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第三話 兄弟と遊んだ明治初期

一 兄上と遊んだ日々


明治三年(1870)。わしは六歳になった。


世の中では、まだ大人たちが「明治になってから」という言い方をよくしていた。

江戸が東京になったことも、将軍様の世が終わったことも、わしにはまだよく分からない。


けれど、そんなこととは関係なく、わしには毎日することがあった。兄上と遊ぶことである。


「蔵之助! こっちだ!」


七歳になった寛之助兄上が走っていく。


「待て、兄上!」


わしも追いかける。兄上は二歳年上だから、足が速い。わしが必死になって追いかけても、なかなか捕まらない。


「遅いぞ!」


「兄上が速すぎるのじゃ!」


「そんなこと言っていたら、いつまでたってもわしには勝てんぞ」


「今日こそ勝つ!」


家の近くの道。

寺社の境内。

空き地。

大人に怒られない程度の場所なら、どこでも遊び場になった。

いまの町には、子どものために造られた遊び場などほとんどない。


わしたちは走った。

木の枝を拾った。

石を並べた。

虫を追った。

時には木の棒を刀に見立てて遊んだ。


「わしが侍だ!」


兄上が棒を構える。


「では、わしも侍じゃ!」


「蔵之助はまだ弱い」


「なんじゃと!」


棒と棒がぶつかる。カン、と乾いた音がする。もちろん本物の刀ではない。

けれど、わしたちは大真面目だった。


「参ったと言え!」


「嫌じゃ!」


「ならばもう一度だ!」


「来い!」


夢中になっているうちに、母上の志帆から声が飛んでくる。


「寛之助! 蔵之助! あまり乱暴に遊んではいけません!」


二人そろって手が止まる。


「…はい」


兄上が小さな声で答える。


わしも続けた。


「はい…」


母上が見えなくなる。

少し待つ。

兄上がわしを見る。わしも兄上を見る。

そして。


「もう一回だけな」


「うむ」


また始める。そんな日々だった。

世の中がどう変わっても、わしたち兄弟にとっては、兄弟で遊んでいられる日が当たり前だった。


二 弟が生まれた


だが、その年の三月二十九日。

わしの家に、大きな変化があった。

母上に赤ん坊が生まれた。わしと兄上に、弟ができた。

名は「葵(まもる)」。


「小さい…」


初めて見たとき、わしはそう言った。布に包まれた赤ん坊が、母上のそばで眠っている。

顔が小さい。手も小さい。指など、わしの指よりずっと細い。


「これが弟なのか?」


兄上が言った。


「そうですよ」


母上が笑った。


わしは恐る恐る近づいた。


「触ってよいか?」


「そっとならね」


わしは葵の手に、自分の指を近づけた。

すると。

ぎゅっ。

小さな手が、わしの指を握った。


「おおっ」


思わず声が出た。


「蔵之助、捕まってるぞ」


兄上が笑う。


「葵、離せ」


もちろん離さない。


「強いぞ、こいつ」


「赤ん坊相手に何を言っておる」


兄上に笑われた。わしは少し悔しかったが、葵の手を見ているうちに、どうでもよくなった。

不思議だった。昨日まで、この家にはいなかった。それなのに今日から、ずっとここにいる。


父上と母上。

兄上。

わし。

そして葵。

家族が一人増えた。


「兄上」


「なんだ?」


「わしも兄上になったのか?」


寛之助兄上は少し考えてから答えた。


「そういうことになるな」


わしは胸を張った。


「では、これからは葵を守らねばならんな」


「まず自分で転ばないようになってから言え」


「兄上!」


その日から、わしは葵を見るたびに妙な気分になった。

寛之助兄上から見れば、わしもこんなふうだったのだろうか。

泣いて。

眠って。

抱かれて。

何もできなくて。

いままでわしは、いつも「弟」だった。

兄上についていく側。

兄上に教えてもらう側。

兄上に置いていかれないよう走る側。


だが葵が生まれてから、初めて自分より小さい者ができた。


「葵。早く大きくなれ」


眠っている弟に話しかける。


「兄上とわしが、遊び方を教えてやるぞ」


当然、返事はない。


三 寛之助兄上・葵と遊んだ日々


それから月日が過ぎた。

葵は座れるようになった。

立てるようになった。

そして歩き始めた。最初は危なっかしかった。


「葵、こっちじゃ」


わしが手を伸ばす。葵が一歩進む。よろよろ。もう一歩。


「そうじゃ、来い」


よろよろ。


「あっ」


倒れそうになる。わしが慌てて抱える。


「危なかった…」


後ろで兄上が笑った。


「お前、本当に兄貴みたいになったな」


「わしは兄じゃぞ」


「わしから見れば、まだ弟だけどな」


「それを言うな」


兄上とわしと葵。三人で外へ出られるようになると、遊び方も変わった。

葵はまだ幼いから、わしたちと同じようには走れない。

わしと兄上が本気で走れば、すぐに置いていってしまう。だから、ときどき振り返る。


「葵、こっちじゃ!」


小さな葵が走ってくる。


「にい…!」


まだ言葉も上手ではない。それでも一生懸命ついてくる。


「もっと速く!」


わしが言うと、兄上がわしの頭を軽く叩いた。


「無理をさせるな」


「痛い!」


「転んだらどうする」


「分かっておる!」


少し前まで、同じことを兄上に言われると腹が立った。

だが葵を見ていると、兄上がわしに何をしていたのか、少し分かった。小さい弟を連れていると、気になるのだ。

転ばないか。

迷子にならないか。

泣かないか。

危ないものに触らないか。


「葵、それは触るな!」


今度はわしが言う。


兄上が横で笑った。


「母上みたいだな」


「うるさい」


春。三人で花を見る。

夏。虫を追う。

秋。落ち葉を踏んで歩く。

冬。寒いと言いながら、家の中で遊ぶ。

わしたちにとって、明治という新しい時代は、そんな日々とともに過ぎていった。 


四 「公園」


そして明治六年(1873)。

わしは九歳。

兄上は十歳。

葵は三歳になっていた。


ある日、父上が聞き慣れない言葉を口にした。


「公園」


わしは首をかしげた。


「こうえん?」


「人々が皆で遊び、景色を楽しめる場所じゃ」


「それなら、今までだって寺や空き地で遊んでおったではないか」


父上が笑った。


「まあ、そうじゃな。しかしこれからはそうした場所を『公園』として定めるそうじゃ」


わしにはよく分からなかった。

場所は昨日からある。

木も昨日からある。

道も昨日からある。

それなのに今日から名前がつく。

大人というものは、何でも名前をつけたがるらしい。


やがてわしたちは、家族とともに上野へ出かける機会を得た。そこも「公園」と呼ばれる場所になったという。

もちろん、いままで見たこともない遊具が並んでいるわけではない。

大きな木。

広いところ。

寺社の建物。

歩く人々。

景色を楽しむ者たち。

子どもを連れた家族。

昔から人の集まる場所だったものが、新しい世の中で「公園」という名前を与えられていた。


「ここが公園か」


わしは辺りを見回した。


「普通の場所に見えるぞ」


兄上も言った。


「俺もそう思う」


葵だけは、そんなことには興味がない。何かを見つけたらしく、急に走り出した。


「葵!」


わしと兄上が同時に叫ぶ。


「待て!」


二人で追いかけた。葵は楽しそうに笑っていた。


「にい! にい!」


「待てと言っておるじゃろう!」


ようやく捕まえた。わしが葵の手を握る。兄上が反対側の手を握った。

三人並んだ。右には兄上。

左には葵。わしは真ん中だった。

兄上から見れば、わしは弟。葵から見れば、わしは兄。

少し妙な気分だった。


「蔵之助」


兄上が言った。


「なんじゃ」


「葵を離すなよ」


「兄上こそ」


「わしは離さん」


「わしもじゃ」


葵は、わしら二人の手を握ったまま笑った。その顔を見ると、わしまで笑った。

少し離れたところで父上と母上がこちらを見ている。


「走りすぎるなよ!」


父上の声。


「葵から目を離してはいけませんよ!」


母上の声。


「分かっておる!」


わしが答える。

兄上が言った。


「さあ、行くぞ」


「うむ」


三人で歩き出す。


江戸のころにはなかった「公園」という言葉。

東京という新しい町の名前。

明治という新しい時代。

わしには、まだ何が新しくて何が古いのか、よく分からなかった。

ただ、兄上がいて、弟がいて、三人で手をつないで歩いている。そのことだけで十分だった。


五 かつて上野戦争があった場所


数年前。

上野から砲声が聞こえ、わしは母上の着物を握って震えていた。

今、その上野を、子どもたちや家族が歩いている。

わしには政治のことなど分からない。

ただ、怖い音の記憶が残る場所にも、こうして人々が笑って歩く日が来るのだと思った。


「兄上!」


「なんだ?」


「葵!」


「なあに?」


「競走じゃ!」


「おい、葵を連れて走るな!」


兄上が叫ぶ。わしは笑った。葵も笑った。

結局、兄上まで走り出した。

三人の足音が、新しく公園と呼ばれるようになった場所に響いていく。


ある日、三人で地面に寝転がった。空が青かった。

兄上が隣にいる。反対側には葵がいる。

葵は拾った木の枝をずっと振っていた。


「兄上」


「なんじゃ」


「明治っていつまで続くのじゃろうか」


「知らん」


「兄上でも知らんのか」


「そんなもの、誰も知らんじゃろう」


兄上がそう言った。葵は何もわからず、


「あき?」


と言って笑った。わしと兄上も笑った。


わしはまだ知らないことばかりだった。

明治という時代がどこへ向かうのかも知らない。

東京がどんな町になるのかも知らない。

弟の葵がこれからどんな子になるのかも知らない。

そんなことを考える必要さえなかった。


明日もきっと、兄上と葵と、また遊べると思っていた。

それが当時のわしにとっての明治であり、世界でいちばん当たり前のことでもあった。

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