2.ラミアの陰謀(ラミア視点)
予定が狂ったと知ったのはその日の夕刻だった。
クレマチス家の自室へと戻ったラミアは扉が完全に閉じられたことを確かめてから窓辺へ歩み寄り、厚手のカーテンを引いて外から室内を覗けないようにした。まだ日は完全には沈んでおらず閉ざされる直前まで窓から差し込んでいた夕陽の名残が床の上へ細く伸びていたものの、それすらも遮ってしまえば部屋は一気に薄暗くなって家具の輪郭がぼんやりと浮かぶ程度の明かりしか残らない。
そんなこと気に留めることもなく机へと向かい引き出しの奥へ手を伸ばすと、布に包んで隠していた小さな石を取り出した。
一見したところでは何の変哲もない石だ。けれども掌へ載せて魔力を流し込むと表面にゆっくりと淡い光が宿り始め、暫くして微かな雑音と共に遠く離れた場所にいる誰かの声が聞こえてくる。
『……ラミア様?』
「私よ」
聞き慣れた声が届いたことを確認するとラミアは椅子へと腰を下ろし、苛立ちを隠そうともせず指先で机を何度か叩いた。
「どういうことなの」
『何が、でしょうか』
「何が、ですって?」
聞き返された瞬間それまで何とか押し込めていた感情が一気に込み上げ、ラミアは声を荒らげながら机へ強く拳を打ち付けた。
「アルテミスが茶会へ来ないじゃない!今日になって断りの返事が届いたのよ!体調が優れないから今回は遠慮するですって?あの女、今までそんな理由で予定を変えたことなんてほとんどなかったでしょう!」
用意していた筋書きでは、アルテミスは数日後、王都から少し離れた伯爵家で開かれる茶会へ向かうはずだった。主催者はラミアではなく、招待状を送ったのも別の貴婦人であり、ラミアがしたことといえば最近あまり外へ出ていない友人を気遣うふりをして一緒に参加しないかと誘っただけだ。
仮にその日の帰り道で何かが起きたところで、自分に疑いが向けられる理由などない。少なくともそのはずだった。
『……こちらでも少し騒がしくなっています』
石の向こうから返ってきた声に、ラミアの眉が僅かに動いた。
「騒がしい?」
『ここ数日、旦那様が使用人たちへ色々と確認しているんです。奥様が使っている馬車のことや、誰が普段御者を務めているのかとか……それから、皇家の騎士も時々屋敷へ来ています』
「……何ですって?」
思わず聞き返した声は、先ほどまでの怒鳴り声とは異なり、底冷えするほど低いものになった。
『詳しいことは分かりません。ただ、お嬢様が倒れられてから屋敷全体が少し変なんです。奥様も以前より外へ出なくなりましたし、旦那様と話をしているところも見掛けるようになりました』
「アバンリッシュ様と?」
『はい』
その一言だけでラミアの表情が歪んだ。握り締めた石に無意識のうちに力が入り、爪が掌に食い込んで痛んだものの、そんなものは今の彼女には何の意味も持たなかった。
「どうして」
口から零れた声は、自分でも驚くほど静かだった。
「どうして、あの二人が話しているのよ」
『私にも分かりません。ただ、前よりは……』
「前よりは、何?」
低い声で促すと、相手は一瞬だけ黙り込んだ。
『……仲が良くなったように見えます』
「――っ!」
次の瞬間ラミアは手近に置かれていた花瓶を掴み、そのまま壁へ向かって投げ付けた。耳をつんざくほど大きな音と共に陶器が砕け、花と水が床へ飛び散ったもののそれでも胸の内に溜まった怒りは少しも収まらない。
「どうしてよ!」
誰かに聞かれる可能性など頭から消え去り、ラミアは立ち上がると乱暴に椅子を蹴り退けた。
「どうして今さらあの二人が仲良くなるの!?ずっとあのままだったじゃない!アルテミスはアバンリッシュ様に愛されていないと思っていたし、アバンリッシュ様だって、あの女が自分を愛していないと思っていたでしょう!?」
そうなるようにしてきた。アルテミスが夫に歩み寄ろうとすれば友人として心配しているように言葉を掛け、傷付くかもしれないのだから無理に答えを聞く必要はないと優しく諭した。夫の気持ちが分からないと泣けば、それを否定することもなく受け止めながら焦れば余計に関係を悪くするかもしれないと距離を置かせた。
それだけで十分だった。
もともとアルテミスは臆病な女だ。一度不安を抱かせてしまえば、あとは自分から確かめることなどできず勝手に悪い方へと考え、勝手に傷付き、勝手にアバンリッシュから離れていった。
アバンリッシュの方も同じだった。あの人はアルテミスを愛している癖に、彼女を無理やり自分の隣へ縛り付けたと思い込み、その罪悪感からまともに気持ちを伝えることもできなかった。
だから、ほんの少し背中を押してやるだけでよかったのだ。
相手は自分を愛していない。自分といるのは家のためでしかない。そう信じ込ませてしまえばあとは互いに避け合い、必要なことさえ話さなくなった。
何年も、何年も上手くいっていた。
「……リリア」
ラミアの口から憎々しげにその名が漏れた。
ここ最近変わったものがあるとすれば、あの娘だった。アルテミスが外出を取りやめるようになったのも、アバンリッシュとの間に変化が生じたのも、その少し前からリリアが母親のもとへと足を運ぶようになってからだと聞いている。
それだけなら偶然と考えることもできただろう。けれども皇家の騎士までナイーゼ家へ出入りするようになった今、何の関係もないと切り捨てるには出来すぎている。
リリアが何をしたのかは分からない。そもそも本当にあの娘が原因なのか、それさえまだ確かではなかった。それでも、一度調べておく必要はありそうだった。
「……あの子、邪魔ね」
『お嬢様が、ですか?』
「そうよ」
吐き捨てるように答えたラミアは、荒くなっていた呼吸をゆっくりと整えながら、床へ散らばった陶器の欠片へと視線を落とした。
怒りに任せて暴れていても何も変わらない。アルテミスが茶会へ行かないのなら今回用意していたものは使えなくなった。たったそれだけのことで、一度失敗したからといってそこで終わる理由などないのだ。
「……ねえ」
『はい』
「今なら、できる?」
その問いだけで相手にも意味が伝わったのだろう。暫く返事がなかった。
『奥様を、ですか』
「ええ」
『今すぐにでも、機会さえあれば』
迷いのない答えだった。ラミアはその言葉を聞いて、ほんの僅かに口元を持ち上げる。
「それなら――」
今すぐ殺して――そう言い掛けて、ラミアは口を閉ざした。
何かが引っ掛かった。先ほどまでなら、一刻も早くアルテミスを消してしまいたいとしか考えていなかったはずなのに、いざそれが可能だと聞くと胸の内には別の欲が湧き始めている。ただ死なせるだけでいいのだろうか、と。
あの女を消すだけなら何時でもできる。けれどもリリアまで、ラミアの邪魔をした可能性のある子供まで簡単に消してしまっていい筈がない。それに、あの忌々しい女が産んだアバンリッシュとの子供――絶対に許せる存在ではなかった。
ラミアは考えた。アルテミスと話すようになり、両親の関係まで変えようとしていて、もしあの女を守るために何かをしているのならば、折角ならその全てを一度与えてから奪ってやればいいのではないかと。その上で、リリアは生涯飼い殺しにすればいいのだ。
「……待って」
『え?』
「今すぐは駄目よ」
『ですが、先ほど――』
「気が変わったの」
先ほどまでの激情が嘘だったかのように、ラミアはゆっくりと椅子へ座り直した。割れた花瓶も、床へ飛び散った水も目に入っているはずなのに、今となってはどうでもよかった。
それよりも頭の中に浮かんだ未来の方がずっと魅力的だったのだ。
「ねえ。最近、リリアとアルテミスはどうなの?」
『どう、と言われても……』
「仲よくなっているの?」
問い掛けると、相手は少し考えるように黙った。
『以前よりは。奥様がお嬢様の部屋へ行かれることもありますし、お嬢様も前ほど奥様を避けてはいないように見えます』
「そう」
その答えを聞いた瞬間、それなら尚更今殺す必要はない、とラミアの口元にはっきりとした笑みが浮かんだ。今までまともに母親から愛情を与えられず、それでもどこかで愛されることを望み続けてきた娘がようやく母親の温もりを知り始めたのだ。それを今奪ってしまうのは余りにも勿体ないように思えたのである。
もっと仲良くなって親子らしい時間を過ごせばいいし、母親から愛されることがどれほど幸せなのかを知ってもう一人ではないのだと心の底から安心し、これから先もずっと傍にいてくれるのだと信じればいい。
―――幸せの絶頂期に目の前で奪ってやればいいのだ。
「……いいことを思いついたわ」
『何ですか』
「暫く、何もしなくていい」
『何もしない?』
「ええ。ただし、ナイーゼ家の中で起きていることは今まで通り教えてちょうだい。特にアルテミスとリリアのことは詳しくね」
『でも、復讐は……』
「するわよ」
即座に答えた。
「するに決まっているでしょう?」
それだけは最初から変わっていない。ただ、時期を変えるだけでアルテミスを生かしておくつもりなど欠片もなく、いつか必ず消してもらう。
「貴女だって、ただ殺すだけでは足りないでしょう?」
『……』
「ナイーゼ家が憎いのよね。貴女から大切なものを奪ったあの家が、何も失わないまま幸せに暮らすなんて許せないでしょう?」
『……ええ』
石の向こうから返ってきた声は、先ほどより低かった。
「だったら待ちなさい。急いで殺して終わらせるなんて勿体ないわ」
『どうするつもりですか』
「リリアに幸せになってもらうのよ」
自分でも可笑しなことを言っていると思ったのか、ラミアは小さく笑った。
「母親から愛される幸せを知って、毎日一緒に過ごして、もう絶対に失いたくないと思うくらい大切になってから……その目の前で全部奪ってしまえばいいでしょう?」
声に出してみれば思っていた以上に愉快な計画だった。
何も知らずに幸せになっていくリリアを離れたところから眺め続け、その幸福が最も大きくなった瞬間に壊す。ただ母親を殺すだけより遥かに相応しい罰だ。
『……お嬢様の前で?』
「そう。できれば、人気のないところがいいわね。邪魔が入ったら困るもの」
『いつまで待てばいいんですか』
「そうね……」
ラミアは顎へと指先を添え、暫く考える。
一年では短いし、二年でもまだ完全には関係が戻らないかもしれない。アルテミスはあれだけ長い間娘を遠ざけてきたのだから今すぐ何もかも元通りになるはずもなく、リリアの方だって簡単には母親を信じ切れないだろう。
ならば、その関係がじっくりと育つだけの時間を与えてやればいいのだ。
「五年」
『……五年?』
「長くても五年以内には済ませなさい。それ以上待つつもりはないわ」
『そんなに待つんですか』
「何よ。嫌なの?」
『いえ。復讐できるなら、私は……』
「でしょう?」
満足そうに微笑みながら、ラミアは椅子の背へ身体を預けた。
「それまで余計なことはしないで。今は屋敷が少し騒がしいみたいだし、皇家の騎士まで来ているなら、無理に動けば貴女まで疑われるわ」
『分かりました』
「リリアにも、アルテミスにも、今まで通り接しなさい。ナイーゼ家を恨んでいるなんて悟られては駄目よ」
『……はい』
「それから、この石も人前では絶対に使わないこと。連絡する時は、誰もいないことを確かめてからにして」
『分かっています』
少し不満そうな返事だったものの、ラミアは気に留めなかった。通話相手が自分をどう思っていようと構わないし、重要なのは最後にアルテミスに刃を向けることだけだったから。
「他に何か変わったことは?」
『今のところは。ただ……』
「何?」
『お嬢様が、最近使用人たちのことをよく見ています』
ラミアの眉が僅かに動いた。
「リリアが?」
『はい。前はほとんど気にも留めていなかったのに、今は名前を聞いたり、仕事について尋ねたりすることが増えています』
「……ふうん」
少し気になる話ではあったが、それだけで辿り着くとは思えなかった。ナイーゼ家には大勢の使用人がいて、その全員を疑っているのだとしても何の証拠も持たない子供にできることなど限られているし、ましてや此の人間は今まで表立ってアルテミスやリリアへ危害を加えたことなどないから。
「気を付けなさい」
『はい』
「しばらくは私からも連絡しないわ。何か大きな変化があった時だけ貴女から知らせて」
『……分かりました。あまり持ち場を離れていると怪しまれるので、そろそろ戻ります』
「ええ。良い報告を期待しているわ」
短い返事を最後に石から聞こえていた声が途切れ、淡く宿っていた光も少しずつ失われていく。完全に元の色へと戻ったことを確認すると机の上へと置き、ラミアは静まり返った室内に視線を巡らせた。
床には割れた花瓶の欠片が散らばり、零れた水によって絨毯の一部が濃く変色している。少し前までなら、それを見ただけでも再び怒りが込み上げていたかもしれないが、今はもう違った。アルテミスが茶会へ来なくなったことも、アバンリッシュとの関係が少しずつ変わり始めていることも、皇家の騎士がナイーゼ家へ出入りしていることさえ、今すぐ何かをしなければならない理由にはならない。
警戒しているのなら好きなだけ警戒させておけばいい。何週間でも、何か月でも、何年でも、こちらが何もしなければ、いずれ人間は警戒することに疲れ、やめる。毎日何も起きない日々を過ごしていれば、最初はあれほど恐れていたものですら何時しか考えすぎだったのではないかと思い始めるものだ。
何より、時間が経てば経つほどリリアはアルテミスを大切に思うようになるだろう。今まで与えられなかった母親からの愛情を知り、失いたくないと願い、傍にいてくれることが当然だと思うようになっていく。
その時にこそ、奪えばいい。
「ふふ……」
自然と笑いが漏れ、最初は小さかった声が次第に大きくなると、やがて誰もいない部屋の中へ不気味に響き渡っていった。
「待ってなさい、リリア」
ラミアは机の上に置いた石へ指先を滑らせながら、まるでその向こうに憎い少女の姿でも見えているかのように目を細めた。
「産まれてきたことを、絶対に後悔させてあげる」
五年など長くはない。その先に自分がずっと望み続けてきたものが待っているのなら、いくらでも耐えられた。
アルテミスさえいなくなればアバンリッシュの隣は空く。その時にこそ自分があの人の隣へ立ち、リリアには自分から奪ったもの以上の痛みを味わわせればいい。今は未だそのための時間を与えてやるだけなのだ、と。
ラミアは何事もなかったかのように石を布へ包み直すと、再び引き出しの奥深くへと隠した。
これから暫くは自分から動く必要などなく、アルテミスへ近付くことも、余計な手紙を出すことも、ナイーゼ家の周囲を探ることさえしなくていい。ただ、誰からも疑われることのない友人として笑い、何も知らないふりをしながら待っていればいいのだ。
リリアがようやく手に入れた幸せを失うことなど想像もしなくなった頃、その全てを目の前で壊してやればいいのだから。




