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第一話 誕生と微かな江戸時代の記憶

第一話 誕生と微かな江戸時代の記憶


一 わしは江戸に生まれていた


明治二年(1869)三月。

わしは、五歳になった。


いま、この町は「東京」という名前になっている。

けれど、わしにはまだ、その名前がどうにも馴染まなかった。


「とうきょう」


声に出してみても、どこかよそよそしい。

わしがもっと小さかったころ、大人たちはこの町を別の名前で呼んでいた気がする。


「江戸」


その二文字を聞くと、胸の奥に、何かぼんやりした景色が浮かんでくる。

けれど、それが本当にわし自身の記憶なのか、それとも父上や母上から何度も話を聞いたせいなのか、五歳のわしにはよく分からなかった。


「母上。わしは江戸で生まれたのじゃろう?」


ある日の昼下がり、わしは母上「志帆」に尋ねた。

母上は縫い物をしていた手を止め、こちらを見る。


「そうよ。蔵之助は江戸で生まれたの」


「いつじゃ?」


「元治元年の三月十四日よ」


元治元年。

わしには、その言葉が何を意味しているのか分からない。ただ、自分が生まれたころにはまだ「明治」というものがなかったらしい。


母上は少し笑った。


「あなたが生まれた日はね、とても小さな赤ん坊だったのよ。よく泣いて、よく眠って」


「わし、泣いたのか?」


「赤ん坊はみんな泣きます」


「兄上も?」


「もちろん」


すると、近くにいた兄上「寛之助」がすぐに振り返った。


「わしはそんなに泣いていないぞ」


「寛之助もよく泣きましたよ」


母上がそう言うと、兄上は黙った。

わしは笑った。


兄上はわしより二つ上だから、何でも知っているような顔をする。だが、赤ん坊のころは兄上も泣いていたらしい。わしにとってはそれがおかしかった。

けれど、わしが知りたかったのは、自分が生まれた日のことだけではなかった。


「母上」


「なあに?」


「江戸って、どんなところだったのじゃ?」


母上は少し不思議そうな顔をした。


「どんなところって…ここよ」


「ここ?」


「名前が変わっただけで、あなたがいるこの町が江戸だったの」


わしは庭の向こうを見た。

空がある。

屋根がある。

道がある。

人が歩いている。

それが江戸だったなんて言われても、不思議だった。

江戸というのは、もっと遠い昔の国のような気がしていたからだろうか。


二 わしが覚えている江戸


けれど、よく考えてみれば、わしにもいくつか覚えていることがあった。

とても小さかったころの記憶。それは夢と区別がつかないほど、曖昧なものだった。


まず覚えているのは、父上の腰だった。

父上「権兵衛」が外へ出るとき、腰に長いものを差している。刀だ。

幼いわしの目には、それがとても大きく見えた。父上が歩くたびに、鞘がわずかに揺れる。

わしはその後ろを小さな足で追いかけていた。


「父上、待ってくだされ!」


そんなことを言ったような気がする。


いや、言葉まで本当に覚えているかもわからない。

ただ、大きな父上の背中と、その腰の刀。それだけは、なぜか鮮明に、目の奥に残っていた。


もう一つ。道を歩く男たちの髪。頭の上が妙な形になっている男が大勢いた。子どものわしにとってはそれが日常だった。

父上にも髷がある。祖父上にもある。

道を歩けば、刀を差した男を見かけることも珍しくなかった。だからわしは、それがいつまでも続くものだと思っていた。

そもそも「いつまでも」という考えすらなかった。

昨日と同じように今日があり、今日と同じように明日が来る。五歳になるわしにとって、世の中とはそういうものだった。


ほかにも、音を覚えている。

遠くから聞こえる鐘の音。

道を行く人々の声。

草履が地面を擦る音。

馬の蹄の音。

何かを売り歩く商人の声。


いま思い出そうとすると、一つ一つが霞の向こうにある。

道ゆく人々の顔までは思い出せない。どの道だったのかも、もう分からない。


けれど匂いだけが残っている。

土の匂い。

煙の匂い。

雨に濡れた木の匂い。

畳の匂い。

父上と母上の着物の匂い。

そして、人が大勢暮らしている町の匂い。

わしは縁側に座り、じっと庭を眺めた。


「母上」


「なあに?」


「わし、父上が刀を持っていたのを覚えておるぞ」


母上の手が止まった。


「そう」


「小さいころじゃ。父上の刀が、ものすごく大きく見えた」


「蔵之助は本当に小さかったものね」


「では、わしは本当に覚えておるのだろうか?」


母上はすぐには答えなかった。

しばらくして、静かに言った。


「全部ではないでしょうね。でも、少しくらいなら、本当に覚えているのかもしれないわ」


「少し…」


わしは、自分の頭を両手で押さえた。この頭の中に江戸が入っている。そう思うと、不思議な気分だった。


けれど、その江戸は霞んで見える。

思い出そうとすると、いとも簡単に逃げてられてしまう。

父上の顔を思い出そうとすれば、いまの父上の顔になってしまう。

昔の道を思い出そうとすれば、昨日歩いた道と混ざってしまう。


わしは兄上にも聞いてみた。


「兄上は覚えておるか?」


「お前よりは覚えているぞ」


「ほんとか!?」


「江戸のころ、父上と出かけたことも覚えている」


「どこへじゃ?」


「それは…」


兄上が黙った。


「忘れたのか?」


「忘れてない!」


兄上は怒った。

わしはまた笑った。

結局、七歳の兄上だって、全部を覚えているわけではないらしい。


すると部屋の奥から、父上の声がした。


「何を騒いでおる」


父上が姿を見せた。

わしは父上に近づいた。


「父上」


「なんじゃ」


「父上は江戸を覚えておるか?」


父上は眉を動かした。

妙な質問をされたと思ったのだろう。


「覚えておるも何も、わしは江戸で育った」


「全部覚えておる?」


「全部など覚えておらん」


わしは驚いた。


「父上でも?」


「人間、何もかも覚えていられるものではない」


父上はそう言った。

そして少し考えたあと、わしを見下ろした。


「どうして急にそんなことを聞く」


「わしの中に、江戸の記憶がある気がするのじゃ」


父上は黙った。

わしは一生懸命説明した。


刀。

髷。

鐘。

土。

煙。

暗くなっていく町。

父上の背中。

自分でも、何を言っているのか分からなくなる。


それでも父上は笑わなかった。

最後まで聞いてから、短く答えた。


「ならば、それがお前の江戸なのだろう」


「これが?」


「人が覚えている町というものは、地図ではない。そういう小さなものの集まりだ」


意味はよく分からなかった。けれど、わしは妙に納得した。

夕方になった。外から人の声が聞こえてくる。わしは門のところまで出た。


三 今は東京


この町はいま、東京という。

大人たちは、新しい世になったと言う。

明治という時代になったと言う。


けれど五歳のわしには、何がどこまで変わったのか、まだ分からない。

昨日まであった家が今日もあり、道も続いている。

父上も母上も兄上もいる。

空だって変わらない。


それなのに、大人たちは時々、昔のことを話す。


「江戸のころは―」


その言葉を聞くたびに、わしは耳を澄ませた。

わしも、その「江戸のころ」に生きていた。ほんの少しだけ。

けれど、そのころのことを、わしはほとんど覚えていない。

五歳のわしが持っているのは、ほんの欠片だけだった。


父上の腰に揺れていた刀。

髷を結った男たち。

土と煙の匂い。

遠くの鐘。

薄暗い夕暮れ。

そして、大きな手に引かれて歩いたような感触。


本当にあったことなのか。夢なのか。

それさえ、まだ分からない。


けれどわしは、その日から「江戸」という言葉を聞くたび、自分の記憶の底を探るようになった。

何かもう一つでも思い出せないか。

消えてしまう前に。


五歳のわしには、世の中がなぜ変わったのかも、これから何が起こるのかも分からなかった。


ただ一つ分かっていた。

わしは確かに、江戸という町で生まれた。

そして今、その町は東京と呼ばれている。

わしは門の前に立ち、夕暮れの町を眺めた。

昨日と同じように見えるその景色を見ながら、小さな声でつぶやいた。


「ここが、江戸だったのか……」


それが、五歳のわしが初めて、自分の生まれた時代というものを意識した瞬間だった。

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