第六十三話 東京大空襲と兄がくれた命 後編
前編のあらすじ
兄の寛乃助は、その身を挺して、蔵之助たちを庇ってその命を散らした。蔵之助は兄の最期の命を元に、その場を離れるが、それは決して簡単に受け入れられるものではなかった。
――昭和二十年(1945年)三月十日――
語り手:神楽坂蔵之助
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一 炎の向こうに消えた兄
わしは、声の限りに叫んだ。
光蔵は葵生を背負い、春子は貫一郎を抱え、わしらは炎の中を必死に走っておった。
背後では、建物が崩れる音が響いておる。
火の粉が空を舞い、熱風が顔を打った。
「父上! こっちだ!」
光蔵が叫んだ。
「……うむ!」
わしは返事をしたつもりじゃった。
しかし、自分の声が聞こえたかどうかも分からぬ。
頭の中には、兄上の姿しかなかった。
燃え盛る建物の前に取り残された兄上。
わしらをかばい、脚を折りながらも最後の力を振り絞って押し出してくれた兄上。
そして、わしに向かって言った言葉。
『家族の未来を守ってやれ。お前ならできる』
わしは、あの言葉を聞きたくなかった。
もっと違う言葉を聞きたかった。
「また明日会おう」
「今度、一緒に花見をしよう」
いつものように、そう言ってほしかった。
わしは、走りながら振り返った。
炎の向こうに、兄上の姿が小さく見えた。
「兄上…!」
そのとき、光蔵の背中から葵生の泣き叫ぶ声が聞こえた。
「嫌ですわぁっ! 寛之助おじいさま! あおい、戻りますの! おじいさまぁっ!」
葵生は光蔵の肩越しに手を伸ばしておった。
「葵生! 駄目だ! しっかりつかまって!」
「嫌ですわ! あおい、置いていきたくありませんの!」
光蔵の声も震えておった。
春子は貫一郎を抱えながら、何度も背後を見ようとしていた。
「寛之助伯父様…! どうか…どうか……!」
しかし、わしらには戻ることができない。
炎は刻一刻と広がっておった。
そして、ついに。
大きな火柱が上がり、兄上の姿を完全に遮った。
「……あ」
わしは足を止めそうになった。
兄上が見えぬ。
どこにも見えぬ。
ほんの少し前まで、すぐそばにおったのに。
わしの手を握っておったのに。
今は、ただ炎があるだけじゃ。
そのとき、わしの口から奇妙な声が漏れた。
「……はは」
自分でも、何が起きたのか分からなかった。
「ははは……」
わしは笑っておった。
涙を流しながら、笑っておった。
「兄上…何やっとるんじゃ……」
まるで、兄上がいつものように冗談を言っておるかのような気がした。
きっと、少し待てば戻ってくる。
昔のように笑いながら、わしの肩を叩いてくれる。
そう思いたかった。
「……ははは……そんなところにおらんで……早く来い……」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえてくるようじゃった。
「父上!」
光蔵が叫んだ。
「父上、走って!」
わしは、ようやく前を向いた。
「うむ」
それから先の記憶は、ところどころ途切れておる。
ただ一つ、はっきり覚えていることがある。
あの日、わしは兄上を置いて逃げた。
兄上の命を犠牲にして、生き延びたのじゃ。
二 記憶のない防空壕
わしらがどれほど走ったのか、よく覚えておらぬ。
道を何度曲がったのか。
誰とすれ違ったのか。
どこで転び、どこで立ち上がったのか。
そのほとんどが、曖昧じゃ。
気がつくと、わしらは一時的な避難場所にたどり着いておった。
周囲には、逃げてきた人々が身を寄せ合っていた。
誰かが、近くの防空壕へ案内してくれた。
しかし、そこが安全なのかどうかさえ分からなかった。
あの夜、東京の火災はあまりにも激しく、防空壕に入ったからといって助かるとは限らなかったのじゃ。
わしは、壕の中で何をしておったのだろう。
愛海の名を呼んだような気もする。
兄上を助けに戻ると言って、誰かに止められたような気もする。
葵生の泣き声が、ずっと聞こえていたような気もする。
しかし、何一つ確かではない。
記憶に残っているのは、暗闇と土の匂い。
誰かの荒い息遣い。
そして、腕の中に何もないという感覚だけじゃった。
兄上の手は、もう握っておらぬ。
わしは何度も自分の手を見つめていたらしい。
光蔵が後になって教えてくれた。
「父上、あのとき何度も『兄上はどこじゃ』って言っていたんだよ」
そう言われても、覚えておらぬ。
春子も申しておった。
「お父様、わたくしがお声をかけても、ほとんどお返事がありませんでしたの…」
そうじゃったのか。
わしには分からぬ。
八十年間という長い人生の中で、あれほど何も考えられなくなったことはなかった。
わしは、軍人として何度も危険に直面してきた。
戦場で部下を失ったこともある。
死を覚悟したこともある。
しかし、あの夜ばかりは、ただの老人になっておった。
いや。ただの老人ですらなかったのかもしれぬ。
江戸時代に兄の後ろをついて歩いていた、幼い蔵之助に戻っておったのじゃ。
三 変わり果てた東京
次に、わしの記憶がはっきりと戻ったのは、夜が明けてからじゃった。
わしは、焼け野原に立っておった。
空は、赤黒く濁っていた。
煙が立ちこめ、遠くの景色さえよく見えぬ。
昨日まで家々が並んでいた場所には、焼けた柱や瓦礫が残っておった。
見慣れた道も、建物も、ほとんど形を失っていた。
「ここは……」
わしは周囲を見渡した。
東京。わしが生まれ育った街じゃ。
江戸と呼ばれていた頃から、何度も姿を変えてきた街じゃった。
明治の文明開化では煉瓦造りの建物が増え、鉄道が走り、ガス灯がともった。
大正時代には関東大震災によって甚大な被害を受けた。
それでも東京は復興した。
昭和になってからも、街には人があふれ、子どもたちが遊び、人々はそれぞれの暮らしを営んでいた。
その東京が、焼けておった。
「……何ということじゃ……」
わしは、ようやく声を出した。
遠くから、人々の泣き声が聞こえてきた。
家族を探す声。
助けを求める声。
亡くなった者の名を呼ぶ声。
あちらこちらに、炎の爪痕が残っておる。
わしは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
すると、背後から声が聞こえた。
「あなた…!」
愛海じゃった。
わしは振り返った。
愛海が、涙を浮かべながら駆け寄ってきた。
「あなた! ご無事だったのですね…!」
「愛海……」
わしは、妻の顔を見た。
その瞬間、ようやく現実に引き戻されたような気がした。
「愛海…生きておったか…」
「ええ! あなたも……!」
愛海はわしに抱きついた。
わしも、妻を強く抱きしめた。
しかし、すぐに兄上のことを思い出した。
「…愛海」
「はい…?」
「兄上が……」
声が震えた。
「兄上が…まだ、あそこに……」
愛海は、わしの顔を見つめた。
そして、静かにうなずいた。
「…探しましょう、あなた」
その言葉を聞いて、わしはようやく動き始めた。
四 兄を探して
火の勢いが弱まった場所から、わしらは兄上を探し始めた。
しかし、焼け野原の中を歩くことさえ容易ではなかった。
瓦礫が道をふさぎ、熱の残る場所もあった。
建物がなくなったため、どこが昨日までの道だったのか、分からぬ場所も多かった。
わしは愛海とともに、兄上が取り残された場所へ向かおうとした。
「あなた、足元にお気をつけくださいませ」
「うむ…」
愛海は、わしの腕を支えてくれた。
わしは八十歳じゃ。
若い頃のように素早く歩くことはできぬ。
それでも、兄上を探さずにはおれなかった。
修蔵や節子、兄上の娘の冬子も、別の方向から捜してくれておった。
ほかの家族も、それぞれ無事を確認しながら行動していた。
しかし、わしの頭の中には兄上のことしかなかった。
「兄上…」
何度も名前を呼んだ。
「兄上、どこにおられる…」
返事はなかった。
わしは、焼けた柱を見つめた。
このあたりだったか。
いや、もう少し先だったか。
あの夜、兄上が最後に立っておった場所。
炎によって姿が遮られた場所。
そこへ近づくたびに、胸が苦しくなった。
しかし、探さねばならぬ。
兄上を、このまま置いていくわけにはいかぬ。
そのときじゃった。
遠くから、悲鳴が聞こえた。
「父上ぇっ!!」
修蔵の声じゃった。
続いて、節子の声が響いた。
「伯父上…! ああっ…!」
そして、冬子の悲鳴。
「お父様ぁぁっ!!」
わしは、全身が凍りつくような感覚に襲われた。
「兄上……?」
愛海が、わしの腕を握った。
「あなた…!」
わしは、その手を握り返した。
そして、声のする方へ向かった。
五 変わり果てた兄
修蔵たちの姿が見えた。
三人は、焼け残った壁の近くに集まっておった。
修蔵は、その場に膝をついていた。
節子は口元を押さえ、涙を流していた。
冬子は地面に崩れ落ちておった。
「…修蔵」
わしが声をかけると、修蔵は振り返った。
「…父上…」
その顔を見た瞬間、わしは悟ってしまった。
「見つかったのか……」
修蔵は、何も答えなかった。
ただ、静かにうなずいた。
わしは、ゆっくりと近づいた。
そこには、一人の老人が倒れておった。
衣服は焼け、身体にはひどい傷が残っていた。
昨夜まで、わしの隣で笑っておった兄上とは、あまりにも違う姿じゃった。
しかし、わしには分かった。
その顔立ち。
残っていた衣服の一部。
そして、身につけていた見覚えのある品。
間違いない。兄上じゃ。
「…兄上?」
わしは、声をかけた。
返事はなかった。
「兄上…わしです…蔵之助です……」
わしは、兄上のそばにしゃがんだ。
「……起きてください……」
手を伸ばした。
しかし、兄上は動かぬ。
身体に触れた瞬間、わしは悟った。
もう、命はない。
「……兄上……」
言葉が出なくなった。
修蔵が、そっとわしの肩に手を置いた。
「父上……」
わしは、その手を感じながら、兄上の顔を見つめていた。
どうしてじゃ。
どうして、こんな姿になってしまったのじゃ。
昨日まで、わしらは一緒に歩いておった。
ほんの数時間前まで、兄上は生きておった。
わしに向かって、家族を守れと申しておった。
それなのに。
「……兄上……起きてくれ……」
わしは、兄上の手に触れた。
「わし、ちゃんと逃げたぞ……」
涙がこぼれた。
「光蔵も…春子も…葵生も…貫一郎も…皆、生きておる……」
わしは、必死に話しかけた。
「兄上が守ってくれたから…皆、助かったんじゃ……」
返事はなかった。
「だから……もう、起きてもよいじゃろう……?」
わしは、とうとう泣き崩れた。
八十歳の男が、焼け野原の中で声を上げて泣いた。
元陸軍中将としての威厳も、長老としての立場も、何も残っていない。
わしはただ、兄を失った弟じゃった。
六 冬子の涙
冬子は、父親の姿を見つめたまま、動けずにおった。
「お父様……」
その声は、ひどく小さかった。
わしは涙を拭いながら、冬子のそばへ座った。
「冬子……」
冬子は、わしを見た。
「伯父様……」
その目には、涙があふれていた。
「わたくし…昨日まで、お父様とお話ししていましたの……」
わしは静かにうなずいた。
「そうじゃな……」
「今度、またご一緒に本のお話をしましょうって…お約束していたんですの…」
冬子は、声を詰まらせた。
「それなのに……こんな……」
そして、とうとう泣き崩れた。
「お父様ぁ……!」
わしは、冬子の肩を抱いた。
この子は兄上の末娘じゃ。
明治三十四年(1901)に生まれ、文学を愛し、長い茶色の髪を大切にして育ってきた。
幼い頃には、よく兄上のそばで本を読んでおった。
兄上も、そんな冬子のことを嬉しそうに話していたものじゃ。
「冬子は、わしには分からぬほど難しい本まで読むようになったぞ」
そう言って笑っておった兄上。
その笑顔が、もう見られぬ。
冬子は、わしの胸で泣き続けた。
「伯父様……お父様を……もう一度……」
わしは答えられなかった。
ただ、冬子の背中をなで続けた。
そのとき、節子が静かに申した。
「父上…伯父上を、安全な場所へお連れしましょう……」
わしは、ゆっくりとうなずいた。
「……うむ」
兄上を、これ以上この焼け野原に置いておくわけにはいかなかった。
七 兄が帰ってきた日
わしらは、周囲の人々の助けも借りながら、兄上の遺体を安全な場所へ移した。
東京の街は大きな被害を受け、多くの犠牲者が出ておった。
亡くなった人々を丁寧に弔うことさえ、難しい状況じゃった。
それでも、わしらは何とか兄上を家族のもとへ連れ帰りたかった。
ようやく遺体を安置できたとき、わしは深く頭を下げた。
「…兄上、お帰りなさい…」
その言葉を口にした瞬間、胸が締めつけられた。
本当は、生きて帰ってきてほしかった。
いつものように玄関から入ってきて、
「蔵之助、無事じゃったか!」
そう言ってほしかった。
しかし、兄上はもう何も言わぬ。
その後、眞紀子にも知らせが届いた。兄上の妻じゃ。
若い頃から何十年も連れ添ってきた伴侶を失ったのじゃ。
眞紀子は、兄上の姿を確認すると、しばらく言葉を失っておった。
「……あなた……?」
その声を聞いたとき、わしの胸が痛んだ。
眞紀子は、兄上のそばに座った。
「あなた……わたくし、待っておりましたのよ……」
涙が頬を伝った。
「もう一度、お帰りなさいって……申し上げたかったんです……」
わしは、その姿を見ていられなかった。
兄上には、眞紀子がおった。
子どもたちがおった。
孫たちもおった。
わしだけが、兄上を失ったのではない。
兄上を愛していた、数え切れぬほどの人々が、その死を悲しんでおったのじゃ。
そして、わしは初めて強く思った。
兄上が守ってくれたのは、わしらの命だけではない。
眞紀子や冬子たちが、さらに大切な家族を失わずに済むようにしてくれたのじゃ。
そのことが、ありがたく、そして苦しかった。
八 二つの家族による密葬
数日後。わしらは、兄上のために小さな葬儀を行った。
戦時中であり、しかも東京大空襲の直後じゃ。
かつて母の志帆が亡くなったときのように、大勢の人々を招いて盛大に弔うことなどできなかった。
棺や供物を用意することにも苦労した。
それでも、わしらはできる限りのことをした。
兄上の家族。
わしの家族。
出征や疎開などで遠く離れている者を除き、東京に残っていた親族たちが集まった。
眞紀子。
四季子。
千恵と千恵子。
冬子。
そして、軍務などの事情が許し、駆けつけることのできた親族たち。
わしの家からも、愛海、修蔵、節子、光蔵、春子をはじめ、多くの者が参列した。
幼い葵生や弘一もおった。
貫一郎も、家族に抱かれていた。
しかし、義蔵や幸丞は遠い戦地におり、奈恵も学童疎開の引率で東京を離れておった。
その者たちは、兄上の最期をまだ知らぬ。
わしは、それを思うと胸が痛んだ。
いずれ、帰ってきたときに伝えねばならぬ。
あの優しかった寛之助伯父上は、もうおらぬのじゃと。
兄上の棺を前に、わしらは静かに手を合わせた。
長女の四季子は、涙をこらえながら申した。
「お父様……わたくしは、人の命を助けるために看護の道を選びました。それなのに、お父様を助けて差し上げることができませんでした……」
千恵は、父親との思い出を語った。
「お父様、わたくしの楽器のお話を、いつも楽しそうに聞いてくださいましたね……」
千恵子は、震える声で申した。
「お父様……もう一度、わたくしの歌を聴いていただきたかったです……」
冬子は、棺の前に静かに座っておった。
「お父様……わたくし、これからも本を書き続けますわ。いつか、お父様のことも……」
言葉が続かなくなり、涙がこぼれた。
わしは、一人一人の姿を見つめておった。
兄上の子どもたちは、皆、それぞれの人生を歩んできた。
その人生の始まりには、いつも兄上と眞紀子がおったのじゃ。
わしは、兄上が自分の家族をどれほど大切にしてきたかを知っておる。
だからこそ、残された者たちの悲しみが痛いほど分かった。
九 葵生の止まった時間
兄上の葬儀で、わしが特に心配しておったのは葵生じゃった。
あの日の朝から、葵生はほとんど笑わなくなっておった。
いつもなら、
「おじいさま!」
と嬉しそうに駆け寄ってくる子じゃ。
母の春子に髪を結ってもらえば、鏡を見て喜ぶ。
弘一と遊べば、楽しそうに笑う。
本を読めば、目を輝かせて感想を話してくれる。
そんな葵生が、空襲のあと、まるで抜け殻のようになってしまった。
食事を勧められても、ほとんど手をつけぬことがあった。
誰かに話しかけられても、小さくうなずくだけじゃった。
眠っていても、突然目を覚ますことがあったらしい。
春子は、娘を心配しておった。
「お父様…葵生、あの日から、ずっとこのような様子ですの…」
わしは葵生を見つめた。
葵生は、春子のそばで静かに座っておった。
お気に入りの髪は、いつものように丁寧に整えられておる。
しかし、その目には、以前のような輝きがなかった。
「…葵生」
わしが声をかけると、葵生はゆっくりと顔を上げた。
「おじいさま……」
「大丈夫か…?」
葵生は、小さくうなずいた。
しかし、その表情は悲しそうじゃった。
わしは、それ以上何も聞けなかった。
あの子は、目の前で兄上が重傷を負い、炎の中に取り残される姿を見たのじゃ。
しかも、光蔵に背負われながら、最後まで戻ろうとしておった。
どれほど怖かったじゃろう。
どれほど悲しかったじゃろう。
わしには、想像することしかできなかった。
十 あおいは悪い子ですの
葬儀の終わりが近づいた頃、葵生は一人で兄上の棺の前へ歩いていった。
春子が、そっと後を追った。
わしも、その姿を見守っておった。
葵生は、棺の前に座った。
そして、小さな声で話しかけた。
「……寛之助おじいさま……」
返事はない。
葵生は、しばらく黙っていた。
やがて、その目から涙がこぼれた。
「……あおい……悪い子ですの……」
わしは息をのんだ。
春子も、驚いたように娘を見つめた。
「葵生…?」
葵生は、震える声で続けた。
「おじいちゃまが、あんなに苦しんでいらっしゃったのに…あおい、逃げてしまいましたの……」
春子は、静かにしゃがんだ。
「葵生……」
「あおい…戻りたかったんですの…!」
葵生の声が大きくなった。
「おじいさまを助けたかったんですの…! でも、あおい…何もできませんでしたの…!」
涙が次々とこぼれた。
「あおいが、もっと強かったら…!」
わしは胸が締めつけられた。
「もっと早く走れたら…! もっと大きかったら…!」
葵生は、両手で顔を覆った。
「あおい…悪い子ですわ…! おじいちゃまを置いて逃げるなんて…!」
その瞬間、春子が葵生を抱きしめた。
「葵生!」
葵生は、母の胸の中で泣き続けた。
「お母さま……! あおい、悪い子ですの……!」
春子は首を横に振った。
「いいえ、葵生。あなたは悪い子ではありませんわ」
「でも…!」
「葵生、よく聞いてちょうだい」
春子は、娘の頬に手を添えた。
「寛之助伯父様は、あなたが生きていてくださることを願っていらっしゃったのよ」
葵生は、涙に濡れた目で母を見つめた。
「…あおいが…生きていることを…?」
「ええ」
春子は、優しくうなずいた。
「伯父様は、あなたを大切に思っていらっしゃったから、あのように守ってくださったんですの」
「でも…あおいだけ…」
「葵生。あの日、あなたは一生懸命に伯父様を助けようとしていたでしょう?」
葵生は、小さくうなずいた。
「はい……」
「お母さまも見ていましたわ。あなたが最後まで、伯父様のところへ戻りたがっていたことを」
春子の目にも涙が浮かんだ。
「でもね、葵生。あの炎の中へ戻っていたら、あなたまで命を落としてしまったかもしれないんですの」
葵生は、何も言えなかった。
春子は娘を強く抱きしめた。
「伯父様が守ってくださったあなたの命を、大切にしてちょうだい」
「……お母さま……」
「泣いてもいいのよ、葵生。寂しいときは、いくらでも泣いていいんですの」
その瞬間、葵生の表情が崩れた。
「お母さまぁぁ……!」
葵生は、春子の胸に顔をうずめ、大きな声で泣き始めた。
「あおい…寛之助おじいさまが大好きでしたの……!」
「ええ……」
「もっと一緒にお話ししたかったんですの……!」
「そうね……」
「また、遊んでいただきたかったんですの……!」
春子も涙を流しながら、娘の背中を優しくなでておった。
「お母さまも、伯父様が大好きでしたわ……」
わしは、その姿を見つめていた。
葵生の悲しみは、わしの悲しみでもあった。
兄上を置いて逃げてしまったこと。
助けられなかったこと。
何もできなかったこと。
わしも、同じように自分を責めておったのじゃ。
十一 葵生のお別れ
しばらく泣いたあと、葵生は少し落ち着いたようじゃった。
春子は娘の涙を優しく拭った。
「葵生。最後に、伯父様へお別れを言いましょうか」
葵生は、小さくうなずいた。
「…はい…」
そして、棺の前へ向き直った。
「あの…寛之助おじいさま…」
その声は、まだ震えておった。
「あおい…おじいさまに守っていただいたこと、絶対に忘れませんわ……」
わしは、静かに聞いておった。
「おじいさまのおかげで、あおいも、お母さまも、光蔵おじさまも、貫一郎ちゃんも……皆、生きていますの……」
葵生の目から、再び涙がこぼれた。
「本当に…ありがとうございました……」
そして、少しだけ微笑もうとした。
「おじいさま…あおい、これからも元気に生きますわ……」
春子が、そっと娘の肩に手を置いた。
葵生は続けた。
「だから…どうか、安心してくださいませ…」
最後に、深く頭を下げた。
「……さようなら、寛之助おじいちゃま……」
それを聞いた瞬間、わしは涙をこらえられなかった。
兄上。聞こえましたか。
葵生は、ちゃんとお別れを言えましたぞ。
兄上が守ってくださった小さな命は、こうして生きております。
これからも、わしらが守っていきます。
わしは、心の中でそう語りかけた。
十二 わしにだけ、別れが言えぬ
葬儀が終わりに近づいても、わしは兄上の棺の前から離れられなかった。
皆が、少しずつ別れを告げておる。
眞紀子も。
冬子も。
修蔵も、節子も、光蔵も、春子も。
葵生でさえ、最後には自分の言葉で別れを告げた。
しかし、わしにはできなかった。
「……兄上……」
そう呼ぶのが精一杯じゃった。
さようなら。
その一言が、どうしても口から出てこなかった。
わしは、生まれてから八十一年近く、兄上と同じ時代を生きてきた。
兄上は、わしより二歳年上じゃった。
わしが六歳の頃、兄上は八歳じゃった。
わしが二十歳の頃、兄上は二十二歳じゃった。
わしが還暦を迎えた頃には、兄上はすでに六十二歳じゃった。
そして今、わしは八十歳。
兄上は八十二歳で、その人生を終えた。
わしにとって、兄上が存在することは、あまりにも当たり前じゃった。
江戸時代のことを話せば、兄上は覚えておった。
明治維新のことを話せば、兄上は同じ時代を見ておった。
父上や母上のことを話せば、兄上は誰よりも深く理解してくれた。
かつて父上が亡くなったときも、母上が亡くなったときも、兄上はわしのそばにおった。
兄上がいる限り、わしはいつでも弟でいられたのじゃ。
しかし、これからは違う。
わしの幼少期を、ともに生きた兄はもうおらぬ。
わしは、初めて兄のいない人生を歩くことになったのじゃ。
「……兄上……」
小さくつぶやいた。
「……わし、まだ……弟でいたかった……」
涙がこぼれた。
「もう少しだけ……兄上の弟でいたかったんじゃ……」
そのとき、愛海がそっと隣へ座った。
「あなた……」
わしは、妻の顔を見た。
「愛海…わしは……」
声が震えた。
「わしは、兄上を助けられなかった……」
愛海は、何も言わずにわしの手を握った。
「兄上は、わしらを守ってくださった……」
「ええ…」
「それなのに、わしは……兄上を置いて逃げた……」
愛海は、静かに首を横に振った。
「あなた……」
「わしが、もっと強ければ… わしが、もっと若ければ…」
愛海は、わしの手を強く握った。
「どうか、ご自分を責めないでください…」
わしは、顔を覆った。
「…分かっておる…」
そうじゃ。頭では分かっておる。
兄上は、わしらを生かすために、自分の命を差し出したのじゃ。
わしらが生き残ったことを、きっと喜んでくれておる。
しかし、心が追いつかぬ。
理屈では分かっていても、兄上を置いて逃げた記憶が、どうしても消えなかった。
十三 花見の写真
葬儀を終えたあと、わしは家族とともに、残された写真や思い出の品を確かめた。
その中には、昭和十五年(1940)の春に撮影した大家族の集合写真もあった。
あの日。桜の下で、皆が笑っておった。
母の志帆。
兄上の寛之助。
愛海。
修蔵、節子、光蔵、春子。
そして、孫や曾孫たち。
わしは、写真を見つめた。
母は、すでにこの世を去った。
康弘は、昭和十九年(1944)十月に海で戦死した。
大空は、同じ年の十二月十三日に特攻で戦死した。
そして今、兄上までいなくなった。
わしは、写真の中の兄上を見つめた。
「……兄上……」
兄上は、いつものように微笑んでおった。
何も知らぬ顔をしておる。
五年前の春。あの日の兄上は、まだ生きておった。
わしらは、明治の大阪旅行と仙台旅行や大正の関東旅行と北関東旅行、昭和十二年(1937)の大阪旅行と東北旅行のことを、何度も語り合っておった。
「また旅に出たいものじゃな」
兄上は、そう申しておった。
わしも笑って答えたものじゃ。
「ええ、兄上。また一緒に行きましょう」
その約束は、もう果たせぬ。
わしは写真に触れた。
「…兄上…わしら、もう一度旅に出たかったですな…」
涙がこぼれた。
「兄上と一緒なら、どこへ行っても楽しかった…」
わしは、しばらく写真を見つめていた。
不思議なものじゃ。
写真の中では、兄上はまだ生きておる。
わしより二歳年上の兄として、いつもの場所に立っておる。
しかし、現実のわしは、もう兄上の声を聞くことができぬ。
わしは、そのことがたまらなく悲しかった。
十四 兄がくれた命
昭和二十年(1945)三月。
東京の街は焼け野原となり、多くの人々が命を失った。
わしら神楽坂一族も、大切な家族を一人失った。
兄上の寛之助。
江戸時代に生まれ、明治、大正、昭和と生き抜いた、わしの兄じゃ。
兄上は、軍人として長い年月を生きた。
海軍の任務に携わり、多くの人々と出会い、さまざまな経験を積んできた。
眞紀子と結婚し、六人の子どもをもうけた。
長男の一郎を幼くして失う悲しみを経験しながらも、残された子どもたちを育て、孫たちの成長を見守った。
そして、最後には、わしらを守って亡くなった。
わしは、兄上から何を受け取ったのじゃろう。
考えてみれば、わしは生まれたときから、ずっと兄上に何かをもらっておった。
幼い頃には、手を引いてもらった。
怖いときには、守ってもらった。
若い頃には、将来について語り合ってもらった。
軍人になってからは、互いに励まし合った。
父上や母上を失ったときには、ともに悲しんでもらった。
子どもや孫が生まれたときには、ともに喜んでもらった。
そして、八十歳になった今。兄上は、わしに命をくれた。
あの炎の中で、兄上がわしらをかばってくれなければ、わしはもうこの世にいなかったかもしれぬ。
光蔵も、春子も、葵生も、貫一郎も、命を失っていたかもしれぬ。
兄上が守ってくれたからこそ、わしらは今、こうして生きておる。
わしは、兄上の最期の言葉を思い出した。
『家族の未来を守ってやれ。お前ならできる』
……兄上。
わしは、まだその言葉を受け止めきれておりません。
正直に申せば、今すぐ兄上のところへ行きたいと思ってしまうほど、寂しいのです。
しかし、わしは生きねばなりませぬ。
兄上が守ってくださった命を、わし自身が粗末にするわけにはいかぬ。
葵生は、まだ幼い。
弘一も、貫一郎も、これから長い人生を歩んでいく。
修蔵、節子、光蔵、春子も、まだわしを必要としてくれておる。
そして、愛海がおる。
わしが生きている限り、守れるものがある。
それならば、わしは生きよう。
兄上の分まで、家族を守ろう。
わしは、写真の中の兄上に向かって、深く頭を下げた。
「……兄上……」
声が震えた。
「わしに命をくださって……ありがとうございました……」
涙が頬を伝った。
「わしは…まだ、生きます……」
写真の中の兄上は、静かに微笑んでおった。
十五 兄のいない春
数日後。わしは庭に出た。
三月十四日。わしの八十一歳の誕生日だ。
しかし、今年は誕生日を祝う気持ちにはなれない。
去年の傘寿には、兄上が笑って祝ってくれた。
「蔵之助、おぬしもとうとう八十じゃな!」
そう言って、肩を叩いてくれた。
その兄上は、もうおらぬ。
わしは庭の木々を見つめた。
もうすぐ、桜が咲く季節になる。
兄上と最後に語り合ったとき、わしらは約束した。
また皆で花見をしたいと。
しかし、その約束は、とうとう果たされなかった。
わしは、静かに目を閉じた。
幼い頃の兄上の声が聞こえたような気がした。
『蔵之助、こっちじゃ』
わしは、その声を追いかけたくなった。
しかし、すぐに思い直した。
兄上。わしは、もう兄上の後ろをついて歩くことはできませぬ。
これからは、わしが皆の前を歩かねばならぬのですな。
わしは、ゆっくりと目を開いた。
春の風が吹いておった。
その風は、まだ冷たかった。
けれど、わしには、どこか懐かしい匂いがした。
江戸時代。
明治時代。
大正時代。
そして、昭和。
兄上とともに歩いてきた、長い年月の匂いじゃった。
わしは、小さくつぶやいた。
「兄上……わし、ちゃんと生きるからな……」
返事はなかった。
それでも、わしは続けた。
「兄上が守ってくれた家族を……絶対に守るからな……」
そして、涙を拭った。
昭和二十年(1945)三月十日。
東京大空襲によって、わしは八十年以上をともに生きた兄を失った。
それは、父や母を失ったときとも、孫を失ったときとも違う、言葉にできぬ悲しみじゃった。
わしの人生から、兄がいなくなった。
しかし、兄上が守ってくれた命は、まだここにある。
わしは、その命を抱えて、これからも生きていかねばならぬ。
八十年以上、わしは兄の後ろを歩いてきた。
そして、兄がいなくなった今、わしは初めて、兄のいない道を歩き始めたのじゃ。




