17.すれ違いの真実
アバンリッシュと話をしようと決めたものの、それをすぐに実行へ移せるほどリリアもアルテミスも覚悟ができていたわけではなかった。
何しろこれから確かめようとしているのは、長い年月を掛けて出来上がってしまった家族の形を根底から覆しかねない話なのだ。アルテミスがこれまで信じてきたことが正しかったのなら、今さら本人の口から同じ答えを聞かされるだけで終わるのかもしれないが、もしも違っていたならば、では何故これほどまでに互いを避け、何の罪もない娘まで巻き込んでしまったのかという別の問題が浮かび上がってくる。
そしてリリアにとっても決して他人事ではなかった。
一度目の人生で見てきた父は、自分にも母にもほとんど関心を示さず、アルテミスが亡くなってからそう長い時を置くこともなくラミアを新たな妻として迎えた男であり、だからこそ父は最初から母を愛しておらず家同士の都合だけで結ばれた妻がいなくなったところで大した痛手ではなかったのだと、これまで疑うことさえなかった。
けれども、先ほどアルテミスから聞かされた話には、その考えだけでは説明しきれない部分がいくつもある。妊娠中には母の身体を気遣っていたこと、リリアが生まれたと聞けばすぐに駆け付けてきたこと、そして何より、娘の顔を見るまでは明らかにアルテミスを案じていたということ――それらが本当なら、少なくとも最初から何の感情もなかったという考えには僅かながら疑問が残る。
その答えを知るには、結局のところ本人へ尋ねるしかなかった。
「……呼びましょうか」
暫く続いていた沈黙を破るようにリリアがそう告げると、隣に座っていたアルテミスの肩がほんの僅かに揺れ、リリアの手を包んでいた指先にも一瞬だけ力が入った。
「……ええ」
返ってきた声は小さかったが、先ほどのように怖いと口にして話を先延ばしにすることはなく、アルテミスは何度か呼吸を整えてから寝台の脇に置かれていた呼び鈴へ手を伸ばして、やって来たメイドへアバンリッシュを呼ぶよう静かに言いつけた。
―――公爵に、夫人と令嬢が二人揃って話をしたがっていると伝えてほしい。
ただそれだけの伝言だったというのに、命じられたメイドは一瞬だけ目を丸くして、それでも余計なことを尋ねることなく一礼すると静かに部屋を後にしていった。
扉が閉じれば、再び室内へ静寂が戻ってくる。先ほどまでは話すことがいくらでもあったはずなのに、いざアバンリッシュが来るのを待つだけとなれば何を口にすればよいのか分からなくなり、リリアは掛布の上へ落とした視線をそのままに、隣から伝わってくる母の僅かな緊張だけを感じ取っていた。
やがて、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。一定の間隔で近付いてくるそれは扉の前で止まり、少しの間を置いてから控えめなノックの音へ変わる。
「……どうぞ」
アルテミスが答えると、扉がゆっくりと開いた。
「二人揃って話があると聞いたが……」
そう言いながら姿を現したアバンリッシュは、寝台の上で身体を起こしているリリアを認めた途端、ほんの僅かに眉を寄せた。
「もう起きて大丈夫なのか」
「はい。まだ少し身体は重いですが、話をするくらいなら問題ありません」
「そうか」
短い返事を残し、アバンリッシュはそれ以上踏み込もうとはしなかったものの、リリアには父の視線が一度だけ自分の顔色を確かめるように動いたのが分かった。
これまでなら気にも留めなかったかもしれない。父はいつだってこういう人なのだと、勝手に決め付けて終わっていたはずだった。
けれども今は、その些細な仕草一つにまで別の意味があるのではないかと考えてしまい、リリアは胸の内に浮かんだ疑問を押し込めながらアルテミスへと視線を移した。
「……あなた」
呼び掛けたアルテミスの声は、僅かに強張っていた。アバンリッシュもそれに気付いたのか、すぐに返事をすることなく妻を見つめ、やがて二人の向かいに置かれていた椅子へ腰を下ろす。
「何かあったのか」
「聞きたいことがあるのです」
「私に?」
「ええ。ずっと……聞けなかったことです」
その言葉に、アバンリッシュの表情が僅かに変わった。驚いたようにも見えたが、それが何を意味しているのかまではリリアには分からず、父が黙ったまま続きを促したことでアルテミスも一度膝の上で両手を握り合わせてから口を開いた。
「私との結婚について、聞かせてください」
「……結婚?」
「私たちの結婚が、どのように決まったのかを」
何故今になってそんなことを尋ねるのかとでも言いたげに、アバンリッシュの眉間へ僅かな皺が寄ったものの、アルテミスはそこで目を逸らさなかった。
「私は、家同士の契約によって決められた政略結婚だと聞かされていました。私の実家が当時行っていた事業とナイーゼ家との間でいくつかの契約が交わされ、その条件として婚姻が決まったのだと……それ以上のことは、何も知りません」
「それは間違っていない」
アバンリッシュは短く答えたが、その返事を聞いてもアルテミスは引き下がらなかった。
「では、どうしてその話が持ち上がったのですか」
「……何?」
「ナイーゼ公爵家ほどの家が、どうしてわざわざ男爵家だった私の家と婚姻を結ぶ必要があったのですか。事業のためだけなら、婚姻まで条件に含める必要などなかったでしょう」
リリアもそこまでは考えていなかった。
確かに、公爵家と男爵家では身分が違いすぎる。アルテミスの実家がどれほど将来性のある事業を営んでいたとしても、それだけで公爵家の後継者との婚姻まで持ち出す理由としては不自然であり、むしろ公爵家ほどの力があるのなら婚姻などせずとも事業上の契約だけを結ぶ方法はいくらでもあったはずだ。
「それは……」
アバンリッシュが珍しく言葉を詰まらせた。普段の彼ならば答えたくないことを尋ねられれば黙るか、必要がないと一言で切り捨ててしまいそうなものなのに、今はそうすることもなく何かを言おうとしては口を閉ざしている。
「答えてください」
アルテミスが重ねる。
「今度こそ、勝手に答えを決めたくないのです。ですから……あなたの口から聞かせてください」
その言葉を受け、アバンリッシュは暫く妻を見つめていたが、やがて観念したように長く息を吐くと、椅子の背へ僅かに身体を預けた。
「……私が望んだからだ」
「……え?」
「君との結婚を、私が父上に願い出た」
アルテミスの瞳が大きく見開かれた。隣にいたリリアも思わず父の顔を見つめてしまう。
「……あなたが?」
「ああ」
「でも……どうして」
その問いに、アバンリッシュはすぐには答えなかった。視線を僅かに落として、何度か言葉を選ぶような沈黙を挟んでから漸く低い声を漏らす。
「昔から、君が好きだったからだ」
あまりにも簡潔に告げられた言葉だった。けれどもその一言を聞いたアルテミスは、意味を理解できていないかのように瞬きを繰り返したまま動かなくなった。
「……何を、仰っているのですか」
「聞こえなかったのか」
「聞こえました。聞こえましたけれど……だからこそ、何を仰っているのか分からないのです」
声が震えていた。
「だって、あなたは……私を必要としていなかったでしょう」
「……何?」
「私との結婚は家の都合で決められたもので、あなた自身は望んでいなかった。だから結婚してからも必要以上に話そうとはしなかったし、私が近付けば困ったような顔をして、初夜の後は……」
そこまで口にしたところで、アルテミスはリリアがいることを思い出したのか不自然に言葉を止めた。
しかし今さら何を誤魔化しているのだろう。先ほど母から既に聞かされていたリリアは、何とも言えない居心地の悪さを覚えながらも黙って続きを待ち、アバンリッシュもまた妻の言葉を遮ることなく聞いていた。
「……私は、ずっとそう思っていました」
「待ってくれ」
今度はアバンリッシュが制した。
「私が君との結婚を望んでいなかったと、本当にそう思っていたのか」
「……ええ」
「何故だ」
「何故って……」
アルテミスが困惑したように眉を寄せる。
「結婚してからのあなたを見ていれば、そう思うでしょう。必要なこと以外ほとんど話してくださらず、私から話し掛けても会話はすぐに終わってしまう。私が近付けば距離を取られて、初夜の後は何度誘っても断られたのですよ。それでどうして、私が愛されていると思えるのですか」
「……誘っていた?」
「そこからですか?」
思わず、といった様子でアルテミスの声が僅かに大きくなり、リリアは二人を交互に見つめながら何とも説明し難い違和感を覚え始めていた。
話が噛み合っていない――それも、少しばかり認識が違うという程度ではない。同じ屋敷で暮らし、夫婦として長い年月を過ごしてきたはずの二人が、まるで全く別の出来事について話しているかのようだった。
「……私は」
アバンリッシュが片手で額を押さえ、これまで見たこともないほど深く息を吐いた。
「君が、私との結婚を望んでいないと思っていた」
今度はアルテミスが固まった。
「……どうして、そうなるのですか」
「どうしても何も、私は公爵家の力を使って君を妻にしたようなものだ」
アバンリッシュは苦々しく言いながら、ゆっくりと顔を上げた。
「父上へ君と結婚したいと相談した時、最初は反対された。公爵家の後継者が男爵家の令嬢を妻に迎えるとなれば、当然周囲から反発が出るし、父上としても簡単に認められる話ではなかったのだろう。それでも諦めきれなかった私は、当時君の家が力を入れていた事業に目を付けた」
そこで語られた話はアルテミスが知っていたものと似ていながら、その始まりだけが決定的に異なっていた。
当時流行の兆しを見せていた事業へナイーゼ家が出資し、販路や取引先の確保にも力を貸す代わりに両家はいくつかの契約を交わす。その中に婚姻を組み込むことで、アバンリッシュは父である当主を説得して漸くアルテミスを妻として迎える許可を得たのだという。
「つまり……」
アルテミスが掠れた声を漏らす。
「政略結婚にしたのは……あなたなのですか」
「……そうなる」
「私と結婚するために?」
「ああ」
「事業まで利用して?」
「……ああ」
返事を重ねるたび、アルテミスの表情が何とも形容し難いものへ変わっていった。
驚いているのか、怒っているのか、それとも長い年月信じ続けてきたものが一瞬で崩れてしまったことに戸惑っているのかリリアには判断できなかったが、少なくとも喜んでいるようには見えない。
「では……どうして、何も言ってくださらなかったのですか」
「言えるわけがないだろう」
「どうしてです」
「君の意思を無視したようなものだからだ」
アバンリッシュの返事は早かった。
「君の家にとって、公爵家から持ち掛けられた条件を断るのがどれほど難しいことかくらい、私にも分かっていた。君自身が承諾したと聞かされても、本当に望んで頷いたのか、それとも家のために断れなかっただけなのか、私には分からなかった」
「なら、私に聞けばよかったではありませんか」
「聞いて、もし『望んでいなかった』と言われたらどうする」
アルテミスが口を閉ざした。その言葉は、先ほど母がリリアへと語ったものとあまりにも似ていたのだ。
―――もし『貴女を愛していないから』と本人の口から言われたら、その時こそ僅かに残っていた希望まで全部消えてしまうような気がしたから。
同じだ。
リリアは思わず二人を見比べた。真実を尋ねるのが怖くて相手の気持ちを自分で決め付け、聞かなければまだ希望を残しておけると考えていたのはアルテミスだけではなかった。
「私は、君を縛り付けたのだと思っていた」
アバンリッシュは続ける。
「だから、せめてこれ以上は君へ何かを強いるべきではないと思った。必要以上に近付けば迷惑だろうと考えたし、話し掛けても君はいつも緊張しているように見えたから、やはり私といることが苦痛なのだろうと……」
「緊張していたのは、あなたが好きだったからです!」
堪え切れなくなったようにアルテミスが声を上げた。声が室内へ響き、アバンリッシュが完全に動きを止める。
「……何?」
「ですから、私はあなたのことが好きだったのです!学園にいた頃からずっと……あなたが何度も助けてくださった時から、ずっと!」
「……待て」
「何を待つのですか!」
「私は、そんな話を一度も――」
「言っていませんもの!」
アルテミスが勢いのまま言い切ったところで、部屋の中へ何とも言えない沈黙が広がった。
一方リリアは掛布の上で両手を組みながら、いよいよ頭が痛くなってくるような感覚を覚えていた。
(……この二人は、一体何をしていたの?)
片方は、相手に愛されていないと思っていた。もう片方も、全く同じことを考えていた。それどころか互いに好意を抱いていたにもかかわらず、どちらも拒絶されることを恐れて何一つ確かめようとせず、そのまま結婚して子どもまで生まれ、十年以上も同じ屋敷で暮らしながら今日まで一度として肝心なことを話してこなかったらしい。
あまりにも馬鹿馬鹿しいと思ってしまった自分を、リリアは責める気にもなれなかった。
「では……初夜は」
長い沈黙の後、アバンリッシュが恐る恐る尋ねると、アルテミスの頬が僅かに赤くなる。
「リリアの前でする話ですか?」
「いや……すまない」
「もう聞いてしまいましたから、今さらお気遣いなく」
リリアが半ば諦めながら口を挟むと、今度は両親が揃ってこちらを見た。反応まで同じだったことに余計な疲労を覚えながら、リリアは小さく息を吐く。
「お母様から、ある程度は聞いております。それより、途中で止められる方が気になりますから、どうぞ続けてください」
「……すまない」
何故自分が父から謝られているのだろう。そんな疑問はさておき、アバンリッシュは再びアルテミスへと向き直った。
「私は、あの夜も……君が義務だから来たのだと思っていた」
「……は?」
「貴族の夫婦なのだから、後継を残すために必要なことだろう。だから君も、それを果たすために私の部屋へ来ただけなのだと」
「私は……」
アルテミスが額へ手を当てた。
「私は、あなたがいつまで待っても来てくださらないから、勇気を出して自分から行ったのです」
「……そうだったのか」
「そうだったのです!」
珍しく語気を強めた母を前に、リリアはもう何も言わずに見守ることにした。
「では、何故その後は……」
「罪悪感があったからだ」
アバンリッシュの声が低くなる。
「君が望んでいない結婚を押し付けた上に、夫婦だからという理由で身体まで求めるなど……一度目で、自分が何をしているのか分からなくなった。だから、それ以降は君から距離を置くべきだと思った」
「私が何度誘っても断ったのは?」
「君が、公爵夫人としての義務を果たそうとしているだけだと思った」
「……信じられない」
アルテミスはそれだけ言うと、片手で顔を覆ってしまった。けれどもリリアには、その指の隙間から覗く耳まで赤くなっていることが見えてしまって、視線をどこへ置けばよいのか分からなくなる。
しかし、本当に聞かなければならない話はここからだった。
「……お父様」
リリアが呼び掛けると、アバンリッシュの視線がこちらへ向く。
「私が生まれた時のことを、覚えていますか」
その瞬間、父の表情から僅かに残っていた動揺が消えた。代わりに浮かんだものが何なのかリリアには読み取れなかったが、少なくとも先ほどまでとは明らかに空気が違っていた。
「覚えている」
「お母様から聞きました。お父様は私が生まれたと聞いて、すぐに部屋へ来たそうですね」
「ああ」
「けれど、私の顔を見た途端、何も言わなくなった。そして、その日からお母様ともほとんど話さなくなった」
アバンリッシュは否定しなかった。
「どうしてですか」
「それは……」
「教えてください」
今度はリリアが目を逸らさなかった。
「お母様は、もう自分だけで答えを決めないと言ってくださいました。私も、今まで知っているつもりだったお父様のことを、ちゃんと本人に聞こうと思っています。ですから……お父様も、誤魔化さないでください」
暫くの間アバンリッシュは何も言わなかった。
けれどもやがて膝の上で組んでいた手へ力を込めると、ゆっくりと息を吐いた。
「……君が、私に似ていなかったからだ」
「それは聞きました」
「髪も、瞳も、顔立ちも……生まれたばかりの子どもを見て何が分かるのだと言われれば、それまでだ。だが、少なくとも私には、自分の血を感じられるものが何一つ見つけられなかった」
アルテミスの顔から、先ほどまでの赤みが消えていった。
「あなた……まさか」
「疑った」
アバンリッシュは逃げずに言った。
「リリアが、私の子ではないのではないかと」
空気が凍り付いたようだった。リリア自身、その可能性について先ほどの母の話を聞いた時点で薄々考えてはいたものの、実際に父の口から告げられると胸の奥へ鈍い痛みが走る。
「……私が、不貞を働いたと?」
アルテミスの声が低くなる。
「……ああ」
「誰とです」
「分からなかった」
「分からないのに、私を疑ったのですか」
「だから調べた」
「……調べた?」
その言葉に、リリアが反応した。
「もしかして、お父様が屋敷を空けることが増えたのは……」
「相手がいるのなら誰なのか、調べていた」
そこでようやくリリアの中で一つの点と点が繋がった。
アルテミスは、アバンリッシュが屋敷を空けることが増えたために他に想う女性がいるのではないかと考えた。しかし実際には、アバンリッシュはアルテミスの不貞相手を探していたのだ。
「……待ってください」
アルテミスが、信じられないものを見るような目で夫を見つめた。
「では、あなたが頻繁に外へ出ていたのは……女性に会うためではなかったのですか」
「女性?」
「私は、あなたに他の女性がいるのだと思っていました」
「何故そうなる」
「あなたが何も言わないからでしょう!」
とうとうアルテミスの声が部屋いっぱいに響いた。
「私とは口も利かず、リリアにも近付かず、何処へ行くのか尋ねても何も教えてくださらないまま何度も屋敷を空けていたのですよ!それで他に女性がいるのではないかと思うことの何がおかしいのですか!」
「私は君が他の男と――」
「私はあなた以外の男性を好きになったことなどありません!」
言葉を遮るように放たれた声に、アバンリッシュが黙り込む。
「学園にいた頃からずっと、私はあなたしか見ていなかった! 結婚できると聞いた時だって、政略結婚だと分かっていても嬉しかった。初夜だって自分から行った。リリアを授かったと分かった時には、この子が生まれれば今度こそ家族になれるのではないかと……あなたと少しでも近付けるのではないかと、私は本気で思っていたのです!」
そこまで一息に吐き出したアルテミスは、肩を大きく上下させながら夫を睨み付けていた。目元にはいつの間にか涙が滲んでいたが拭おうともせず、これまで飲み込んできたものを全て吐き出すように言葉を続ける。
「それなのに、リリアが生まれた途端あなたは何も言わなくなって、私を見ようともしなくなった。私はてっきり、この子があなたの望んでいた子ではなかったからだと思ったのです。私ももう用済みで、他に愛する方ができたのだと……!」
「……違う」
「何が違うのですか!」
「私は……」
アバンリッシュの口がそこで止まる。何を言えばよいのか分からないのか、それとも今さら何を言っても遅いと理解しているのかリリアには判断できなかったが、父は暫く俯いたまま動かなかった。
「……怖かった」
やがて落ちた声は、これまで聞いたどの声よりも小さかった。
「君が私を愛していないことなど最初から分かっているつもりだった。それでも結婚できただけで満足すべきだと思っていたし、子どもが生まれれば……少なくとも家族としては傍にいられると思っていた」
アバンリッシュは一度言葉を切った。
「だからこそ、リリアを見た時に……もし本当に君が他の男を愛していたのなら私はどうすればいいのか分からなかった」
「だから、私を疑ったのですか」
「……ああ」
「私には何も聞かずに?」
「聞けなかった」
「どうして…」
「もし認められたら、今度こそ終わると思ったからだ」
再び、リリアは言葉を失った。また同じだったから。
聞けば終わってしまうかもしれない。真実を知れば、自分が傷付くかもしれない。だから聞かずに自分の中だけで相手の気持ちを決め付け、その答えを疑うことなく何年も抱え続けた。
アルテミスも、アバンリッシュも。二人とも同じことをしていた。
「……馬鹿みたい」
気付けば言葉が口から零れていた。両親が同時にこちらを見たけれども、リリアは言葉を止めなかった。
「本当に……馬鹿みたいです」
「リリア……」
「だって、そうでしょう」
胸の奥から込み上げてきた感情が何なのか自分でもよく分からなかった。呆れているし、腹が立っている。それなのに何処か泣きたくもなっていた。
「お母様は、お父様に愛されていないと思っていた。お父様も、お母様に愛されていないと思っていた。お母様はお父様が他の女性を愛していると思って、お父様はお母様が他の男性を愛していると思って……それなのに、二人とも一度も本人に聞かなかったのですか」
誰も答えなかった。答えられるはずもなかったのだろう。
「それで……私は?」
自分でも驚くほど声が震えた。
「お二人が互いに何を思っていたのかは分かりました。怖かったことも、聞けなかったことも、今なら少しくらいは分かります。でも……その間、私はどうすればよかったのですか」
アルテミスの顔が歪んだ。アバンリッシュもまた何かを言おうとしたものの、声を出すことはなかった。
「私はずっと、自分が何か悪いことをしたのだと思っていました。お母様に見てもらえないのも、お父様が何も言ってくださらないのも、私が二人にとって要らない子だからなのだと……何度も、そう思いました」
「リリア、それは――」
「分かっています。今は、違うと言ってくださるのでしょう」
アルテミスの言葉を遮り、リリアは掛布を握り締めた。
「でも、幼かった私は知らなかったのです。誰も教えてくれなかったのですから。お父様とお母様が互いに勝手な思い込みをして、勝手に傷付いていたことなんて、私に分かるはずありません!!」
最後の言葉だけは抑え切れずに声が大きくなった。涙が頬を伝っても今度は俯かなかった。母にも、父にも、きちんと自分を見てほしかったからだ。
「私は、お二人の誤解のために生まれたわけではありません」
「……ああ」
最初に答えたのは、アバンリッシュだった。
「その通りだ」
父はリリアを見ていた。これほど真正面から父と視線を交わしたことが、これまで一度でもあっただろうか。
「君には、何の責任もない」
「なら、どうして……」
「私が愚かだった」
アバンリッシュは言葉を重ねた。
「君が私の子ではないかもしれないと疑ったことも、その疑いをアルテミス本人へ確かめようともせず、君から距離を置いたことも……全て私の責任だ。君に背負わせていいものではなかった」
すぐに許せるはずなどなかった。その一言でこれまでの寂しさが消えるわけでもないから。けれども父が言い訳をせずに自分のしたことを初めて言葉にして認めていることだけは、リリアにも分かった。
「……私もよ」
隣から、アルテミスの声が聞こえた。
「私も、自分が傷付きたくないというだけで貴女から逃げた。お父様が貴女をどう思っているのかも確かめず、勝手に決め付けて……その苦しさを、何の罪もない貴女にまで押し付けた」
二人の言葉を聞きながら、リリアは何度も涙を拭う。許したわけではないし、これで家族が元通りになったなどとはとても思えない。そもそも自分たちに「元通り」と呼べるほど温かな家族だった時期が存在したのかさえ分からなかった。
それでも、少なくとも今までとは違うことだけは確かだった。
これまでは誰も何も言わず、それぞれが自分の中で作り上げた相手の姿だけを見ていた。けれども今は、ようやく本人の言葉を聞いている。
「……一つだけ、まだ聞いてもいいですか」
涙を拭い終えたリリアがそう尋ねると、アバンリッシュは静かに頷いた。
「何だ」
リリアは一瞬だけ迷い、ゆっくりと口を開く。これを聞けばまた何かが変わるかもしれないけれども、もう聞かないまま自分で答えを決めることだけはしたくなかったから。
「……ラミア様のことです」
その名を口にした瞬間、部屋の空気が僅かに変わった。アルテミスが怪訝そうにこちらを見つめ、アバンリッシュもまた何故ここでその名が出るのか分からないとでも言いたげに眉を寄せる。
「ラミアが、どうした」
「お父様とラミア様は……どのような関係なのですか」
「どのような、と言われても……」
「教えてください」
リリアは父の瞳を真っ直ぐに見つめた。
一度目の人生で起きたことを、そのまま口にするわけにはいかない。アルテミスが亡くなった後アバンリッシュがほどなくしてラミアを妻として迎えたことも、その後あの女がナイーゼ家へ入り込んできたことで何が起きたのかも、今の二人はまだ知らない。
けれどもリリアだけは知っている。だからこそ、ここで終わるわけにはいかなかった。
両親が互いを愛していた。その事実はこれまでの認識を大きく変えるものだったが、それだけでは一度目の人生で起きた全てを説明することはできないのだ。
「……リリア?」
アルテミスが不思議そうに名を呼ぶ。
「どうして、突然ラミアのことを?」
「少し……気になることがあるのです」
今はそれ以上を話すことができず、リリアは曖昧に答えることしかできなかった。けれどもアバンリッシュは娘の表情から何かを感じ取ったのか、すぐに問い返すことはせず暫く考えるように黙り込んだ。
やがて、その口がゆっくりと開く。
「ラミアとは――」
その言葉を待ちながら、リリアは無意識のうちに掛布の端を握り締めていた。
母との関係について、自分が知っていると思っていた父の姿は今日だけで大きく形を変えた。
ならば、ラミアについても同じなのだろうか。それとも、ここから先にこそ一度目の人生へ繋がる何かが隠されているのだろうか。
まだ何一つ分からないからこそ今度は自分の中だけで答えを決めることなく、リリアはアバンリッシュの言葉を静かに待つことにしたのだ。




