第四話 明治維新と文明開化
明治維新
明治元年(1868)から明治時代初期の日本で行われた、近代改革。
文明開化
明治時代の日本に西洋の文明が流入し、制度や習慣が大きく変化した現象。
一 本当に同じ国なのか
明治七年(1874)。わしは十歳になった。
子どものわしにとって、十年はずいぶん長く生きたように感じられた。
だが、生まれたころの話を父上や祖父上から聞けば聞くほど、その十年間というものが、どうも普通の十年間ではなかったらしいことが分かってきた。
わしが生まれたころ、この町は江戸だった。
将軍様がいて、武士は髷を結い、刀を差していた。
父上も、祖父上もそうだった。
ところが十歳になった今、町は東京と呼ばれている。
将軍様もいない。「藩」というものまでなくなった。
髷を落とした男、いわゆるざんぎり頭が増え、洋服というものを着る者が現れ、夜には西洋の灯り「ガス灯」が灯り、赤い煉瓦の建物が建つ。
そして何より、鉄の道の上を、煙を吐く巨大な車が走っている。
わしは、ときどき思う。わしが生まれたころと、今、本当に同じ国なのだろうか。そんな気さえした。
二 祖父上からみた明治維新
「祖父上」
ある日、わしは金右衛門祖父上に聞いた。
「明治維新というのは、いつ終わったのじゃ?」
祖父上は少し妙な顔をした。
「何をもって終わりとするかによるな」
「では、まだ続いておるのか?」
「さてな」
祖父上はもう七十をとうに越えている。わしから見れば、とてつもなく昔から生きている人だった。
江戸幕府が当たり前に存在していたころ。
父上がまだ子どもだったころ。
いや、それよりさらに昔。そんな世の中を知っている。
「お前が生まれたころにはな」
祖父上が言う。
「徳川の幕府がなくなるなど、本気で考えていた者ばかりではなかった」
わしは祖父上の髷を見た。町には、もう髷を結わない男が随分増えている。
けれど祖父上は変えなかった。
父上もまだ髷を残している。
「将軍家がなくなって」
祖父上は続ける。
「江戸が東京となった。それだけでも十分驚いた。ところが今度は、藩までなくすという」
「廃藩置県じゃな」
「そうじゃ」
明治四年。わしが七歳だったころ。
「全国の藩をなくして県にする」そんな話が広がった。
廃藩置県。
今ならその言葉を知っている。
だが、当時のわしには分からなかった。
「父上!」
七歳のわしは権兵衛父上に聞いた。
「藩がなくなるというのは、どこへ行くのじゃ?」
父上は苦笑した。
「藩が歩いてどこかへ行くわけではない」
「では、消えるのか?」
「そうとも言える」
「大名様は?」
「今までと同じではいられぬ」
わしにはますます分からなかった。土地が消えるわけではない。
城も突然なくなるわけではない。人間もいる。
なのに藩だけがなくなる。
祖父上はその知らせを聞いた夜、しばらく黙っていた。
やがて、
「徳川の世を終わらせたと思えば、今度は何百年も続いた大名の領国まで解体するか」
と、低い声で言った。怒っているというより、呆然としていた。
父上も難しい顔をしていた。
二人にとって、それは役所の名前が変わるだけのことではない。
自分たちが当たり前だと思っていた国の形そのものが消えていくことだった。
だが七歳のわしには、その重さが分からない。
「県になったら、何か困るのか?」
そう聞いた。父上は少し考えて、
「お前たちが大人になるころには、それが普通になっているのかもしれんな」
と言った。
その言葉だけは、妙に覚えている。
祖父上にとっては信じられない変化。
父上にとっては不安が募る変化。
けれど、わしや兄上や葵にとっては、やがてそれが「普通」になる。
同じ出来事でも、生まれた時代によって見え方が違うらしい。
三 江戸から東京の街へ
しかも、変わったのは政治だけではない。町そのものが変わり始めた。
最初に驚いたのは、人間の頭だった。
「兄上!」
わしは寛之助兄上の袖を引いた。
「また髷がないぞ!」
兄上が振り向く。向こうから歩いてくる男の頭は短い。
髷がない。
「最近多いじゃろ」
「変な感じじゃ」
「そのうち普通になるんじゃないか?」
兄上はそう言った。わしは父上を見る。
髷がある。祖父上にもある。
「父上は切らぬのか?」
わしが聞く。
「まだ切らん」
「祖父上は?」
祖父上は即答した。
「切らん」
「なぜじゃ?」
「長年これで生きてきた」
それだけだった。
わしは、ざんぎり頭の男と祖父上を交互に見る。
同じ町を歩いているのに、まるで違う時代の人間が並んでいるみたいだった。
洋服も増えた。とはいっても、町中の人間が急に洋服になったわけではない。
着物の人のほうがずっと多い。
それでも役人や外国人など、西洋式の服を着た者を見る機会が増えていた。
「足が細く見えるな」
わしが言う。兄上が笑った。
「見るところがそこか」
「だって着物と全然違うではないか」
帽子をかぶり、洋服を着て、革靴を履く。
その隣を髷頭の着物の男が歩く。
さらに向こうにはざんぎり頭。
十歳のわしには、東京全体が巨大な着せ替えをしているように見えた。
四 赤煉瓦の建物
銀座へ行ったときには、もっと驚いた。
「赤いぞ」
わしは建物を見上げた。煉瓦だった。木ではない。
見慣れた江戸の町家とも違う。建物がずらりと並び、道も広い。
「父上、ここは外国なのか?」
「東京じゃ」
「本当に?」
「本当だ」
「でも東京に見えんぞ」
父上が笑った。
わしの中での東京は、まだほとんど江戸の姿だった。
木造の家。
瓦屋根。
細い道。
暖簾。
その間に突然、西洋風の煉瓦の町並みが現れる。
「火事で燃えにくい町にするためでもあるそうじゃ」
父上が教えてくれた。わしは煉瓦の壁をじっと見た。
「江戸にはなかったのか?」
「こういう町並みはなかった」
また一つ、江戸になかったものが増えた。
五 ガス灯
夜の光も変わり始めた。
日が暮れていくのに、町の中に明るい灯りがともった。
「父上!あれは何じゃ!」
「ガス灯だ」
「がす?」
聞いたことのない言葉だった。
炎なのに、いつもの提灯や行灯とは違う。
暗闇の中に、西洋の明かりが並んでいる。
わしはしばらく動けなかった。
「夜なのに明るいぞ…」
葵がわしの横で、
「きれい」
と言った。
葵はまだ幼い。この子にとっては、ガス灯のある町のほうが普通になっていくのかもしれない。
わしはふと思った。自分が覚えている江戸の夜は、もっと暗かった。ほんの数年前なのに。
六 牛鍋
食べ物まで変わった。
ある日、父上が珍しいものを食べさせてくれた。
牛鍋。
「牛…?」
わしは鍋を見る。匂いはうまそうだった。だが少し怖い。
「食べるのか?」
「そのためにある」
父上が答える。
兄上はもう箸を伸ばしていた。
「うまいぞ」
「本当か?」
「食べてみろ」
わしも一切れ取る。恐る恐る口へ入れた。
「どうだ?」
「うまい!」
兄上が笑った。
葵も欲しがる。
母上が食べやすいようにしてやる。
祖父上はしばらく鍋を睨んでいた。
「祖父上も食べぬか?」
「…少しだけじゃ」
結局食べた。
「どうじゃ?」
わしが聞く。祖父上はしばらく黙ってから、
「悪くない」
と言った。家族みんなで笑った。祖父上は少し不機嫌そうだった。
七 太陽暦
だが、一番わけが分からなかった変化は暦だった。
明治五年の暮れ。
父上が突然言った。
「明日は正月じゃ」
わしは耳を疑った。
「何を言っておるのじゃ?」
「正月じゃ」
「まだ十二月ではないか!」
「暦が変わる」
「どういうことじゃ?」
兄上も困惑している。母上も苦笑していた。
旧来の暦をやめ、西洋と同じ太陽暦を使うのだという。
「では、明日は十二月三日ではないのか?」
「一月一日じゃ」
「十二月の残りは?」
「ない」
わしは愕然とした。
「なくなったのか!?」
兄上が吹き出した。
「日にちが盗まれたみたいじゃな」
「笑い事ではないぞ! 何日も消えたではないか!」
今まで政治や町の姿が変わることはあった。
だが、ついに大人たちは日付まで変えてしまった。
わしは本気で、明治という時代は一体どこまで変えるつもりなのだ、と思った。
八 火を吐く鉄塊の怪物
そんな文明開化の中でも、
わしが生涯忘れられそうにないほど驚いたものがあった。
鉄道だった。
明治五年。新橋と横浜の間に鉄道が開通した。
初めて蒸気機関車を見た日のことを、わしはよく覚えている。
遠くから黒いものがやってくる。
煙を吐いている。
それだけでも恐ろしい。
「父上…」
わしは思わず父上の着物をつかんだ。
「なんじゃ、あれは」
「蒸気機関車じゃ」
「火を吐く鉄の怪物か!?」
「違う」
「では、なぜ煙を吐いておる!?」
兄上が横で笑う。だが兄上だって目を丸くしていた。
シュウウウウ―。
シリンダーから蒸気が漏れる。
車輪が動く。
鉄と鉄がぶつかる音がする。
そして汽笛。
―ピーッ!
「うわっ!」
わしも葵も飛び上がった。兄上まで肩を震わせた。父上が笑った。
「怖いか」
「怖い!」
わしは正直に言った。
だが、怖いのに目を離せなかった。
黒い機関車。
大きな車輪。
後ろにつながった客車。
それが鉄の線路の上を走っていく。
馬もいない。
人が引いているわけでもない。それなのに動く。
「父上」
わしは聞いた。
「これ、本当に人が乗るのか?」
「ああ」
「中に?」
「ああ」
「死なぬのか?」
「普通は死なん」
その答えでは安心できなかった。
九 鉄の怪物に乗った
しばらくして、わしはその「恐ろしい鉄の怪物」に乗ることになった。
家族で横浜へ行くためだった。
新橋の停車場。わしは客車を見ながら、まだ疑っていた。
「父上、本当に乗るのか?」
「乗るために来た」
「歩いて行かぬか?」
「今さら何を言っている」
兄上が先に乗っていく。
「蔵之助、怖いのか?」
「怖くない!」
怖かった。わしも乗った。母上と幼い葵もいる。祖父上まで一緒のこともあった。
やがて車体が揺れる。
ガタン。
動いた。
「動いた!」
ガタン、ガタン。
「父上!家が動いておる!」
「動いているのはこっちじゃ!」
兄上が笑う。
速度が上がる。
窓の外の景色が流れていく。
わしは言葉を失った。
人が歩くより速い。
馬より速いように感じる。
今まで時間をかけて進んでいた場所が、次々に後ろへ消えていく。
「すごい…」
それしか言えなかった。怖さなど、いつの間にかなくなっていた。窓に張りついた。
「兄上!見ろ!」
「見てる!」
「速いぞ!」
「分かってる!」
葵も大喜びだった。
母上は、
「落ち着きなさい」
と笑っていた。
祖父上だけは難しい顔で窓の外を見ていた。わしは聞いた。
「祖父上、どうした?」
祖父上はしばらく答えなかった。
やがて、
「わしが若いころには、こんなものが日本を走るとは夢にも思わなかった」
と言った。
驚き、戸惑い、少しの寂しさ、そして、ほんの少し楽しそうでもあった。
その後、わしたちは一年に何度か、機会があれば鉄道で横浜へ出かけるようになった。
最初は汽笛が鳴るたびにびくっとした。それが二度、三度と乗るうち、
「今日は窓側がよい!」
などと言うようになった。慣れとは恐ろしい。
あれほど怪物に見えた蒸気機関車が、いつの間にかわしの楽しみになっていた。
十 明治の東京と横浜
横浜は、東京とはまた違う町だった。
外国人を見かける。
洋館がある。
港には船がいる。
夜にはガス灯。
見慣れない文字。
見慣れない服。
見慣れない品物。
「ここは日本なのか?」
初めて訪れたころ、わしは何度もそう思った。だが父上は、
「ここも日本じゃ」
と言った。ならば、日本そのものが変わっているのだ。
帰りの列車。
窓の外が夕暮れに染まる。
兄上は向かいに座っている。
葵は遊び疲れて母上にもたれて眠っている。
祖父上の髷。父上の髷。
向こうの席には、ざんぎり頭の男。洋服姿の者もいる。
一つの客車の中に、江戸と明治が一緒に乗っているようだった。
わしは窓の外を眺めた。
十年前、わしが生まれた町は江戸だった。
そのころには将軍様がいた。
それから幕府がなくなった。
江戸が東京になった。
藩がなくなった。
髪型が変わった。
服が変わった。
食べ物が変わった。
暦まで変わった。
夜の明かりが変わった。
煉瓦の町ができた。
そして今、わしは蒸気機関車に乗っている。
「父上」
「なんだ?」
「文明開化というのは、これか?」
父上は少し笑った。
「そう呼ばれておるな」
「変なものじゃ」
「何がじゃ」
「昨日までなかったものが、次の日には当たり前みたいな顔をしておる」
父上は黙った。祖父上がこちらを見た。わしは続けた。
「この汽車もそうじゃ。最初は化け物かと思ったのに、今ではまた乗りたいと思っておる」
祖父上が小さく笑った。
「それがお前たちの時代なのじゃろう」
「わしたちの?」
「ああ」
祖父上は窓の外を見た。
「わしらは、なくなっていくものを知っておる。お前たちは、生まれてくるものを覚えてゆく」
その意味を、十歳のわしが全部理解できたわけではないが、妙に胸に残った。
汽車は煙を吐きながら東京へ向かって走っていく。
線路の向こうには、わしの知らない景色が続いている。
それがどこまで続くのか。この国がどこまで変わるのか。
十歳のわしには分からない。
ただ窓の外へ顔を向け、次々に後ろへ飛んでいく景色を見ながら思った。
明治という時代は、速い。
まるで、この汽車みたいだ。
そしてわしはまだ、その汽車がどこへ向かって走っているのかを知らなかった。




