第六十三話 東京大空襲と兄がくれた命 前編
――昭和二十年(1945年)三月十日――
語り手:神楽坂蔵之助・神楽坂寛之助
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前半 神楽坂蔵之助の回想
一 昭和二十年三月十日
昭和二十年(1945)三月九日、夜。
わしは、いつものように愛海と食事を済ませ、床に就く支度をしておった。
三月とはいえ、夜の東京はまだ冷え込んでおった。
わしは間もなく八十一歳の誕生日を迎える。
江戸時代に生まれてから、八十年以上が過ぎた。
これまで数え切れぬほどの朝を迎え、夜を過ごしてきたが、この夜もまた、いつもと同じように過ぎていくものだと思っておった。
しかし、日付が変わって間もなく、東京の空に異変が起こった。
遠くから聞こえてきた航空機の爆音。
空襲を知らせる声。
そして、次第に大きくなる人々の叫び声。
わしは飛び起きた。
「愛海、空襲じゃ!」
「あなた!」
わしは急いで身支度を整えた。
それまでの空襲とは、何かが違っておった。
飛行機の音が低い。
しかも、次から次へと聞こえてくる。
窓の外を見ると、遠くの空が赤く染まり始めておった。
「…何ということじゃ」
嫌な予感がした。
わしは軍人として長年、戦場の火災や爆撃の危険について学んできた。
しかし、今、目の前で起こっているものは、通常の空襲とは規模が違うように思えた。
その後、親族の安否を確かめ、危険な場所から離れるため、わしは家族と連絡を取り合った。
愛海や修蔵たちとは、それぞれの避難経路を確認していた。
一方、わしが一緒に移動することになったのは、兄上の寛之助、息子の光蔵、娘の春子、孫の葵生、そしてまだ一歳にもならぬ曾孫の貫一郎じゃった。
貫一郎は、奈恵が学童疎開の引率に出ている間、家族が協力して世話をしておった。
春子は貫一郎を抱き、葵生の手を取っておった。
外出時の春子は、いつものように長い黒髪をしっかりと結っていた。
「お父様、皆さん、準備ができましたわ!」
「うむ。急ぐぞ!」
光蔵が葵生に声をかけた。
「葵生、僕たちから離れないでね」
「はい、光蔵おじさま!」
兄上も、わしらの後ろを歩いておった。
「蔵之助、急ぐんじゃ。今夜の火は、ただ事ではないぞ」
「はい、兄上!」
わしらは、暗い道を歩き始めた。
二 炎に包まれる東京
外へ出ると、東京の街はすでに異様な光景になっておった。
空が赤い。
遠くの建物から炎が上がり、煙が強い風に流されておる。
人々が荷物を抱えて走り、子どもが泣き叫んでおった。
「逃げろ!」
「こっちにも火が回ってきたぞ!」
「子どもを離すな!」
わしらも、できるだけ安全な道を探して進んだ。
しかし、風が強かった。
燃え上がった建物から火の粉が飛び、別の家へ燃え移っていく。
炎は一つの建物にとどまらず、通り全体へ広がっておった。
「父上、向こうの道も燃えている!」
光蔵が叫んだ。
「くっ……!」
わしは周囲を見渡した。
これほどの火災では、防火用水や手桶で消火できるものではない。
今は逃げねばならぬ。
わしは家族に向かって叫んだ。
「皆、建物から離れろ! 煙を吸わぬよう気をつけるんじゃ!」
葵生が、わしの袖を握った。
「おじいさま…怖いですわ……!」
「葵生、大丈夫じゃ。わしのそばを離れるでないぞ!」
春子は、貫一郎を胸に抱いていた。
赤ん坊は大きな声で泣いておった。
「大丈夫よ、貫一郎……大丈夫ですからね……!」
春子の声も震えておった。
それでも、娘は必死に曾孫を守っておった。
光蔵は周囲の建物を確認しながら、逃げ道を探していた。
「父上、あそこなら通れるかもしれない!」
「うむ! 皆、ついてこい!」
わしらは狭い道へ入った。
しかし、その先でも火災が広がり始めておった。
後ろを振り返ると、来た道にも炎が迫っていた。
「……まずい」
兄上がつぶやいた。
わしも同じことを考えておった。
逃げ道が、なくなりつつある。
三 逃げ遅れた六人
わしらは、燃え始めた建物の間を必死に進んだ。
しかし、次第に熱気が強くなってきた。
息を吸うことさえ苦しい。
葵生は涙を流しながら、わしにしがみついておった。
「おじいさま…あおい、もう怖いですわ……!」
「分かっておる! じゃが、止まってはならん!」
光蔵が振り返った。
「父上、前の道も駄目だ! 火が回っている!」
「何じゃと…!」
春子は貫一郎を抱き直した。
「お父様…この子だけでも……!」
「春子、諦めるでない!」
わしは叫んだ。
そのとき、上空から再び爆音が聞こえてきた。
わしは思わず空を見上げた。
暗い空の向こうに、航空機の影が見えた。
そして、いくつもの光が落ちてくる。
焼夷弾じゃ。
「伏せろ!」
わしは叫んだ。
しかし、その瞬間、近くの建物に焼夷弾が落下した。
激しい音が響いた。
燃え上がる炎。
飛び散る火の粉。
そして、衝撃を受けて崩れ始めた屋根や柱。
わしは、目の前の光景に息をのんだ。
焼夷弾の一部と、燃えた建材が、こちらへ向かって落ちてくる。
避けるには、あまりにも近かった。
わしのそばには葵生がおった。
春子は少し離れたところで貫一郎を抱いておる。
光蔵も、そのそばにおった。
兄上は、わしらの一番後ろにいた。
わしは、反射的に葵生を抱き寄せた。
「葵生!」
「あっ……!」
わしは、その小さな身体を自分の胸に押しつけた。
しかし、春子と貫一郎には手が届かぬ。
光蔵にも届かぬ。
兄上に至っては一番遠い。
全員を守ることなど、できぬ。
わしは思った。
今度こそ、駄目かもしれぬ。
康弘も、大空も失った。
そのうえ、今度は目の前の家族まで失うのか。
わしは、葵生を強く抱きしめた。
――兄上。
――愛海。
――修蔵、節子、光蔵、春子。
――義蔵、奈恵、幸丞、日花梨。
――弘一、貫一郎。
皆、すまぬ。
わしは、おぬしらを守ると誓ったのに。
もう、守ってやれぬかもしれぬ。
わしは目を閉じた。
その瞬間じゃった。
四 兄上がくれた命
「蔵之助ぇっ!!」
背後から、兄上の大声が響いた。
次の瞬間、何かがわしらを強く押した。
わしは葵生を抱いたまま、地面に倒れ込んだ。
光蔵も転倒した。
春子は貫一郎を胸に抱き込むようにして、必死に身体を丸めた。
そして、轟音が響いた。
燃えた建材が崩れ落ちたのじゃ。
熱風が吹きつけた。
わしは、しばらく何が起きたのか分からなかった。
「……ぐっ!」
すぐ近くから、苦しそうな声が聞こえた。
わしは顔を上げた。そこには、兄上がおった。
兄上は、落ちてきた燃えた建材と、わしらの間に身体を入れておった。
その背中には火がつき、肩や腕にも重い傷を負っておった。
そして、崩れた木材の一部が、兄上の脚を押しつぶしていた。
「…兄上?」
わしは、目を疑った。
なぜ、そこにおる。
どうして、わしらの前に立っておる。
「兄上……何を……」
兄上は、苦しそうに息を吐いた。
「……無事か……蔵之助……」
「兄上!?」
わしは叫んだ。
「何をしておるんですか! 兄上!」
兄上は、わずかに笑った。
「……間に合ったか……」
そのとき、わしはようやく理解した。
兄上が、わしらをかばったのじゃ。
わしらの代わりに、燃えた建材をまともに受けたのじゃ。
「兄上! いかん! すぐに逃げましょう!」
わしは立ち上がろうとした。
しかし、兄上は首を横に振った。
「…まだじゃ……!」
「何を申される!」
兄上は、歯を食いしばっておった。
そして、何かを確かめるように周囲を見渡した。
わしも振り返った。
光蔵は、腕や肩に軽い傷を負っておったが、動くことができた。
春子も転倒した際に手足を痛めていた。しかし、抱きかかえていた貫一郎に怪我はなく、その顔にも、結っていた長い黒髪にも、炎は届いておらん。
葵生も、わしと兄上に二重に守られ、怪我をしておらんかった。
わし自身も、身体を打ちつけたものの、大きな傷は負っておらぬ。
皆、生きておる。じゃが、兄上だけが違った。
兄上は、全身に重い傷を負っていた。
そして、わしらを逃がすために受けた衝撃で、脚の骨までひどく折れておるようじゃった。
「兄上……」
わしの声が震えた。
「どうして……そこまで……」
兄上は、苦しそうに笑った。
「…兄が……弟を守るのに…理由がいるか……」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
八十年以上。兄上は、ずっとわしの兄じゃった。
そして今も、兄であり続けておる。
五 最後の力
周囲の炎は、さらに強くなっていた。
建物が崩れる音が響き、熱風がわしらを包み込んでおる。
わしは、兄上を助け起こそうとした。
「兄上! 肩を貸します! 一緒に逃げましょう!」
「駄目じゃ……」
「何が駄目なのです!」
兄上は苦しそうに息を吐いた。
「…わしの脚は……もう動かぬ……」
「そんなことはありません!」
わしは必死に兄上の腕をつかんだ。
しかし、兄上は立ち上がれなかった。
重傷を負った脚が、身体を支えられぬのじゃ。
光蔵も駆け寄ろうとした。
「伯父上! 僕も手伝うよ!」
「光蔵……」
兄上は顔を上げた。
「来るな!」
「でも…!」
「葵生を……守るんじゃ……!」
光蔵は、言葉を失った。
そのとき、兄上は地面に手をついた。
そして、最後の力を振り絞るように、身体を起こした。
「兄上! 無理をなさるな!」
わしは叫んだ。
しかし、兄上は聞かなかった。
崩れた建材を支えにしながら、片脚を引きずり、わしらの方へ身体を向けた。
そして、残された力を使って、わしらを炎の薄い通路の方へ押し出した。
「……行けっ!」
わしの背中が押された。
光蔵も、春子も、葵生も、貫一郎も、兄上によって危険な場所から遠ざけられた。
「兄上!」
「早く……!」
兄上は、さらにわしらを押した。
その力は、八十歳を過ぎた老人とは思えぬほど強かった。
しかし、それは決して余裕のある力ではなかった。
命を削って絞り出しているような、最後の力じゃった。
やがて、兄上は膝をついた。
もう立ち上がることはできなかった。
その背後では、炎がますます激しくなっておった。
「蔵之助……」
兄上が、わしを呼んだ。
「わしを置いて……逃げるんじゃ……」
わしは、その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
六 八十歳の弟
「……嫌じゃ」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
兄上は、わしを見つめた。
「蔵之助……?」
わしは、兄上の前にしゃがみ込んだ。
「嫌じゃ…」
胸の奥から、何かが込み上げてきた。
わしは、もう八十歳じゃ。
元陸軍中将じゃ。
多くの兵士を指揮し、幾度もの戦争を経験してきた。
父親になり、祖父になり、曾祖父にもなった。
しかし、そのときのわしには、そんな肩書きも年齢も、何の意味もなかった。
目の前にいるのは、わしの兄じゃ。
江戸時代から、ずっと一緒に生きてきた兄じゃ。
「兄上…何やっとるんじゃ……!」
わしは、兄上の腕を握った。
「何で、わしらをかばったんじゃ…!」
兄上は、苦しそうに微笑んだ。
「お前を……守りたかったんじゃ……」
「そんなこと、頼んどらん……!」
わしの声が震えた。
「兄上も一緒に帰るんじゃ! わしだけ帰るなんて、嫌じゃ!」
涙がこぼれた。
「わし、まだ兄上と話したいことがいっぱいあるんじゃ!」
その瞬間、幼い頃の記憶がよみがえった。
江戸時代。
まだ小さかったわしは、兄ちゃんの後ろをついて歩いておった。
知らぬ場所へ行くときも。
怖いことがあったときも。
父上に叱られたときも。
兄上は、いつもわしのそばにいてくれた。
「蔵之助、こっちじゃ」
そう言って、手を引いてくれた。
わしは、兄上の手が大好きじゃった。
その手が、今、わしの目の前にある。
傷つき、震えながらも、まだ温かい手が。
「兄上…!」
わしは、泣きながら兄上にしがみついた。
「わしを置いていかんでくれ!」
兄上は、残された力でわしの肩に触れた。
「蔵之助……」
その声は、驚くほど優しかった。
「……お前は……本当に……昔から変わらんのう……」
「兄上…」
「……泣き虫じゃった……小さい頃の……蔵之助のままじゃ……」
わしは、涙を止められなかった。
七 兄から弟への最後の命令
兄上は、わしの肩を強く握った。
「……蔵之助……聞くんじゃ……」
「嫌じゃ……!」
「聞け!」
その声だけは、昔の兄上のように力強かった。
わしは、思わず顔を上げた。
兄上は、わしの目をまっすぐに見つめた。
「お前には…まだ守るべき者がおる…」
わしは首を横に振った。
「兄上も、わしの守りたい家族じゃ!」
「分かっておる……」
兄上は静かに答えた。
「じゃが……今は……あの子らを守るんじゃ……」
わしは振り返った。
光蔵が、葵生を抱き寄せておった。
春子は、貫一郎を胸に抱いている。
二人とも、涙を流しながら兄上を見つめておった。
葵生は泣き叫んでいた。
「寛之助おじいさま! 一緒に帰りましょう…!」
兄上は、その声を聞いて微笑んだ。
「葵生……元気で……おるんじゃぞ……」
「嫌ですわ! そんなこと、おっしゃらないでくださいませ…!」
兄上は再び、わしを見た。
「蔵之助……家族の未来を……守ってやれ……」
わしは、息をのんだ。
「……お前なら……できる……」
その言葉は、わしの胸に深く突き刺さった。
兄上は続けた。
「お前は…昔から…人を大切にする子じゃった…だから…わしは…お前を信じておる……」
わしは、兄上の手を握りしめた。
「わしは……兄上を置いていけん……」
兄上は、静かに首を横に振った。
「わしを……ここで死なせたくないのなら……」
一度、苦しそうに息を吸った。
「……わしが守った命を……無駄にするでない……!」
その瞬間、わしは何も言えなくなった。
兄上は、わしらを守るために命を削った。
それなのに、わしがここへ残れば、兄上の行動は無駄になってしまう。
光蔵も、春子も、葵生も、貫一郎も。
皆、炎に包まれてしまうかもしれぬ。
わしは、兄上の手を握りながら、声を震わせた。
「……分かった……」
兄上は、わずかに微笑んだ。
「うむ…」
「兄上…わし、皆を守る……」
「そうじゃ…」
「絶対に…守るからな……!」
兄上の目に、涙が浮かんだ。
「蔵之助……」
わしは、最後に兄上の手を強く握った。
あの日、江戸の町で兄ちゃんに手を引いてもらった小さな弟は、八十年後、兄の手を離さなければならなくなったのじゃ。
八 炎の中の別れ
わしは立ち上がった。
身体が震えておった。
涙で前がよく見えなかった。
それでも、逃げねばならぬ。
「光蔵!」
わしは叫んだ。
「葵生を背負うんじゃ!」
光蔵は涙を拭い、うなずいた。
「…分かった、父上!」
光蔵は葵生を背負った。
しかし、葵生は必死に抵抗した。
「嫌ですわ! あおい、寛之助おじいさまのところへ戻りますの!」
「葵生、駄目だ!」
「嫌ですわ! 嫌ですわぁっ!」
葵生は泣きながら手を伸ばした。
「おじいさま! 一緒に帰りましょう! あおい、置いていくなんて嫌ですわ!」
光蔵も涙を流しておった。
「葵生…僕だって、伯父上を置いていきたくないんだ……!」
「それなら戻ってくださいませ!」
「でも、今は君を守らないといけない!」
光蔵は、葵生をしっかりと背負い直した。
春子も、貫一郎を抱えて立ち上がった。
「お父様…!」
春子は、わしを見つめた。
その美しい顔は、涙で濡れておった。
「寛之助伯父様を…本当に…?」
わしは答えられなかった。
春子は、貫一郎を強く抱きしめた。
「わたくし、伯父様を置いていきたくありませんわ……!」
「…わしもじゃ…」
わしは、声を絞り出した。
「わしも、置いていきたくない!」
そのとき、兄上が最後の力で声を上げた。
「……行けぇっ!!」
わしらは、はっとした。
兄上は、炎の向こうでわしらを見つめておった。
「生きるんじゃ……!」
わしは、もう一度だけ兄上を見た。
「兄上……!」
兄上は、かすかに微笑んだ。
わしは、涙を拭った。
「皆、走れ!」
光蔵が葵生を背負って走り始めた。
春子は貫一郎を抱き、必死についてきた。
わしも、その後を追った。
葵生は、最後まで泣き叫んでおった。
「寛之助おじいさまぁっ!」
その声が、燃え盛る東京の夜に響いた。
わしは、何度も振り返りそうになった。
しかし、振り返れば、もう走れなくなるような気がした。
兄上が守ってくれた命。
兄上が託してくれた未来。
わしは、それを守らねばならぬ。
たとえ、兄上を置いていくことになろうとも。
わしらは、炎の中を走り続けた。
そして、その姿を見送っていた兄上の心には、八十年以上に及ぶ長い人生の記憶が、次々とよみがえっておったのじゃ。
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後半 神楽坂寛之助の最期
語り手:神楽坂寛之助
九 遠ざかっていく家族
……行ったか。
わしは、炎の向こうへ走っていく家族の姿を見つめておった。
蔵之助。
光蔵。
春子。
葵生。
貫一郎。
皆、まだ生きておる。
わしが守った命が、あの炎の向こうへ消えていく。
それを見届けたとき、ようやく胸の奥が少し軽くなった。
「よかった……」
思わず、声が漏れた。
わしの身体は、もうほとんど動かなかった。
脚には激しい痛みがあり、息をするだけでも苦しかった。
炎は、すぐ近くまで迫っておる。
わしは、自分がもう助からぬことを理解しておった。
元海軍の将校として、長いこと危険と向き合ってきた。
そのわしが、最後に命を落とす場所は、海ではなく東京の街じゃった。不思議なものじゃ。
しかし、後悔はなかった。
蔵之助たちを守ることができた。
それだけで、わしには十分じゃった。
わしは、ゆっくりと目を閉じた。
すると、遠い昔の景色が浮かんできた。
まだ江戸と呼ばれていた、あの頃の東京の姿じゃった。
十 弟が生まれた日
元治元年(1864)、三月十四日。
わしは、まだ幼子じゃった。
父・権兵衛と母・志帆のもとに、一人の男の子が生まれた。
蔵之助じゃ。
もちろん、当時のことをはっきりと覚えているわけではない。
しかし、母や父から何度も聞かされ、幼い頃の思い出と重なって、今でもわしの心には弟が生まれた日の光景が残っておる。
小さな赤ん坊。
まだ何も知らぬ顔。
そして、わしよりもずっと小さな手。
母が言った。
「寛之助、この子はあなたの弟よ」
わしは、その小さな赤ん坊を不思議そうに見つめておったらしい。
父も笑っておった。
「寛之助。これからはお前が兄じゃぞ」
兄。
その言葉の意味を、当時のわしがどこまで理解していたかは分からぬ。
しかし、それから八十年以上、わしは蔵之助の兄として生きてきた。
あの小さな赤ん坊が、こんなにも長く、わしの人生をともに歩くことになるとはのう。
十一 江戸の終わりと、幼い兄弟
幼い頃の蔵之助は、わしの後ろをよくついて歩いておった。
「兄上!」
そう呼ばれるたびに、わしは振り返った。
「何じゃ、蔵之助?」
「わしも行く!」
「ははは。仕方のないやつじゃな」
わしは、弟の手を握った。
わしらが幼かった頃、江戸の世は終わりを迎えようとしておった。
慶応三年(1867)の大政奉還。
翌年の上野戦争。
明治という新しい時代の始まり。
まだ小さかったわしらには、世の中で何が起こっているのか、よく分からぬことも多かった。
しかし、父の表情が変わっていくことは分かった。
武士として生きてきた父は、新しい時代に戸惑っておった。
刀を差して歩くことが当たり前だった世の中が、急速に変わっていった。
そんな時代の中で、蔵之助はよくわしに尋ねた。
「兄上、明治って何じゃ?」
「新しい時代じゃ」
「江戸はどうなったんじゃ?」
「もう、江戸ではないらしいぞ」
「…変なの」
わしは笑った。
「ははは。わしもそう思う」
わしらは、そんなことを話しながら成長していった。
弟の葵が亡くなったときには、ともに泣いた。
祖父母の昔話を聞いたときには、ともに驚いた。
父の苦労を知ったときには、ともに考えた。
蔵之助は、わしにとって単なる弟ではなかった。
幼い頃から、同じ時代を見つめてきた、一番身近な友でもあったのじゃ。
十二 陸軍と海軍
やがて、わしらは成長した。
明治の世の中で、わしは海軍の道を目指し、蔵之助は陸軍の道を選んだ。
昔、二人で将来について語り合ったことがあった。
「兄上、わしは陸軍士官学校を目指すつもりじゃ」
「ほう、蔵之助らしいな」
「兄上は?」
「わしは海軍へ進みたいと思っておる」
「海軍か!」
「うむ。世界の海を見てみたいのじゃ」
蔵之助は、目を輝かせておった。
「兄上、すごいのう!」
「ははは。おぬしも立派な軍人になるんじゃぞ」
わしらは、そう言って笑った。
その頃は、軍人になることがどれほど重い責任を伴うのか、まだ十分には理解しておらんかった。
やがて、わしらはそれぞれの軍で経験を積んでいった。
わしは海軍の任務に携わり、蔵之助は陸軍で昇進を重ねていった。
日清戦争。
日露戦争。
そして、幾度もの時代の変化。
わしらは、戦争のたびに多くのものを見てきた。
勝利の喜び。
敗北への恐怖。
部下を失う悲しみ。
戦争の中で命がいかに容易く失われるかという現実。
軍人として長く生きれば生きるほど、わしらは命の重さを強く感じるようになっていった。
それでも、互いの仕事について語り合う時間は楽しかった。
「蔵之助、陸軍の方はどうじゃ?」
「兄上、なかなか大変です」
「ははは。海軍も同じじゃ」
そんな会話を、何十年も続けてきた。
十三 眞紀子との結婚、そして六人の子どもたち
わしにも、家庭ができた。
妻の眞紀子と結婚し、子どもたちが生まれた。
長女の四季子。
長男の一郎。
双子の娘、千恵と千恵子。
次男の宗次郎。
そして末娘の冬子。
六人の子どもたちじゃ。
一人一人が生まれるたびに、わしは嬉しかった。
しかし、家族の人生は、喜びばかりではなかった。
長男の一郎は、幼くして亡くなってしまった。
まだ小さかった息子を失った日のことは、今でも忘れられぬ。
わしは、一郎を抱いて泣いた眞紀子の姿を覚えておる。
「あなた…どうして、この子が……」
わしは、何も答えられなかった。
軍人として数え切れぬほどの訓練を受けてきた。
しかし、目の前の幼い息子を救うことはできなかった。
あのとき、わしは思い知った。
どれほど強い人間でも、守れぬ命があるのだと。
それでも、残された子どもたちは、それぞれ立派に成長してくれた。
四季子は、海軍看護婦として人々の命を支える道へ進んだ。
千恵は楽器に深い関心を持ち、楽器を扱い、その仕組みや音色を大切にする専門家になった。
双子の妹の千恵子は歌が好きで、歌い手として人々に音楽を届けるようになった。
宗次郎は、わしと同じ海軍の道へ進んだ。
そして末娘の冬子は、文学を愛し、言葉によって人の心を描く道を選んだ。
冬子は特に、蔵之助の娘・春子と仲がよかった。
二人は容姿もどこか似ておった。
冬子の髪は生まれつき光沢のある茶色寄りの長髪で、春子の艶やかな黒髪と並ぶと、二人の違いがよく分かったものじゃ。
わしは、そんな二人を見ながら笑ったことがあった。
「ははは。まるで姉妹のようじゃな」
春子は上品に微笑んだ。
「まあ、寛之助伯父様ったら」
冬子も嬉しそうに笑った。
「ふふっ。わたくしも、春子とは姉妹のように思っておりますわ」
そんな日常が、わしは大好きじゃった。
子どもたちは、それぞれ違う夢を持っておった。
わしが海軍の人間だからといって、全員が海軍へ進む必要などない。
むしろ、自分の好きな道を選び、幸せになってほしかった。
蔵之助も、同じ考えじゃった。
だからこそ、わしらの家族は長い年月をかけて、さまざまな仕事や生き方を持つ大家族になっていったのじゃ。
十四 初孫・義明と、蔵之助の喜び
明治四十五年(1912)。
わしに、初めての孫が生まれた。
義明じゃ。
初めて孫を抱いたとき、わしは何とも不思議な気持ちになった。
子どもが生まれたときとは、また違う喜びがあった。
自分の子どもが成長し、今度は親になったのじゃ。
わしは小さな義明を抱きながら、眞紀子に言った。
「眞紀子。わしらもとうとう祖父母じゃな」
眞紀子は微笑んだ。
「ええ。本当に嬉しいですわ」
わしは笑った。
「ははは。まさか、孫を抱く日が来るとはのう」
そして、その年のうちに、明治は終わった。
大正という新しい時代が始まり、蔵之助もまた、初めて祖父になった。
わしは、弟を訪ねて言った。
「蔵之助、おぬしもとうとう祖父じゃな!」
蔵之助は嬉しそうに笑った。
「はい、兄上! まさか、兄上と同じ年に祖父になるとは思いませんでした!」
「ははは。わしらも年を取ったものじゃ!」
二人で大笑いした。
わしが江戸時代に生まれた頃には、まだ祖父母も健在だった。
それが今では、自分自身が祖父になっておる。
年月というものは、本当に不思議じゃ。
やがて義明も成長し、中学校の教師となった。
わしは、その知らせを聞いたとき、心から嬉しかった。
自分の孫が、今度は若い者たちを育てる仕事に就いた。
わしが生きてきた時代の知識や経験が、さらに次の世代へ受け継がれていく。
そんなことを考えると、長く生きてきたことが誇らしく思えた。
蔵之助の孫たちも、それぞれ立派に成長していった。
義蔵は鉄道へ。
奈恵は教育へ。
康弘は航海へ。
大空は教員へ。
日花梨は映画へ。
幸丞は医療へ。
葵生も、優しく無垢な少女に育っていった。
わしは、弟の家族の成長を見るのも楽しみじゃった。
蔵之助とわしの家族は、いつしか一つの大きな一族のようになっておったのじゃ。
十五 軍人を退いても続いた兄弟の時間
軍を退いてからも、わしと蔵之助の付き合いは変わらなかった。
軍人会の集まり。
地域の相談事。
家族の祝い。
子どもや孫たちの成長。
何でもない日の世間話。
わしらは、幾度となく顔を合わせた。
昭和の初めには、日本の政治や軍部の動きについて、心配しながら話し合うことも増えた。
「兄上、最近の軍は、どうにも危ういように思えます」
蔵之助がそう言ったことがあった。
わしも、同じことを考えておった。
「そうじゃな。軍隊が国家を守ることより、自分たちの力を誇示することを優先するようになってはならん」
しかし、時代はわしらの願いとは違う方向へ進んでいった。
満州事変。
五・一五事件。
二・二六事件。
日中戦争。
そして、太平洋戦争。
わしらが長い年月をかけて見守ってきた日本は、再び大きな戦争へ向かってしまった。
それでも、わしと蔵之助は、最後まで家族を守ろうとしてきた。
昭和十九年(1944)、蔵之助が傘寿を迎えたときにも、わしらは長いこと話し合った。
「蔵之助。わしらも、いつまで生きられるか分からんな」
「そうですな、兄上」
「じゃが、まだ守るべき者はおる」
「はい」
「できる限り、若い者たちを守ってやりたいものじゃ」
蔵之助は、力強くうなずいた。
「わしも同じです、兄上」
あの日の弟の表情が、今でも忘れられぬ。
そして、今日。
その約束を、わしは果たすことができたのじゃ。
十六 蔵之助も行ってくれた家族旅行
蔵之助とは家族を連れて、何度も旅をしたものじゃった。
明治の頃には、眞紀子や子どもたち、蔵之助とともに仙台を訪れた。
まだ若かったわしらは、汽車の窓から見える景色に心を躍らせ、子どもたちがはしゃぐ姿を見て笑い合った。
大正時代には北関東へ旅をした。あの頃には子どもたちも成長し、孫まで生まれ、わしらは父親であると同時に祖父にもなっておった。
そして昭和十二年(1937)には、再び一族で東北を巡った。
あの旅では、年老いた母上や家族とともに景色を眺め、温泉や土地の料理を楽しみ、昔の思い出を語り合ったものじゃ。
時代が変わるたびに、旅に同行する家族の顔ぶれも、年齢も、話す内容も変わっていった。
それでも、隣にはいつも蔵之助がおった。
明治には若い兄弟として、大正には子や孫を持つ父親として、昭和には白髪の目立つ老人として、わしらは同じ景色を眺めてきたのじゃ。
蔵之助、覚えておるか。
旅先でお前と笑い合ったことを。
家族が楽しそうに歩く姿を見ながら、
「よい旅になったのう」と語り合ったことを。
……ああ、もう一度、お前と旅をしたかった。
今度は戦争の心配などせず、子どもも孫も曾孫も連れて、皆でのんびりと汽車に揺られたかったのう。
十七 八十年以上、弟だった蔵之助
炎の熱が、さらに強くなってきた。
わしの身体は、もうほとんど動かなかった。
それでも、わしの心は不思議なほど穏やかじゃった。
蔵之助たちは、もう遠くまで逃げたじゃろうか。
光蔵は、葵生を背負って走っておるじゃろう。
春子は、貫一郎を抱きしめておるじゃろう。
蔵之助は、きっと泣きながら走っておる。
ははは。あいつは、本当に昔から変わらん。
八十歳になっても、あんなふうに泣くとはのう。
わしは、思わず笑った。
蔵之助。
お前が生まれた日のことを、わしは忘れぬ。
小さな手を握ったことも。
江戸の町を一緒に歩いたことも。
明治の新しい時代に驚いたことも。
学校へ通ったことも。
陸軍と海軍へ、それぞれ進んだことも。
互いに結婚し、父親になり、祖父になったことも。
軍人を退いた後、二人で昔話をしたことも。
すべて、わしの大切な思い出じゃ。
わしには、六人の子どもが生まれた。
一郎は幼くして逝ってしまったが、ほかの子どもたちは、それぞれの人生を歩んでくれた。
孫も生まれ、曾孫も増えた。
そして、弟の蔵之助にも、同じように大きな家族ができた。
わしは、そのすべてを見られたことが嬉しかった。
もう十分じゃ。そう思った。
しかし、一つだけ、心残りがあった。
蔵之助。お前と、もう一度桜を見たかった。
あの昭和十五年(1940)の花見のように、家族皆で笑い合いたかった。
母上も、康弘も、大空も、もうおらん。
それでも、残された家族と一緒に、もう一度春を迎えたかった。
……だが、それはお前に任せることにしよう。
蔵之助。お前なら、できる。
お前は、昔から優しい子じゃった。
自分のことより、人のことを考える子じゃった。
父上や母上から教わった命の大切さを、誰よりも真剣に守ろうとしておった。
そして、今では大勢の家族を持つ、立派な父親であり、祖父であり、曾祖父じゃ。
お前は、わしが思っていた以上に立派な人間になった。
わしは、お前の兄でいられたことを誇りに思うぞ。
十八 兄として生きた人生
わしは、ゆっくりと目を開いた。
炎の向こうには、もう蔵之助たちの姿は見えなかった。
それでよい。もう、わしのことを心配せずに走ってくれ。
生きてくれ。
そして、いつか戦争が終わったら、また家族で笑い合ってくれ。
眞紀子。
四季子。
千恵、千恵子。
宗次郎。
冬子。
義明。
わしの大切な子どもたち、孫たち。
どうか、皆も元気でいておくれ。
わしは、おぬしらのことを心から愛しておった。
一郎。
お前には、随分と早く別れを告げねばならなかったのう。
父として、もっと長くお前を抱いてやりたかった。
しかし、わしはその後も長く生き、お前の兄弟姉妹や、孫たちの成長を見守ることができた。
わしの人生は、決して悲しいことばかりではなかった。
むしろ、幸せなことの方が多かったのかもしれぬ。
わしは江戸時代に生まれた。
武士の家に生まれ、明治という新しい時代を生きた。
海軍の軍人となり、結婚し、父親になり、祖父になった。
大正を越え、昭和まで生きた。
そして、最後には、大切な弟とその家族を守ることができた。
わしの人生は、これでよかったのじゃ。
……蔵之助。
わしより二歳年下の、かわいい弟よ。
お前は、これからも生きるんじゃぞ。
わしらが子どもの頃には、百年先の世の中など想像もできなかった。
しかし、お前なら、まだまだ新しい時代を見ることができるかもしれぬ。
どうか、わしの分まで生きてくれ。
わしが見ることのできなかった平和な日本を、見届けてくれ。
そして、いつかお前が本当に人生を終えるときには、胸を張って言ってほしい。
長い人生だったが、幸せだったと。
……蔵之助。
兄ちゃんは、お前のことが大好きじゃったぞ。
そう思った瞬間、わしの心には、遠い江戸の景色が浮かんできた。
小さな弟が、わしの後ろを追いかけてくる。
「兄上!」
わしは振り返る。
「何じゃ、蔵之助?」
「待ってくれぇ!」
「ははは。早く来い!」
弟が笑う。
わしも笑う。
まだ、江戸の世じゃ。
父上も母上も若く、わしらの人生は始まったばかりじゃった。
その懐かしい光景を思い浮かべながら、わしは静かに目を閉じた。
昭和二十年(1945)三月十日。
神楽坂寛之助は、東京大空襲の炎の中で、その生涯を閉じた。
享年八十二、数え八十四。
江戸時代に生まれ、明治、大正、昭和を生き抜いた一人の男。
海軍に人生を捧げ、六人の子どもの父となり、孫たちの成長を見守った男。
そして何より、八十年以上にわたって、神楽坂蔵之助の兄であり続けた男じゃった。
わしの人生は、弟が生まれた日から、兄としての人生でもあった。
そして、その弟を守れたことが、わしの最後の誇りじゃ。
寛乃助一家の兄弟の生年月日については、 蔵之助が見た明治の農村社会の後書きを参照。




