第六十一話 戦死した孫と曾孫 後編
前編のあらすじ
康弘は海で、大空は空の特攻隊としてそれぞれその命を散らした。蔵之助たちは彼らの死を知るとき、どう感じたのだろうか。
――昭和十八年(1943年)〜昭和二十年(1945年)初頭――
語り手:神楽坂蔵之助
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一 花見の日の写真
わしの家には、一枚の大きな写真が飾られておる。
昭和十五年(1940)の春、家族で花見をしたときに撮影した、神楽坂一族の集合写真じゃ。
あの日は、桜が美しく咲いておった。
わしと愛海、兄上の寛之助と眞紀子、そして母の志帆。
修蔵、節子、光蔵、春子の四人の子どもたちも、それぞれの家族を連れて集まっておった。
義蔵、奈恵、康弘、大空、日花梨、幸丞、葵生ら、多くの孫たちもおった。
さらに、前年に生まれた曾孫の弘一までおった。
母は九十七歳になっておったが、わしらの中で誰よりも長い年月を生きてきた人じゃった。
しかし、その年の十一月。母は九十七歳で大往生した。
わしは、母を亡くしてから、何度もあの写真を眺めるようになった。
写真の中では、母は今も微笑んでおる。あの日のままじゃ。
じゃが、現実の家族には、母がもうおらん。
そのことが、わしには寂しくてならなかった。
それでも、母は長い人生を全うした。
悲しくとも、九十七年もの歳月を生きた母を、誇らしく思うことができた。
しかし、戦争は、それとはまったく違う別れをわしらにもたらすことになった。
二 康弘の戦死の知らせ
昭和十九年(1944)十月。
ある日、節子の家から、急ぎの知らせが届いた。
康弘の乗っていた艦が沈没し、康弘が戦死したというのじゃ。
わしは、その知らせを聞いた瞬間、言葉が出なかった。
「……康弘が?」
知らせを持ってきた者は、静かにうなずいた。
「はい…」
わしは何度も聞き返した。
「本当に…康弘なのか?」
答えは変わらなかった。
わしは、その場に座り込んだ。
康弘。
節子の息子。
わしの大切な孫。
子どもの頃には、元気に走り回り、時にはいたずらをして節子に叱られておった。
成長すると、海に強い憧れを抱き、航海士の道へ進んだ。
「祖父上、俺はいつか遠い国まで船で行ってみたいんです」
以前、康弘はそう申しておった。
わしは、その夢を応援した。
「うむ。世界は広いぞ。多くの土地を見てくるがよい」
その孫が、海で死んだ。
世界を見たいと願った若者が、海の底へ消えてしまった。
わしは拳を握りしめた。
「……馬鹿な」
声が震えた。
「まだ若いではないか……」
愛海が、そっとわしの肩に手を置いた。
「あなた……」
わしは顔を上げられなかった。
「愛海……わしは、康弘に生きて帰れと申したのじゃ」
「ええ…」
「何度も、命を大切にせいと教えたのじゃ。それなのに……」
それ以上、言葉が続かなかった。
わしは長い軍人人生で、多くの戦死者を見てきた。
戦場で部下を失ったこともある。
戦死の報告書に目を通したことも数え切れぬ。
しかし、それが自分の孫となったとき、わしは初めて思い知らされた。
一人の戦死者の向こうには、どれほど多くの悲しみがあるのか。
わしが以前受け取った報告書の一枚一枚にも、康弘と同じように、帰りを待つ家族がおったのじゃ。
三 節子が泣き崩れた日
わしは、すぐに節子の家へ向かった。
節子は、康弘の戦死を聞いてから、ほとんど口を開いておらんかった。
わしが部屋へ入ると、節子は息子の写真を手にしておった。
「…節子」
声をかけると、娘はゆっくりと顔を上げた。
「父上……」
その声は、ひどく弱々しかった。
わしは節子のそばへ座った。
「…康弘のこと、聞いたぞ」
節子は小さくうなずいた。
「はい……」
それからしばらく、沈黙が続いた。
やがて節子が口を開いた。
「父上……私、康弘に厳しくしすぎたのでしょうか」
わしは驚いた。
「小さい頃から、勉強も礼儀も、きちんとしなさいと何度も叱りました。あの子は、私のことを怖いと思っていたかもしれません」
節子の声が震えた。
「もっと優しくしてあげればよかった……」
「節子…」
「航海士になりたいと言ったときも、危険ではないかと心配して……でも、最後には応援したんです」
娘は写真を胸に抱いた。
「まさか…本当に帰ってこないなんて……」
そして、とうとう泣き崩れた。
「康弘…! 私の康弘……!」
わしは、何も言えなかった。
厳格で、責任感の強い節子。
教師としても、母親としても、いつも毅然としておった娘。
その節子が、幼い子どものように泣いておる。
わしは、そっと娘の背中に手を置いた。
「節子…おぬしは、康弘を大切に育てた」
「でも…!」
「わしは知っておる。康弘も、それを分かっておったはずじゃ」
節子は首を横に振った。
「分かりません…もう、聞くこともできないんですもの……」
その言葉が、胸に突き刺さった。
そうじゃ。もう聞けぬのじゃ。
康弘が最後に何を思ったのか。
怖かったのか。
苦しかったのか。
家族を思い出したのか。
誰にも分からぬ。
わしは、節子の肩を抱き寄せた。
「…泣くがよい、節子」
娘はわしの胸に顔をうずめた。
「父上……!」
「わしも悲しい。わしも、康弘に会いたかった……」
二人で、しばらく泣いた。
そのときのわしは、元陸軍中将でも、八十歳の長老でもなかった。ただ、孫を失った一人の祖父じゃった。
四 写真から消えていく家族
康弘の戦死の知らせを受けた後、わしは再び集合写真の前に立った。
昭和十五年(1940)の春。あの日、康弘は笑っておった。
すでに青年となり、海の仕事に夢を抱いておった。
わしは写真の中の康弘を見つめた。
「…康弘」
返事はなかった。
写真の中では、今も生きておるように見えた。
母もおる。
康弘もおる。
誰も欠けておらん。
しかし、現実には違う。
母に続いて、康弘までいなくなってしまった。
わしは写真の額にそっと触れた。
「母上…また一人、欠けてしまいました」
母は何も答えぬ。
じゃが、わしには母が、あの日の桜の下から家族を見守ってくれておるように思えた。
わしは深く息を吐いた。
「…これ以上、誰も欠けてほしくないものじゃ」
その願いは、あまりにも切実じゃった。
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五 葵生が教えてくれた動物たちの悲劇
康弘の戦死からしばらくして、わしは、以前に葵生から聞いた話を思い出すようになった。
それは昭和十八年(1943)の秋のことじゃった。
あの日、葵生はいつになく悲しそうな顔で、わしの家へやってきた。
「おじいさま……」
「どうした、葵生?」
わしが尋ねると、葵生は今にも泣き出しそうな顔をしておった。
「あの……動物園の動物さんたちが、お亡くなりになったって、本当ですの?」
わしは言葉に詰まった。
上野動物園で、空襲に備えるという理由から、危険とされた動物たちが殺処分されたことは、わしも聞いておった。
ライオンや虎、熊、そして象まで。
動物たちは、人間の始めた戦争に巻き込まれて命を奪われたのじゃ。
「…ああ。本当じゃ」
葵生の目から涙がこぼれた。
「どうしてですの……?」
わしは、答えることができなかった。
葵生は続けた。
「象さんたちは、何も悪いことをしていませんわ……」
「そうじゃな…」
「ライオンさんも、虎さんも、動物園で暮らしていただけですのに……」
葵生は泣きながら、わしの手を握った。
「おじいちゃま…戦争って、人間だけではなく、動物さんまで殺してしまうんですの?」
わしは、胸が締めつけられる思いじゃった。
「…そうじゃ。戦争は、ときに罪のない動物の命まで奪ってしまう」
葵生は首を横に振った。
「嫌ですわ…そんなの、あおいは嫌ですわ……」
わしは、そっと葵生を抱き寄せた。
「葵生…」
「あおい、象さんに会いたかったんですの…」
その言葉を聞いたとき、わしは自分の無力さを感じた。
動物園の動物を殺さねばならぬほど、国が戦争に追い詰められておる。
そして、その悲しみを、幼い葵生まで背負わねばならぬ。
「おじいさま…」
葵生は涙を拭いながら尋ねた。
「動物さんたちも、生きたかったんですわよね?」
わしは静かにうなずいた。
「…そうじゃろうな」
「それなら、あおいは、動物さんたちにも生きていてほしかったですわ…」
わしは葵生の頭をなでた。
「その気持ちを、忘れるでないぞ」
葵生は小さくうなずいた。
「はい…」
わしは、かつて祖父の金右衛門や父の権兵衛から聞いた言葉を思い出した。
命は、何より大切なものじゃ。
人間であろうと、動物であろうと、命を奪うことが当たり前になってよいはずがない。
あの日、葵生は動物たちのために泣いた。
そして今、わしらは康弘のために泣いておる。
わしには、その二つの悲しみが、決して無関係なものとは思えなかった。
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六 大空の戦死
昭和十九年(1944)十二月。
年の瀬が近づいた頃、わしらに再び悲しい知らせが届いた。
光蔵の長男・大空が、フィリピン方面で戦死したというのじゃ。
特別攻撃に参加し、帰還しなかった。
わしは、その言葉を聞いた瞬間、全身から力が抜けるのを感じた。
「……大空まで?」
また一人、わしの孫が死んだ。
大空は、小学校の教員になったばかりじゃった。
幼い頃から穏やかで、優しく、よく物事を考える子じゃった。
父親の光蔵に似て、機械にも興味を持っておった。
そして、子どもたちに勉強を教えることが好きじゃった。
「祖父上、僕、先生になってよかったよ」
以前、大空はそう言っておった。
「ほう、どうしてじゃ?」
「子どもたちが分からなかったことを理解してくれると、僕も嬉しいんだ」
わしは笑った。
「ははは。おぬしは本当に優しいのう」
大空も、穏やかに笑っておった。
その大空が、特攻で死んだ。
わしは、どうしても理解したくなかった。
飛行機を操縦できるほどの技術を持つ若者を、帰還できぬ攻撃へ送り出す。
そんなことが、本当に国を守ることになるのか。
わしは長年軍人をしてきた。
命令に従うことの重要性も知っておる。
しかし、軍隊とは本来、国民を守るために存在するものではないのか。
それなのに、未来ある若者を、最初から生きて帰れぬ任務へ送り出す。
「……何が、国のためじゃ」
わしは低い声でつぶやいた。
愛海が、わしのそばへ来た。
「あなた…」
わしは拳を握りしめた。
「大空は、教師じゃった…」
「ええ…」
「子どもたちを育てるはずの若者じゃった……!」
声が震えた。
「それを……あのような形で……!」
わしは、とうとう言葉を失った。
八十年生きてきた。
戦争も何度も見てきた。
しかし、これほどまでに、軍隊というものを悲しく思ったことはなかった。
七 光蔵が受け取った最後の手紙
大空の戦死の知らせが届いてから、しばらくして遺された手紙が家族のもとへ届けられた。
わしは光蔵の家へ向かった。
光蔵は、手紙を両手で持っておった。
その顔は、ひどく青ざめていた。
「……父上。大空から、手紙が届いたんだ」
わしは静かにうなずいた。
「……そうか」
光蔵は手紙を見つめた。
「僕、まだ全部読めていないんだ」
「…無理をするでない」
「でも、読まないと…大空が最後に何を伝えたかったのか、分からないから」
光蔵は、震える手で手紙を開いた。
そこには、大空の丁寧な文字が並んでおった。
父上と母への感謝。
日花梨への言葉。
祖父母への思い。
そして、もっと家族と一緒に生きたかったという願い。
光蔵は、途中で手紙を読むのをやめた。
「…父上」
「うむ…」
「大空は…帰りたかったんだね」
光蔵は、手紙を胸に抱いた。
「僕、あの子が小さい頃から、ずっと機械の話をしてきたんだ」
「…そうじゃな」
「飛行機のことも、何度も話したよ。どうして空を飛べるのか、どうすればもっと便利になるのか…」
光蔵の声が震えた。
「僕は、あの子が大きくなったら、一緒に何か作れるんじゃないかと思っていた」
涙が頬を伝った。
「それなのに……」
光蔵は顔を覆った。
「僕が好きだった機械が……大空を死なせるために使われたんだ……!」
わしは息をのんだ。
「光蔵…」
「父上、僕は機械が好きだった。でも、あんなものを作るために機械を好きになったわけじゃない……!」
光蔵は、声を上げて泣いた。
わしは、息子のそばに座った。
「…光蔵」
「大空は…僕の息子だったんだ……」
「分かっておる……」
「まだ若かったのに…! 先生になったばかりだったのに……!」
わしは光蔵の背中に手を置いた。
光蔵は、幼い頃から穏やかな子じゃった。
怒鳴ることも少なく、誰に対しても優しく接する子じゃった。
その光蔵が、これほどまでに声を上げて泣いておる。
わしは、息子を抱きしめた。
「…すまぬ、光蔵」
光蔵は顔を上げた。
「父上…?」
「わしは、長いこと軍人をしておった。じゃが、おぬしの息子一人、守ってやれぬ…」
光蔵は首を横に振った。
「…父上のせいじゃないよ」
わしは涙をこらえられなかった。
「それでも…わしは、大空に生きて帰ってほしかった……」
光蔵は再び泣き崩れた。
わしも、息子とともに泣いた。
八 日花梨の悲しみ
大空の妹・日花梨も、兄の戦死を聞いて深く悲しんでおった。
わしが訪ねたとき、日花梨は兄の写真を見つめていた。
「…お祖父ちゃん」
「日花梨…」
わしは娘のように大切にしてきた孫のそばへ座った。
日花梨は、涙をこらえながら言った。
「私ね、兄さんに映画を見てもらいたかったの」
「…うむ」
「いつか自分で映画を作って、兄さんに見せるって約束していたの」
わしは静かに聞いておった。
「兄さん、いつも優しかった。私が映画の話をすると、ちゃんと聞いてくれて…」
日花梨は小さく笑った。
「機械の話ばっかりすることもあったけどね」
その笑顔は、すぐに涙に変わった。
「でも…もう、見てもらえないのね…」
わしは言葉を失った。
日花梨は、兄の写真を胸に抱いた。
「お祖父ちゃん…私、映画なんて作っていていいのかな……」
「どうしてじゃ?」
「だって、兄さんが死んじゃったのに…私だけ、好きなことをしたいなんて……」
わしは静かに首を横に振った。
「日花梨。それは違うぞ」
日花梨は顔を上げた。
「……え?」
「大空は、おぬしが映画を作ることを楽しみにしておったのじゃろう?」
「……うん」
「ならば、映画を作ることを諦める必要はない」
わしは日花梨の手を握った。
「大空が見られなかったとしても、おぬしの映画を見て喜ぶ者は、きっとおるはずじゃ」
日花梨の目から涙がこぼれた。
「お祖父ちゃん…」
「いつか、平和な世の中になったら、わしにも見せておくれ」
日花梨は泣きながらうなずいた。
「…うん。絶対に見せる」
わしは、そっと孫の頭をなでた。
「それでよい」
日花梨は、わしの胸に顔をうずめた。
「兄さん……会いたいよ……」
その声を聞いたとき、わしもまた涙を流した。
九 写真の中では、まだ皆が笑っておる
大空の戦死を知った後、わしは再び、あの集合写真の前に立った。
昭和十五年(1940)の春。桜の下で撮影した大家族の写真。
母が微笑んでおる。
康弘もおる。
大空もおる。
皆、あの日のままじゃ。
わしは、写真の中の大空を見つめた。
穏やかな顔をしておった。
優しい目をしておった。
その隣には、日花梨がおった。光蔵もおった。
あの日の家族には、まだ悲しい知らせなど届いておらんかった。
わしは、額縁にそっと触れた。
「…母上」
写真の中の母へ語りかけた。
「わしは、また孫を失いました…」
声が震えた。
「康弘に続いて、大空まで…」
わしは、目を閉じた。
「母上は、九十七年生きられました。わしも、もう八十年生きております」
そして、写真の中の孫たちを見つめた。
「それなのに…どうして、あの子たちは、こんなにも早く死なねばならなかったのでしょう……」
わしには、理解できなかった。
長く生きることが、必ずしも幸せとは限らぬ。
しかし、人生をこれから歩んでいこうとしていた若者たちが、夢も家族も残して死なねばならぬことを、どうしても受け入れられなかった。
「……もう、誰も欠けてほしくない」
わしは、何度目か分からぬ願いを口にした。
しかし、写真の中の家族は、ただ静かに微笑んでおるだけじゃった。
十 増え続ける曾孫と、失われた幼い命
昭和十九年(1944)から昭和二十年(1945)にかけて、わしの家族には新しい命が次々と生まれておった。
最初の曾孫・弘一が生まれた昭和十四年(1939)から、すでに何年も経っておる。
息子や娘たちの子どもが成長し、結婚し、親になっていく。わしは、そんな姿を見るたびに嬉しくなった。
奈恵の息子・貫一郎も、その一人じゃ。
小さな身体で眠り、泣き、家族の腕の中で育っていく。
わしが子どもの頃には、曾孫を抱く自分など、想像したこともなかった。
母の志帆でさえ、初めての玄孫・弘一が生まれたときには、驚いておったものじゃ。
しかし、新しい命が増える一方で、すべての子どもが無事に育つわけではなかった。
家族の中には、生まれて間もなく亡くなってしまった幼子もおった。
戦争による食糧不足や医療物資の不足が続く時代、幼い子どもを育てることは決して容易ではなかった。
もちろん、幼い命が失われる理由は一つではない。
病気や体力の弱さなど、さまざまな事情があった。
それでも、わしは幼い子どもの訃報を聞くたびに、胸が締めつけられた。
まだ言葉も覚えておらぬ子。
歩き始めることさえできなかった子。
家族に抱かれ、わずかな時間だけ生きた子。
そんな幼い命まで失われていく。
わしは、長い人生の中で多くの死を見てきた。
祖父母の死。
父の死。
母の死。
そして、孫たちの戦死。
しかし、幼い子どもの死は、また違う悲しみを伴うものじゃった。
その子がどんな人間に成長したのか。
何を好きになり、どんな仕事を選び、誰と出会ったのか。
それらを、誰も知ることができぬのじゃ。
ある日、わしは愛海に言った。
「愛海…家族が増えることは嬉しいのう」
愛海は微笑んだ。
「ええ、本当に」
「しかし…その分、失う悲しみも増えるものじゃな」
愛海の表情が曇った。
「…そうですわね」
わしは、小さな貫一郎が眠る姿を見つめた。
「わしは、もう十分に生きたと思っておる。じゃが、この子たちには、まだまだ生きてほしい」
愛海は、そっとわしの手を握った。
「あなた…」
「わしより先に、子や孫や曾孫が死んでいくなど…本当は、見たくないのじゃ」
愛海は何も言わず、わしの手を握り続けてくれた。
十一 弘一の涙
ある日、五歳の弘一がわしの家へ遊びに来た。
以前は、わしの顔を見ると元気よく駆け寄ってきたものじゃ。
しかし、その日は少し様子が違っておった。
「ひいじいちゃん…」
「どうした、弘一?」
弘一は、わしのそばへ座った。
「康弘のおじちゃんと、大空のおじちゃん、もう帰ってこないの?」
わしは胸が締めつけられた。
幼い弘一にも、二人の死が伝わっておったのじゃ。
「…そうじゃな」
弘一はうつむいた。
「なんで?」
わしは答えられなかった。
弘一は続けた。
「戦争で死んじゃったの?」
「…そうじゃ」
「とうちゃんも、戦争のところにいるんだろ?」
「うむ……」
弘一の目に涙が浮かんだ。
「じゃあ…とうちゃんも、死んじゃうの?」
わしは息をのんだ。
「弘一……」
「おれ、とうちゃんに帰ってきてほしい……!」
弘一は、とうとう泣き出した。
「とうちゃん、まだ帰ってこないのに…! おれ、もっと遊びたいのに……!」
わしは、弘一を抱きしめた。
「わしも、義蔵に帰ってきてほしい」
弘一は、わしの胸で泣いた。
その小さな身体を抱いていると、わしは思った。
この子は、まだ五歳じゃ。
本来なら、父親と遊び、友達と笑い、何も心配せずに育ってよい年頃じゃ。
それなのに、戦争によって、父親が死ぬかもしれぬという恐怖を抱いておる。
わしは、弘一の背中を優しくなでた。
「弘一。怖いときは、泣いてもよいんじゃぞ」
弘一は涙を拭った。
「……ひいじいちゃん」
「何じゃ?」
「おれ、大きくなったら、みんなを守れる人になりたい」
わしは驚いた。
「ほう…」
弘一は真剣な顔をしておった。
「とうちゃんも、かあちゃんも、ひいじいちゃんも……みんな守りたい」
わしは、胸が熱くなった。
「弘一…」
「おれ、ひいおじいちゃんのひ孫の中で一番お兄ちゃんなんだろ?」
「そうじゃな」
「じゃあ、おれ、ちゃんとしなきゃ!」
わしは、しばらく弘一を見つめた。
そして、優しく微笑んだ。
「弘一。おぬしが皆を大切に思ってくれるのは嬉しい」
「うん!」
「じゃがな、一番年上だからといって、何もかも一人で背負わなくてよいんじゃぞ」
弘一は首をかしげた。
「そうなの?」
「そうじゃ。皆で助け合えばよい。おぬしが困ったときには、周りの者に助けてもらってよいんじゃ」
弘一は少し考えた。
「……じゃあ、ひいじいちゃんも助けてくれる?」
わしは笑った。
「もちろんじゃ!」
弘一も笑った。
「じゃあ、おれもひいじいちゃんを助ける!」
「ははは! 頼もしいのう!」
わしは、弘一の頭をなでた。
この子は、まだ幼い。
しかし、すでに家族を大切に思う気持ちが芽生えておる。
わしは、その成長が嬉しかった。
同時に、戦争がこの子を無理に大人にしてしまっていることが、悲しくもあった。
十ニ 八十歳の祖父が背負う悲しみ
昭和二十年(1945)の初め。
わしは、八十一歳の誕生日を迎えようとしておった。
江戸時代に生まれ、明治、大正、昭和と生きてきた。
幼い頃には、徳川幕府が終わり、明治という新しい時代が始まった。
青年時代には軍人となり、国家の発展を見てきた。
結婚し、四人の子どもが生まれた。
その子どもたちも成長し、孫が増え、ついには曾孫まで生まれた。
わしは、自分の人生を幸せなものだと思っておった。
しかし、戦争が始まってから、その幸せは少しずつ傷つけられていった。
康弘が死んだ。
大空が死んだ。
まだ幼い曾孫の中にも、命を失った子がおった。
そして、遠い戦地には、義蔵や幸丞たちが残っておる。
わしは、夜になると写真を見つめることが増えた。
昭和十五年(1945)の春。桜の下で笑っていた家族。
母も、康弘も、大空も、皆おる。
しかし、今の家族には、もう三人ともおらぬ。
写真の中には、亡くなった者たちが、今も生きておる。
わしは、そのことがたまらなく悲しかった。
「……なぜじゃ」
思わず、声が漏れた。
「なぜ、わしばかり生き残るのじゃ……」
八十年を生きたわしが生きておる。
二十代の孫たちが死んでおる。
そのことが、どうしても納得できなかった。
わしは写真の前で、長い間座っておった。
やがて、愛海がやってきた。
「あなた…」
わしは顔を上げた。
愛海は、わしの隣へ座った。
「また、お写真をご覧になっていたのですね」
「…うむ」
愛海は写真を見つめた。
「懐かしいですね」
「そうじゃな……」
しばらく、二人で黙っておった。
やがて、わしは口を開いた。
「愛海…わしは、長く生きすぎたのかもしれぬ」
愛海は驚いた。
「あなた…?」
「母も、康弘も、大空も逝ってしまった。わしだけが、こうして生きておる」
わしはうつむいた。
「わしは…もう、十分に生きたと思っておるのじゃ」
愛海は、わしの手を強く握った。
「あなた」
その声は、普段より少し厳しかった。
「そのようなことをおっしゃらないでください」
わしは顔を上げた。
愛海の目には、涙が浮かんでおった。
「康弘も、大空も、あなたに生きていてほしいと思っていたはず」
「…愛海」
「お二人のことを忘れないためにも、あなたには生きていていただきたいのです」
わしは言葉を失った。
愛海は続けた。
「あなたがいなくなってしまったら、修蔵も節子も光蔵も春子も、どれほど悲しむことでしょう」
わしは、娘や息子たちの顔を思い浮かべた。
康弘を失った節子。
大空を失った光蔵。
その二人に、今度は父親まで失わせるわけにはいかぬ。
そして、弘一や貫一郎、葵生たちもおる。
わしを必要としてくれる家族は、まだたくさんおるのじゃ。
「……そうじゃな」
わしは静かにうなずいた。
「わしは、まだ生きねばならぬな」
愛海は微笑んだ。
「ええ。あなた」
わしは、愛海の手を握り返した。
「ありがとう……」
それから、もう一度写真を見つめた。
母。
康弘。
大空。
わしは、おぬしらのことを忘れぬ。
わしが生きておる限り、何度でも思い出そう。
そして、これから生まれてくる子どもたちにも、おぬしらのことを伝えよう。
それが、長く生き残ったわしにできることなのかもしれぬ。
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十三 桜が咲くまで
昭和二十年二月。東京の冬は、まだ厳しかった。
空襲警報が鳴ることも増え、人々は不安な日々を送っておった。
しかし、わしは時折、庭の木々を眺めながら、春の訪れを待っておった。
もうすぐ桜が咲く。
昭和十五年(1940)の春、皆で花見をしたあの日から、五年が経とうとしておる。
あの頃は、これほどまでに家族を失うとは思っておらんかった。
わしは、もう一度、家族で花見をしたかった。
康弘と大空は、もう帰ってこない。
母も、もうおらぬ。
それでも、今生きておる家族たちと、また桜を見たいと思った。
弘一も大きくなった。
葵生も成長しておる。
貫一郎も、もうすぐ一歳になる。
これから先も、新しい命は生まれてくるじゃろう。
わしは、その子たちの成長を見守りたかった。
そして、戦争が終わったら、あの集合写真のように、もう一度家族で集まりたかった。
今度は、誰一人欠けることなく。
いや、失った者たちは戻らぬ。それでも、残された者たちが笑顔で生きていけるように。
わしは、そう願っておった。
その日の夕方、弘一が元気よくやってきた。
「ひいじいちゃん!」
「おお、弘一!」
「なあ、ひいじいちゃん! 春になったら花見しようぜ!」
わしは驚いた。
「ほう、花見か!」
「うん! 葵生ちゃんも、春花姉ちゃんも、みんなで!」
わしは微笑んだ。
「そうじゃな。できれば、皆で行きたいものじゃ」
弘一は嬉しそうに笑った。
「約束だぞ!」
わしは、弘一の小さな手を握った。
「うむ。約束じゃ」
そのとき、わしは思った。
この子のためにも、春を迎えたい。
この子たちが、戦争を怖がらずに桜を見られる日を迎えたい。
康弘や大空が見ることのできなかった未来を、せめてこの子たちには見せてやりたい。
そう願っていた。
わしは、ただ家族の幸せを願いながら、昭和二十年の春を待っておった。




