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第六十一話 戦死した孫と曾孫 前編

――昭和十九年(1944年)――


語り手:野村康弘・神楽坂大空


⸻


前半 野村康弘の最期


一 海を愛した男


昭和十九年(1944)十月。

俺は、海軍の艦艇で航海に関わる任務を続けていた。


開戦から二年以上が過ぎ、海の様子はすっかり変わってしまっていた。

俺が若い頃に憧れていた海は、どこまでも広く、自由な世界だった。


航海士になれば、いろいろな港へ行ける。見たことのない土地へ向かい、そこで暮らす人々と出会うこともできる。そんな未来を夢見ていた。


しかし、今の海には敵の潜水艦や航空機が潜んでいた。


周囲を見渡しても、危険がどこにあるのか分からない。

穏やかな青い海面の下に、魚雷を放とうとする潜水艦がいるかもしれない。

雲一つない空から、突然爆弾が降ってくるかもしれない。


俺は航海士として海を知っていたはずなのに、いつしか海そのものを恐れるようになっていた。


「野村、何を考えている?」


近くにいた同僚が尋ねてきた。


「いや、昔のことを思い出していた」


「昔?」


「俺が航海士になった頃のことだ。あの頃は、海を渡るのが楽しくて仕方なかった」


同僚は少し笑った。


「今は違うのか?」


俺は遠くの水平線を見つめた。


「…今は、怖いよ」


その言葉を口にしたとき、自分でも少し驚いた。

軍人になってから、恐怖を口にすることは避けてきた。

しかし、その日は正直に言いたかった。


「どんなに経験を積んでも、魚雷が当たれば船は沈む。いくら泳げたって、陸地の見えない海ではどうにもならないことがある」


同僚は静かにうなずいた。


「…そうだな」


俺は小さく息を吐いた。


「俺は、戦争が終わったらもう一度、平和な海を航海したい」


「帰れたら、何をする?」


「まずは家族に会いたいな」


その答えは、考えるまでもなかった。


二 母の厳しさと、父の背中


俺の母さんは、昔から厳しい人だった。


野村節子。

学校の先生として働き、礼儀や勉強には特に厳しかった。


子どもの頃、宿題を後回しにして遊びに出ようとすると、よく呼び止められたものだ。


「康弘、まだお勉強が終わっていないでしょう?」


「あとでやるよ、母さん」


「あとで、ではありません。今やると決めたことは、きちんと終わらせなさい」


「…分かったよ」


当時の俺には、母さんが少し怖かった。


父さんも礼儀を大切にする人だった。

ふざけすぎれば大きな声で叱られたし、約束を破れば理由をきちんと説明しなければならなかった。


しかし、二人とも、俺の将来を勝手に決めるようなことはしなかった。

俺が航海士になりたいと話したときも、最後には応援してくれた。


そして、祖父上の蔵之助。

祖父上は、俺が小さい頃にはすでに立派な軍人だった。


俺は祖父上の昔話が好きだった。

明治時代の東京のこと。

日清戦争や日露戦争のこと。

軍隊のこと。

そして、戦争で亡くなった人々のこと。


祖父上は、勇ましい話をするだけではなかった。


「康弘。海でも陸でも、命は一つしかないんじゃぞ」


その言葉が、今でも耳に残っていた。


俺は母さんの厳しさが苦手だったこともある。

父さんに叱られ、不満を抱いたこともある。

しかし、遠い海の上で思い出すのは、不思議とそんな何でもない日常だった。


母さんの声。

父さんの真剣な顔。

奈恵姉さんが俺をたしなめる声。

祖父上の穏やかな笑い声。


あの家に、もう一度帰りたい。

その思いは、日に日に強くなっていた。


三 船が沈む日


その日の海は、比較的穏やかだった。

俺たちは警戒を続けながら航行していた。

周囲の状況を確認し、針路や速度に注意を払う。

普段と変わらない任務のはずだった。


しかし、突然、艦内に緊迫した声が響いた。


「敵襲!」


次の瞬間、激しい衝撃が船体を襲った。

轟音。

身体が大きく揺さぶられた。

俺は必死に手すりをつかんだ。


「何が起きた!?」


「魚雷だ!」


その声を聞いた瞬間、背筋が凍った。


船体が傾き始めていた。

損傷した区画から浸水が進み、乗組員たちは必死に対応していた。

俺も持ち場でできることを続けた。


しかし、状況は急速に悪化していった。


「浸水が止まりません!」


「退避の準備を!」


周囲から怒号が飛び交った。

俺は船体の傾きを感じながら、絶望的な思いになった。


まさか。本当に、こんなことが起こるのか。

俺は何度も沈没した船の話を聞いてきた。

だが、それが自分の乗っている船に起こるとは、心のどこかで信じたくなかった。


やがて、船を離れなければならない状況になった。

甲板へ出ると、海が恐ろしく近くに見えた。

船は大きく傾き、乗組員たちは必死に避難しようとしていた。

俺も救命具を確かめた。

しかし、再び大きな衝撃が走った。


足元が崩れるような感覚があった。

そして、俺の身体は海へ投げ出された。


四 海が怖い


冷たい。最初に感じたのは、それだった。

海水が身体を包み、何が起きたのか分からなくなった。


俺は必死に水面へ顔を出した。

息を吸う。

しかし、波が顔にかかり、海水が口に入った。


「……っ!」


俺は咳き込みながら、周囲を見渡した。


目の前には、傾いた船があった。

黒い煙が上がっていた。

海面には破片や油が浮かび、遠くで助けを求める声が聞こえた。


俺は必死に泳ごうとした。

しかし、重い衣服と疲労で、思うように身体が動かなかった。


「誰か……!」


声を上げたつもりだった。

しかし、波の音にかき消された。


船は、ゆっくりと海へ沈んでいった。

俺が何度も歩いた甲板。

仲間と話した場所。

航海の仕事をしていた場所。

それらが、次々と海の中へ消えていく。


「…嫌だ」


思わず、声が漏れた。


「俺は……まだ死にたくない……!」


海が怖かった。

あんなに好きだった海が、今は何より恐ろしかった。


どこを見ても、水しかなかった。

泳いでも泳いでも、陸地は見えない。

俺は、身体が少しずつ重くなっていくのを感じた。


そのとき、頭の中に家族の姿が浮かび始めた。


五 最期に思い出した家族


最初に浮かんだのは、母さんだった。

厳しい顔をして、俺に勉強を教えてくれた母さん。


「康弘、きちんとしなさい」


あの声が聞こえたような気がした。


俺は小さく笑った。


「……母さん」


昔は、少し口うるさいと思ったこともあった。

でも、今なら分かる。

母さんは、俺のことを大切に思ってくれていたんだ。


次に、父さんの顔が浮かんだ。

家族のために働き、俺が間違ったことをすれば叱ってくれた父さん。


「父さん…ごめん」


俺は海の中で、小さくつぶやいた。

約束したのに。

生きて帰ると約束したのに。


奈恵姉さんの顔も浮かんだ。

昔から面倒見がよく、俺がふざけるとよく注意してくれた姉さん。


「康弘、もう少し落ち着きなさい」


そんな声まで、思い出せた。


最後に、祖父上の姿が浮かんだ。

長い人生を歩み、数え切れないほどの出来事を見てきた祖父上。


「康弘。命を大切にするんじゃぞ」


その声を思い出した瞬間、涙があふれた。


「……祖父上」


俺は、もっと生きたかった。

もっと航海をしたかった。

もう一度、家族に会いたかった。

母さんに叱られてもよかった。

父さんに怒鳴られてもよかった。

奈恵姉さんと思い出話をしたかった。

祖父上と、海のことを話したかった。


俺は必死に身体を動かした。

しかし、力は少しずつ失われていった。

目の前の空が、遠くなっていくようだった。


俺は最後に、心の中でつぶやいた。


――母さん、父さん。


――俺、帰りたかったよ。


それが、俺の最後の願いだった。


昭和十九年(1944)十月。

野村康弘は、海の戦場でその生涯を閉じた。


⸻


後半 神楽坂大空の最期


六 教師だった頃の夢


昭和十九年(1944)十二月。

僕は、フィリピン方面の陸軍航空隊にいた。


航空隊へ入る前、僕は小学校の教員として働いていた。

子どもたちに勉強を教え、成長を見守ることが好きだった。


僕が初めて教壇に立ったとき、子どもたちは少し緊張した顔をしていた。


「先生、お名前は何ですか?」


一人の男の子が尋ねた。


「神楽坂大空だよ。よろしくね」


「大空先生!」


子どもたちは嬉しそうに笑ってくれた。

僕も笑った。


あの頃、僕はこれから何十年も教師として働くのだと思っていた。

子どもたちが成長していく姿を見守り、いつか大人になった教え子たちと再会する。

そんな未来を、当たり前のように想像していた。


しかし、召集によって、その生活は突然終わった。

航空隊に入ってからは、毎日が訓練と任務の連続だった。

飛行機の操縦を覚え、実戦を経験し、仲間を失った。

何度も死を身近に感じた。


それでも、僕は心のどこかで、いつか教師へ戻れると信じていた。

戦争が終わったら、また教室へ行きたい。

子どもたちに、空を飛ぶことの素晴らしさを教えたい。

そして、父さんと一緒に機械の話をしたい。


そんな願いを捨てられなかった。


七 特別攻撃の命令


ある日、僕たちは上官から新しい任務について説明を受けた。


特別攻撃。

敵艦へ体当たりすることを前提とした攻撃だった。

帰還を予定しない任務。


説明を聞いた瞬間、僕は背筋が冷たくなった。


「…帰ってこられないんですか?」


思わずそう尋ねてしまった。

上官は厳しい表情で答えた。


「任務の性質は理解しているはずだ」


僕は口を閉じた。


分かっていた。しかし、分かりたくなかった。

僕は死にたくなかった。

まだ若かった。

教師として働き始めたばかりだった。

家族にも会いたかった。


父さん。

母さん。

日花梨。

祖父上と祖母上。


皆、僕の帰りを待っている。

それなのに、もう会えないかもしれない。


その日の夜、僕は寝床で天井を見つめていた。

周囲の仲間たちは静かにしていた。

誰もが、自分の思いを抱えているようだった。


隣にいた仲間が、小さく尋ねた。


「神楽坂、お前、怖くないのか?」


僕は少し迷ってから答えた。


「…怖いよ」


「そうか」


「僕、まだやりたいことがたくさんあるんだ」


仲間は黙っていた。


「学校の先生に戻りたい。父さんと機械の話をしたい。母さんの料理も食べたい。日花梨とも、またくだらないことで笑いたい」


僕は声を詰まらせた。


「……家に帰りたいんだ」


仲間は、しばらく何も言わなかった。

そして、小さく答えた。


「俺もだよ」


僕たちは、それ以上話さなかった。


八 最後の手紙


出撃を前に、僕は家族へ手紙を書いた。

紙を前にすると、何を書けばよいのか分からなくなった。


勇ましい言葉を書いた方がよいのだろうか。

国のために立派に戦うと書くべきなのだろうか。

でも、僕が本当に伝えたいことは、そんなことではなかった。


僕はゆっくりと筆を動かした。


『父上、母さん。僕は今まで、本当に大切に育ててもらいました。父上と機械の話をしたこと、母さんが優しく見守ってくれたことを、今でもよく覚えています』


そこで一度、筆を止めた。

涙がこぼれそうになった。

僕は続けた。


『日花梨。お前は昔から映画が大好きだったね。いつか自分で映画を作りたいと言っていたことも覚えているよ。僕は、その映画を見たかった』


僕は目を閉じた。

日花梨の元気な笑顔が浮かんだ。


「兄さん、いつか私の映画を見てね!」


あの声が、今も聞こえる気がした。


『祖父上、祖母上。僕はお二人の孫として生まれたことを嬉しく思っています。祖父上がいつも教えてくださった、命を大切にするという言葉は、忘れていません』


そこまで書くと、涙が紙に落ちた。

僕は慌てて拭った。


本当は、こんな手紙を書きたくなかった。

自分の手で渡せる日が来るまで、大切に持っていたかった。けれど、その日はもう来ないかもしれない。


最後に、こう書いた。


『僕は、もっと皆と一緒に生きたかった。どうか、皆はこれからも元気でいてください』


それが、僕の本当の気持ちだった。


九 昭和十九年十二月十三日


昭和十九年(1944)十二月十三日。

僕たちは出撃することになった。


朝の空は、思っていたよりも明るかった。

飛行場には、出撃の準備を終えた機体が並んでいた。

僕は、その一機の前に立った。


飛行機が好きだった。

父さんと一緒に機械の仕組みについて考えたことが、何度もあった。

空を飛ぶことは、人間の大きな夢の一つだと思っていた。


それなのに、僕が最後に乗る飛行機は、帰ってくるためのものではなかった。


「……ごめんね」


僕は小さくつぶやいた。

誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。


機体に対してなのか。

家族に対してなのか。

それとも、まだ未来のあるはずだった自分自身に対してなのか。


やがて出撃の時刻になった。

僕は操縦席に乗り込んだ。

発動機が動き始める。

振動が身体に伝わった。

いつもなら、少し胸が高鳴る瞬間だった。

しかし、今日は違った。


僕は操縦桿を握りしめた。

怖かった。本当に怖かった。

それでも、機体は滑走を始めた。

地面が遠ざかっていく。

やがて、僕は空へ飛び立った。


十 最後に見た空


しばらく飛行を続けると、遠くに海が見えてきた。


青い海。

白い雲。

太陽の光。

空は、いつもと変わらず美しかった。


僕は思わず、幼い頃のことを思い出した。

父さんと飛行機の話をした日。

母さんが優しく笑ってくれた日。

日花梨と一緒に遊んだ日。

祖父上の膝のそばで昔話を聞いた日。


どれも、当たり前の日常だった。

けれど、今の僕には、そのすべてが何より大切に思えた。


やがて、敵の艦隊が確認された。

周囲には護衛の敵機も飛んでいた。


僕は息をのんだ。

ここから先へ進めば、もう帰れない。

その事実が、突然、重くのしかかってきた。


「……嫌だな」


声が震えた。


「僕、まだ帰りたかったのに……」


機体が進む。


遠くから対空砲火が上がった。

黒い煙が空に広がる。

敵機が近づいてくる。

僕は必死に操縦桿を握った。


その瞬間、父さんの声がよみがえった。


「大空、僕はお前とまた機械の話をしたいんだ」


母さんの笑顔が浮かんだ。


「大空、どうか無事に帰ってきてね」


日花梨の元気な声が聞こえた。


「兄さん! 私の映画、絶対に見てよね!」


そして、祖父上の言葉が浮かんだ。


「大空。命を大切にするんじゃぞ」


僕は涙をこらえられなかった。


「……祖父上、ごめんなさい」


命を大切にしたかった。

僕だって、生きていたかった。

人を殺すためではなく、人を乗せるための飛行機を作りたかった。

子どもたちに勉強を教えたかった。

日花梨の映画を見たかった。

父さんと母さんに、もう一度会いたかった。


僕は敵艦へ向かって降下を続けた。

海面が近づいてくる。

対空砲火が機体の周囲に広がった。

僕の目には、もう敵の艦だけが映っているわけではなかった。


東京の家。

父さんの笑顔。

母さんの優しい声。

日花梨の明るい表情。

祖父上と祖母上。


そして、教室で僕を見つめていた子どもたち。

すべてが、次々と浮かんできた。


僕は、最後まで万歳を叫ばなかった。

誰かを憎む言葉も口にしなかった。

ただ、心の中で家族に呼びかけた。


――父さん、母さん。


――日花梨。


――祖父上、祖母上。


――僕、みんなのことが大好きだったよ。


その瞬間、視界が白く包まれた。


昭和十九年(1944)十二月十三日。

神楽坂大空は、フィリピン方面の空に散った。


⸻


終章 二人が最後に願ったもの


野村康弘は、海が好きだった。

神楽坂大空は、空を飛ぶことが好きだった。

二人とも、戦争が始まる前には、それぞれの未来を夢見ていた。


康弘は、船で世界を旅したかった。

大空は、教師として子どもたちを育てたかった。

しかし、戦争は二人の夢を変えてしまった。


海は、康弘から自由な航海を奪った。

空は、大空から未来を奪った。


二人が最後に思い出したのは、国家の勝利ではなかった。

勇ましい軍歌でもなかった。

母の声。

父の背中。

兄弟姉妹との思い出。

祖父母の優しさ。

そして、もう一度帰りたかった家だった。


康弘は、冷たい海の中で家族を思った。

大空は、美しい空の中で家族を思った。

二人とも、最後まで生きたかった。


それは、決して恥ずかしいことではなかった。

むしろ、二人が最後まで人間として持ち続けた、ごく自然な願いだった。


東京では、蔵之助と家族たちが、二人の帰りを待っていた。

彼らはまだ、二人が最後に何を思っていたのかを知らなかった。

そして、その思いを直接聞く機会が、二度と訪れないことも。


海と空で途絶えた二つの人生は、やがて神楽坂家に、長く消えることのない悲しみを残すことになる。

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