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第二話 大政奉還と上野戦争

大政奉還

慶應3年(1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権を明治天皇に返上した出来事。


上野戦争

慶應4年(1868年7月4日)

戊辰戦争の戦闘の一つ。江戸上野において彰義隊ら旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍との戦い。

一 将軍様の時代の終わり


東京という名前にも、少しずつ慣れてきた。

けれどわしの頭の中には、ときどき妙な記憶が浮かんでくる。

前に思い出した父上の刀や、髷を結った男たちとは少し違う。

もっと胸騒ぎがするような記憶だった。


大人たちが、ひそひそと話している。

父上の顔が険しい。

母上が何度も外を気にしている。

兄上の寛之助もいつもより静かだった。

そして、よく意味の分からない言葉。


――将軍。

――京。

――朝廷。

――徳川。


わしが三歳だったころのことだ。


「父上」


ある日、わしは尋ねた。


「将軍様というのは、どこへ行ったのじゃ?」


父上――権兵衛は、一瞬、わしの顔を見た。


「どうした、急に」


「みんなが将軍様、将軍様と言っておった気がする」


父上は黙った。母上の志帆も、こちらを見る。


「蔵之助。それを覚えているの?」


「少しだけじゃ」


本当に少しだけだった。

三歳だったわしに、政治など分かるはずもない。今でも政治のことなとほとんどわからない。

ただ、あるころから家の大人たちが急に険しい顔をするようになったこと、空気感が明らかにいつもと違っていたことだけは覚えていた。


父上が外から帰ってくる。

いつもなら真っ先にわしたちのところへ来るのに、その日は祖父上たちと長いこと話していた。


「公方様が政を返された」


そんな言葉を聞いた気がする。もちろん、そんなの意味なんて分からなかった。

だから幼いわしは、兄上に尋ねた。


「兄上。何を返したのじゃ?」


「知らん」


五歳だった兄上にも分からなかったらしい。


「玩具か?」


「そんなわけあるか」


「では刀か?」


「わしに聞くな」


わしには、それくらいの出来事だった。けれど、大人たちにとっては違った。

父上たちの声は小さかった。

母上は、わしたち子どもが近づくと話を止めることもあった。


父上はある夜、深く息を吐いていた。いまのわしなら、少しだけ分かる。

あのころ、大人たちは、自分たちが生きてきた世の中がどうなるのか分からなかったのだ。


けれど三歳のわしは、そんなことなど知らない。

翌朝になれば飯を食べる。

兄上と遊ぶ。

眠くなれば昼寝をする。

父上は父上で、母上は母上だった。

だから、世の中そのものが変わろうとしているなど、考えもしなかった。


二 江戸が戦時に


それからしばらくして。

わしの記憶の中の江戸は、もっと恐ろしいものになった。


慶応四年・一八六八年。


わしは四歳だった。

その日。遠くから、今まで聞いたことのない音がした。

――ドン。

わしは遊んでいた手を止めた。

また鳴った。

――ドン。

腹の底に響くような音だった。


「母上?」


母上が急いで外を見る。

父上も険しい顔をしながら立ち上がった。


「何の音じゃ?」


誰もすぐには答えてくれなかった。しばらくすると、また低い音。

ドン。

ドドン。

わしは怖くなって、母上の着物をつかんだ。


「雷か?」


「雷ではないわ」


母上の声がいつもより低かった。


「では何じゃ?」


母上は答えなかった。

父上が言った。


「外へ出るな」


その一言で、わしは余計に怖くなった。

父上が「外へ出るな」と言うときは、本当に危ないときだったからだ。

兄上も黙っている。


「兄上」


「なんだ」


「何があるんじゃ?」


「わしだって知らない」


そう言いながら、兄上も不安そうだった。

わしは窓の向こうを見る。

遠くの空が、いつもとは違って見えた。

町を行く人々も落ち着かない。

何かを伝えながら走っていく者。

家へ戻ろうとする者。

子どもを連れて急ぐ母親。


江戸…いや、もうそのころには世の中が大きく変わり始めていたらしいが、幼いわしにそんな区別はできなかった。ただ、自分が知っている町が急に怖い場所になった。


「父上」


わしは父上の袖をつかんだ。


「戦なのか?」


その言葉だけは知っていた。大人たちが時々口にしていたからだ。

父上はわしを見た。


「…そうだ」


わしの胸が縮んだ。

戦。昔話の中では聞いたことがある。

武士が刀を持って戦うもの。

けれどそれが、自分のいる町の近くで実際に起きている。昔話じゃない。

そんなことは考えたこともなかった。


「誰と誰が戦っておるのじゃ?」


父上は少し迷った。


「上野で、彰義隊と新政府軍が戦っておる」


わしにはどちらの名前もよく分からない。


「どちらが悪いのじゃ?」


父上はすぐには答えなかった。その沈黙が、妙に記憶に残っている。


「世の中の争いというものはな、蔵之助。子どもに話すほど簡単に、こちらが良くて、こちらが悪いとは言えぬこともある」


わしには難しすぎた。


「でも、怖いぞ」


「ああ」


父上はそう答えた。


「戦は怖いものじゃ」


武士である父上がそんなことを言うとは思わなかった。父上は刀を持っている。強い。戦など怖がらないと思っていた。


「父上も怖いのか?」


「ああ」


「怖くない者などおらん」


父上はわしの頭に手を置いた。外ではまだ、遠くから音が響いていた。

わしは母上のそばに座った。

兄上もいる。

いつもの家だ。


そのはずなのに、いつもの家ではないように感じた。

母上は、わしたちをできるだけ奥にいさせた。


「今日は外へ出てはいけません」


「いつまで?」


「静かになるまで」


「いつ静かになるのじゃ?」


母上は答えられなかった。それが一番怖かった。大人でも分からないことがある。

それまでのわしは、大人なら何でも知っていると思っていた。

父上なら何が起きてもどうにかしてくれる。母上なら何でも分かる。そう思っていた。


けれど、この日は違った。

父上も外の様子を何度も確認する。

母上も不安そうに弟を抱いている。

兄上も強がらない。

みんなが何かを怖がっていた。


やがて音は遠のいていった。

その日の戦いがどんな結末を迎えたのか、四歳のわしは知る由もなかった。


彰義隊が敗れたことも。

新しい政府が、この町を治めていくことも。

徳川の世が終わり、新しい時代へ進んでいることも。

何一つ知らない。


わしが覚えているのは、砲声だけだった。


ドン。

ドン。


腹の中まで震える音。

母上の着物を握った手。

父上の険しい顔。

兄上が珍しく静かだったこと。

外へ出てはいけないと言われたこと。


そして。


「戦は怖いものだ」


そう言った父上の声だった。


三 あの戦は何だったのか


明治二年の今、五歳になったわしは、その日のことを父上に聞いていた。


「父上。あれは上野の戦だったのか?」


「ああ」


「江戸で戦をしておったのか?」


「ああ」


「江戸はなくなったのか?」


父上は少し考えた。


「町そのものが消えたわけではない」


「では、なぜ東京になった?」


「世の中を治める者が変わった。国の仕組みも変わろうとしている」


「将軍様は?」


「もう、昔のように日本を治めてはおられぬ」


わしは黙った。

三歳のころ、大人たちが騒いでいた理由。

四歳のころ、町に戦の音が響いた理由。

全部は分からない。

けれど、何か大きなものが終わったのだということだけは、少し理解できた。


わしは父上の腰を見る。

そこにある刀。

町を歩いていた武士たち。

将軍様。

江戸。


それらが、少しずつ過去のものになろうとしている。


「父上」


「なんだ」


「世の中というものは、こんなに急に変わるものなのか?」


父上は苦笑した。


「わしにも分からん」


その答えに、わしは驚かなかった。

上野戦争の日から、大人でも分からないことがあると知っていたからだ。


夕暮れ。わしは門の前に立った。町は静かだった。あの日のような砲声は聞こえない。

人が歩き、商人の声がし、子どもたちが遊んでいる。

まるで何もなかったようだった。

だが、わしは知っている。ほんの少し前、この町では戦があった。

その少し前には、大人たちが「将軍様が政を返した」と騒いでいた。

わしが生まれたときには当たり前だったものが、わしが五歳になるまでの間に、次々と変わっていった。


それでも、わしにはまだ理解できないことがある。

なぜ大人たちは戦ったのか。

なぜ将軍様はいなくなったのか。

なぜ江戸が東京になったのか。


ただ一つ。

わしの中には、あの日の音が残っている。


ドン。


遠くで響いた、あの音。それは四歳のわしが初めて聞いた、世の中が壊れ、別の世の中へ変わっていく音だった。

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