16.母の過去
どれほど眠っていたのだろうか――瞼の裏へ差し込む淡い光に誘われるように、深い眠りの底からゆっくりと意識を浮かび上がらせたリリアは、目を開くよりも先に右手を包み込んでいる温もりの存在に気付き、それだけで先ほどまで見ていた夢や、目覚めた直後に現実と幻の区別さえつかなくなって取り乱したことが一気に脳裏へ蘇った。
恐る恐る瞼を持ち上げると、ベッドの傍らへ椅子を寄せて片方の手でリリアの手を握ったまま眠っているアルテミスの姿が目に入る。寝台へ身体を預けるような決して楽とはいえない姿勢を取りながら、それでも約束を違えまいとするように離れずにいてくれた母を前に胸の奥で張り詰めていたものがほんの僅かに緩んでいく。
(……本当に、いた)
眠っている間にいなくなってしまうのではないか、目を覚ませばまた一人きりで、先ほど交わした言葉も握られた手の温もりも全て都合のよい夢だったと突き付けられるのではないかと、心のどこかでは疑い続けていたのだろう。
けれどもアルテミスは確かにそこにいて、眠りに落ちても離さなかったらしい手からは今も変わらぬ温もりが伝わっている。その事実だけでも、夢と現実の境目を失いかけていたリリアには十分すぎるほど大きなものだった。
「……お母様」
自分でも聞き取れるか分からないほど小さな声で呼び掛けると、もともと眠りが浅かったのかアルテミスはすぐに肩を小さく揺らし、何度か瞬きを繰り返しながら顔を上げた。
「リリア……?」
寝起きのせいか僅かに掠れた声だったものの、娘が目を覚ましていると理解した瞬間には安堵が表情いっぱいに広がった。無意識なのだろう、繋いだままだった手に少しだけ力を込めながら、心配そうに顔色を覗き込んでくる。
「気分はどう? まだ苦しいところはない?」
「……大丈夫です」
答えながらもリリアは自然と視線を逸らし、先ほどまで感情のままに泣き叫んで幼い子どものように縋っていた自分を思い返して、今になって遅れてやってきた羞恥に頬が僅かに熱くなるのを感じていた。
しかし恥ずかしいからといって何もなかったことにはできず、アルテミスもまた同じことを考えているのか娘の手を握ったまま暫く言葉を探すように黙り込んでいたが、やがて覚悟を固めるようにゆっくりと息を吸った。
「……約束したものね」
その一言だけで、リリアにも母が何を言おうとしているのか分かった。父とのことも、自分から目を逸らすようになった理由も、知っていることは全て話す――眠りへ落ちる前、アルテミスは確かにそう約束していたから。
「無理に、今でなくても……」
思わず口をついて出た言葉に、何よりリリア自身が驚いた。
これまでずっと知りたいと思っていたはずだった。なぜ母に見てもらえなかったのか、どうして自分だけが取り残されたような寂しさを味わわなければならなかったのか、その答えを何年も求め続けていたというのに、いざ聞くことができるとなれば胸の内には期待よりも先に恐怖が湧き上がってくる。
もし話を聞いた結果、自分はやはり望まれていなかったのだと分かってしまったら、夢の中でようやく手に入れた「生まれたことを喜んでもらえていた」という小さな救いさえ再び奪われてしまうかもしれない。
そんな迷いが表情へ出ていたのだろう、アルテミスはすぐに話し始めることはせず娘の気持ちを確かめるように暫く見つめてから握っていた手をほんの少し緩めた。
「今でなくてもいいのよ。貴女がまだ聞きたくないのなら、無理に話すつもりはないわ。ただ……私はもう、話さないことを理由にして逃げたくないの」
今までの母であれば、聞かれる前から自分の都合で話を終わらせていたかもしれない。けれども今は聞くか聞かないかという選択そのものをリリアへ委ね、答えを急かすこともなく静かに待っている。これまで両親との関係の中で、自分が何かを選ぶ機会などほとんど与えられなかったからこそ、そんな些細な違いでさえ不思議なほど胸へ響き、リリアは少し迷った末に小さく頷いた。
「……聞きたいです。私が今まで知らなかったことを、お母様が知っている範囲で構いませんから……全部、聞かせてください」
「……分かったわ」
アルテミスはゆっくりと頷くと、繋いだままの娘の手へ一度視線を落とし、ここから先の話をどう切り出すべきか迷うように口を閉ざした。
「どこから話せばいいのかしらね……」
困ったように呟いた母の声には、用意していた説明を読み上げるような整然さなどなく、どこから話せばよいのか本当に分からないのだろう、長い間胸の奥へ押し込めてきた記憶を一つずつ探るように何度か言葉を迷わせた末、アルテミスは遠い日の景色を思い返すようにゆっくりと瞼を伏せた。
「……私がお父様と知り合ったのは、まだ学園に通っていた頃のことよ」
当時のアルテミスは今のように公爵夫人という立場ではなく、決して裕福とはいえない男爵家の令嬢として上位貴族の子女も数多く通う学園へ入学したばかりだった。
家を離れて同年代の者たちと過ごす生活に最初こそ僅かな期待を抱いていたものの、生来人付き合いが得意ではなく自分から誰かの輪へ入ることも苦手だった彼女に友人ができることはなく、やがて周囲の令嬢たちからも距離を置かれるようになっていったという。
「私自身にも原因はあったのでしょうね。何を言われても上手く笑えなかったし、話し掛けられても必要なことしか返さなかったから、きっと気取っているように見えたのだと思うわ」
最初は挨拶を返されなくなった程度だったものが、やがて陰口へ変わり、誘いから外されることも増え、気付けば教室でも食事の時間でも一人きりでいることが当たり前になっていた。
そんなアルテミスに、ある日一人の伯爵令嬢が手を差し伸べてくれた。男爵家の娘だからと見下すこともなくごく普通に隣へ座って言葉を交わしてくれたその少女は、閉じかけていた彼女の心へ少しずつ入り込み、いつしか何でも話せる大切な友人となっていた。
「その子がいてくれたから、何とか学園へ通い続けられたのだと思う。でも……大切だったからこそ、余計に迷惑を掛けたくなかった」
陰口や無視だけで済んでいた嫌がらせは、周囲がアルテミスの反応の薄さへ苛立ったためなのか、それとも伯爵令嬢と親しくしていることが気に入らなかったのか、いつしか教材を隠されたり衣服を汚されたりと、直接的なものへ変わっていった。
それでも唯一の友人へ事情を打ち明ければ巻き込んでしまうと思い、家族へ伝えれば余計な心配を掛けると考えて、黙って耐えていればいつか飽きて終わるはずだと自分へ言い聞かせながら一人で抱え込み続けていた。
「本当に、昔から何一つ変わっていないのね」
そこまで話したところでアルテミスは自嘲するように口元を歪め、自らの過去と現在を重ね合わせるように小さく息を吐いた。
「一人で抱え込んで、誰にも何も言わず、自分の中だけで答えを決めてしまう。結局私は、あの頃からずっと同じことを繰り返していたのだと思うわ」
リリアは何も返せなかった。母の過去をただ可哀想だと憐れむだけでは済まなかったからだ。何をされても誰にも助けを求められず、味方になってくれるかもしれない相手へすら迷惑を掛けることを恐れて、一人で耐え続けることしかできなかったその感覚は余りにもよく知っている。
だからといって母のしたことが許されるわけではない。それでも、今まで理解できなかったアルテミスという人間の輪郭が、ほんの少しだけ見え始めたような気がした。
「そんな頃に、お父様と出会ったの」
その名を口にした瞬間アルテミスの声音が僅かに変わり、懐かしさと、今も消え切らない痛みの両方が入り混じったような響きを帯びた。
「正確には、それ以前から姿だけは知っていたわ。ナイーゼ公爵家のご子息だったから、学園でも有名だったもの。でも、まともに言葉を交わしたことなんてほとんどなかった」
アバンリッシュが初めて彼女を助けたのは、人気の少ない廊下で数人の令嬢に囲まれ、言い返すこともできずに俯いていた時だった。偶然そこを通り掛かった彼は状況を見るなり足を止め、公爵家の者として何か特別な権威を振りかざすでもなく、ただ静かに「何をしている」と問い掛けたという。
その姿を見た途端令嬢たちは先ほどまでの態度が嘘だったかのように取り繕い、慌ててその場を離れていった。
「お父様は私を問い詰めなかったわ。何をされたのかも、誰にされたのかも深く聞こうとはせず、ただ一言だけ『大丈夫か』と尋ねてくれたの」
その時の光景が今でも鮮明に残っているのだろう、アルテミスの表情がほんの僅かに柔らいだ。
「私には、それだけで十分だった」
それ以降も似たような場面へ何度か鉢合わせ、その度にアバンリッシュが助け舟を出したことで、過激だった嫌がらせは次第に鳴りを潜めていった。
彼にとっては公爵家の人間として目の前で起きている問題を見過ごさなかっただけなのかもしれないが、一人で耐え続けていたアルテミスにとって、その何気ない行動の一つ一つは忘れられない救いとなり、いつしか彼を見るだけで胸が高鳴るようになっていった。
「……好きになってしまったの」
少しだけ恥ずかしそうに告げた母を前に、リリアは思わず目を瞬かせた。いつも冷静で、アバンリッシュとも必要以上の会話をせず、夫婦の間に愛情など最初から存在しなかったのだとばかり思っていたために、自分の母にも一人の少女として誰かを想い、叶わぬ恋に胸を痛めていた時期があったという事実はにわかには信じ難いものだった。
「叶うはずがないことくらい分かっていたわ。私は男爵家の娘で、あの人は公爵家を継ぐ立場だったもの。身分が違いすぎたし、そもそも私だけを特別に見てくれているとも思っていなかったから」
その想いは胸の内へ仕舞い、いつか卒業して別々の相手と結ばれれば、若い頃の思い出として忘れていくものだと思っていた。
どうしても誰かへ話したくなった時だけは、唯一の友人へ「誰にも言わないで」と念を押した上で打ち明けたものの、それ以上を望むつもりなどなかったという。
「だから、ある日突然婚姻の話が届いた時には、何かの間違いなのではないかと思ったわ」
アバンリッシュ・ナイーゼとの婚姻を持ち掛ける正式な書面が家へ届いたのは、それから程なくしてのことだった。
本来ならば段階を踏んで婚約を結び、互いの家が時間を掛けて条件を整えていくところを、その話は驚くほど急に進められ、家同士の取り決めを前提とした政略結婚であることは、若かったアルテミスにも容易に理解できた。
「後から聞いた話では、私の実家が行っていた事業とナイーゼ家との間にいくつかの契約が結ばれて、その条件の一つとして婚姻が決まったらしいの。詳しい内容まで当時の私には知らされなかったけれど、少なくとも恋愛の末に選ばれたわけではないことだけは分かっていた」
それでもアルテミスは断ろうとは思わなかった。政略であろうと何であろうと、想い続けた人の隣へ立つ機会が巡ってきたことが嬉しくて、もしかしたら結婚して共に過ごすうちに自分を少しずつ好きになってもらえるかもしれないという淡い期待まで抱いていたのだ。
「愚かだったのでしょうね。政略結婚でも構わない、時間を掛ければいつか振り向いてもらえると思ってしまったのだから」
「お父様を……本当に好きだったのですね」
「ええ。好きだったわ。今になって思えば、自分でも呆れるくらいに」
苦笑しながらも否定しない母を見て、リリアは胸の奥へまた一つ知らなかったものが積み重なっていくのを感じた。
けれど、結婚したからといって二人の距離が縮まることはなかった。アバンリッシュは乱暴に接することも生活に不自由させることもなく、公爵夫人として必要なものは惜しまず用意したが、彼自身だけはどこか遠く、アルテミスが話し掛けても必要最低限の返事をするだけで積極的に会話を続けようとはしなかったという。
「何を話せばいいのか分からないような顔をしていたわ。私が近付けば少しだけ身を引かれることもあって、そういうことが続くうちに、やっぱりこの人は私と結婚したかったわけではないのだと思うようになった」
もっとも、自分も同じようなものだったのだろうと、アルテミスは続ける。嫌われることを恐れるあまり自分から踏み込むことができず、アバンリッシュが歩み寄ってきてくれる日を待つだけで、結局は互いに必要最低限の会話しか交わさない日々が続いていったと。
その関係を変えようと、彼女が初めて大きな勇気を振り絞ったのが初夜だった。
「本来なら、夫が妻の部屋を訪れるものだということくらい知っていたわ。それでも待っているだけでは何も変わらないと思って、あの日だけは自分からお父様の部屋へ行ったの」
何度扉の前で引き返そうと思ったか分からないほど緊張したものの、その夜アバンリッシュは彼女を拒まなかった。
しかし、その一夜を境に二人の距離が縮まることはなく、むしろ翌日から彼がアルテミスの部屋へ来ることはなくなり、再び勇気を出してこちらから誘っても、やんわりと断られるようになった。
「一度なら仕事で疲れているのだと思えたし、二度目なら体調でも悪いのかと考えられた。でも、それが何度も続けば……私にも分かるわ」
「理由を聞かなかったのですか?」
リリアの問いに、アルテミスは困ったように微笑んだ。
「聞けなかったのよ。もし『貴女を愛していないから』と本人の口から言われたら、その時こそ僅かに残っていた希望まで全部消えてしまうような気がしたから」
理由を聞かなければ、仕事が忙しいだけなのかもしれない、何か事情があるのかもしれないと、自分へ都合のよい可能性を残しておくことができる。真実を知って全てを失うより、曖昧なまま希望へ縋っている方がましだった――そう告げられて、リリアは何も言えなくなった。
その感覚を、自分も知っていたからだ。カルロが少しずつ変わっていった時も、本当のことを尋ねる勇気を持てず、それでもいつか昔のように救い出してくれると期待し続け、最後の最後まで真正面から助けを求めることができなかった。
「そんな日々が続いていた頃、身体の調子が悪くなったの」
最初は疲れているだけだと思っていたものの、倦怠感が長く続き、食事の匂いだけで吐き気を覚えることも増え、胸のむかつきまで感じるようになったため、使用人に勧められて医師を呼んだ。
そこで告げられた一言が、それまで沈み続けていたアルテミスの心を一気に救い上げたのだ。
―――子どもを授かっています。
「本当に嬉しかったわ。それまで抱えていた寂しさが、全部どうでもよくなってしまうくらい」
愛する人との間に子どもを授かった。その事実だけで自分たちは初めて本当の家族になれるような気がして、これをきっかけに夫婦の関係も変わるかもしれないという期待を、以前よりも強く抱くようになった。
「実際、お父様も妊娠を知ってからは少し変わったのよ。無理をするなと声を掛けてくれたり、食事が進まなければ別のものを用意するよう使用人へ言ってくれたり、体調の悪い日は様子まで聞いてくれた」
ほんの些細な変化だったのだろう。それでも、その小さな気遣いの一つ一つが当時のアルテミスには何より嬉しくて、今度こそ自分を妻として見てもらえるかもしれないと期待するには十分だった。
少しずつ膨らんでいく腹を撫でながら、生まれてくる子どもの名前を考え、女の子なら何を着せよう、男の子なら何を教えようと未来を想像しては、この子には自分が幼い頃に欲しかったものを惜しみなく与え、目一杯愛して育てようと何度も心へ誓ったという。
「そして……貴女が生まれた」
そこでアルテミスの声がほんの僅かに震えた。
出産は決して楽なものではなく、激しい痛みに何度も意識を失いそうになったが、やがて聞こえた産声を耳にした瞬間それまでの苦しみなど全て忘れてしまうほどの安堵が込み上げてきて、早く顔を見せてほしい、腕へ抱かせてほしいと何度も頼んだ。
ようやく胸元へ渡された赤ん坊は驚くほど小さくて、毛布の隙間から覗く顔を見た瞬間には自分の中へこれほど大きな愛おしさが存在していたのかと驚くほど言葉にならない感情が溢れたという。
「あぁ、可愛い私の子。生まれてきてくれてありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、リリアの呼吸が止まった。
夢の中で耳にした声と一言一句違わなかったからだ。
「……本当に」
「ええ。本当にそう言ったわ。何を夢で見たのか私には分からないけれど、その言葉を口にしたことだけは、今でもはっきり覚えている」
あれは自分が欲しかったものを作り出した夢ではなかった。少なくとも、あの言葉だけは実際に母が口にしていた。そう理解した瞬間、胸の奥から何かが込み上げ、リリアは咄嗟に俯いたものの、目元へ溜まった涙が一粒だけ頬を伝って落ちるのを止めることはできなかった。
「……それなら、どうして」
掠れた声が震えながら零れた。
「そんなに私が生まれたことを喜んでくださったのに……どうして、私たちはこんなことになってしまったのですか」
アルテミスの表情が目に見えて曇った。
ここから先こそが長い間もっとも目を逸らし続けてきた記憶なのだろう。それでも逃げないと決めた彼女は、大きく息を吸ってからゆっくりと瞼を伏せ、リリアが生まれた日に起きたもう一つの出来事を思い返した。
「お父様が、貴女を見た時からよ」
リリアが生まれたと聞いたアバンリッシュは、知らせが届くなり慌てた様子で部屋を訪れ、まずは疲れ切っていたアルテミスの身体を何度も気遣ったという。妊娠中に見せてくれていた優しさと何も変わらないその姿を見て、これからようやく家族として歩き始められるのだと、アルテミスは疑いもしなかった。
「でも、貴女の顔を見た途端、お父様は何も言わなくなったの」
それまで心配そうにアルテミスへ声を掛けていた夫は、生まれたばかりの娘へ目を向けた瞬間から不自然なほど口を閉ざし、まるで何かを確認するように、その顔をじっと見つめ続けた。アルテミスが何度名前を呼んでも返事はなく、抱いてみるかと尋ねても応じることはなく、暫くして聞き取れないほど小さな声で何かを呟くと、そのまま部屋を出て行った。
「何と言ったのかは分からなかったわ。私自身も疲れ切っていたし、周りには使用人も大勢いたから……でも、あの時のお父様の顔だけは、今でも忘れられない」
「……どんな顔をしていたのですか?」
「それが、私にも分からないの」
怒っているようにも、何かに深く傷付いているようにも、信じられないものを目の当たりにして呆然としているようにも見えたが、少なくとも娘の誕生を喜んでいる表情ではなかった――アルテミスには、そう見えてしまった。
「貴女は、お父様の特徴をほとんど受け継いでいなかったから」
髪も瞳も顔立ちも、リリアには母方の血が強く現れており、それ自体は貴族社会でも珍しいことではないはずなのに、アバンリッシュが娘の顔を凝視したことと、その後の態度の変化が重なったことで、アルテミスの中には少しずつ不安が育ち始めた。
「その日から、お父様は以前にも増して私と話さなくなったわ。目を合わせることも減って、貴女へ積極的に関わろうともせず、何を考えているのか尋ねても……いいえ、結局私は、尋ねることすらできなかった」
また聞かなかった。また一人で答えを決めた。アバンリッシュは自分を愛していない。政略結婚の相手として必要だっただけで、子どもを産んだことで自分の役目は終わったのだ。
そして、その子どもさえ夫には望まれていないのではないか――一度そう考え始めると、相手の些細な行動まで全てその答えを裏付けるものにアルテミスには見えてしまったのだ。
「その頃から、お父様が屋敷を空けることも増えたの。どこへ行っているのか、誰と会っているのか、何をしているのかも私には何も知らされなかったから、きっと他に想う方がいるのだろうと……自分との結婚から解放される方法でも探しているのだろうと、いつの間にかそう信じ込むようになってしまった」
「お母様は、お父様が不貞をしていると思っていたのですか」
「……ええ。証拠なんて何一つなかったのにね」
今になって振り返れば、どれほど根拠の薄い思い込みだったのかは分かる。
しかし、自分は愛されていないのだと長い間思い続けていたアルテミスにとって、その結論だけは妙に腑に落ちてしまい、いつしか疑いではなく事実のように胸へ根付いていった。
リリアはそんな母の話を聞きながら、言葉にできない違和感が少しずつ膨らんでいくのを感じていた。一度目の人生では、アルテミスが亡くなってから驚くほど短い期間でアバンリッシュはラミアを新たな妻として迎えていた。
それだけを考えれば、母の疑念は正しかったようにも思える。けれども今聞かされた話には、どうしても何かが引っ掛かった。妊娠を知ったアバンリッシュは、アルテミスの身体を気遣っていた。リリアの誕生を知った時も、知らせを受けてすぐに駆け付けている。
それなのに、娘の顔を見た途端に態度だけが変わった。
(……何か、可笑しい)
胸に浮かんだ疑問をすぐに口へ出すことはせず、リリアは母の話を最後まで聞くために、静かに続きを待った。
「そして私は……貴女からまで逃げるようになったの」
アルテミスは繋いでいた手へ視線を落としながら、今までで最も苦しそうに言葉を紡いだ。
「貴女を見るたび、お父様のことを思い出すようになった。貴女が悪いわけではないと頭では分かっていたのに、娘の姿を見るたびに、あの人に必要とされていないのだと思い込んでいた自分の苦しさまで蘇ってしまって……その痛みから逃げるうちに、私は貴女からも距離を置くようになってしまったの」
アルテミスは続ける。
「お父様への当て付けで貴女に冷たくしようとしたわけでも、貴女自身を憎んでいたわけでもないの。ただ、一度距離を置いてしまったら、今度はどんな顔をして母親として接すればいいのか分からなくなってしまって……貴女が話し掛けてくれても素っ気ない返事しかできなくなったし、何かを見せに来てくれた時だって、本当はもっと別の言葉を掛ければよかったのに、どうしても口から出てこなかった」
そこまで聞いたところで、リリアの記憶にも幼い頃の出来事がいくつか蘇り、母に見てもらいたくて覚えたばかりの刺繍を持っていった日も、教師に褒められたことを嬉々として報告した日も、返ってきたのは決まって短い言葉だけだったことを思い出した。
あの頃は、それを嫌われている証拠なのだと思っていたし、何度繰り返しても同じ反応しか返ってこないうちに自分から母のもとへ何かを持っていくことさえ次第にしなくなっていったのだ。
「……私が、悪かったわけではないのですか」
小さく零れた問いに、アルテミスは弾かれたように顔を上げた。
「当然でしょう。貴女は何も悪くないわ」
思わず強く言い切ったあと、自分の声音に驚いたように少し表情を曇らせたが、それでも今度だけは言葉を訂正しなかった。
「それだけは絶対に違う。貴女には何の罪もなかったし、私たち夫婦の間に何があろうと、それを貴女へ背負わせていい理由など一つもなかった。悪かったのは、自分の傷から逃げることばかり考えて、母親であることまで投げ出した私よ」
その言葉を聞いても、リリアはすぐには何も返せなかった。母から嫌われるような何かを自分がしてしまったのではないかと、長い間胸の奥で考え続けていたからこそ、「貴女は悪くない」という単純な一言が、思っていた以上に深く胸へ染み込んできたのだ。
「……酷いです」
「ええ」
「私、ずっと……何をすればお母様に見てもらえるのだろうって、そればかり考えていたのに」
「……ごめんなさい」
「先生に褒められても、お母様が褒めてくださらなければ嬉しくなかった。何かを作っても、一度くらい喜んでくださるのではないかって……ずっと」
そこから先は言葉にならず、リリアは俯いたまま静かに涙を零した。そんな娘を前にアルテミスは何かを堪えるように表情を歪めると、一度は抱き締めようとしたのか僅かに腕を伸ばしかけたものの、結局その手がリリアへ触れることはなく、行き場を失った指先をゆっくりと膝の上へ戻してしまった。
何故触れなかったのか、リリアには分からない。ただ、これまでのように目を逸らして立ち去ることだけはせず、泣き止むまで何も言わず傍らにいてくれた母の姿を見ていると、少なくとも今は自分から逃げようとしているわけではないのだと思えた。
「……お母様」
暫くして、リリアは涙を拭いながら顔を上げた。
「まだ、全部ではありませんよね」
「……どうして、そう思うの?」
「お父様がどうして私を見た瞬間に態度を変えたのか、お母様にも分からないのでしょう?」
その問いを受け、アルテミスは僅かに目を伏せた。
「……ええ。分からないわ。結局、一度も聞けなかったもの」
「それなら、お母様が思っていたことが、本当に正しかったのかも分からない」
「そうね……」
アルテミスはすぐには続けず、何かを考え込むように視線を落としたまま暫く黙り込んでいたが、やがて自嘲するような微かな笑みを浮かべると膝の上で重ねていた指先をゆっくりと握り締めた。
「今までの私なら、きっと疑いもしなかったでしょうね。あの人は私を愛していなかった、だから貴女が生まれてから余計に遠ざかったのだと、それだけで全部分かったつもりになっていたもの。でも……貴女にしてきたことを考えれば、もう同じようには言えないわ」
「同じようには……?」
「私は貴女の気持ちを一度も確かめないまま、自分の中だけで勝手に答えを決めて、何年も貴女から逃げ続けてしまったでしょう。それなら、お父様に対しても同じことをしていたのかもしれない。あの人が何を考えていたのか一度も聞かなかった私には、もう自分の考えていたことが全て正しかったなんて言えないわ」
リリアにも新しい疑問が生まれていた。父はなぜ、自分を見た瞬間に言葉を失ったのか。なぜ母と距離を置き、何かを探るように屋敷を空けるようになったのか。そして一度目の人生で、なぜアルテミスの死から間もないうちにラミアを迎えたのか。
今までなら全て「母を愛していなかったから」で片付けていた事柄が、一つずつ違う意味を持ち始めていた。
「……お母様」
「なに?」
「お父様に、聞いてみませんか」
その一言で、アルテミスの身体が僅かに強張った。
「……何を?」
「今、お母様が私に話してくださったことを、そのまま。どうして私を見て態度を変えたのか、お母様のことをどう思っていたのか……本人に聞けばいいのではありませんか」
言われてみれば、それはあまりにも単純な方法だった。本人に尋ねればいい――ただそれだけのことなのに、アルテミスは今まで一度もアバンリッシュへ問い掛けることができず、聞かないまま自分の中で答えを決め付けていたのだという。
けれど、それを愚かだと笑う気にはなれなかった。真実を知ることが怖くて、尋ねれば何もかもが壊れてしまいそうで、曖昧なまま残された僅かな希望へ縋ってしまう気持ちならリリアにも覚えがあったからだ。
「怖いわ」
気丈に取り繕うことさえせず、アルテミスは正直にそう答えた。
「もし私が思っていた通りだったら、今度こそ言い訳もできなくなるでしょう。あの人が本当に私を愛していなかったと、貴女のことも望んでいなかったのだと本人から言われたら……きっと、今でも怖い」
「……そうですね」
リリアはそれを笑わなかった。真実を聞く恐ろしさなら、自分もよく知っていたからだ。
「でも、お母様はもう逃げないって言ったでしょう?」
娘から返されたその言葉にアルテミスは一瞬息を呑み、その後困ったように眉を下げながら小さく笑った。
「そうだったわね。自分で言ったばかりなのに、もう逃げようとしていたみたい」
「怖いのでしたら……私も一緒にいます」
今度こそ、アルテミスは言葉を失ったようだった。僅かに目を見開いたままリリアを見つめ、何かを言おうとして開きかけた唇もそのまま止まってしまった母の姿からは少なくとも今の言葉を予想していなかったことだけは伝わってくる。
昨日までまともに向き合うことさえできず、何年もの間ほとんど言葉を交わしてこなかったのだから、そんな母に「私も一緒にいる」と告げた自分自身、少し前までなら同じことを口にするなど考えもしなかっただろう。
「勘違いしないでください。まだ、お母様を許したわけではありません」
リリアはすぐにそう付け加えたものの、その声音には先ほどまでの鋭い拒絶が残っておらず、それでもアルテミスは安堵した様子を見せることも、許されたのだと喜ぶこともなく、ただ娘の言葉を噛み締めるように静かに頷いただけだった。
「でも、お母様が今話してくださったことが本当なら、私も知りたいのです。お父様が何を考えていたのか……そして、私たちがどうしてこんなことになったのか」
「……分かったわ」
アルテミスはゆっくりと頷くと、今まで娘へ触れていた手をほんの少しだけ動かし、拒まれないことを確かめるように優しく指先を包み込んだ。
「一緒に、聞きましょう」
その返事を聞いたリリアも、静かに息を吐いた。
母娘の間には、未だ埋められていない長い年月が残されている。一度話し合ったくらいで過去の傷が癒えるわけでもなく、アルテミスをすぐに母親として受け入れ直せるほど、リリアの心も単純ではなかった。
それでも、何も知らないまま互いに背を向けていた昨日までとは、確かに何かが違っていた。
今は少なくとも同じ疑問を抱き、同じ相手へ答えを求めようとしている。
リリアは繋がれた手に視線を落とし、そこから伝わってくる母の温もりを感じながら、これまで自分が知っているつもりでいた父の姿を静かに思い返した。
母を愛さず、自分にも関心を示さず、アルテミスの死後には間を置くことなくラミアを新たな妻として迎えた父――少なくとも一度目の人生を生きたリリアにとって、アバンリッシュとはそういう人間であり、その認識を疑おうと思ったことさえなかった。
けれども、今日初めて母の口から語られた過去を知ってしまった今では、それまで当然のものとして受け入れていた父の行動にも、説明のつかない部分がいくつも残されている。
何故、母の懐妊をあれほど喜び、その身体を気遣っていた人が、生まれたばかりの自分を見た途端に態度を変えたのか。何故、何も説明しないまま母から距離を置き、屋敷を空けて何かを探るようになったのか。そして何より、あの人は本当に、母が思い続けていたような理由から二人を遠ざけていたのだろうか。
今のリリアには、まだ何一つ分からない。けれども、それならば今度は思い込みだけで答えを決めるのではなく、本人の口から聞けばいいのだ。
これまで知っているつもりでいた父の姿が、本当にその通りだったのか――その答えを確かめるために、リリアは隣にいる母の手を握ったまま、今度こそアバンリッシュと向き合うことを決めた。




