第六話 廃刀令・父の没落と人生の再開
廃刀令 [明治9年(1876)3月28日]
士族にとって、帯刀はもともと武士の身分の証明としての意味合いが大きく、それを否定することは実質的な特権の否定であった。
一 刀を手放す断腸の思い
明治九年(1876)。
弟の葵が死んでから、まだほとんど日が経っていなかった。
家の中には、葵のいない静けさが残っていた。
朝になっても声がしない。
飯を食べても、一人分少ない。
外へ出ても、後ろから小さな足音がついてこない。
わしは、ときどき無意識に振り返った。
葵がいるような気がしたからだ。
だが、誰もいない。
春が来ようとしていた。
本来なら、葵が学校へ通い始めるはずだった春だった。
それなのに、世の中はわしたちの悲しみなど待ってくれなかった。
三月二十八日。
父上の人生を大きく変える知らせが届いた。
廃刀令。
武士たちが、普段から刀を差して歩くことが許されなくなったのだ。
その日の父上―権兵衛の顔を、わしはよく覚えている。
怒っているのとも違う。
悲しんでいるのとも違う。
ただ、長い間そこに座っていた。
父上の前には、刀が置かれていた。
わしが幼いころから見てきた刀だった。
江戸のころ。
まだわしが三つ、四つだったころ。
父上が外へ出るときには、いつも腰にあった。
幼いわしには、父上の身体より刀のほうが目についたほどだ。
わしの微かな江戸の記憶。(第一話)
そこにも父上の刀があった。
それほど、父上と刀は切り離して考えられなかった。
「父上」
わしは声をかけた。
「どうするのじゃ」
父上は刀を見つめたまま答えた。
「もう差さん」
「でも…父上の刀じゃろう?」
「ああ」
「ずっと持っていたではないか」
「ああ」
それしか言わない。
祖父上―金右衛門も、その場にいた。
祖父上の腰にも刀があった。
「権兵衛」
低い声だった。
「本当に手放すのか」
父上はゆっくり顔を上げた。
「はい」
「持っておるだけなら禁じられてはおらん」
「分かっております」
「ならば残せ」
祖父上の声が強くなる。
「神楽坂家の武士として持ってきた刀だぞ」
父上は黙った。
「権兵衛」
「…父上」
父上は静かに答えた。
「わしは、もう武士として生きることはできません」
部屋が静かになった。
わしは父上を見る。
祖父上も父上を見る。
「何を言う」
祖父上が言った。
「お前は武士だ」
「幕府はありません」
「それでもだ」
「主家も、役目もありません」
「それでも武士の心は残る」
「心だけでは、家族を食わせられません」
祖父上が黙った。
その言葉は重かった。
葵が死んだばかりの家。
母上。
兄上。
わし。
祖父母。
家族は生きている。
生きている者は飯を食わねばならない。
家も守らなければならない。
父上は刀に手を伸ばした。
鞘を撫でた。
まるで、人間の肩に触れるようだった。
「長い間、世話になった」
父上が呟いた。
わしには、それが刀に言っているのか。それとも、武士だった自分自身に言っているのか。分からなかった。
二 父上の断髪
父上はその日、髷も切ることを決めた。
「父上、本当に切るのか?」
わしは聞いた。
「ああ」
「この前までは、まだ切らんと言っていたではないか」
「もう、その必要もなかろう」
わしは父上の髷を見る。
生まれたころから見てきた。
父上といえば、この姿だった。
だから、わしには妙な気分だった。
髷を切ったからといって、父上が別人になるわけではない。頭の形が変わるだけだ。
そう分かっている。
それでも、鋏が入った瞬間。、何かが本当に終わるような気がした。
髪が落ちる。
父上が鏡を見る。
そこには、わしが知っていた「江戸の武士」の父上とは違う姿があった。
「…父上」
「なんじゃ」
「変じゃ」
兄上の寛之助が吹き出した。
「蔵之助!」
「だって、本当に変ではないか!」
父上自身も少し笑った。
「そのうち見慣れる」
母上も、
「若く見えるかもしれませんよ」
と言った。
父上が苦笑する。
一瞬だけ。本当に一瞬だけ。葵が死んでから沈み続けていた家に、笑い声が戻った。
だが、祖父上だけは笑わなかった。
「わしは切らん」
祖父上は言った。
「刀も捨てん」
父上が、
「父上」
と呼ぶ。
「何も言うな」
祖父上は自分の刀を手に取った。
「外では差さぬ。それが新しい法なら従う」
そこまでは言った。だが。
「だからといって、刀そのものを捨てる必要はない」
祖父上は鞘を握った。
「これは、わしが生きてきた証だ」
そして髷を触る。
「これもだ」
「しかし町では、もうざんぎりが―」
「町は町だ」
祖父上は言い切った。
「わしはわしだ」
頑固だった。本当に頑固だった。
父上ですら、それ以上は言えなかった。
祖父上は今でも外出するたびに、
「差さなければいいのじゃ」
と言い、刀を風呂敷に包んで持ち歩いていた。
一方、父上は手放した。
同じ武士。
同じ家族。
それでも、新しい時代への向き合い方は違っていた。
三 刀の収納
父上は刀を家の奥へ持っていき、木箱に納めた。
布で包み、大切にしまった。
「誰も勝手に触るな」
わしと兄上を見る。
「触らん」
兄上が答えた。わしも、
「分かった」
と言った。
父上は最後にもう一度、箱を撫でた。
その姿を見たのが、わしにとって最後の、「刀を持った父上」の記憶になった。
外で差すことはできない。
祖父上と父上にとって刀は、ただの武器ではなかった。
自分が武士として生きた人生の証そのものだった。
四 秩禄処分の打撃
だが、髷を切り、刀を手放せば、新しい人生が簡単に始まるわけではなかった。
むしろ、そこからが苦しかった。
同じ明治九年。夏になるころ。
今度は家禄の問題が家を襲った。
それまで士族たちに支給されていた家禄が、今まで通りには受け取れなくなる。
金禄公債に切り替えられるのだという。
わしには難しいことは分からなかった。
「つまり、どうなるのじゃ?」
父上に聞いた。
「今までのようには金が入らん」
それだけで十分だった。
「困るのか?」
「困る」
父上は即答した。
祖父上が横で鼻を鳴らした。
「幕府を潰し、藩を潰し、刀を取って、今度は禄までなくすか」
「父上」
「事実だろう」
祖父上の声には怒りがあった。
父上は反論しなかった。
それどころではなかったのだと思う。
これから家族をどう養うのか、そのほうが重要だった。
五 父上の繰り返す迷走
父上は仕事を探した。
最初は商いを始めようとした。
「商人になるのか?」
わしは驚いた。
「生きるためだ」
「父上が?」
「父上が商人ではおかしいか」
「だって…」
わしは言葉に詰まった。江戸のころから父上を知っている。
武士だった。
刀を差していた。
商人とは別の世界の人だと思っていた。
「蔵之助」
母上が言った。
「仕事に上も下もありません」
父上も頷いた。
「そういうことだ」
小さな商い。
品物を仕入れる。
売る。
金を計算する。
客と話す。
ところが、うまくいかなかった。
「これでは儲けがありませんよ」
母上が帳面を見て言う。
父上が唸る。
「おかしいな」
「仕入れが高すぎます」
「だが良い品だぞ」
「良いものを高く仕入れて安く売ったら、なくなる一方です」
兄上がこっそりわしに言った。
「父上、商い向いてないんじゃないか」
「聞こえたぞ」
父上の声。
二人とも黙った。
しばらくして。
その商いは終わった。
次に父上は、書類を扱うような仕事を手伝った。
寺子屋で学びを得ていたから、武士だったころから読み書きもできる。
文書も扱える。
「これはいけるのではないか?」
わしは思った。
だが、それも長くは続かなかった。
役目が安定しているわけでもない。
人とのつながりも必要になる。
新しい制度は次々変わる。
父上自身も、
「わしが何をしているのか分からなくなる」
とこぼした。
別の仕事も試した。
荷を扱うところの手伝い。
人の紹介で細かな仕事を請ける。
時には体を使う。
時には頭を使う。
しかし、どれも父上にぴったりとはまらない。
始める。
続かない。
また探す。
始める。
また終わる。
わしの目には、父上が迷子になったように見えた。
六 武士ではなくなった父上
ある夜、わしは目が覚めた。
父上と母上が話していた。
灯りは小さい。
「すまん」
父上が言った。
「何がです?」
「お前たちに苦労をかける」
「今さら何を」
母上は静かだった。
「あなた一人のせいではないでしょう」
「だが、家長はわしだ」
「なら、家長一人で家族を背負おうとするのをおやめなさい」
父上は黙った。
母上は続けた。
「寛之助も蔵之助も、もう何も分からない幼子ではありません」
葵の名前は出なかった。
それでも、わしは葵を思い出した。
もし生きていたら、今ごろ、学校へ行っていた。
父上と母上の間にも座っていただろう。
「あなたは武士ではなくなったのかもしれません」
母上が言った。
「でも、父親ではなくなったわけではありません」
父上は長いこと何も言わなかった。
わしは布団の中で、その言葉を聞いていた。
父上が武士でなくなる。
十二歳のわしには、その意味がまだ完全には分からなかった。
わしにとって父上は、父上だった。
髷があっても、ざんぎりになっても父上。
刀を持っていても、持っていなくても父上。
仕事がなくても、商売に失敗しても父上。
だから、なぜ父上があれほど苦しむのか、最初は分からなかった。
だが、少しずつ分かった。
父上は仕事だけを失ったのではない。
自分が何者なのかを示すものを、一つずつ失ったのだ。
幕府。
旗本という立場。
主君。
刀。
髷。
禄。
武士として生きる道。
それまで四十年以上かけて積み上げてきたものが、十年にも満たないうちに、ほとんどなくなってしまった。
もしわしが、明日突然、
「学校へ行くな」
「家族の名前も変わる」
「今まで覚えたことは役に立たない」
「別の人間として生きろ」
と言われたら、きっと怖い。
父上は、そんなことをされていたのかもしれない。
七 父上が見つけた仕事
明治十年(1877)。
わしは十三歳になった。
葵のいない二度目の春。
父上はまだ仕事を探していた。
ある日、父上が帰ってくるなり言った。
「話がある」
母上が顔を上げる。
祖父上もこちらを見る。
「また仕事か?」
祖父上が尋ねた。
「ああ」
父上は座った。
「警察だ」
「けいさつ?」
わしが聞き返した。言葉そのものはもう知っていた。
東京では、巡査と呼ばれる者たちを見かけることがあった。
かつての町方とは違う。
新しい政府がつくった、新しい治安の仕組み。
「巡査として働けるかもしれん」
父上が言った。
祖父上の眉が動く。
「新政府のか」
「ああ」
部屋の空気が少し重くなった。
祖父上にとって、徳川の世を終わらせた新政府への感情は単純ではない。
「お前」
祖父上が言う。
「徳川に仕えた人間が、今度は新政府の役人になるというのか」
父上は祖父上を正面から見た。
「そうです」
「抵抗はないのか」
「あります」
即答だった。
「なら、なぜだ」
父上は少し考えた。
「守るという仕事だからです」
祖父上が黙る。
「武士だったころ、わしは治安を守ることも役目の一つだと思っていました」
父上は続けた。
「町で争いが起これば止める。人が困っていれば助ける。盗みや乱暴を防ぐ」
わしは父上を見る。
「相手が幕府であろうと、新政府であろうと、人を守ることまで変わるわけではありません」
祖父上は何も言わない。
「それに」
父上が少し笑った。
「商人よりは向いていると思います」
兄上が吹き出した。
わしも笑いそうになった。
母上も口元を押さえた。
祖父上だけは、
「それは間違いない」
と言った。
今度こそ、皆が笑えたのは、久しぶりだった。
八 明治警察としての父上
父上は警察の仕事について調べ始めた。
巡回。
取締り。
事件が起きたときの対応。
道を尋ねられることもある。
人と話す。
町を見る。
規則を守らせる。
身体も使う。
読み書きも必要になる。
「父上に合っておるかもしれんな」
わしが言った。
「なぜだ」
「頑固だからじゃ」
「蔵之助」
「それに強い」
「ほう」
「字も書ける」
「ほう」
「商売は下手じゃ」
「最後の一言はいらん」
兄上が笑った。
父上も笑った。
こんな父上を見るのは久しぶりだった。
やがて、父上が新しい姿で家を出る日が来た。
もう髷ではない。
着物に刀を差した旗本でもない。
明治の警察に勤める男としての姿だった。
わしは父上をじっと見た。
「なんじゃ」
「いや」
「何か変か」
「最初に髷を切ったときほどではない」
「まだ言うか」
父上が笑う。
祖父上は奥から出てきた。
相変わらず髷だった。
刀は家の奥に保管している。
二人を並べる。
父と子なのに、まるで違う時代の人間のようだった。
祖父上は父上をしばらく見た。
「権兵衛」
「はい」
「誰に仕えるかより、自分が何をするかを忘れるな」
父上は頭を下げた。
「はい」
それだけだった。
だが、祖父上なりに、父上の新しい道を認めたのだと、わしには分かった。
家を出る直前、父上が振り向いた。
「行ってくる」
母上が言う。
「お気をつけて」
兄上も、
「行ってらっしゃい」
と言う。わしも言った。
「父上」
「なんだ」
一瞬、昔の父上を思い出した。
江戸のころ。
わしが小さかったころ。
髷を結い、刀を差し、大きな背中を見せて歩いていた父上。その父上は、もういない。
だが、目の前にいる男も、間違いなく父上だった。
「行ってらっしゃい」
父上は頷いた。そして歩いていった。
わしは、その背中を見ながら思った。
父上は、旗本だった。
それから、士族になった。
そして今、警察で働こうとしている。
名前は同じ。
人間も同じ。
なのに、社会の中で呼ばれるものは、何度も変わった。
江戸が東京になったように。
幕府が新政府になったように。
父上自身も、時代の中で姿を変えたのだ。
少し前まで、わしは何かを失うことを、ただ悲しいことだと思っていた。
葵は死んだ。帰ってこない。
あの喪失には、新しい続きはなかった。
だが、父上の場合は違った。
武士としての人生は終わった。
刀を手放した。
髷を切った。
禄も失った。
仕事にも何度も失敗した。
それでも、父上自身は生きていた。
生きているからこそ、何度でもやり直そうとしていた。
わしは初めて思った。
終わることと、死ぬことは、同じではないのだ。
一つの人生が終わったように見えても、人間が生きていれば、その先にもう一つの人生を始められることがある。
父上は、武士としての人生を失った。
だが、権兵衛という人間まで失ったわけではなかった。
むしろ、刀を持たない父上は、自分の足で新しい居場所を探していた。
迷って、失敗して、恥をかいて、それでも探した。
そしてようやく、新しい仕事を見つけた。
夕方、父上が帰ってきた。
「どうだった?」
わしが聞いた。
「疲れた」
父上は答えた。
「それだけか?」
「初日から何を期待している」
「事件を捕まえたりは?」
「事件は捕まえるものではない」
兄上が笑う。
父上は座った。
母上が飯を用意する。
いつもの家だった。
だが、何かが少し違う。
父上に、また帰る場所だけでなく、朝に向かう場所ができた。
それが、わしには嬉しかった。
父上は箸を取った。
「いただきます」
皆も食べ始める。
祖父上もいる。
母上もいる。
兄上もいる。
わしもいる。
一人だけ、葵はいない。その事実は変わらない。
父上が新しい仕事を見つけても、葵が戻ってくるわけではない。悲しいものは悲しいままだった。
それでも、残された者は、飯を食い、眠り、朝になれば起きて、また生きていく。
わしは十三歳になって、それも少しずつ理解し始めていた。
九 武士でなくても父上は父上
父上の人生は、江戸とともに始まった。
旗本の武士として生き、幕府がなくなり、士族となり、
刀を失い、髷を切り、禄を失い、仕事を失い、何度も迷った。
そして、明治の警察という、江戸にはなかった仕事の中で、もう一度歩き始めた。
わしはまだ、自分が大人になったら何になるのか知らない。この国がどこへ向かうのかも分からない。
ただ、父上の背中を見て、一つだけ覚えた。
時代が、それまでの人生を壊してしまうことがある。
けれど、生きている限り、壊された場所から、もう一度始めることもできる。
父上は武士でなくなった。
それでも、父上は父上だった。
そして明治十年(1877)。
神楽坂権兵衛は、旗本武士でも、ただの失業した士族でもない、
明治の警察官として、
もう一度、自分の人生を歩き始めた。
士族の主な進路
公務員・軍人・警察官
江戸時代から「行政」や「武芸」を担っていたため、最も適性に合っていた。
商業・農業
いわゆる士族の商法。商業に不慣れの士族が多く、失敗が多かった。
政界・実業界への進出
銀行・鉄道会社・貿易商社の設立や、自由民権運動を立ち上げた政治家への転身。
明治政府への反乱
廃刀令や秩禄処分によって誇りと生活を失った士族が怒り、反乱が相次いだ。
没落・人力車夫・日雇い労働
下層武士の現実。反乱も商売も失敗した下層武士のなかで、車夫や内職でその日暮らしをした者もいた。




