに報告されたことは何もなかったし、翌日になっても変わらず、さらに一日が過ぎても、偽の予定を知らせたことによって何かが起きたようには見えなかった。
もしかすると本当に何もなかったのかもしれない。そう思い始めた四日目の午後、リリアはアバンリッシュの執務室へと呼ばれた。
部屋へ入ると父だけではなくカルロも待っており、リリアは二人の表情を確かめながら向かいの椅子へと腰を下ろした。
「何か分かったのですか?」
「大したことではないよ」
そう前置きしたのはカルロだった。
「少なくとも、ノーマが誰かと接触したとか、屋敷の外で何かが起きたという報告はない」
「では、何もなかったのですか?」
「そうかもしれない。ただ、一つだけ確認できない時間があった」
「確認できない時間?」
「ああ。例の情報を知った日のことなんだけど、ノーマはその後、別の使用人と一緒に客室の整理をすることになっていたらしい」
そこまでは何らおかしな話ではなく、リリアは黙って続きを待った。
「ところが、ノーマが来たのは予定より少し遅かったそうだ」
「どれくらいですか?」
「正確な時間までは分からないよ。時計を見ながら待っていたわけではないからね。ただ、先に仕事を始めていた使用人によると、しばらくしてからノーマが来たらしい」
「その間どこにいたのですか?」
「分からない」
リリアは僅かに眉を寄せた。
「…誰も見ていなかったのですか?」
「見ていないというより、最初から見張っていないからね」
カルロはそう答えると、机の上に置かれた書類へと視線を落とした。
「ノーマが例の情報を知った後、次の仕事に向かうまでの行動を追っていた者はいない。だから、途中で誰かに呼び止められたのかもしれないし、何か別の用事を思い出したのかもしれない。単に少し休んでいただけという可能性だってある」
「では、その時間に何をしていたのかは……」
「何も分からない。後から確認できたのは、次の仕事へ来るのが少し遅かったということだけだよ」
それだけならば、普段であれば誰も気に留めないだろう。
使用人が一日の全てを決められた時刻通りに動いているわけではない。別の者から声を掛けられることもあれば、急な用事を頼まれることもあるのだから、次の仕事へ僅かに遅れて現れたというだけで疑う方がおかしい。
「……それだけですか?」
「ああ。それだけだよ」
カルロは迷いなく認めた。
「だから、今のところノーマを疑う材料にはならない」
「では、どうして私を?」
「今回だけなら何の意味もないからこそ、もう一度確かめたいと思っている」
リリアはその言葉で意図を察した。
「また別の情報を?」
「ああ。ただし、同じやり方はしない。内容も知ることになる状況も変えるつもりだ」
「それで、また同じようなことが起きるかを見るのですね」
「正確には、同じことが起きたかどうかを後から確認する、かな」
カルロは僅かに言い直した。
「次もノーマを見張るつもりはないよ。今回と同じように普段通り仕事をしてもらって、その後で必要なところだけ確認する。それで何もなければ、今回のことも偶然だった可能性が高くなる」
「もし、また情報を知った後だけ所在の分からない時間ができたら?」
「その時は、初めて偶然ではない可能性を考えればいい」
リリアはすぐには答えなかった。
一度ならば幾らでも理由を考えられるし、ましてやノーマがどこに行ったのかさえ分かっていないのだから、偽の情報を知ったことと僅かに仕事へ遅れたことを結び付ける根拠は何もない。
けれども、条件を変えて同じことを試し、その時にも似た空白の時間が生まれたのなら話は少しばかり変わってくる。
「……分かりました」
暫く考えた後、リリアは小さく頷いた。
「もう一度だけ、確かめてみましょう」
「ああ」
カルロも短く答えた。
ノーマが何をしていたのかは、まだ分からない。
次の仕事へ向かうまでに生じた僅かな空白の時間にも何の意味を持たず、次は何も起こらないかもしれない。そうなれば今回のことも、偶然として片付けられる程度のものだったということになる。
それならば、それでいい。リリアはそう思いながらも、もう一度だけ記録へと視線を落とした。
それでも、どうしてあの情報を知った直後にだけノーマが何をしていたのか分からない時間が生まれたのだろう――答えのない疑問だけが小さな棘のように胸の奥へと残った。




