3.年月は流れ
あれから、四年余りの月日が流れた。
かつてのナイーゼ家でも家族の間に会話がなかったわけではない。ただ、その多くは予定の確認や必要な用件を伝えるためのもので、食卓を囲みながら他愛のない話に時間を費やすようなことはほとんどなかった。それが今では朝食の席で誰からともなく話題を持ち出し、気付けばその日の予定とは何の関係もない話をしていることさえ珍しくなくなっている。
「リア、今日は何か予定があるの?」
向かいに座るアルテミスから尋ねられ、リリアは手にしていたカップをソーサーへ戻してから小さく首を横に振った。
「いえ。今日は午後も屋敷にいるつもりです」
「そう。なら、久しぶりにゆっくり話せそうね」
そう言って微笑む母を見ながらリリアは僅かに目元を和らげた。
四年前であれば、こんなやり取りを当たり前のように交わせる日が来るなど想像することすらできなかっただろう。アルテミスはもう娘を前にしてどのように接すればよいのか分からないように視線を逸らすこともなければ、リリアも母から声を掛けられる度に裏に何か理由があるのではないかと身構えることはなくなっていた。
もちろん最初から何もかも上手くいったわけではない。互いに長い間距離を置いていたせいで二人きりになれば何を話せばよいのか分からなくなることもあったし、アルテミスが何気なく差し伸べた手にリリアが反射的に身体を強張らせてしまったことも一度や二度ではない。そのたびに無理に距離を縮めようとはせず、リリアの方も少しずつ目の前のアルテミスが一度目の人生で知っていた人とは違う道を歩もうとしているのだと受け入れていった。
そうして四年余りを重ねた今では同じ部屋で過ごすことも、母と二人でお茶を飲みながら他愛のない話をすることも、以前ほど特別な出来事ではなくなっている。
両親についても同じだった。
アバンリッシュとアルテミスがこの数年の間にどのような話を重ねてきたのか、その全てをリリアが知っているわけではない。けれども、以前より二人の間に交わされる言葉が増え、何気ない会話をする姿も見かけるようになったことだけは、日々の様子を見ていれば十分に分かった。
「今夜は少し早く戻る」
新聞から顔を上げたアバンリッシュがそう告げると、アルテミスは僅かに目を瞬かせた。
「お仕事はよろしいのですか?」
「急ぎのものは今日中に片付けるつもりだ。リアもいるのだろう」
「……そうですか」
短い会話だったもの声音にはかつてのような張り詰めたものはなく、リリアは何も言わずに二人を見つめてからゆっくりと紅茶を口へと運んだ。
一度目の人生では見ることのできなかった光景だった。それだけではなく、一度目ならばアルテミスはとっくにこの世にいなかった。茶会からの帰路で馬車が転落し帰らぬ人となったはずの母が、今はこうして目の前に座って夕食の予定をごく当たり前のように話している。
アルテミスが本来失っていたはずの時間をリリアはすでに何年も一緒に生きていた。
最初の頃は朝目を覚ますたびにアルテミスがまだ生きていることを確かめるような気持ちになったこともある。それほどまでに一度目の記憶は強く身体へ染み付いていたのだろう。けれども、年月を重ねるうちに少しずつその感覚も薄れ、今では母がそこにいる光景そのものが日常へと変わり始めていた。
一度目の人生で自身を気遣い、最後には目の前で命を落としたアリーも今ではリリア付きの侍女として傍にいる。最初こそ、まだ何も知らない彼女を自分の都合だけで近くへ置いて良いのか迷いもしたが、四年余りを共に過ごした今では前の人生とは関係なく頼ることのできる存在になっていた。
リリアが望んだ未来だった――だからこそ、決して失いたくない。
ラミア・クレマチスに関する調査も四年前から一度として完全に打ち切られてはいない。当初はラミア本人とクレマチス家の周辺を中心に調べていたものの、どれだけ時間を掛けても彼女がアルテミスへ危害を加えようとしていると裏付けられるようなものは見つからなかった。
カルロとの関係にも、この四年余りで大きな変化はない。
かつて決められていた婚約が改めて結ばれることはなく、リリアがカルロとの間に認めているのはアルテミスを巡る一連の問題を共に調べるための協力関係だった。それでも調査について顔を合わせる機会は何度もあり、必要な話を交わすことにも以前ほど身構えることはなくなっている。
だからといって、そこから先へ関係が進んだわけではない。カルロもリリアが引いた境界を越えようとはせず、リリアもまた自分たちの関係に新たな名前を与えようとはしなかった。
ただ、互いに必要な時には言葉を交わし、同じ目的のために力を貸し合う。それが今の二人にとって、最も自然な距離になっていた。
ラミアは以前と変わらず、アルテミスの友人として振る舞っている。母の方から交流を控えるようになってからも、それを責めることはなく時折手紙を送ってくる程度で、無理に会おうとすることもなかった。クレマチス家そのものにも不自然な動きは見つからず、リンダに続けてもらっていた周辺の調査からも決定的な材料が持ち込まれたことはない。
それでもリリアはラミアへの疑いを完全に捨てることができなかった。一度目の人生で見てきたものを思えば、何も見つからないという事実だけであの女を無関係だと決め付けることなど到底できなかったからだ。
途中からは、ラミア本人だけを追い続けるのではなく、調べ方そのものを少しずつ変えていった。
一度目にアルテミスが亡くなるまでの時期ナイーゼ家で何が起きていたのか。当時屋敷へと出入りしていた者は誰だったのか。母の身の回りに直接関わっていた使用人だけではなく、馬車や馬を管理する者、料理人、庭師、出入りしていた商人や業者に至るまで、アルテミスの生活に接触できた可能性のある者を一人ずつ遡って確認していった。
当然その大半には何もなかった。今も変わらずナイーゼ家へ勤めている者もいれば、結婚や家庭の事情で既に辞めている者もいる。別の土地へ移っていた者についても、可能な範囲でその後を確認したものの、母の死へと結び付くような不自然なものは見つからなかった。
だからといって調査が無駄だったわけではない。何もない者を一人ずつ確認していくこともまた、疑う必要のある範囲を狭めていくことへと繋がっていた。
それに、調べ続けたことで一つだけ分かってきたことがある。少なくとも、アルテミスについて外部から執拗に探り回っていた者は当時ほとんど見つかっていない。屋敷の周囲に不自然に出入りしていた人物も確認されなければ、使用人たちへ母の予定をしつこく尋ねていた者もおらず、一度目の事故が本当に誰かの手によるものだったのだとすれば外から情報を集めていた形跡があまりにも薄かった。
ならば、そもそも外から探る必要がなかったのではないか。その可能性が浮かんだことで、当時から屋敷にいた者たちについても日頃の行動や外部との接触だけではなく、ナイーゼ家へ雇われる以前の経歴まで遡って確認するようになった。
―――そして数日前、長く積み重ねてきた調査の中で、改めて確かめる必要のある小さな空白が見つかった。
◆
「――ノーマ?」
思いがけない名前にリリアは書類から顔を上げた。
知らない名ではない。むしろ、今ではよく知っている人物に深く関わる名前だったのだ。
「アリーの双子の……?」
「ああ」
カルロの返事を聞きながら、リリアは僅かに眉を寄せた。
一度目の人生でもノーマの存在は知っていた。アリーに双子の姉妹がいると聞き、珍しいと思った記憶が残っている程度で本人について詳しく知っていたわけではない。
けれども、今は少し事情が違う。一度目の人生からずっとアリーはリリアにとって大切な存在で、だからこそ、その双子であるノーマについても全くの他人と同じように考えることができず、屋敷の中で見掛ければ自然と気に留める程度には意識していたのである。
「ノーマが、何かしたのですか?」
自分でも思っていた以上に声が硬くなったことに気付きながら、リリアは机の上に置かれた書類とカルロの顔を交互に見た。何年も続けてきた調査の中で、よりによってその名が挙がったことに僅かな不安を覚えずにはいられなかったのだ。
「いや」
答えたのはカルロだった。
「少なくとも今のところ、ノーマ自身が何かをしたと分かったわけではないよ」
「では、どうして名前が?」
「最初から彼女一人を調べていたわけじゃないんだ」
そう言ってカルロが机の上にある書類へ手を伸ばしたためリリアも促されるように視線を落とすと、そこにはノーマだけではなく複数の使用人の名前が並んでいる。
「この数年、屋敷の内外をかなり広く調べてきたけれど、夫人の情報がどこかへ流れていたと断定できるような繋がりは結局見つからなかった」
「……はい」
「だから、以前から君も考えていた通り、目に見える接触だけを追っていても見つからない可能性がある。そこで当時から屋敷へ勤めていた者たちについて、今度は雇われる以前まで遡って確認し直したんだ」
「それで……ノーマが残ったのですか?」
「正確には、確認しきれないところが残った者の一人だね。ノーマ以外にも何人かいる」
カルロの言葉を聞きながらリリアは書類へと目を走らせた。ノーマがナイーゼ家へ勤め始めた時期も、それ以前の経歴も記されているものの途中には確かな記録へ辿り着けなかった部分がいくつか残されている。
「ここですか?」
「ああ。以前どこで働いていたのかについて、証言はあるけれど裏付けまで取れない部分がある。ただし、それ自体は決して珍しいことじゃない。何年も前の奉公先なら記録が残っていないこともあるし、紹介した人間が既に亡くなっていれば確認できない場合もある」
「なら、それだけで疑うことはできませんね」
「その通りだよ」
カルロは迷いなく頷いた。
「だから、ノーマを犯人扱いするつもりはない。むしろ今までのところ、彼女の行動にはほとんど不審な点がないんだ」
「不審な点が、ない?」
「ああ。特定の人物と頻繁に会っている様子もなければ、妙な手紙を出している形跡もない。屋敷の外へ不自然に出ることもないし、仕事ぶりについて聞いても、特に問題は上がっていない」
そこまで聞けばむしろ疑いから外してもよいのではないかと思えてきたが、それでもカルロが自分たちをここへと集め、わざわざノーマの名前を出した以上は何か考えがあるのだろう。
「では、何が気になっているのですか?」
「彼女個人というより、経歴を確認しきれない者の中でもノーマについては不明な部分が比較的多く残っていることかな」
「……それでも、怪しい行動は何もないのですよね」
「ああ。だからこそ、普通に調べ続けるだけではこれ以上何も分からない可能性がある」
そこで漸くリリアは僅かに肩の力を抜いた。
ノーマが何かをしたと分かったわけではないし、ましてラミアとの繋がりが見つかったわけでもない。数年にわたって屋敷の内外を調べ続け、そのうえで当時から仕えていた者たちの経歴まで遡って洗い直した結果、確認しきれない部分を残した一人として名前が挙がったに過ぎないのだ。
それでも、アリーの双子である彼女の名がそこにあることへの複雑な思いまでは消えなかった。
「これからノーマについて詳しく調べるのですか?」
「そのつもりではいる。その中でも、ノーマについては確認できない部分が比較的多く残っているからね。ただ、普通に調べて分かる範囲は既にある程度確認しているし、今のところ怪しい行動も見つかっていない。だから次は少し違う方法を試そうと思っているんだ」
「違う方法?」
「ノーマにだけ、一つ情報を知ってもらう」
予想していなかった言葉に、リリアは僅かに目を見開いた。
「わざと、ですか?」
「ああ。ただし、夫人の命や安全に関わるようなものではないよ。誰かへ知られたところで何も起こせない、どうでもいい情報で構わない」
「例えば?」
「夫人が近いうちに、ある人物と屋敷の中で会う予定がある、という程度かな。実際には存在しない予定を作って、仕事の途中でノーマだけが自然に知るような状況を用意する」
「それが外へ伝わるかを調べるのですか?」
「そういうことだね」
リリアはすぐには答えず、カルロの言葉を頭の中で反芻した。確かにノーマが本当に何も知らないのであれば、その情報が彼女のところで止まっても何ら不思議ではない。
けれども一つ気になることがあったのだ。
「ノーマが他の使用人へ話してしまえば、誰が外へ漏らしたのか分からなくなりませんか?」
「もちろん、その可能性はある。だから内容は、わざわざ人へ話す必要がないものにするし、ノーマの周囲でどう広がったのかも確認する。それに、一度情報が漏れただけで彼女を何かの手先だと決め付けるつもりもないよ」
「では、何のために?」
「可能性を一つ確かめるためだよ」
カルロは穏やかな声音のまま続けた。
「今まで私たちは、誰と会ったのか、誰へ手紙を出したのか、そういう目に見える繋がりを探してきた。でも、それで何年も何も見つからなかったのなら、そもそも私たちが想定している方法で情報を渡していない可能性もある」
「……もし、誰にも話していないのに外へ伝わったら?」
「その時は、初めて次の疑問が生まれる」
リリアはカルロを見つめた。
「ノーマが屋敷を出ていない。誰かと密かに会った様子もない。手紙も出していない。それでも彼女しか知らないはずの情報が外へ伝わったのなら、今度は『誰へ伝えたのか』ではなく、『どうやって伝えたのか』を調べればいい」
そこまで聞いて、リリアにもカルロの狙いがようやく理解できた。
今まで見つからなかったものを同じ方法で探し続ける必要はない。もし本当にこちらの知らない手段が使われているのなら、最初からその手段そのものを見つける必要があるのだ。
「何も起こらなければ?」
「それなら、それでいい」
カルロは迷うことなく答えた。
「少なくとも今回の件については、ノーマへの疑いを強める理由がなくなる。別の可能性を探せばいいだけだよ」
「……随分と遠回りですね」
「そうだね。でも、確かなものがないまま捕らえて、その先に何があったのか二度と分からなくなるよりはいいと思っている」
リリアは返事をせず、机の上に記されたノーマの名前へと視線を落とした。
アリーの双子――一度目の人生では、双子として存在を知っていた程度の人。今世ではアリーが傍にいるからこそ、その双子であるノーマにも以前より自然と目を向けるようになっていたものの、それでも彼女自身について知っていることは決して多くない。
だからこそ、何も分からない今の段階で疑いだけを膨らませることはしたくなかった。
「お父様は、この方法に賛成なのですか?」
アバンリッシュへ視線を向けると、彼は僅かに頷いた。
「アルテミスを巻き込まないのであればな。今のところノーマを問い詰めても得られるものはほとんどないだろう」
「お母様には?」
「少なくとも、まだ話す必要はないと思っている」
その答えに、リリアも小さく頷いた。母本人を危険へ晒すわけではなく、存在しない予定を一つ作るだけなら、余計な不安を与える必要もないだろう。
「分かりました。私もその方法でいいと思います」
「では、準備を進めるよ」
「私は何をすれば?」
「今まで通りでいてくれればいい」
カルロはそう答えた。
「ノーマに急に接触したり、今まで以上に意識したりする必要はない。何も知らない可能性も十分にあるんだから、普段と違うことをして警戒させる方が困る」
「……そうですね」
リリアはもう一度ノーマの名前を見た。
まだ何も分かっていない。彼女がラミアと繋がっている証拠など当然なく、そもそも何者かへ情報を流しているのかどうかさえ分からないし、数年にわたる調査を経て、当時から仕えていた者たちの過去まで遡って精査した結果、確認しきれない部分を残した一人として名前が挙がったに過ぎないのだ。
それに本当に何かがあるのかさえ、今の段階では判断できなかった。アリーの双子だからという理由だけで疑いから外すつもりもなければ、反対にその名が挙がったというだけで疑いを深めるつもりもない。
だからこそ、まずは確かめるしかない。ノーマだけが知るはずの情報が、彼女のところで止まるのか。それとも、自分たちには見えていない何らかの方法で屋敷の外へ伝わるのか。
何年も掛けて辿ってきたものを僅かな疑いだけで再び見失わないためにも今度こそ焦って答えを決めることなくその先に何があるのかを慎重に確かめていこうと、リリアは机の上に残された名前を見つめていた。




