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第六十四話 亡き兄の終わらぬナイトメア 前編

――昭和二十年(1945年)三月〜七月――


語り手:神楽坂蔵之助


⸻


一 兄のいない夜


昭和二十年(1945)三月。

東京大空襲から、幾日かが過ぎた。

わしは、八十一歳の誕生日を迎えた。

しかし、今年は誰にも祝ってもらいたいとは思えなかった。


四日前の三月十日。

わしは、八十年以上をともに生きた兄上を失った。


寛之助兄上。

江戸時代に生まれ、明治、大正、昭和と、わしの人生にいつも寄り添ってくれた兄じゃ。


兄上は、わしらを守って死んだ。

あの日、光蔵も、春子も、葵生も、貫一郎も、兄上が命を懸けて守ってくれたおかげで生き残った。

わしも、その一人じゃった。


兄上の最期の言葉は、今でも耳に残っておる。


『家族の未来を守ってやれ。お前ならできる』


その言葉を忘れたことは、一度もない。

しかし、わしの心は、あの日からおかしくなってしまったようじゃった。


昼間は、何とか普通に暮らすことができた。

愛海と食事をし、家族の話を聞き、空襲への備えを確認する。

孫や曾孫たちが来れば、できるだけ笑顔を見せる。


それでも、夜になると、兄上のことばかり考えてしまう。

目を閉じれば、炎が見える。

耳を澄ませば、兄上の声が聞こえる。

そして、眠りに落ちると、必ずと言ってよいほど、あの日の東京へ戻ってしまうのじゃ。


二 炎の向こうの兄


最初に見た悪夢は、東京大空襲の夜を繰り返すものじゃった。


わしは、燃え盛る東京の道に立っておる。

空は赤黒く、火の粉が飛び交い、周囲の建物は炎に包まれておる。


しかし、不思議なことに、わしのそばには誰もおらぬ。

光蔵も、春子も、葵生も、貫一郎もおらぬ。

わしは、一人で炎の中を歩いておった。


すると、向こう側に人影が見えた。

白髪の老人。

見慣れた背中。


兄上じゃった。


「兄上!」


わしは叫んだ。

兄上は振り返った。

その顔は、あの日と同じように穏やかじゃった。


「蔵之助……」


「兄上! ご無事だったのですか!」


わしは嬉しくなって駆け寄ろうとした。


しかし、兄上は手を前に出した。


「来るな!」


わしは足を止めた。


「…兄上?」


「蔵之助。こちらへ来てはならん」


「何を申される! わしは兄上を助けに来たのです!」


兄上は首を横に振った。


「お前は戻るんじゃ」


「嫌です!」


わしは、再び歩き始めた。


「今度こそ、兄上を連れて帰ります!」


すると、足元から炎が立ち上った。

熱気が顔を打った。

それでも、わしは歩こうとした。


「兄上!」


「来るな、蔵之助!」


兄上の声が大きくなった。


「お前は生きるんじゃ!」


「兄上ぇっ!」


わしが手を伸ばした、その瞬間。


「あなた!」


愛海の声が聞こえた。


「あなた、起きてください!」


わしは、はっと目を開いた。

目の前には、心配そうな愛海の顔があった。


「…愛海…?」


「大丈夫ですか? ひどくうなされていましたわ」


わしは、荒く息をしておった。

寝巻きは汗で湿り、心臓が激しく打っていた。


「…兄上が…」


「また、夢をご覧になったのですね……」


わしは小さくうなずいた。


「兄上がおったのじゃ…炎の向こうに……」


愛海は、そっとわしの背中をさすってくれた。


「…もう大丈夫です。ここはお家ですから」


わしは、妻の手を握った。

しかし、胸の奥の恐怖は、なかなか消えなかった。


三 三途の川


別の夜には、奇妙な夢を見た。


わしは、見知らぬ川のほとりに立っておった。

周囲には霧が立ちこめ、向こう岸がぼんやりと見えておる。

川の水は静かに流れていた。

わしは、なぜ自分がそこにいるのか分からなかった。


すると、向こう岸に一人の老人が立っておるのが見えた。

兄上じゃ。


「兄上!」


わしは嬉しくなって呼びかけた。

しかし、兄上は悲しそうな顔をしておった。


「蔵之助…」


「兄上! そこにおられたのですな!」


わしは川へ近づいた。

足元には浅瀬が続いておるように見えた。

向こう岸まで行けば、兄上に会える。そう思った。


「今、そちらへ参ります!」


わしは川へ足を踏み入れた。

水は冷たかった。

しかし、恐ろしさは感じなかった。

兄上に会えるのなら、どこへでも行きたいと思った。


ところが、兄上が大きな声を上げた。


「蔵之助! 渡るでない!」


わしは驚いた。


「…なぜです?」


「お前が来る場所ではない!」


「しかし、兄上がおられるではありませんか!」


兄上は首を横に振った。


「わしは、もうこちらに来てしまった。じゃが、お前にはまだ帰る場所がある」


「…帰る場所…?」


「愛海がおる。子どもたちがおる。孫も曾孫もおるじゃろう」


わしは足元の水を見つめた。


「…ですが、兄上は…」


「蔵之助」


兄上の声が、優しくなった。


「わしのことは、まだ迎えに来んでよい」


わしは涙を流した。


「嫌じゃ…兄上…」


そのとき、川の水が急に深くなった。

足が底につかなくなり、身体が沈み始めた。


わしは必死に手を伸ばした。

しかし、兄上は遠ざかっていった。


「蔵之助! 戻るんじゃ!」


「兄上!!」


「あなた!」


また、愛海の声じゃった。

わしは、布団の中で目を覚ました。


「……はあっ……!」


愛海がわしの肩を抱いておった。


「あなた、大丈夫です。わたしがここにいます」


わしは妻の顔を見つめた。


「…三途の川じゃった…」


「まあ…」


「兄上が向こう岸におってな……わし、渡ろうとしたのじゃ……」


愛海は、わしの手を強く握った。


「あなた。今は、わたくしのそばにいてください」


わしは小さくうなずいた。


「……うむ……」


四 戦場にいるはずのない兄


夢は、いつも東京大空襲とは限らなかった。

ある夜、わしは若い頃の戦場に立っておった。

周囲には銃声が響き、兵士たちが走り回っておる。


わしは軍服を着ておった。

身体も、若い頃のように軽かった。

しかし、隣にいる人物を見て驚いた。

兄上じゃった。


兄上も軍服を着て、わしの隣を走っておる。


「蔵之助! 急ぐんじゃ!」


「兄上!」


わしは、何の疑問も抱かずについていった。


本来、兄上は海軍の人間じゃ。

わしと同じ陸軍の戦場で、肩を並べて戦っていたことなどない。

それなのに、夢の中では自然なことに思えた。

わしらは、敵の銃撃を避けながら進んでおった。


すると、突然、激しい銃声が響いた。

兄上が、わしの前に倒れた。


「…兄上?」


わしは立ち止まった。

兄上の身体から、力が失われていく。


「兄上! しっかりしてください!」


わしは必死に抱き起こした。

しかし、兄上は首を横に振った。


「……蔵之助……逃げろ……」


その言葉を聞いた瞬間、わしは凍りついた。

またじゃ。

また、兄上がわしを置いて逃げろと申しておる。


「嫌です! 今度は一緒に逃げましょう!」


「…お前だけでも…」


「嫌じゃ!」


わしは叫んだ。


「もう嫌じゃ! 何度も兄上を置いていけるものか!」


すると、銃声がさらに大きくなった。

わしは兄上を抱えようとした。

しかし、どうしても持ち上がらぬ。


「兄上! 兄上ぇっ!」


「あなた!」


愛海の声が聞こえた。


わしは、再び目を覚ました。

目の前には暗い寝室があった。

戦場も、銃声も、兄上の姿も、すべて消えておった。

わしは顔を覆った。


「……また、助けられなかった……」


愛海は何も言わず、わしを抱きしめてくれた。


五 炎が兄を奪っていく


最も恐ろしかったのは、ある晩に見た夢じゃった。


わしは再び、燃え盛る東京の道に立っておった。

その先に兄上がいる。

しかし、今度の兄上は、あの日と違って無傷じゃった。


「蔵之助」


兄上は微笑んだ。


「兄上!」


わしは嬉しくなって近づいた。


「ご無事だったのですな!」


しかし、一歩近づくと、兄上の衣服に黒い焦げ跡が現れた。


わしは足を止めた。


「…兄上?」


さらに近づくと、兄上の肩が黒くなった。

腕も、背中も。

あの日、燃えた建材を受けた場所が、次々と傷ついていく。


「やめてくれ……」


わしは小さくつぶやいた。


それでも、兄上に近づきたかった。

一歩進む。

兄上の姿が、さらに焼けていく。

もう一歩。

兄上の顔から、あの穏やかな表情が失われていく。


「……嫌じゃ……」


わしは涙を流した。


「兄上…そんな姿にならんでくれ……!」


兄上は何も言わなかった。

ただ、静かにわしを見つめておった。


わしが近づくほど、兄上はあの日の焼け野原で発見された姿に変わっていく。

そのことが、たまらなく恐ろしかった。


「わしが近づくからか…?」


わしは、震える声で尋ねた。


「わしが兄上に会いたいと思うから…こんなことになるんか…?」


返事はない。


わしは、その場に崩れ落ちた。


「…すまん…兄上…」


その瞬間、兄上の姿が炎の中へ消えた。


「兄上っ!」


「あなた!」


愛海が、わしを揺り起こした。


「あなた、起きてください!」


わしは、大きく息を吸って目を覚ました。

頬には涙が流れておった。


愛海は、わしの頭を優しく抱いてくれた。


「……怖かったのですね……」


わしは、何も答えられなかった。

ただ、妻の腕の中で泣いた。


六 眠ることが怖い


四月になっても、悪夢は終わらなかった。

五月になっても、六月になっても、兄上は夢に現れ続けた。


毎晩、必ず同じ夢を見るわけではない。

しかし、夢に兄上が出てくるとき、その多くは悲しい結末を迎えた。


炎の向こうにいる兄上。

川の向こうにいる兄上。

戦場で倒れる兄上。

近づくほど焼けていく兄上。


わしは、だんだん眠ることが怖くなっていった。

夜が近づくと、胸が重くなる。

床に就いても、なかなか目を閉じられぬ。


愛海は、そんなわしを心配しておった。


「あなた、今夜も眠れませんの?」


「…うむ」


「少し、お話ししましょうか」


「…すまぬ、愛海」


愛海はわしの隣に座ってくれた。


「…あの日のことが、何度も頭に浮かぶのじゃ」


「ええ……」


「わしが、兄上を助けられなかったことが…」


愛海は、わしの手を握った。


「あなた。寛之助様は、ご自分の意志で皆様を守ってくださったのですよ」


「…分かっておる」


「あなたが生きていてくださることを、喜んでいらっしゃると思います」


わしは、静かにうなずいた。


頭では分かっておった。

兄上がわしらを逃がしたのは、わしらに生きてほしかったからじゃ。

しかし、夜になると、その事実が恐ろしい記憶に変わってしまう。


わしは何度も同じ問いを繰り返した。

あのとき、別の逃げ道を選んでおれば。

もう少し早く避難しておれば。

わしが、もっと若かったならば。

兄上を助けられたのではないか。


何度考えても答えは出なかった。

それでも、考えることをやめられなかった。


七 たった一度の幸せな夢


そんなある夜。わしは、不思議な夢を見た。

そこには、炎も、戦場も、三途の川もなかった。


わしは、昔の東京に立っておった。

いや、東京ではない。江戸じゃ。

あるいは、明治になって間もない頃だったかもしれぬ。

土の道が続き、木造の家々が並び、遠くから人々の声が聞こえてくる。


わしは、自分の身体を見下ろした。

小さな手。

短い腕。

着慣れた幼い頃の着物。

わしは、子どもに戻っておった。


しかし、不思議なことに、そのときのわしには、自分が八十一歳であるという記憶がなかった。

愛海のことも。

修蔵、節子、光蔵、春子のことも。

孫や曾孫たちのことも。

何も覚えておらぬ。


わしは、本当に幼い蔵之助になっておった。


「蔵之助!」


声が聞こえた。

わしは振り返った。

そこには、幼い兄上がおった。


「兄上!」


わしは嬉しくなって駆け寄った。

兄上は笑っておった。


「何じゃ、蔵之助。また遅れてきたのか?」


「違うわ! 兄上が早すぎるんじゃ!」


「ははは! そうかそうか!」


わしらは笑った。

兄上は、わしの手を握った。


「ほれ、行くぞ!」


「うん!」


わしらは、町の道を走り出した。


何をして遊んだのか、すべてを覚えているわけではない。

石を拾ったり、小さな虫を見つけたり、道端の花を眺めたりした。

兄上が見つけたものを、わしも見た。

わしが転びそうになると、兄上が手を引いてくれた。


「蔵之助、気をつけるんじゃぞ!」


「大丈夫じゃ!」


「ははは。強がりじゃのう!」


わしは、兄上と一緒に笑った。

父上も母上も、家で待っておる。

夕方になれば、二人で帰る。

明日も、明後日も、兄上と遊べる。


その夢の中には、死というものがなかった。

戦争もなかった。

兄上を失う未来もなかった。

ただ、幼い兄弟の一日があるだけじゃった。

わしは、心から幸せじゃった。


八 起こさないでくれ


夢の中で、兄上がわしを呼んだ。


「蔵之助、こっちじゃ!」


「待ってくれぇ!」


わしは笑いながら走った。

すると、遠くから別の声が聞こえてきた。


「あなた……」


聞き覚えのある声じゃ。

しかし、幼いわしには誰の声なのか分からなかった。


「あなた、朝ですよ」


兄上の姿が、少しずつ遠くなっていった。


「兄上…?」


わしは、慌てて追いかけた。


「兄上! 待ってくれ!」


しかし、景色が白くなっていく。

兄ちゃんの顔が見えなくなっていく。


「あなた……?」


わしは、ゆっくりと目を開いた。

そこには愛海がおった。


「…愛海…」


「おはようございます、あなた」


わしは、しばらく妻の顔を見つめていた。


そして、すべてを思い出した。

自分が八十一歳であること。

江戸時代は、もう八十年近く前に終わったこと。

父も母も、すでに亡くなったこと。

そして、兄上も、三月十日に亡くなったこと。


「……ああ……」


胸が締めつけられた。


「……戻ってきてしまった……」


愛海は、不思議そうな顔をした。


「あなた…?」


わしは、布団の中で目を閉じた。


「愛海…もう少しだけ…眠らせてくれぬか……」


愛海は、心配そうにわしを見つめた。


「また、怖い夢をご覧になったのですか?」


わしは首を横に振った。


「違う……」


声が震えた。


「兄上と……遊んでおったのじゃ……」


愛海は黙った。


「昔の江戸じゃった……わしも兄上も、小さな子どもでな……」


わしは、涙を流した。


「……あの夢だけは……終わってほしくなかった……」


愛海は、そっとわしの手を握った。


「…そうでしたのね…」


わしは、もう一度目を閉じた。

しかし、二度とあの夢の続きは見られなかった。

その日、わしは長いこと布団から起き上がれなかった。


怖い夢から覚めた日は、現実に戻れて安心した。

しかし、幸せな夢から覚めた日は、現実に戻ることが何より悲しかったのじゃ。


⸻


九 写真の中の兄


昭和二十年(1945)五月。

ある日、わしは一枚の写真を眺めておった。

昭和十五年(1945)の春、家族で花見をしたときの集合写真じゃ。


母上もおる。

兄上もおる。

愛海もおる。

子どもたちも、孫たちも、曾孫の弘一もおる。


あの日は、皆が笑っておった。

わしは写真の中の兄上を見つめた。


「兄上…」


兄上は微笑んでおった。

わしは、懐かしくなった。


そして、不思議なことが起こった。


「…そうじゃ」


わしは、思わず笑った。


「兄上は、今頃どうしておるかのう」


その瞬間、わしの中から三月十日の記憶が消えておった。

兄上が亡くなったことを、思い出せなくなっていたのじゃ。


「愛海!」


わしは妻を呼んだ。


「はい、あなた」


「兄上は、今日はこちらへ来られぬのか?」


愛海は、少し驚いたような顔をした。


「…あなた?」


「最近、兄上とゆっくり話しておらぬからのう。また昔話でもしたいと思ったのじゃ」


愛海は、しばらく黙っていた。

そして、静かにわしの隣へ座った。


「…あなた」


「何じゃ?」


「寛之助様は…三月十日に亡くなられましたでしょう…?」


わしは、愛海の顔を見つめた。


「…何を申す?」


愛海は悲しそうに目を伏せた。


「東京大空襲のときに…皆様を守ってくださって……」


その瞬間。わしの頭の中に、あの日の炎がよみがえった。

焼夷弾。

崩れ落ちる建材。

兄上の声。

そして、兄上の変わり果てた姿。


「……あ……」


わしは、写真を見つめた。


「そうじゃった……」


涙がこぼれた。


「兄上は…もう……」


愛海は、そっとわしの肩を抱いた。


「ええ……」


わしは、写真の中の兄上を見つめ続けた。


どうして忘れてしまったのじゃろう。

あれほど悲しかったのに。

あれほど泣いたのに。

わしは、自分自身が恐ろしくなった。


十 なぜ、兄だけなのじゃ


それから、同じことが何度か起こった。

写真を眺めているうちに、兄上がまだ生きているように思えてくる。

そして、愛海や子どもたちに話しかける。


「兄上は、最近お元気かのう?」


そのたびに、家族が悲しそうな顔をする。


「父上…伯父上は、もう……」


修蔵がそう言うと、わしは思い出す。


「ああ……そうじゃった……」


節子も、何度か同じことを教えてくれた。


「父上、寛之助伯父上は三月に亡くなられたでしょう?」


「うむ……そうじゃったな……」


光蔵は、困ったように微笑むことがあった。


「父上…伯父上のこと、また思い出したんだね……」


わしは、何度も謝った。


「すまぬ……」


しかし、不思議じゃった。

写真には、母上も写っておる。

康弘も写っておる。

大空も写っておる。


母上は、すでに亡くなって久しい。

康弘は昭和十九年(1944)十月に海で戦死した。

大空は同じ年の十二月十三日に特攻で亡くなった。

わしは、写真の中の三人を見ても、今はもうこの世におらぬことを理解できた。


それなのに、兄上だけは違った。

兄上の顔を見ると、どうしても生きているように思えてしまう。

写真の中で笑っておるのだから、今もどこかで笑っておるはずじゃと。

昨日も会ったような気がする。

また明日、会えるような気がする。


わしは、何度も自分に問いかけた。


「なぜじゃ……」


なぜ、兄上だけなのじゃ。


母上の死は、覚えておる。

康弘と大空の戦死も、覚えておる。

それなのに、どうして兄上の死だけは、写真を見ると消えてしまうのじゃ。


十一 少しずつ失われる現実


六月になると、わしの様子はさらに変わっていった。


以前は、写真を見ていても、家族に兄上の死を教えられればすぐに思い出せた。

しかし、次第に、そうではなくなった。


「父上、伯父上はもう亡くなられたんだ」


修蔵が教えてくれる。

わしは首をかしげた。


「…何を申す。兄上はここにおるではないか」


「父上、それは写真だ」


「分かっておる」


「写真に写っているからといって、今も生きているわけじゃない」


わしは、写真の中の兄上を見つめた。


「しかし、こんなに元気そうではないか…」


修蔵は、何とも言えぬ顔をした。


「…父上…」


わしは、どうして修蔵が悲しそうな顔をしているのか分からなかった。


しかし、ふと写真から目を離すとあの日の記憶が戻ってきた。


「……あ……」


わしは、思わず口元を押さえた。


「そうじゃ……兄上は……」


修蔵は、深く息を吐いた。


「思い出したか……」


わしはうなずいた。


「すまぬ、修蔵……」


修蔵は、何も言わずに部屋を出ていった。

その背中は、ひどく疲れているように見えた。


わしは胸が痛んだ。

修蔵もまた、伯父を失った一人じゃ。

それなのに、わしは何度も兄上が生きていると申して、修蔵を悲しませておる。

自分が情けなかった。

しかし、どうしても同じことを繰り返してしまうのじゃ。


十二 修蔵の苛立ち


修蔵は、昔から責任感の強い子じゃった。

幼い頃から礼儀を重んじ、仕事には厳しく、家族を守ろうとする気持ちも強かった。

鉄道の仕事を続けながら、戦時中の暮らしにも苦労しておった。


息子の義蔵は、遠い戦地に出ておる。

その安否も、十分には分からぬ。

空襲では家族が危険な目に遭い、伯父の寛之助まで失った。

わしは、修蔵が疲れておることを知っておった。


しかし、六月も終わりに近づいたある日、わしが写真を見ながら兄上の話をすると、修蔵は険しい顔をした。


「父上…また、その話か…」


わしは驚いた。


「何じゃ?」


「伯父上は、もう亡くなったんだ」


「…修蔵…」


「何度も話しただろう」


わしは、写真を見つめた。


「…じゃが、兄上は…」


修蔵は、何かをこらえるように口を閉じた。

そして、深く息を吐いた。


「…俺も、伯父上が生きていてくれたらと思うよ」


わしは顔を上げた。


「うむ……」


「でも、現実は違うんだ」


その言葉は、わしの胸に突き刺さった。


現実。そうじゃ。

兄上が亡くなったことは、現実じゃ。

しかし、写真を見ていると、その現実がどうしても遠くなってしまう。


わしは、うつむいた。


「…すまぬ…」


修蔵は、しばらくわしを見つめておった。

そして、小さく答えた。


「もういいよ、父上……」


しかし、その声には、普段の修蔵にはない疲れがにじんでおった。


十三 春子だけは否定しなかった


不思議なことに、春子だけは違った。

わしが兄上の写真を見ながら、


「春子、兄上は今頃何をしておるかのう」


と尋ねても、春子はすぐには否定しなかった。


ある日、春子はわしの隣に座り、写真を一緒に眺めてくれた。


「まあ、お父様。懐かしいお写真ですわね」


「うむ。兄上も、元気そうじゃろう?」


春子は、優しく微笑んだ。


「ええ。寛之助伯父様、とても楽しそうなお顔をしていらっしゃいますわ」


わしは嬉しくなった。


「そうじゃろう! あの日は、皆で花見をしたのじゃ」


「ええ。わたくしもよく覚えておりますの」


春子は、写真の中の兄上を見つめた。


「伯父様、いつもお父様と楽しそうにお話ししていらっしゃいましたわね」


わしは笑った。


「ははは。兄上とは、何を話しても楽しかったからのう」


春子も、静かに笑った。


「ふふっ。そうでしたわね」


わしは、そのまま兄上との思い出を語り始めた。


明治の大阪旅行と仙台旅行。

大正の関東旅行と北関東旅行。

昭和十二年の大阪旅行と東北旅行。

兄上と見た景色。

兄上と話したこと。

兄上と笑ったこと。


春子は、最後まで話を聞いてくれた。

決して「伯父様はもう亡くなったでしょう」とは言わなかった。

そのことが、わしには嬉しかった。


しかし、後になって思い返すと、春子は一度も「伯父様は今も生きていらっしゃいます」とは申していなかった。

ただ、写真の中の兄上と思い出について、わしと一緒に語ってくれていたのじゃ。


あるとき、わしは尋ねた。


「春子。おぬしは、わしがおかしなことを申しても、怒らぬのう」


春子は少し驚いたような顔をした。


「まあ、お父様。どうしてそのようなことを?」


「修蔵たちは、わしが兄上の話をすると、困ったような顔をするのじゃ」


春子は、しばらく黙った。

そして、わしの手を握った。


「お父様…」


その声は、とても優しかった。


「わたくし、お父様が伯父様をどれほど大切に思っていらっしゃったか、知っておりますもの」


わしは、何も言えなかった。


「だから、思い出をお話ししたいときには、いくらでも聞かせてくださいませ」


「……春子……」


「わたくしも、伯父様のお話を聞くのが大好きですわ」


春子は微笑んだ。


わしは、なぜか涙がこぼれそうになった。

この娘は、昔から人の悲しみを見過ごせぬ子じゃった。

看護婦として働くようになってからも、その優しさは変わらなかった。


わしは、娘の手を握り返した。


「ありがとう、春子……」


春子は、ただ静かに微笑んでおった。


⸻


十四 昭和二十年七月


昭和二十年(1945)七月。

東京大空襲から、四か月近くが過ぎた。

戦争は、まだ終わらなかった。

東京には空襲の危険が残り、食料も物資も不足しておった。

家族たちは、それぞれ苦しい日々を送っていた。


そんなある日、久しぶりに修蔵、節子、光蔵、春子の四人が集まることになった。

わしは、久しぶりに四人の顔をそろって見ることができ、嬉しかった。


「おお、皆、よく来たのう」


修蔵は静かに頭を下げた。


「父上、変わりはないか」


「うむ。何とか元気にしておるぞ」


節子も微笑んだ。


「父上、お身体を大切になさってくださいね」


「ありがとう、節子」


光蔵は、穏やかな声で言った。


「父上、最近はよく眠れている?」


「…まあ、ぼちぼちじゃな」


春子は、わしのそばへ座った。


「お父様、今日は皆でゆっくりお話しいたしましょうね」


「うむ。そうしよう」


わしは、しばらく皆と話しておった。

戦争のこと。

配給のこと。

孫や曾孫たちのこと。

そして、昔の家族の思い出。


話が弾んだ頃、わしはふと、飾ってある集合写真に目を向けた。

昭和十五年(1940)の花見の写真じゃ。

そこには、兄上が写っておった。


わしは、何気なく申した。


「そういえば、兄上にも声をかければよかったのう」


その瞬間、部屋が静まり返った。


十五 写真の中にいるではないか


「…父上?」


最初に声を出したのは修蔵じゃった。


わしは、不思議そうに振り返った。


「何じゃ?」


修蔵は、少し険しい顔をしておった。


「…伯父上のことか?」


「もちろんじゃ。寛之助兄上じゃ」


わしは、写真を指さした。


「ほれ、ここにおるではないか」


節子が、ゆっくりと口を開いた。


「父上…それは、五年前のお写真です」


「うむ。分かっておるぞ」


わしは笑った。


「じゃが、兄上もお元気そうじゃろう?」


誰も笑わなかった。

わしは、不思議に思った。


「…どうしたのじゃ?」


修蔵は、深く息を吐いた。


「父上…伯父上は、もう亡くなったんだ」


わしは首をかしげた。


「…何を申す?」


「三月十日だ。東京大空襲で…」


その言葉を聞いても、わしはすぐに思い出せなかった。


「…いや…そんなはずは……」


わしは写真を見つめた。

兄上は、微笑んでおる。

間違いなく、そこにおる。


「兄上は……」


わしは、写真から目を離した。

いつもなら、その瞬間にあの日の記憶が戻ってきた。


しかし、今回は違った。何も思い出せなかった。


「…兄上は、生きておるじゃろう…?」


わしは、真剣にそう思っておった。

修蔵の顔が、さらに険しくなった。


十六 修蔵の怒り


「父上!」


修蔵が声を荒らげた。

わしは驚いた。


「…修蔵?」


「いい加減にしてくれ!」


部屋の空気が凍りついた。

修蔵が、わしに向かって怒鳴ったことなど、そう多くはない。


「何度言えば分かるんだ! 伯父上はもう亡くなったんだよ!」


わしは、言葉を失った。


「俺だって、伯父上が生きていてくれたらと思う! あの人には、どれだけ世話になったか分からない!」


修蔵の声が震えた。


「でも、もういないんだ! 俺たちは、そのことを受け入れて生きていくしかないんだ!」


わしは、修蔵を見つめた。


「…じゃが…」


「父上が何度も生きていると言うたびに、俺たちまであの日のことを思い出すんだ!」


修蔵は、拳を握りしめておった。


「俺だって、苦しいんだよ……!」


その言葉を聞いて、わしは胸が締めつけられた。


修蔵も、苦しんでおったのじゃ。

わしだけではない。

伯父を失った修蔵も、あの日から悲しみを抱えて生きてきた。


それなのに、わしは何度も兄上が生きていると申してしまう。

しかし、どうしても理解できなかった。

写真の中には、兄上がおる。

わしの記憶の中にも、兄上は生きておる。


それなのに、修蔵は兄上が死んだと申す。


「修蔵……わしは……」


わしは、うまく言葉を続けられなかった。


十七 節子の怒りと光蔵の沈黙


すると、今度は節子が口を開いた。


「父上…」


その声は、普段よりも厳しかった。


「父上は、私たちがどれほど悲しい思いをしているか、分かってる?」


わしは、節子を見た。


「……節子……」


「寛之助伯父上が亡くなったとき、私たちも悲しかったの」


節子の目には、涙が浮かんでおった。


「それなのに、父上が何度も伯父上は生きているとおっしゃるから……!」


声が震えた。


「私たちは、何度もお別れをしなければならないような気持ちになるのよ!」


わしは、何も言えなかった。


節子は、さらに続けた。


「父上、どうか……もう、伯父上は亡くなったということを……」


そこで、言葉が詰まった。

節子は、顔を覆った。


「……受け止めてください……!」


わしは、二人の子どもたちを見つめた。


修蔵は怒っておる。

節子は泣いておる。

わしは、二人を悲しませてしまった。

そのことだけは、分かった。


わしは、ゆっくりと光蔵の方を向いた。


「……光蔵……」


光蔵は、うつむいておった。


「……父上……」


「おぬしも……わしがおかしいと思うか……?」


光蔵は、すぐには答えなかった。

そして、小さく首を横に振った。


「……ごめん、父上……」


それだけじゃった。


わしは、光蔵の顔を見つめた。

光蔵もまた、大空を失っておる。

そのうえ、伯父まで失った。

きっと、言葉にできぬほどの悲しみを抱えておるのじゃろう。


しかし、わしには何もしてやれなかった。


「すまぬ……」


わしは、うつむいた。


そのとき、春子だけが、まだ何も言わずにおった。

わしの隣に座り、ただ静かに、わしの顔を見つめておった。


十八 もう、何が本当なのか分からぬ


わしは、もう一度写真を見つめた。

兄上は、そこにおる。

笑っておる。

わしのすぐ隣に立っておる。


わしは、写真の中の兄上へ手を伸ばした。


「……兄上……」


しかし、指先が触れたのは、冷たい額縁だけじゃった。


そのとき、突然、あの日の記憶が戻ってきた。

燃え盛る東京。

焼夷弾。

兄上の声。


『蔵之助! お前は生きるんじゃ!』


そして、焼け野原で見つけた、変わり果てた兄上の姿。


「……あ……」


わしは、手を引っ込めた。


「そうじゃった……」


胸が苦しくなった。


「兄上は…亡くなったのじゃ……」


修蔵も節子も、黙っておった。


わしは、写真から目を離した。

しかし、今度は別の恐怖が襲ってきた。

自分の記憶を、信じられぬ。

兄上は生きておると思っていた。


しかし、本当は死んでおる。

ならば、わしが今見ているものも、考えていることも、間違っておるのではないか。


わしは、自分の頭を両手で押さえた。


「……分からぬ……」


声が震えた。


「わしには……もう……何が本当なのか……」


修蔵が、何かを言おうとした。

しかし、言葉は出てこなかった。

節子も、涙を拭いながら黙っておった。


わしは、二人の顔を見つめた。

わしは、子どもたちを困らせておる。

悲しませておる。

怒らせておる。

八十一歳にもなって、何をしておるのじゃ。


元陸軍中将として、何千もの兵士を指揮してきた。

父親として、四人の子どもを育ててきた。

祖父として、孫たちの成長を見守ってきた。

それなのに、今のわしは、兄の死すら覚えておられぬことがある。


「……情けない……」


思わず、声が漏れた。


「わしは……何と情けない老人になってしまったのじゃ……」


十九 よぎった考え


そのとき、わしの頭に、一つの考えが浮かんだ。


もう、これ以上、家族を困らせたくない。

修蔵にも、節子にも、光蔵にも、春子にも。

そして、愛海にも。


わしは、十分に長く生きた。

江戸時代に生まれ、明治、大正、昭和を生きてきた。

八十一年もの人生を歩んだ。


それなのに、今は家族を悲しませてばかりおる。

そして、兄上はもうおらぬ。

父上も母上もおらぬ。

康弘も、大空もおらぬ。


ならば。いっそ、わしも――。


その考えが浮かんだ瞬間、わしは自分自身に恐ろしくなった。


かつて、明治天皇が崩御し、乃木希典が殉死したとき。

わしもまた、後を追うことを考えたことがあった。


そのとき、愛海が止めてくれた。


『あなたには、まだ家族がおりますでしょう』


あの言葉が、遠くから聞こえてきたような気がした。


そして、兄上の最期の言葉も。


『家族の未来を守ってやれ。お前ならできる』


わしは、目を閉じた。

そうじゃ。兄上は、わしに生きろと申した。

それなのに、わしは今、何を考えておるのじゃ。


しかし、頭の中は混乱しておった。

兄上に会いたい。

家族を困らせたくない。

生きねばならぬ。

それでも、もう苦しい。

いくつもの思いが、胸の中でぶつかり合っておった。


わしは、何も言えずに座り込んだ。

そのとき、隣にいた春子が、静かにわしの方へ身体を向けた。


「……お父様……」


その声は、どこまでも優しかった。

しかし、わしには、まだ顔を上げることができなかった。

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