第五話 弟の死
一 葵ももうすぐ入学
明治九年(1876)三月。
冬の寒さが、ようやく少しずつ緩み始めていた。
わしは十二歳になったばかりだった。
兄上の寛之助は十三歳。
そして弟の葵は、あと少しで六歳になる。
春になれば、葵も学校へ通い始めるはずだった。
「にい、学校というところは難しいのか?」
ある日のこと、葵がわしに聞いた。
「難しいぞ」
わしは少し偉そうに答えた。
「字を書いたり、数を数えたり、先生の話を聞いたりせねばならん」
「蔵之助にいはできるの?」
「もちろんじゃ」
本当は、分からないもいっぱいある。
すると横にいた寛之助兄上が笑った。
「葵。蔵之助の言うことを全部信じるなよ」
「なんじゃと!」
「お前、この前の算術で間違えていたじゃろ」
「それを葵に言うな!」
葵が声を上げて笑った。
「蔵之助にいも間違えるんだ!」
「誰だって間違える!」
三人で笑った。いつものことだった。
葵は、学校へ行くのを楽しみにしていた。
新しいものを用意してもらえることも嬉しかったらしい。
母上に何度も、
「あと何日?」
と聞いていた。
「もう少しですよ」
母上の志帆が答える。
「ちゃんと朝早く起きるのよ」
「起きられる!」
「この間も兄上に起こされていたじゃろ」
わしが言う。
「今度から起きる!」
葵が頬を膨らませる。
父上も笑う。
祖父上の金右衛門も、祖母上の美帆たちも、
「葵もとうとう学校か」
と、その成長を喜んでいた。
家族にとって、それは当たり前に訪れる春の予定だった。
もう少しすれば六歳になる。
学校へ行く。
字を覚える。
友達ができる。
もっと大きくなる。
次の年が来る。
わしは、そう思っていた。誰も、それを疑っていなかった。
二 葵のの体調がよろしくない
始まりは、ほんの小さなことだった。
葵が腹を痛がった。
「母上…おなかが痛い」
母上が葵の額に手を当てる。
「冷えたのかしら」
最初は、その程度に思っていた。子どもが腹を壊すことなど珍しくない。葵だって以前にも何度かあった。
「今日は外へ出るなよ」
わしが言った。
「分かってる」
葵は布団の中から答えた。
「元気になったら遊ぼう」
「うん」
わしは、それで終わると思った。
一日か二日休めば元気になる。
また三人で外へ行く。
いつものように走る。そう思っていた。
だが、その日の夜から、葵の具合は急に悪くなった。
下痢が止まらない。
熱も出た。
顔から血の気が引いていく。
母上の表情が変わった。
「あなた、医者を」
父上がすぐに立った。家の空気が、一気に重くなった。
わしは部屋の外から見ていた。
「母上」
「蔵之助は向こうにいなさい」
「でも」
「いいから」
普段とは違う声だった。わしは何も言えなくなった。
寛之助兄上も黙って立っていた。
「兄上」
小さな声で呼ぶ。
「大丈夫じゃろうか」
兄上はすぐに答えなかった。
「…大丈夫じゃろ」
そう言った。だが、その声には力がなかった。
三 疫痢
医者が来て葵を診た。
腹の様子。熱。脈。顔色。
何度も確かめた。
父上と医者が小さな声で話している。わしにはすべて聞き取れなかった。
ただ、
「疫痢」
という言葉を聞いた。初めて聞いた言葉だった。
「えきり?」
わしが兄上に聞いた。
「知らない」
兄上も知らなかった。名前など、どうでもよかった。
葵を治してくれれば、それでよかった。
それなのに。
葵はどんどん弱っていった。
水を欲しがる。だが、口にしてもまた苦しむ。
身体は熱いのに、手足は冷たくなっていく。
ときどき意識がぼんやりする。
「葵」
わしは枕元へ行った。母上が止めようとしたが、葵がわしを見た。
「蔵之助…にい」
声が小さい。普段の葵ではない。
「おるぞ」
わしは手を握った。
生まれたばかりの葵が、わしの指を握った日のことを思い出した。(第三話)
あのときは、こんなに小さな手があるのかと思った。
それから六年近く。少しずつ大きくなった。
一緒に歩いた。
走った。
転んだ。
笑った。
その手が今は、驚くほど弱かった。
「にい…」
「なんじゃ」
「学校…」
わしの胸が詰まった。
「学校がどうした?」
「行けるかな」
一瞬、何も言えなかった。だが、すぐに答えた。
「行ける」
「ほんと?」
「当たり前じゃ」
わしは強く言った。
「こんなもの、すぐ治る。元気になったら学校へ行ける。わしが道も教えてやる」
葵は少しだけ笑った。
「うん」
「だから寝ておれ」
「うん…」
わしは葵の手を握ったまま、本当にそうなると思おうとした。
あと少しなのだ。
もうすぐ春なのだ。
もうすぐ誕生日なのだ。
もうすぐ学校なのだ。
ここまで大きくなったのだ。
だから死ぬはずがない。
そう思った。
四 水を飲んだだけなのに
あとになって、大人たちは水のことを話していた。
葵が少し前に口にしていた水。井戸か、あるいは汲んできた水だった。
見た目では分からなくても、どうやらよくない水だったらしい。
同じように腹を患った者が周囲にも出たという。
「水が……?」
わしは父上に聞いた。
「水を飲んだだけで、こんなことになるのか」
父上は答えなかった。
今のわしたちには、水の中に何がいるのかなど分からない。
見えない。
匂いでも分からない。
ただ喉が渇けば飲む。
毎日そうしている。
そんな当たり前のものが、人をここまで苦しめることがある。それが恐ろしかった。
汽車なら見える。
火なら見える。
刀なら見える。
上野戦争の砲声なら聞こえる。
だが、葵を苦しめているものは、わしには見えなかった。
敵がどこにもいない。だから戦うことすらできない。
⸻
夜、母上はほとんど葵のそばを離れなかった。
父上も何度も様子を見に来た。
祖父上も祖母上も、寛之助兄上も、わしもいる。
家族が、葵の周りに集まっていた。
なのに、誰も何もできなかった。
葵の息が、だんだん弱くなる。
「母上…」
葵が呼んだ。
「ここにいますよ」
母上は葵の身体を抱いた。
「父上…」
「ああ。ここにいる」
「寛之助兄上…」
「いるぞ」
「蔵之助兄上…」
わしは、もう一度手を握った。
「ここじゃ」
葵は目を開けた。
「学校…行きたかったな」
その一言を聞いた瞬間、わしは喉の奥が痛くなった。
「行ける!」
思わず声が大きくなった。
「行けると言ったじゃろ! だからそんなことを言うな!」
母上がわしを見る。
父上も何も言わない。
葵は、わしを見ていた。
「兄上…」
「なんじゃ」
「また…遊ぼうね」
「…ああ」
声が震えた。
「もちろんじゃ」
葵はほんの少し笑った。
それから目を閉じた。
わしは手を離さなかった。
五 葵の最期
どれくらい時間が経ったのか分からない。
医者が葵を見た。
母上が名前を呼ぶ。
「葵」
返事がない。
「葵」
もう一度。
「葵…」
返事はなかった。
父上が目を閉じた。
寛之助兄上が俯いた。
祖父上は何も言わなかった。
わしには意味が分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
「葵?」
手を握る。
「起きろ」
返事がない。
「葵」
少し揺らす。
「学校へ行くんじゃろ。また遊ぶんじゃろ」
返事がない。
「葵!」
母上が泣いた。
その声を聞いて、わしは初めて理解した。
葵は死んだ。
満五歳だった。満六歳の誕生日まで、あとわずか。
学校へ通い始める春も、すぐそこまで来ていた。
それなのに、葵の時間だけが、そこで止まった。
六 葵の葬儀
葬儀の日。家には大勢の人が集まった。
父上。
母上。
寛之助兄上。
わし。
父方の祖父上、金右衛門。
母方の祖母上、美帆。
親族。
近所の人。
葵を知っている者たち。
大人たちが次々に手を合わせる。
線香の煙が上がる。
葵は静かだった。
あれほど動き回っていたのに。
ほんの数日前まで、
「学校へ行ったら何をするの?」
と聞いていたのに。
動かない。
「蔵之助」
寛之助兄上が呼んだ。
「…なんじゃ」
兄上の目も赤かった。
「大丈夫か」
「大丈夫ではない」
わしは答えた。
いつものように強がる気にもならなかった。
兄上も、
「わしもじゃ」
と言った。
二人で葵を見た。
わしら三人だった。
いつもそうだった。
寛之助兄上が一番前を走る。
わしが追いかける。
少し遅れて葵がついてくる。
「待って!」
と叫ぶ。そうすると、わしらは止まって待った。
でも、今度はいくら待っても、葵は来ない。
それがどうしても理解できなかった。
七 家族の悲しみ
祖父上が葵の前に座った。
金右衛門祖父上は七十八歳だった。
葵とはあまりにも年が離れている。
祖父上は、長い時間、黙って手を合わせていた。
やがて小さく言った。
「順番が逆だ」
わしは祖父上を見た。
「祖父上?」
「本来なら、わしのほうが先に逝く年だ」
祖父上の声は震えていた。
わしは初めて見た。
あれほど頑固で、武士の誇りを大事にしている祖父上が、涙を流していた。
「なぜ五つの子が先に逝かねばならん」
誰も答えられなかった。
答えなど、ないのだと思った。
祖母上も泣いている。
母上は何度も葵の顔に触れていた。
父上は皆の前では崩れまいとしていた。
それでも、ときどき顔を伏せた。
家族総出の葬儀だった。
葵を送り出すために、皆が集まっていた。
なのに、わしには「送り出す」という言葉が嫌だった。
誰が葵を行かせると決めたのだ。
わしは許していない。
母上も許していない。
父上だってそうだろう。
なのに、葵はいなくなる。
人の死というものは、残された者の許しなど求めないらしい。
八 葵はもういない
葬儀が終わったあと、家が静かになった。
その静けさが、一番つらかった。
葵がいた場所。
葵が座っていたところ。
葵が使っていたもの。
小さな履物。
学校へ通うために準備しようとしていたもの。
何もかも残っている。
本人だけがいない。
「母上」
わしは聞いた。
「葵は、もう帰ってこぬのか」
十二歳にもなって、そんなことを聞いた。
分かっているはずだったが、それでも聞いた。
母上は長い間黙っていた。
そして、
「帰ってはこないわ」
と言った。
わしは俯いた。
「死ぬというのは…そういうことなのか」
母上は答えなかった。
わしも、それ以上聞かなかった。
九 失った人間は戻らない
それまでのわしにとって、
「昔」というものは、変わっていくものだった。
江戸が東京になる。
幕府がなくなる。
藩がなくなる。
髷が減る。
煉瓦の町ができる。
汽車が走る。
古いものが消えても、新しいものが代わりに現れた。
だから、どこかで思っていた。
世の中というものは、
何かが終わっても、その次が来るのだと。
しかし、人間は違った。
葵がいなくなっても、「新しい葵」は現れない。
昨日までいた弟は、今日からずっといない。
汽車のように新しいものと取り替えることもできない。
壊れた物のように直すこともできない。
時代がどれほど新しくなっても、死んだ人間だけは戻らない。
わしは初めて、それを知った。
十 葵も入学するはずだった
数週間後、春が来た。
学校へ向かう子どもたちを見た。
葵と同じくらいの年の子がいる。
新しい生活を始めようとしている。
笑っている。
親と歩いている。
わしは立ち止まった。もし葵がいたら、あの中にいたのだろうか。
「にい、行ってくる!」
そう言って家を出たのだろうか。
帰ってきたら、
「学校はどうだった?」
とわしが聞いたのだろうか。
字を覚えたと自慢しただろうか。
友達の話をしただろうか。
分からない。もう確かめることはできない。
「蔵之助」
寛之助兄上が横にいた。
わしは学校へ向かう子どもたちを見たまま言った。
「兄上」
「なんだ」
「人は、いつ死ぬか分からんのだな」
兄上は黙った。
「祖父上のように七十、八十まで生きる者もいる。葵のように五つで死ぬ者もいる」
「…そうだな」
「おかしいな」
「何が?」
「祖父上は江戸のずっと昔から生きておるように感じるのに、葵は明治しか知らずに死んでしまった」
言葉にした瞬間、涙が出た。
「短すぎるではないか」
兄上は何も言わなかった。
ただ、わしの隣に立っていた。
わしは泣いた。
十二歳だった。
もう幼子ではないと思っていた。それでも泣いた。
十一 人の年齢
そのころからだと思う。わしが、人の年齢を少し気にするようになったのは。
十歳。
二十歳。
五十歳。
七十歳。
それまで年齢とは、大きくなるための数字だった。
一つ年を取れば、できることが増える。
兄上に近づく。
大人に近づく。
そういうものだった。
だが葵が死んでから、年齢とは、そこまで生きられたという数字でもあるのだと思うようになった。
六歳になることは、当たり前ではなかった。
学校へ行けることも。
明日の朝、目を覚ますことも。
家族ともう一度飯を食べることも。
兄弟でまた遊べることも。
何一つ、約束されてはいない。
だからといって、十二歳のわしが急に立派な人間になったわけではない。
兄上とは相変わらず喧嘩した。
遊んだ。
笑った。
叱られた。
わがままも言った。
けれど、ときどき、家族がそろっている夜に、人数を数えるようになった。
父上がいる。
母上がいる。
祖父上がいる。
祖母上がいる。
兄上がいる。
わしがいる。
しかし、そこに一人、どうしても足りない。
十二 わしは忘れない
ある日の夕方、わしは、以前三人で遊んだ場所へ行った。
兄上はいなかった。
一人だった。
あの日、右に兄上。左に葵。
三人で手をつないだ。
葵は小さかった。
わしは葵の手を握って、絶対に離すまいと思った。
でも、最後には離れてしまった。
人の手というものは、どれだけ強く握っても、いつか離さなければならないことがあるらしい。
わしは空を見上げた。
「葵… 学校、行きたかったな」
当然、返事はない
「わしが、お前のぶんまで学校へ行ってやる、などとは言わんぞ」
そんなことを言っても、葵の代わりにはなれない。
「お前はお前じゃ。わしはわしじゃ」
少し黙った。
「でもな」
喉が詰まった。
「忘れんからな」
六歳になれなかった弟。
学校へ行けなかった弟。
兄上とわしを追いかけて走っていた弟。
生まれた日に、わしの指を小さな手で握った弟。
「絶対に忘れん」
それだけ言った。
夕日が沈んでいった。明日になれば、また朝が来る。
学校もある。
町では汽車が走る。
新しい建物も増えるだろう。
明治という時代は、これからも進んでいく。
葵が死んでも、世の中は止まってくれなかった。
そのことが悲しくもあり、不思議でもあった。
わしは十二歳にして初めて知った。
時代には、次の日がある。
けれど、すべての人間に次の日があるわけではない。
だからこそ、今日ここにいる人と過ごせる時間は、当たり前ではないのだ。
それが、五歳で死んだ弟・葵が、わしに残した最初の死生観だった。
明治初期における、満7歳未満(特に乳幼児層)の死亡率は極めて高く、生まれた子どものうち、約4〜3人に1人以上の割合で、7歳を迎えるまでに命を落としていたと推計されている。
高死亡率の原因
感染症(天然痘、はしか、赤痢、コレラ、百日咳、結核など)の猛威とワクチンの不在
衛生知識と住環境の未発達
井戸水や河川水の汚染による下痢・赤痢の多発など。
「七歳までは神のうち」
7歳未満の子はまだ現世に定着しておらず、いつあの世へ戻ってもおかしくない、神様の預かり物である。
この言葉は明治以前から伝わっている。
七五三
特に「7歳」のお祝いは、無事に「神の世界」から脱して、「人間社会の仲間入り」ができたことを感謝する行事であった。




