15.二度と一人にはしない
12話の続きになります
アルテミスは互いの吐息が触れ合いそうなほど顔を近付けると、どこにも焦点の定まっていない瞳を必死に追い掛けながら今だけは自分を見てほしいと縋るように言葉を続けた。
「リリア、お願いだから私を見て。私はここにいるわ。夢でも幻でもない、ちゃんと貴女の前にいるの。だからお願い……今だけは、私を見て」
握られた手から伝わってくる温もりはあまりにもはっきりとしていて、僅かな痛みさえ感じられた。それでも今のリリアには目の前の出来事が現実だと信じることができず、怯え切った子どものように何度も首を横に振りながら、どうにかその手を振り解こうと腕に力を込めた。
「嫌……嫌よ。そんなことを言って、また私を騙すのでしょう……?さっきだってそうだったもの。夢の中のお母様は私を抱いてくれて、生まれてきてくれてありがとうって、あんなに優しく笑ってくださったのに…………!」
声を荒らげるほど、先ほどまで見ていた光景が鮮明に脳裏へと蘇ってくる。生まれたばかりの自分を胸へ抱き、頬へ涙を伝わせながら幸せそうに微笑んでいた母の姿も、その腕に包み込まれた赤ん坊へ向けられていた慈しみに満ちた眼差しも、今まで一度たりとも自分へ向けられなかったものだったからこそ、あれが夢だったと理解した瞬間の絶望がリリアの心へと深く突き刺さったのだ。
「そんなこと、本当にあるはずないじゃない……お母様はずっと、私のことなんて見てくれなかったもの。何度話し掛けても、何をしても、いつも私から目を逸らしていたでしょう……?」
吐き出すように零れた言葉と共に視界がまた滲んだ。
これ以上期待したくないのに、目の前にいるアルテミスの姿は夢の中で見た母とあまりにもよく似ていて今までの冷淡な面影などどこにもなく、ただ娘を失うことを恐れている一人の母親のようにしか見えない。それが余計に苦しくて、もしこれすら夢であるのなら今度こそ耐えられないと思ってしまったのだ。
「お願いだから、もう消えて……これ以上、私に期待させないで。夢なら夢のままで終わってよ……!」
最後には叫ぶというより懇願するような声で言い放った。リリアは逃れようと何度も身体を捩ったものの、アルテミスは手を離さなかった。むしろ娘が零した言葉を聞くほどに指先へと力を込めて、痛みに耐えるように眉を寄せながらも一度たりとも目を逸らさずに一つ一つを自分が受け止めなければならないものとして黙って向き合っていた。
「……違うの」
ようやく唇から零れた声は、普段の彼女からは想像もできないほど弱々しかった。
「違うのよ、リリア……」
けれども、その続きをどう言えばいいのか分からない。
嫌っていたわけではない。愛していなかったわけでもない。そう伝えたいのに、これまで自分が娘へしてきたことを思えばその一言さえ都合のよい言い訳にしか聞こえないような気がして、アルテミスは何度も口を開きかけては閉ざした。
「何が違うの……?」
リリアが震える声で問い返す。
「何が違うというのですか。私はずっと待っていたのに……お母様が一度でも私を見てくださることを、名前を呼んでくださることを、ずっと待っていたのに……!」
一度堰を切った感情は留まることを知らなかった。
「朝だって、お昼だって、夜だって……一緒に食事をしていたのに、お母様はほとんど私に話し掛けてくださらなかったでしょう。私が何か言っても、必要なことだけ答えて、それで終わりで……それでも私は、明日なら何か変わるかもしれないって、ずっと思ってたの」
あの日々を思い返すほどに声は震え、涙が次々と頬を伝っていく。
「勉強だって頑張ったわ。礼儀作法も、刺繍も、ダンスも、全部頑張った。先生に褒められたら、お母様にも褒めてもらえるかもしれないと思ったから……でも何をしても駄目だったじゃない。私がどれだけ頑張っても、お母様は一度も私を見てくれなかった……!」
アルテミスの胸が鋭く痛んだ。言われるまでもなく、その全てに覚えがあったからだ。食卓で話し掛けてきた娘に必要最低限の返事だけを返して後は夫の様子ばかり気にしていたことも、課題を抱えて嬉しそうに報告へ来たリリアに「そう」とだけ告げて本へと視線を戻していたことも、初めて刺繍を完成させたと言って見せに来た娘に満足な感想一つ返さなかったことも、今となっては何一つ忘れることができない。
当時は見ないふりをしていた。気付いてないふりをしていた。本当は、娘が傷付いていることくらい分かっていたのに。
「ごめんなさい……」
気付けば、自然とその言葉が零れていた。
「本当に、ごめんなさい……」
それ以上に相応しい言葉が見つからなかった。過去をなかったことにはできず、どれだけ頭を下げても幼いリリアが味わってきた寂しさを消すことなどできない。それでも今のアルテミスにできるのは、自分が間違っていたと認めて逃げずに謝ることだけだった。
けれどもリリアは、すぐにはその謝罪を受け取ろうとはしなかった。
「今さら……どうして今さら謝るのですか」
震えるようなか細い声が零れ落ちる。
「私はずっと待っていたのに……何年も待っていたのに、お母様は一度も何も言ってくださらなかったでしょう。それなのに、どうして今になってそんな顔をするの……?」
責めるために口にしたはずの言葉だったのに、そこに宿っていたのは怒りよりも長い年月の中でどこにも向けられなかった寂しさだった。
リリアの声を聞いたアルテミスは前夜、自室で一人きりになった時に思い返したものを鮮明に思い出した。引き出しの奥へ仕舞われていた小さな箱――その中に残された、捨てることなど一度もできなかった色褪せた紙の花や不格好な刺繍だ。
「昨日……貴女が眠った後、私は自分の部屋へ戻ったの」
唐突にそう切り出したためか、リリアは涙を浮かべたまま僅かに眉を寄せた。
「何を言っているのですか……?」
「引き出しの中に、ずっと開けていなかった箱があるの。そこにはね、貴女が幼い頃にくれたものを仕舞っていたのよ」
その言葉を聞いた瞬間、リリアの瞳が微かに揺れた。
「貴女が作ってくれた紙の花も、初めて刺繍をした時にくれた布も、子どもの字で私の名前を書いてくれた手紙も……一つも捨てることができなかった」
「……嘘」
また反射的に否定したものの、その声には先ほどまでの強さがなかった。
「そんなもの……私はもう、覚えてすら……」
「覚えていなくても仕方がないわ。随分昔のことだもの。でも私は覚えてる。貴女がまだ小さかった頃、この部屋へ来て、背中に隠していた布を私へ差し出した日のことも」
アルテミスは少しだけ目を伏せると、その時の光景を思い出すようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「『刺繍の先生に教えていただいたの。まだ上手ではないけれど、お母様に差し上げようと思って』って、貴女はそう言ったわ。それなのに私は、たった一言『そう、ありがとう』と答えただけで、それ以上何も言えなかった」
リリアの喉が小さく鳴る。
「私は……そんなことを……?」
「ええ。その後もしばらくそこに立っていた。きっと、私が何か言うのを待っていたのでしょう。それなのに私は何も言わなくて、貴女は最後まで笑ったまま『失礼いたします』と頭を下げて部屋を出ていったのよ」
語りながら、アルテミスの目元にも涙が浮かび始めていた。
「扉が閉じる直前、貴女が少しだけ俯いたのを見て傷付けたことくらい分かってた。分かってたのに、私は追い掛けなかった。呼び止めもしなかった。ただ、受け取った布を箱へと静かに仕舞っただけだったの」
「なら……」
リリアは唇を震わせた。
「なら、どうして……?」
アルテミスはすぐには答えられなかった。昨夜、自分自身へ何度も問い掛けた言葉だったからこそ今になって綺麗な答えなど口にすることはできず、何度か息を整えてから漸く小さな声を絞り出した。
「怖かったの」
「……何が?」
「貴女を愛することが」
リリアは思わず目を見開いた。
「愛することが……怖かった?」
「ええ。おかしな話でしょう。自分の娘なのに、何を恐れることがあるのだと言われれば、今の私にも返す言葉はないわ。それでも当時の私は、自分が傷付くことばかりを恐れて貴女と向き合うことから逃げ続けていたの」
アルテミスは膝の上へと視線を落とし、置き直していた手を強く握り締める。
「貴女を見ると、色々なことを思い出した。夫とのことも、自分が必要とされていないのではないかと思っていたことも、全部……だから私は、何も悪くない貴女からまで目を逸らした」
「お父様……?」
突然出てきた名前に、リリアは眉を寄せた。どういう意味なのか聞きたかったけれど、今はまだそこまで頭が回らなかった。夢から覚めた直後で、母に突然謝られて知らなかった過去まで聞かされているのだから、思考が追い付かなくなって当然だった。
「お父様と何があったの……?」
それでも、ようやく口から出た問いにアルテミスは一瞬だけ口を閉ざしていた。
ここで全てを話すべきなのだろう、昨夜自分自身へそう誓ったはずだと。けれども今のリリアの状態を見たアルテミスは、一度に全てを聞かせることが正しいのか分からなくなったのだ。
「それについてはきちんと話すわ。ただ……長い話にもなるし、今の貴女へ一度に聞かせるべきなのか私にはまだ分からない」
「また、隠すの?」
「違う」
今度の返事だけは迷わなかった。
「もう隠さない。貴女が知りたいと言うのなら、私は全部話す。どれだけ醜くても、情けなくても、自分に都合の悪いことでも……もう逃げないと決めたから」
その言葉に、リリアは何も返せなかった。
今までのアルテミスならきっと目を逸らしていた。言葉を濁し、用事があると言って立ち去っていた。それなのに今は、泣きながらも真っ直ぐ自分だけを見つめていて、夢の中で見た母と重なるほど優しい目だった。それが嬉しいのか、苦しいのか、リリアにも分からなかった。
「……私は、お母様を許せません」
長い沈黙の末、リリアはようやく本心を口にした。
「今までのことを、なかったことにはできません。どれだけ本当は愛していたと言われても、私はずっと一人だったし、お母様に見てほしくて苦しかったことも、全部なくなるわけではありません」
アルテミスは静かに頷いた。
「ええ」
「だから、すぐに今までみたいに……いえ、今までなんて何もなかったけれど……普通の親子みたいになれるとも思えません」
「それでいいわ」
あまりにも即座に返されたため、リリアは僅かに顔を上げた。
「……それで、いいのですか」
「いいわ。許してほしくて謝っているわけではないもの」
その返事に、リリアの目が少しだけ揺れる。
「では、何のために……」
問い掛けると、アルテミスは一度だけ目を伏せ、前夜の自分を思い返すように静かに息を吐いた。
「もう二度と、貴女から目を逸らしたくなかったから」
それだけだった。立派な理由ではないし、失った時間を取り戻せるわけでもない。けれどもアルテミスにとっては、それが今言える精一杯の本音だった。
「昨日、貴女が倒れた時、本当に怖かった。もしこのまま目を覚まさなかったらどうしようと思ったし、もし何も伝えられないまま貴女を失ったら、私は一生後悔すると思ったの」
握っていた手を、今度は優しく包み込む。
「だから今さらだと言われても、都合が良いと言われても構わない。貴女が私を嫌っても、母親だと思えなくても、それも全部受け入れるわ。それでも私は、もう貴女のことを見ないふりだけはしたくない」
アルテミスはリリアはその手を振り払わなかった。だからといって握り返したわけでもなく、ただどうすればよいのか分からず、その温もりを受け入れたまま動けずにいたのだ。
「……夢の中のお母様は、とても幸せそうでした」
不意に、リリアがぽつりと呟いた。
「私を抱いて、ずっと笑っていて……生まれてきてくれてありがとうって」
その言葉に、アルテミスの瞳が大きく揺れる。
「……そう」
「本当に、言ったのですか」
今度の問い掛けには、先ほどまでの攻撃性はほとんど残っていなかった。ただ確かめたい、あれが単なる自身の願望が見せた夢ではなかったのだと知りたいと、その思いだけが滲んでいた。
「ええ」
アルテミスは迷わず頷いた。
「貴女が生まれた日、私は本当にそう言ったわ」
その瞬間、リリアの瞳から再び涙が零れ落ちた。
「……どうして」
先ほどとは違う意味を持つ言葉だった。
「どうして、そんなに愛してくださったのに……」
最後まで言い切れず、声が震える。
「どうして私たちは、こんなことになってしまったの……」
その問いに、アルテミスは何も答えなかった。答えられなかったのではなく、今度こそきちんと話さなければならないと分かっていたからだった。
「……リリア」
静かに娘の名を呼ぶ。
「少し休みなさい」
「でも……」
「逃げないわ」
その一言に、リリアは口を閉ざした。
「目を覚ましたら、全部話す。お父様とのことも、私がどうして貴女から目を逸らすようになったのかも……そして、私が今まで何を考えていたのかも」
アルテミスは今度こそ真正面から娘を見つめた。
「だから今は、少しだけ身体を休めて」
リリアはすぐには頷かなかった。けれども先ほどまでのように拒絶することもなく、しばらく母の顔を見つめ続けた末やがて疲れ切ったように小さく息を吐いた。
「……本当に、いなくならない?」
あまりにも幼い問いだったけれど、今のリリアにはそれが何よりも大切だった。アルテミスは一瞬だけ目を見開き、すぐに柔らかく表情を緩める。
「ええ。ここにいるわ」
「私が眠っても?」
「ここにいる」
「目を覚ましても?」
「いるわ」
その答えを聞いて、ようやくリリアの肩から力が抜けた。
まだすべてを信じ切れたわけではなく、これまでのことを許せたわけでもない。それでも、今だけは目の前にいる母の言葉をほんの少しだけ信じてみたいと思えたのだろう、リリアはそれ以上拒むことなく、アルテミスに促されるままゆっくりと寝台へ身体を預けた。
乱れていた掛布を整えて柔らかな寝具へと包まれると、張り詰め続けていた心と身体の疲れが一気に押し寄せたのかリリアの瞼は次第に重くなっていった。それでも意識が落ちてしまう直前まで彼女の指先だけはアルテミスの袖を僅かに掴んだまま離れようとはせず、そんな些細な仕草に気付いたアルテミスは胸の奥を締め付けられるような痛みを覚えながら静かに娘の傍らへと腰を下ろした。
これまで積み重ねてきた年月をたった一度の謝罪でなかったことにすることなどできないし、どれほど後悔したところで幼いリリアが誰にも甘えることのできないまま一人で涙を流した夜も、母親の言葉を待ち続けて諦めていった日々も、取り戻すことはできない。けれども過去を変えられないからといって、この先まで同じ過ちを繰り返していい理由にはならなかった。
眠りへ落ちた娘の髪を起こさぬようそっと撫でながら、アルテミスは自分の中で何度も言い聞かせるように今度こそ逃げないと静かに誓っていた。次にリリアが目を覚ました時には、自分がどれほど弱く、どれほど愚かな人間だったのかも、アバンリッシュとの間で何が起こって何を恐れて娘から目を逸らすようになったのかも、もう何一つ隠さず話そうと思った。
それを聞いたリリアが自分を許してくれるかどうかは分からないし、むしろ許されない方が当然なのかもしれない。それでも母親として受け入れてもらうためではなく、これ以上何も知らないまま娘を一人にしないために今度こそ最後まで向き合わなければならないのだ。
アルテミスは袖を掴んだまま眠る小さな手へそっと自分の手を重ね、その温もりを確かめるように包み込むと、静かに目を伏せた。
―――もう二度と、この子を一人にはしない。
その決意だけは、今度こそ手放さないつもりだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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