第六十話 戦時下を生きた孫・曾孫世代と戦時下の文化
――昭和十六年(1941年)〜昭和二十年(1945年)初頭――
語り手:加藤葵生・神楽坂弘一
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前半 加藤葵生の回想
一 あおいの大好きなお兄さま
昭和十八年(1943)。
あおいは、東京でお母さまとお父さま、そしてお兄さまと一緒に暮らしていました。
お母さまの春子は、とっても優しい方でした。腰まで届く長くて綺麗な黒髪をお持ちで、あおいのお髪も毎日丁寧にとかしてくださいました。
お兄さまの幸丞も、あおいの大好きな方でした。
お兄さまはお勉強が得意で、将来はお医者さまになりたいとおっしゃっていました。
あおいが分からないことを尋ねると、いつも優しく教えてくださいました。
「葵生、ここはこう考えると分かりやすいんだよ」
「まあ! お兄さま、すごいですわ!」
「ははは。葵生も、もう少し大きくなれば分かるようになるよ」
あおいは、そんなお兄さまが大好きでした。
けれど、ある日、お兄さまが海軍へ行くことになったと聞かされました。
「お兄さま、海軍へ行ってしまうんですの?」
あおいが尋ねると、お兄さまは静かにうなずきました。
「ああ。しばらく家を離れることになる」
「どうしてですの?」
「戦争で怪我をした人たちを助けるためだよ」
「…怪我をした方を?」
「そうだ。俺は医療の勉強をしてきたから、少しでも役に立ちたいんだ」
あおいは、よく分かりませんでした。
お兄さまがお医者さまになりたいことは知っていました。でも、どうしてそのために、遠くの海へ行かなければならないのでしょう。
「お兄さま…あおい、お兄さまがいなくなったら寂しいですわ」
お兄さまは少し困ったように笑いました。
「俺も寂しいよ」
「それなら、行かないでくださいませ……」
あおいは思わず、お兄さまの服を握ってしまいました。
お兄さまはしゃがんで、あおいと目を合わせてくださいました。
「ごめんな、葵生。でも、俺は必ず帰ってくるつもりだから」
「本当ですの?」
「ああ。約束するよ」
あおいは、お兄さまの手を握りました。
「では、あおいも約束いたしますわ。お兄さまがお帰りになるまで、いい子で待っていますの」
お兄さまは優しく微笑んでくださいました。
「ありがとう、葵生」
出発前の晩、お母さまはお兄さまに小さな櫛を渡していらっしゃいました。
「幸丞、男の子だって髪のお手入れは大切ですのよ。戦地でも、できるだけ清潔にしていてくださいね」
「ありがとう、母さん。大切に使うよ」
あおいは、その光景をじっと見ていました。
お母さまは、ご自分のお髪も、あおいのお髪も、そしてお兄さまの髪も大切にしてくださいます。
戦争に行くときにまで櫛を持たせるのが、何だかお母さまらしいと思いました。
出征の日。あおいは、お兄さまに抱きつきました。
「お兄さま……必ず帰ってきてくださいませ」
「ああ。あおいも元気でな」
「はい!」
お兄さまが遠ざかっていくのを見ながら、あおいは涙をこらえていました。
でも、とうとう我慢できなくなってしまいました。
「お兄さまぁ……!」
お母さまが、そっとあおいを抱きしめてくださいました。
「葵生、寂しいですわね……」
「あおい、お兄さまともっと一緒にいたかったんですの…」
「そうね。お母さまも同じよ」
お母さまは、あおいの背中を優しくなでてくださいました。
あおいは、その腕の中で泣きました。
戦争というものが、少しだけ嫌いになりました。
二 国民学校で教えられること
あおいが通っていた学校は、昭和十六年(1941)から国民学校という名前になっていました。
最初は、学校の名前が変わっただけなのかと思っていました。
でも、少しずつ、学校で教わることも変わっていきました。
朝の集まりでは、皆できちんと並び、先生のお話を聞きました。
授業では、お国のために働くことや、立派な少国民になることが大切だと教えられました。
体錬の時間には、身体を鍛えることも重視されました。
あおいは身体を動かすこと自体は嫌いではありませんでした。
でも、先生方のお話の中に、ときどき怖い言葉が出てくるようになったのです。
「皆さんも、将来はお国のために尽くす立派な国民にならなければなりません」
先生がおっしゃいました。
「はい!」
教室の皆が、大きな声で返事をしました。
あおいも慌てて返事をしました。
けれど、心の中では不思議に思っていました。
お国のために尽くすとは、どういうことなのでしょう。
お母さまのように、病気の方を助けることなのでしょうか。
それとも、お兄さまのように戦争へ行くことなのでしょうか。
ある日の授業では、命をかけて戦った兵士の話を聞きました。
先生は、その兵士が立派な人物だったと教えてくださいました。
お友達の男の子たちは、目を輝かせていました。
「僕も大きくなったら兵隊さんになる!」
「敵をたくさん倒すんだ!」
あおいは、何だか怖くなりました。
死んでしまった方を立派だと思うことと、その方が死んでしまって悲しいと思うことは、違うのでしょうか。
あおいには、よく分かりませんでした。
授業が終わった後、あおいは先生に尋ねました。
「先生、少しよろしいでしょうか?」
「どうしました、葵生さん?」
「あの…兵隊さんは、お亡くなりになっても立派なんですの?」
先生は少し驚いた様子でした。
「そうですよ。お国のために命を捧げた方は、立派な方なのです」
「あの……」
あおいは少し迷いました。
「でも、ご家族の方は、きっと悲しいですわよね……?」
先生はしばらく黙っていました。
「……そうですね。悲しいことでしょうね」
「それなら、あおいは、兵隊さんにも生きて帰ってきていただきたいですわ」
先生は困ったように微笑みました。
「葵生さん。その気持ちは分かります。でも、今はお国のために、皆が頑張らなければならない時代なのですよ」
あおいは小さくうなずきました。
「……はい」
けれど、お胸の中の不安は、消えませんでした。
三 戦争のお話が怖くなった日
あおいは、本を読むことも好きでした。
おじいさまのお家には、昔の本がたくさんありました。
昔話や歴史のお話、外国のお話もございました。
でも、戦争が始まってからは、学校でも戦争に関する読み物を目にすることが増えました。
勇敢な兵士のお話。
国のために戦う少年のお話。
戦場で命を捧げた人のお話。
あおいは、そうした本を読むたびに、何だか胸が苦しくなりました。
ある日、兵士が家族に別れを告げて戦場へ向かい、最後には帰らぬ人となるお話を読みました。
本の中では、その兵士の行動が立派なものとして描かれていました。
でも、あおいには、その兵士のお母さまが悲しんでいる姿ばかりが思い浮かびました。
「……かわいそうですわ」
あおいは小さくつぶやきました。
その夜、お母さまのところへ本を持っていきました。
「お母さま……」
「どうしたの、葵生?」
「あおい、この本を読んだんですの」
お母さまは本を受け取られました。
「まあ、戦争のお話なのね」
「はい。でも、あおい、何だか悲しくなってしまいましたの」
「どうして?」
「兵隊さんがお亡くなりになってしまうんですの。それなのに、立派だって書いてありますの」
お母さまは静かにあおいを見つめました。
「あおいは、帰ってきてほしかったんですの…」
そのとき、お母さまはあおいを抱き寄せてくださいました。
「葵生、あなたはそう思ったのね」
「はい…」
「それでいいのよ。お話を読んで、何を感じるかは人によって違うものですから」
「あおい、おかしいんでしょうか?」
「いいえ。誰かが亡くなって悲しいと思うことは、少しもおかしくありませんわ」
あおいは、お母さまの胸に顔をうずめました。
「お兄さまも、帰ってこられなくなったらどうしましょう……」
お母さまの腕に、少しだけ力がこもりました。
「……心配ね」
「はい…」
「でも、お母さまも幸丞が帰ってくることを願っていますわ。葵生も、一緒に待っていましょうね」
あおいは小さくうなずきました。
お母さまのお言葉を聞いて、少し安心しました。
学校で教わることと、お母さまが教えてくださることは、少し違っていました。
けれど、あおいはお母さまのお言葉が大好きでした。
四 綺麗なお家と、変わっていく東京
戦争が長く続くにつれて、東京の街も少しずつ変わっていきました。
お店に並ぶ品物は少なくなり、食べ物や衣類を手に入れることも難しくなりました。
お友達の中には、服が擦り切れてしまったり、髪のお手入れを十分にできなくなったりする子もいました。
ある日、学校から帰る途中、あおいはお友達の女の子と一緒になりました。
その子の髪は少し乱れていました。
「ねえ、葵生ちゃん」
「はい?」
「葵生ちゃんの髪って、いつも綺麗だね」
あおいは少し照れくさくなりました。
「ありがとうございます。お母さまが、いつもお手入れしてくださいますの」
「いいなあ…」
女の子は自分の髪に触れました。
「うちは最近、いろいろ足りなくて、お母さんも忙しくて…」
あおいは何と答えてよいか分かりませんでした。
「あの……」
「でも、葵生ちゃんの二つ結び、かわいいね!」
女の子は笑いました。
あおいも微笑みました。
「ありがとうございます!」
けれど、家へ帰ってからも、その言葉が気になっていました。
お母さまは、いつもお家を綺麗にしてくださいます。
石鹸やお湯を大切に使いながら、手を洗うことや、食器を清潔にすることを教えてくださいます。
お母さま自身も、外では髪を結って目立たないようにしていらっしゃいますが、家では腰まである艶やかな黒髪を下ろして過ごされます。
あおいのお髪も、黒と茶色の両方の光沢が見えるように、丁寧にとかしてくださいました。
それが、あおいにとっては当たり前の日常でした。
でも、外のお友達には、それが難しくなっているのです。
「お母さま…」
その夜、あおいは鏡の前で尋ねました。
「葵生、どうしたの?」
「どうして、お外のお友達は、お髪を綺麗にできないことがあるんですの?」
お母さまは、あおいの髪をとかす手を少し止められました。
「そうね…戦争が長く続いて、暮らしに必要なものが足りなくなっているからよ」
「でも、あおいのお家は綺麗ですわ」
「ええ。お母さまたちも、できる限り工夫しているのよ」
「それなら、お友達のお家も綺麗になったらいいですのに……」
お母さまは優しく微笑まれました。
「そうね。でもね、葵生。お家を綺麗にしたくても、できないことだってあるの。お水や燃料が足りなかったり、ご家族がお忙しかったりすることもあるでしょう?」
あおいは小さくうなずきました。
「そうなんですのね…」
「だから、お友達の髪や服が乱れていても、その子が悪いわけではないのよ」
「はい…」
お母さまは、あおいの髪を左右に分け始めました。
「綺麗にできるときには、できる範囲で大切にする。それだけでも十分なのよ」
あおいは鏡を見つめました。
お母さまの綺麗な黒髪が、背中を流れていました。
その姿は、あおいが幼い頃から大好きだったお母さまの姿でした。
「お母さま…」
「なあに?」
「あおい、戦争でお母さまのお髪までなくなってしまったら、悲しいですわ」
お母さまは驚いたように目を見開かれました。
そして、優しく微笑まれました。
「まあ、葵生。そんなことまで心配していたのね」
「はい…」
「大丈夫よ。お母さまは、できる限りこの髪を大切にしていくつもりですわ」
「本当ですの?」
「ええ。葵生の髪も、一緒に大切にしましょうね」
あおいは嬉しくなりました。
「はい!」
その夜、お母さまはいつものお気に入りの二つ結びにしてくださいました。
鏡に映る自分とお母さまを見ていると、少しだけ怖い気持ちが消えていきました。
五 疎開するお友達
昭和十九年(1944)の夏。
東京では、子どもたちが地方へ疎開することになりました。
学校でも、疎開についてのお話がありました。
都会は空襲の危険があるため、子どもたちは安全な地方へ移る必要があるというのです。
お友達の中にも、親戚の家へ行く子や、学校の集団疎開に参加する子がいました。
「葵生ちゃん、私、田舎へ行くことになったの」
ある日、お友達が言いました。
「まあ…そうなんですの?」
「うん。お父さんとお母さんとは、しばらくお別れなんだって」
あおいは驚きました。
「お母さまと離れて暮らすんですの?」
「そうみたい……」
お友達は寂しそうにうつむきました。
あおいも、胸が苦しくなりました。
お母さまと離れるなんて、考えたこともありませんでした。
「……寂しいですわね」
「うん……」
あおいはお友達の手を握りました。
「また、必ずお会いしましょうね」
「うん。約束だよ」
二人は小さく微笑みました。
家へ帰ったあおいは、お母さまに尋ねました。
「お母さま、あおいも疎開するんですの?」
お母さまは静かに答えられました。
「葵生は、今のところおうちで一緒に過ごすことになっているわ」
「本当ですの?」
「ええ。でも、東京もだんだん危険になってきているから、これからのことはよく考えなければならないわね」
あおいは少し考えました。
そして、お母さまの服をそっと握りました。
「あおい…お母さまと一緒にいたいですの」
お母さまは優しく目を細められました。
「葵生……」
「お兄さまもいなくなってしまいましたし、お友達も田舎へ行ってしまいますの。あおいまでお母さまと離れるのは、嫌ですわ……」
あおいの目に涙が浮かびました。
お母さまは、あおいを抱きしめてくださいました。
「そうね。お母さまも葵生と離れたくありませんわ」
「あおい、お家にいてもよろしいですの?」
「ええ。今は一緒にいましょう。ただし、空襲のときには必ず大人の言うことを聞いて、安全な場所へ避難するのよ」
「はい!」
お母さまは背中を優しくなでてくださいました。
「あおいのお気持ちも大切にしたいけれど、一番大切なのはあなたが生きていることですからね」
あおいは、お母さまの胸に顔をうずめました。
「……お母さま、大好きですわ」
「ふふっ。お母さまも大好きよ、葵生」
こうして、あおいは疎開せずに、東京の加藤家で暮らし続けることになりました。
六 おじいさまのお家で
昭和十九年(1944)の秋。
あおいは、おじいさまの蔵之助のお家へ遊びに行きました。
おじいさまは八十歳になっていました。
でも、背筋が伸びていて、とってもお元気でした。
「おじいさま!」
「おお、葵生。よく来たのう」
あおいは嬉しくなって駆け寄りました。
「おじいさま、あおい、今日は少しお話がございますの!」
「ほう。何じゃ?」
あおいは、おじいさまのお隣に座りました。
「学校では、お国のために命を捧げることが立派だと教わりますの」
おじいさまは静かにうなずきました。
「そうじゃな…」
「でも、あおいは、皆さんに生きていてほしいんですの。お兄さまにも、遠くへ行った皆さんにも…」
おじいさまは、しばらくあおいを見つめていました。
そして、優しくおっしゃいました。
「葵生。その気持ちを大切にするんじゃぞ」
「…はい?」
「命を大切に思うことは、決して間違いではない」
あおいは目を見開きました。
「本当ですの?」
「もちろんじゃ」
おじいさまは微笑まれました。
「わしは長いこと軍人をしておった。じゃからこそ、命が失われることの悲しさも知っておる」
「おじいさまも、悲しかったんですの?」
「何度も悲しい思いをしたぞ」
おじいさまのお声が、少し静かになりました。
「戦争では、立派な人間も、優しい人間も、若い人間も死んでしまうことがある。じゃが、わしはそれを当たり前のことだと思いたくはない」
あおいは、おじいさまの手を握りました。
「おじいさま…」
「葵生。怖いものを怖いと思うのは、恥ずかしいことではないんじゃ」
あおいは、少し涙ぐんでしまいました。
「……ありがとうございます、おじいさま」
おじいさまは、あおいの頭を優しくなでてくださいました。
「あおいは、これからも元気に育つんじゃぞ」
「はい!」
その日の帰り道。
あおいは、おじいさまのお言葉を何度も思い出していました。
学校では、お国のために強くなることを教わりました。
でも、お母さまとおじいさまは、命を大切にすることを教えてくださいました。
あおいは、どちらの方が好きなのかを考えました。
答えは、もう決まっていました。
あおいは、お母さまとおじいさまのお言葉が、大好きでした。
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後半 神楽坂弘一の回想
七 とうちゃんのいない家
昭和十九年(1944)。
おれは、五歳になっていた。
おれのとうちゃん・義蔵は鉄道の仕事をしていて、いろんな機械や線路のことを知っていた。
小さい頃、とうちゃんはおれに機関車の話をしてくれた。
「弘一、機関車はな、大きな力でたくさんの人や物を運ぶんだぞ」
「すげえ!」
おれは機関車が大好きだった。
でも、戦争が始まってから、とうちゃんは軍隊へ行ってしまった。
おれには、どこで何をしているのか、よく分からなかった。
ただ、遠いところで鉄道を作っているらしかった。
「かあちゃん、とうちゃん、まだ帰ってこないの?」
ある日、おれは聞いた。
かあちゃんは少し寂しそうに笑った。
「そうね。まだお仕事があるみたい」
「いつ帰ってくるの?」
「……早く帰ってきてくれるといいわね」
おれは、とうちゃんの帰りを待っていた。
とうちゃんがいた頃は、家でいろんな話を聞けた。
でも、今は手紙だけだった。
たまに手紙が届くと、おれは大喜びした。
「とうちゃんからだ!」
かあちゃんが手紙を読んでくれた。
『弘一、元気にしているか。父さんは遠いところで鉄道の仕事をしている。お前も母さんの言うことを聞いて、元気にしているんだぞ』
おれは笑った。
「おれ、元気だぞ!」
でも、手紙を読み終わると、少し寂しくなった。
「とうちゃん、早く帰ってこねえかな……」
その夜、おれはとうちゃんが帰ってくる夢を見た。
「弘一、ただいま!」
「とうちゃん!」
夢の中で、おれはとうちゃんに飛びついた。
でも、朝起きると、とうちゃんはいなかった。
おれは布団の中で、少しだけ泣いた。
八 空襲警報と防空壕
昭和十九年(1944)になると、東京では空襲のことをよく聞くようになった。
空を飛行機が飛んでいると、大人たちが不安そうに見上げることがあった。
おれは最初、飛行機を見るのが好きだった。
大きな翼で空を飛ぶなんて、すごいと思っていたからだ。
でも、ある日、大人が言った。
「弘一、敵の飛行機が来たら危ないんだぞ」
「なんで?」
「爆弾を落とすことがあるからだ」
おれは驚いた。
「爆弾って、家も壊れるの?」
「そうだ」
「人も死ぬの?」
大人は少し黙った。
「だから、警報が鳴ったらちゃんと逃げるんだぞ」
おれは怖くなった。
ある日、空襲警報が鳴った。
大人たちが慌ただしく動き始めた。
「弘一、こっちへ!」
かあちゃんがおれの手を握った。
おれは必死についていった。
避難した防空壕の中は暗くて、少し湿っぽい土の匂いがした。
大人たちが身を寄せ合っていた。
おれは、かあちゃんの服をぎゅっと握った。
「かあちゃん……怖い……」
「大丈夫よ。そばにいるからね」
外から、遠くの音が聞こえてきた。
飛行機の音なのか、別の音なのか、おれには分からなかった。
ただ、地面の下に隠れていないといけないことが怖かった。
「とうちゃんは?」
おれは小さな声で聞いた。
「とうちゃんも、どこかで隠れてるの?」
かあちゃんはおれを抱きしめた。
「……きっと、無事でいてくれるわ」
おれは目を閉じた。
とうちゃんも怖い思いをしているのだろうか。
おれと同じように、どこかで誰かに抱きしめてもらっているのだろうか。
そんなことを考えていた。
九 映画の中の勇ましい戦争
おれは映画を見るのが好きだった。
大人に連れていってもらって活動写真を見ると、知らない世界が目の前に現れる。
戦時中には、映画館で戦争に関する映像やニュース映画を見ることもあった。
大きな軍艦。
空を飛ぶ戦闘機。
行進する兵隊たち。
映画の中では、日本の兵隊が勇ましく描かれていた。
「すげえ!」
おれは思わず声を上げた。
大砲が火を吹く場面。
飛行機が飛び立つ場面。
軍艦が大きな波を越えて進む場面。
どれも迫力があった。
周りの大人たちも、真剣に見ていた。
映画が終わると、おれは目を輝かせて言った。
「日本の兵隊、強えな!」
近くの大人が笑った。
「そうだぞ。日本は強いんだ」
おれは得意になった。
でも、家へ帰る途中で、ふと思った。
「なあ、かあちゃん」
「なあに?」
「映画の兵隊は、みんな生きて帰ってくるの?」
かあちゃんは少し驚いた。
「どうして?」
「だって、とうちゃんも戦争のところにいるんだろ?」
かあちゃんは、しばらく黙っていた。
「そうね…」
「とうちゃんも、映画みたいに強いの?」
かあちゃんは静かに答えた。
「とうちゃんは、鉄道を作るお仕事を頑張っているのよ」
「そっか!」
おれは笑った。
でも、その夜、映画の中で爆発した飛行機のことを思い出した。
あの中にいた人は、どうなったんだろう。
映画では、そこまで見せてくれなかった。
十 戦争ごっこ
おれたち子どもの間では、戦争ごっこが流行っていた。
木の枝を鉄砲に見立てたり、帽子をかぶって兵隊の真似をしたりした。
「おれ、日本の兵隊!」
「じゃあ、僕は敵!」
「バンバン!」
子どもたちは大声を上げながら走り回った。
おれも、最初は楽しかった。
映画で見た兵隊みたいに走ると、何だか強くなった気がした。
ある日、友達が言った。
「弘一、敵を倒したら勝ちだぞ!」
「分かった!」
おれは木の枝を構えた。
「バン!」
友達が倒れる真似をした。
「やられたー!」
みんなで笑った。
でも、そのとき、別の子が言った。
「死んだやつは、もう起きちゃ駄目なんだぞ!」
おれは首をかしげた。
「なんで?」
「死んだんだから、ずっと倒れてるんだよ!」
おれは、地面に倒れている友達を見た。
友達は笑っていた。
でも、本当に死んだら、もう起きられない。
とうちゃんも、戦争で死んだら、帰ってこない。
そのことを考えた瞬間、楽しかった戦争ごっこが、少し怖くなった。
「…もうやめようぜ」
おれが言うと、友達は不思議そうな顔をした。
「なんで?」
「何となく…」
おれは木の枝を地面に置いた。
映画の中では、戦争はかっこよく見えた。
でも、本当に人が死ぬところなんて、おれは見たくなかった。
十一 鬼畜米英という言葉
おれは、大人たちがよく「鬼畜米英」と言っているのを聞いた。
アメリカやイギリスは恐ろしい敵だと、大人たちは話していた。
ある日、町の大人たちが集まって話していた。
「鬼畜米英を許すな!」
「敵を徹底的にやっつけなければならん!」
おれは、その言葉が怖かった。
大人たちの顔が、いつもと違っていたからだ。
普段は優しく挨拶してくれる人が、怒った顔で叫んでいた。
おれは小さくなって、話を聞いていた。
別の日、近所の子どもたちが地面に人の顔を描いていた。
「何描いてるんだ?」
おれが尋ねると、一人の子が答えた。
「敵の顔!」
「敵?」
「アメリカの偉いやつだよ!」
子どもたちは、その似顔絵を足で踏みつけ始めた。
「鬼畜米英!」
「やっつけろ!」
みんな笑いながら、何度も地面を踏んでいた。
おれは、何となく気持ち悪くなった。
「弘一もやれよ!」
一人の子が言った。
おれは地面の顔を見た。
「……やだ」
「なんでだよ!」
「何か、怖い……」
友達は笑った。
「ただの絵じゃん!」
確かに、ただの絵だった。
本物の人間ではない。
でも、おれは嫌だった。
みんなが怒った顔で、誰かの顔を踏みつけているのを見るのが怖かった。
その夜、おれは曾祖父ちゃんの蔵之助に尋ねた。
「ひいじいちゃん、鬼畜米英って何?」
曾祖父ちゃんは、少し驚いた顔をした。
「弘一、どこで聞いた?」
「町の人が言ってた」
「そうか……」
おれは続けた。
「アメリカの人って、みんな悪いやつなの?」
曾祖父ちゃんは、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「弘一。戦争で敵になっておる国の人間が、皆悪い人間というわけではないぞ」
「そうなの?」
「そうじゃ」
曾祖父ちゃんは、おれの頭をなでた。
「アメリカにもイギリスにも、おぬしと同じような子どもがおる。父親や母親もおる。皆、普通に暮らしておる人間なんじゃ」
おれは驚いた。
「敵にも、とうちゃんがいるの?」
「もちろんじゃ」
「かあちゃんも?」
「おるぞ」
おれは少し考えた。
「じゃあ、何で戦争するんだ?」
曾祖父ちゃんは困ったように笑った。
「……それは、わしにも簡単には答えられん」
曾祖父ちゃんは遠くを見つめた。
「じゃがな、弘一。人を憎むことばかり覚えるでないぞ」
「うん…」
おれは祖父ちゃんの手を握った。
その手は大きくて、温かかった。
おれは、みんなが地面の顔を踏みつけていたことを思い出した。
あれが本物の人間だったら、きっと痛いだろう。
そんなことを考えた。
十二 公園が畑になっちまった!
昭和十九年(1944)。
おれがいつも遊んでいた空き地や公園の一部が、畑に変わっていった。
食べ物が足りなくなってきたから、少しでも多く野菜や芋を育てる必要があるんだと、大人たちは言っていた。
でも、おれにはショックだった。
「えーっ! ここで遊べねえの!?」
おれは思わず叫んだ。
以前は友達と走り回ったり、石を並べて遊んだりしていた場所だった。
それが、今では土が掘り返され、畝が作られていた。
「ここは食べ物を作る場所になるんだよ」
近くの大人が説明した。
「でも、ここ、おれたちの遊ぶところだったじゃん!」
「仕方ないだろう。食べ物が足りないんだから」
おれは黙った。
確かに、食べ物が足りないことは知っていた。
お菓子もなかなか手に入らなくなった。
家の食事も、前より少なくなったように感じていた。
でも、遊ぶ場所までなくなってしまうなんて。
「戦争って、つまんねえな……」
おれは小さくつぶやいた。
その日、家へ帰ってから、曾祖父ちゃんに話した。
「ひいじいちゃん、公園が畑になっちまった!」
曾祖父ちゃんは静かにうなずいた。
「そうか…」
「おれ、あそこで遊ぶの好きだったのに」
「そうじゃろうな」
「もう遊べないのかな?」
曾祖父ちゃんは少し考えた。
「今は難しいかもしれんのう。でも、戦争が終わって食べ物が十分に行き渡るようになれば、また遊べる場所が増えるかもしれん」
おれは顔を上げた。
「本当?」
「そうなってほしいものじゃな」
おれは少し元気になった。
「じゃあ、戦争が終わったら、また遊ぼうぜ!」
曾祖父ちゃんは笑った。
「ははは。弘一、その頃にはわしは随分と年寄りになっておるぞ」
「今だってひいじいちゃん、年寄りじゃん!」
「はっはっは! それもそうじゃ!」
おれも笑った。
曾祖父ちゃんと話していると、不思議と怖い気持ちが小さくなった。
十三 葵生ちゃんと遊んだ日々
戦争が続く中でも、おれには楽しみがあった。
それは、葵生ちゃんと遊ぶことだった。
葵生ちゃんは、おれより年上だった。
髪が綺麗で、いつも優しい顔をしていた。
話し方も、ほかの子とは少し違っていた。
「あら、弘一。今日も遊びにいらしたんですの?」
「うん! 葵生ちゃん、遊ぼうぜ!」
「もちろんですわ!」
葵生ちゃんは嬉しそうに笑った。
おれたちは、家の庭や近くの安全な場所で遊んだ。
鬼ごっこをしたり、石を並べたり、木の葉を集めたりした。
ときには、葵生ちゃんのお母さんの春子おばちゃんが、おれたちを見守ってくれた。
「二人とも、あまり遠くへ行ってはいけませんわよ」
「はーい!」
おれは元気よく返事をした。
葵生ちゃんも微笑んだ。
「分かりましたわ、お母さま!」
ある日、おれは葵生ちゃんに言った。
「葵生ちゃん、戦争ごっこしようぜ!」
葵生ちゃんは少し困った顔になった。
「…戦争ごっこですの?」
「うん! おれ、兵隊!」
葵生ちゃんは首を横に振った。
「あおい、戦争ごっこは少し怖いですわ……」
おれは驚いた。
「何で?」
「だって、誰かが死んでしまうんでしょう?」
おれは少し考えた。
「…まあ、そういう遊びだけど」
「それなら、あおいは別の遊びがしたいですの」
「何して遊ぶ?」
葵生ちゃんは少し考えてから、笑顔になった。
「そうですわ! お花屋さんごっこはいかがかしら?」
「花屋?」
「はい! 葉っぱやお花を並べて、お店を作るんですの!」
おれは少し迷った。でも、何だか面白そうだった。
「いいぜ!」
おれたちは庭に落ちていた葉っぱや小枝を集めた。
葵生ちゃんは、それを丁寧に並べた。
「いらっしゃいませ! 綺麗なお花はいかがですの?」
おれは笑った。
「じゃあ、これくれ!」
「まあ! ありがとうございます!」
葵生ちゃんは嬉しそうに笑った。
おれも、何だか楽しくなってきた。
戦争ごっこみたいに誰かが死ぬ真似をしなくても、遊びは楽しかった。
その日、おれは久しぶりに、心から笑えた気がした。
十四 春花姉ちゃんが帰ってきた!
昭和二十年(1945)の初め。
おれと葵生ちゃんが遊んでいると、春花姉ちゃんがやってきた。
春花姉ちゃんは、おれたちよりずっと年上だった。
元気で、面倒見のいいお姉ちゃんだった。
「あら、弘一! 葵生ちゃん! 今日も遊んでるのね!」
「春花姉ちゃん!」
おれは大喜びで駆け寄った。
葵生ちゃんも笑顔になった。
「まあ、春花お姉さま! お帰りなさいませ!」
春花姉ちゃんは笑った。
「ふふっ。ただいま!」
おれは春花姉ちゃんの手を握った。
「なあなあ、今日は何して遊ぶ?」
「そうねえ……」
春花姉ちゃんは少し考えた。
「じゃあ、三人でお話を作ってみない?」
「お話?」
「そう! 弘一が主人公で、葵生ちゃんが不思議な森のお姫様なの!」
葵生ちゃんは目を輝かせた。
「まあ! 素敵ですわ!」
おれは笑った。
「おれ、強い勇者がいい!」
「いいわよ! でも、悪い人を倒すだけじゃなくて、困っている人を助ける勇者にしましょうね!」
「分かった!」
おれたちは、庭を不思議な森に見立てて遊び始めた。
葵生ちゃんは、お姫様らしく手を胸の前で合わせた。
「まあ、勇者さま! 困っている方がいらっしゃいますの!」
おれは木の枝を持って走った。
「よーし! おれが助けてやる!」
春花姉ちゃんは笑いながら、お話を続けてくれた。
そのときだけは、戦争のことを忘れられた。
とうちゃんがいないことも。
空襲警報が怖いことも。
公園が畑になってしまったことも。
全部、少しだけ忘れられた。
おれは、葵生ちゃんや春花姉ちゃんと遊ぶ時間が大好きだった。
十五 紙芝居の読み聞かせ
ある日、おれは葵生ちゃんと一緒に、近所で行われていた戦争の紙芝居を見に行った。
紙芝居のおじさんは、勇ましい兵隊や軍艦の絵を見せながら、
「贅沢は敵だ!」
「お国のために命を捧げることこそ立派な行いだ!」
「鬼畜米英を打ち倒せ!」
と大きな声で語っていた。
周りの子どもたちは目を輝かせていたけれど、おれはだんだん怖くなってきた。
贅沢が敵なら、お菓子を食べたいと思うことも悪いのだろうか。
お国のためなら、とうちゃんも死ななければならないのだろうか。
敵の国の人は、本当にみんな悪い人なのだろうか。
隣を見ると、葵生ちゃんも不安そうな顔をしていた。
「弘一……あおい、やっぱり怖いですわ。命を捧げることが立派だなんて、お兄さまにも生きて帰っていただきたいのに……」
おれも小さくうなずいた。
「おれも、とうちゃんに帰ってきてほしい。敵の人にだって、家族がいるんだろ?」
葵生ちゃんはおれの手を握った。
「ええ。おじいさまも、お母さまも、命を大切にしなさいって教えてくださいますもの。あおいは、そちらのお言葉を信じたいですわ」
曾祖父が教えてくれたことを思い出した。
紙芝居のおじさんは最後まで勇ましい声を上げていたけれど、おれたちはもう、兵隊が敵を倒す絵をかっこいいとは思えなかった。
おれたちは、誰かが死んで勝つ話より、みんなが生きて家へ帰る話の方が、ずっと好きだった。
十六 防空壕の中で思い出したこと
昭和二十年(1945)。
東京への空襲は、ますます怖いものになっていた。
夜に警報が鳴ることもあり、大人たちはいつも緊張していた。
ある夜、おれはまた防空壕へ避難した。
暗い壕の中で、かあちゃんの手を握った。
「かあちゃん…」
「どうしたの?」
「おれ、怖い……」
「そうね。怖いわね」
「とうちゃん、帰ってこないのかな……」
かあちゃんは、おれを抱きしめた。
「きっと、帰ってきてくれるわ」
おれは目を閉じた。
頭の中に、いろんなものが浮かんだ。
とうちゃんの笑顔。
曾祖父ちゃんの大きな手。
葵生ちゃんの綺麗な二つ結び。
春花姉ちゃんの元気な声。
公園で遊んだこと。
戦争ごっこをしたこと。
映画の中の軍艦。
地面に描かれた敵の顔。
紙芝居を読み聞かせる声。
全部、ぐちゃぐちゃになっていた。
おれには、戦争がどうして始まったのか分からなかった。
日本が勝つことが、どれほど大切なのかも分からなかった。
ただ、一つだけ分かっていた。
おれは、とうちゃんに帰ってきてほしかった。
葵生ちゃんや春花姉ちゃんと、また遊びたかった。
曾祖父ちゃんと、もっとお話をしたかった。
そして、もう防空壕に入らなくてもいい日が来てほしかった。
「かあちゃん」
「なあに?」
「戦争って、いつ終わるんだ?」
かあちゃんは、すぐには答えなかった。
「……分からないわ」
おれは小さくうなずいた。
「そっか……」
しばらくして、かあちゃんが言った。
「でも、弘一。戦争が終わったら、またみんなで遊びたいわね」
おれは顔を上げた。
「うん!」
「とうちゃんも一緒にね」
「うん! 絶対だぞ!」
おれは、かあちゃんの手を強く握った。
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終章 子どもたちの小さな願い
昭和二十年(1945)二月。
ある日、おれは葵生ちゃんと一緒に、曾祖父ちゃんの家へ遊びに行った。
曾祖父ちゃんは縁側に座っていた。
「おじいさま!」
葵生ちゃんが嬉しそうに駆け寄った。
「ひいじいちゃん!」
おれも走った。
曾祖父ちゃんは大きな声で笑った。
「おお、葵生に弘一か! よく来たのう!」
葵生ちゃんは、曾祖父ちゃんの隣に座った。
おれも、その横に座った。
しばらく三人でお話をした。
葵生ちゃんは学校のことを話した。
おれは、公園が畑になってしまったことを話した。
曾祖父ちゃんは、どちらの話も真剣に聞いてくれた。
やがて葵生ちゃんが尋ねた。
「おじいさま…戦争が終わったら、あおいたちは、また自由に遊べるようになりますの?」
曾祖父ちゃんは微笑んだ。
「そうなってほしいものじゃな」
おれも尋ねた。
「ひいじいちゃん! とうちゃんも帰ってくる?」
曾祖父ちゃんは、おれの顔を見つめた。
「……わしも、義蔵が帰ってくることを願っておるぞ」
「絶対、帰ってきてほしい!」
「うむ。そうじゃな」
葵生ちゃんも小さくうなずいた。
「あおいも、お兄さまに帰ってきていただきたいですわ」
曾祖父ちゃんは、二人の頭を優しくなでてくれた。
「葵生、弘一。おぬしらは、戦争が終わったら何をしたい?」
葵生ちゃんは少し考えた。
「あおいは、お母さまと一緒に綺麗なお洋服を着て、お出かけしたいですわ! それから、お兄さまと一緒にお食事をしたいんですの!」
曾祖父ちゃんは笑った。
「ははは。そうかそうか」
おれも元気よく答えた。
「おれは、とうちゃんと機関車を見に行きたい! あと、公園でいっぱい遊びたい!」
「うむ。どちらも素敵な願いじゃ」
曾祖父ちゃんは、少し遠くを見つめた。
そして、静かに言った。
「わしもな……おぬしらが、もう戦争を怖がらずに暮らせる世の中を見たいんじゃ」
葵生ちゃんは、曾祖父ちゃんの手を握った。
「あおいも、そんな世の中が大好きですわ」
おれもうなずいた。
「おれも!」
曾祖父ちゃんは優しく微笑んだ。
「そうか……」
そのとき、家の中から春子おばちゃんが声をかけてきた。
「葵生、弘一。そろそろお手々を洗いましょうね」
「はい、お母さま!」
「はーい!」
おれたちは元気よく返事をした。
春子おばちゃんは、家の中ではいつものように長い黒髪を下ろしていた。
葵生ちゃんの髪も、綺麗な二つ結びになっていた。
曾祖父ちゃんは、そんなおれたちを見つめて笑っていた。
その光景は、とても平和だった。
外では戦争が続いていた。
食べ物は不足し、公園は畑になり、学校では国のために命を捧げることが教えられていた。
大人たちは怒った顔で敵を憎み、映画では勇ましい戦争が描かれていた。
でも、曾祖父ちゃんの家には、まだ笑顔があった。
葵生ちゃんの優しい声。
春子おばちゃんの綺麗な髪。
曾祖父ちゃんの大きな手。
そして、おれたちが一緒に遊ぶ時間。
それだけは、戦争に奪われたくなかった。
あの日、おれは思った。
戦争が終わったら、またみんなで遊びたい。
とうちゃんにも帰ってきてほしい。
公園も、元に戻ってほしい。
葵生ちゃんと春花姉ちゃんと、もっとたくさん遊びたい。
そして、曾祖父ちゃんにも、ずっと元気でいてほしい。
おれはそんなことを願っていた。
ゲストキャラ
加藤春花
1930年3月生まれ。春子の次女。女子挺身隊で勤労動員されている。仕事が終わったあとに葵生や弘一たちと遊ぶのが戦中の生き甲斐になっていた。




