第五十八話 戦時下の子どもの仕事への疑問 前編
―昭和十七年(1942年)〜昭和二十年(1945年)―
語り手:神楽坂修蔵・野村節子
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前半 神楽坂修蔵の回想
一 人々を結ぶはずだった鉄道
昭和十七年(1942)俺は五十歳を過ぎていた。
父・蔵之助がまだ若い軍人だった頃、俺は初めて鉄道というものに魅了された。
蒸気機関車の大きな車輪、勢いよく吹き上がる白い煙、遠くまで続く線路。そして、汽笛とともに走り出す列車。
幼い頃の俺には、あの巨大な鉄の塊が人を乗せて走ること自体が、まるで魔法のように思えた。
明治の鉄道は、年を追うごとに日本中へ広がっていった。
それまで何日も歩かなければ行けなかった土地へ、汽車なら短い時間で行ける。離れて暮らす家族にも会いに行けるし、遠くで作られた食べ物や品物を町へ運ぶこともできる。
俺は、鉄道には人々の暮らしを豊かにする力があると信じていた。
だから鉄道技師になった。
線路を敷き、橋梁を整備し、列車が安全に走れるようにする。それが俺の仕事だった。
父は俺の選んだ道を尊重してくれた。
軍人の息子だから軍人になれなどとは、一度も言わなかった。
「修蔵、お前が鉄道を好きなら、その道を究めるがよい」
若い頃、父にそう言われたことを今でも覚えている。
俺はその言葉が嬉しかった。
父と同じ軍人の道ではなかったが、自分の仕事で国家や社会を支えられると信じていたからだ。
しかし、大東亜戦争が始まってから、鉄道の役割は大きく変わってしまった。
兵士を運ぶ。
軍需物資を運ぶ。
戦車や大砲を運ぶ。
港へ向かう軍用列車を優先して走らせる。
かつて人々の旅や生活を支えていた鉄道が、今では戦争を続けるための重要な輸送手段になっていた。
もちろん、昔から鉄道が軍事輸送に使われることはあった。日清戦争や日露戦争の頃もそうだった。
だが、今度の戦争は規模が違った。
国内の輸送はますます軍事優先となり、資材も人手も不足するようになった。列車を一つ走らせるだけでも、何を優先し、何を後回しにするかという厳しい判断が必要になった。
ある日、俺は貨物列車に積まれた軍需物資を眺めていた。
木箱の中には、戦地へ送られる兵器の部品や弾薬が収められている。
俺たちが整備した線路の上を、その列車が走っていく。
「…俺は何を運ぶために、この仕事を選んだんだろうな」
遠くで汽笛が鳴った。かつては胸が躍った音だった。
しかし、その日は少し違って聞こえた。
二 軍用列車に乗る若者たち
ある朝、俺は仕事の関係で駅にいた。
ホームには、軍服を着た若い兵士たちが集まっていた。
見送りに来た家族も多かった。
「体に気をつけるんだぞ!」
「必ず帰ってきてね!」
「母さん、心配しないでくれ!」
そんな声があちこちから聞こえていた。
兵士たちの中には、まだ少年の面影が残るような若者もいた。
俺はその光景を見ながら、自分の若い頃を思い出していた。
明治時代、鉄道が日本中へ広がっていくことを喜んでいたあの頃。
汽車に乗ることは、多くの人にとって希望だった。
都会へ働きに行く者。
学校へ進学する者。
故郷へ帰る者。
旅行へ出かける者。
俺は、そうした人々を運ぶ鉄道が好きだった。
しかし、今ホームに並ぶ若者たちは違う。
彼らは戦場へ向かうために列車に乗る。
そして、その中には二度と帰ってこない者もいるのだろう。
列車が汽笛を鳴らした。
母親らしい女性が、息子の手を強く握っていた。
「どうか、無事で…」
その声は途中で途切れた。
若い兵士は笑顔を作り、母親の手を離した。
やがて列車が動き始めた。
見送る人々が手を振った。
俺はその場から動けなかった。
自分が整備に関わった線路の上を、若者たちが遠ざかっていく。
鉄道がなければ兵士を戦地へ送り出すことは難しくなる。
しかし、鉄道がなければ食料も燃料も届かず、人々の生活そのものが立ち行かなくなる。
俺は鉄道を作ることが間違っているとは思わなかった。
それでも、何のために作っているのかという疑問が、胸から離れなくなっていた。
三 父に打ち明けた迷い
その日の夕方、俺は久しぶりに父の本家を訪ねた。
父は八十歳に近づいていたが、相変わらず背筋を伸ばして座っていた。
「修蔵、どうした。今日は随分と疲れた顔をしておるな」
「父上、少し話がある」
「うむ。座るがよい」
俺は父の向かいに腰を下ろした。
「父上。俺は最近、自分の仕事が分からなくなってきた」
「ほう」
「俺は鉄道が好きで、この仕事を選んだ。人や物を安全に運んで、人々の生活を豊かにしたかった」
父は黙って聞いていた。
「だが今は違う。軍用列車が増え、兵器や兵士を運ぶために線路を整備している」
「…そうじゃな」
「俺たちが線路を作れば、それだけ多くの兵士を戦場へ送れる。兵器も運べる。俺は、人々の暮らしを豊かにするために鉄道を作ってきたはずなのに……」
そこで言葉が詰まった。
父はしばらく考え込んでいた。
やがて、静かに口を開いた。
「修蔵。わしも軍人になったときは、国と人々を守りたいと思っておった」
「…ああ」
「しかし、軍隊というものは、時として人を守るためではなく、人を殺すために使われる」
父の言葉は重かった。
「わしは長い軍人人生の中で、その矛盾に何度も苦しんだ」
俺は父を見つめた。
「父上も、そうだったのか」
「当然じゃ。戦争に携わって、何も感じぬ人間の方がおかしい。じゃがな、修蔵。わしは軍人になったことそのものを、すべて間違いだったとは思っておらん」
「どうしてだ?」
「わしが軍人として学んだ知識や経験で、守れた命もあったからじゃ」
父は俺の目をまっすぐ見た。
「おぬしも同じではないか?」
「…俺が?」
「おぬしの作った線路は、兵士や兵器だけを運んでおるのか?」
俺は首を横に振った。
「いや。食料も、生活物資も、一般の人間も運んでいる」
「そうじゃろう。ならば、鉄道そのものを憎む必要はない。大切なのは、それを何のために使うかじゃ」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少し軽くなった。
俺は父と違う道を選んだ。
しかし、父も俺も、自分の仕事が人を傷つけるために利用されることを恐れている。
そんなところまで、俺たちは似ていたのかもしれない。
四 義蔵、陸軍鉄道部隊へ
戦況が悪化する中、俺の長男・義蔵に、陸軍の鉄道部隊へ加わることが決まったという知らせが届いた。
義蔵は長年、俺と同じように鉄道に関わる仕事をしていた。
幼い頃から機関車が好きで、線路や車両の仕組みに強い関心を持っていた。
その姿は、若い頃の俺によく似ていた。
だからこそ、息子が鉄道技術を軍事目的に使う部隊へ送られると知ったとき、複雑な思いが込み上げた。
ある夜、義蔵が家族の前で話した。
「父さん。俺、陸軍の鉄道部隊に行くことになった」
「……そうか」
義蔵は落ち着いた表情をしていた。
「戦地の鉄道は整備が難しいらしい。線路の修復や輸送設備の建設に、技術を持つ人間が必要なんだそうだ」
「分かっている」
「俺なら、少しは役に立てると思う」
幼い頃、俺の仕事場を見に来ては目を輝かせていた義蔵。
初めて機関車の仕組みを教えたとき、嬉しそうに何度も質問してきた義蔵。
今、その息子が戦場へ向かおうとしている。
「義蔵」
「何だ、父さん」
「お前は、鉄道を作るのが好きだったな」
「ああ。今でも好きだよ」
「そうか……」
それ以上、何も言えなかった。
義蔵は俺の気持ちを察したようだった。
「父さん、俺は大丈夫だ」
「…そう簡単に言うな」
思わず、強い口調になった。
義蔵は黙った。
「戦場がどういう場所か、お前は本当に分かっているのか」
「分かっているつもりだ」
「つもりでは駄目なんだ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
しばらく沈黙が続いた。
「……すまん」
「いや、父さんが心配するのも分かるよ。俺も怖くないわけじゃない。でも、行くことになった以上、できるだけ自分の技術で役に立ちたい」
俺は目を閉じた。
息子はもう、俺がすべてを決めてやれる年齢ではない。
すでに家庭を持ち、子どもを育てる父親なのだ。
それでも、俺にとって義蔵は、いつまでも大切な息子だった。
五 父親が息子を見送る日
義蔵が出発する日。駅には家族が集まっていた。
父・蔵之助と母・愛海も見送りに来ていた。
義蔵の妻と、まだ幼い弘一もいた。
弘一は父親の軍服を不思議そうに見つめていた。
「とうちゃん、どこ行くの?」
義蔵はしゃがんで、息子と目を合わせた。
「お仕事で、少し遠くへ行くんだ」
「おれも行く!」
「ははは。弘一は母さんと一緒に、おうちを守っていてくれ」
「えー!」
義蔵は息子の頭を優しくなでた。
その光景を見ていると、胸が締めつけられた。
俺が義蔵を見送っているように、義蔵も弘一を残していく。
父親が息子を思う気持ちは、どの世代でも変わらない。
やがて義蔵が、父の前へ歩み寄った。
「祖父上、行ってまいります」
父は静かにうなずいた。
「義蔵。わしから一つだけ言っておく」
「はい」
「どれほど立派な鉄道を作っても、おぬし自身が帰ってこなければ、わしらには何の慰めにもならん」
義蔵は真剣な表情になった。
「無理に英雄になろうとするでない。生きて帰れ」
「分かりました、祖父上」
次に義蔵は俺の前に立った。
「父さん、行ってくる」
俺は息子を見つめた。
言いたいことは山ほどあった。
無理をするな。
危険なところへ近づくな。
病気に気をつけろ。
腹いっぱい食べろ。
必ず帰ってこい。
だが、どれも当たり前のことばかりだった。
俺は義蔵の肩に両手を置いた。
「義蔵。鉄道の技師として、父さんはお前を誇りに思っている」
義蔵の目がわずかに見開かれた。
「でも、それ以上に…お前が俺の息子であることが嬉しい」
「父さん……」
「絶対に、生きて帰ってこい」
義蔵は深くうなずいた。
「ああ。約束する」
やがて出発の時刻になった。
列車が汽笛を鳴らす。
義蔵は家族に手を振り、客車へ乗り込んだ。
弘一が大きな声を上げた。
「とうちゃん! また遊ぼうなー!」
義蔵は窓から身を乗り出さないようにしながら、力強く手を振った。
「もちろんだ! いい子で待ってろよ!」
列車が動き出した。
俺はその姿が見えなくなるまで、ホームに立ち続けた。
何十年も鉄道に携わってきた。
数え切れないほどの列車を見送ってきた。
だが、その日ほど、列車の出発を悲しく感じたことはなかった。
六 それでも俺は鉄道を作る
義蔵を見送ってからしばらく、俺は仕事へ向かう足取りが重かった。
線路を整備するたびに、息子の姿が頭をよぎった。
この線路も、いつか誰かの息子を戦場へ運ぶのだろうか。
この橋も、軍用列車を通すために使われるのだろうか。
俺は、自分の仕事が嫌になりかけていた。
しかし、ある日、生活物資を積んだ列車が無事に駅へ到着した。
待っていた人々は、積み荷を見て安堵の表情を浮かべていた。
食料。
燃料。
生活に必要な品物。
それらが鉄道によって町へ運ばれてきた。
俺はその光景を見ながら、父の言葉を思い出した。
鉄道そのものを憎む必要はない。
大切なのは、それを何のために使うか。
そうだった。俺は鉄道を作ることを諦めてはならない。
今は戦争のために利用されていても、戦争が終われば、鉄道は再び人々の生活を支える。
いつか義蔵が帰ってきたなら、親子でまた鉄道の未来を語りたい。
そして弘一が成長したときには、戦場へ人を送るためではなく、平和な暮らしを結ぶために走る列車を見せてやりたい。
俺は再び工具を手に取った。
鉄道を作ろう。
今はまだ、そのすべてを自分の理想通りに使うことはできない。
それでも、人を生かすために必要な鉄道を守り続けよう。
それが、俺の選んだ道だった。
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後半 野村節子の回想
七 教室で教えなければならないこと
昭和十九年(1944)。私は五十歳に近づいていた。
幼い頃から勉強が好きだった。
新しいことを知る喜び、人に何かを教える楽しさ、子どもたちが少しずつ成長していく姿。
私は、そうしたものに魅力を感じて教員になった。
父・蔵之助は、私が教師を目指すと伝えたとき、喜んでくれた。
「節子、人を育てる仕事は立派なものじゃ。子どもたちが自分で考えられるように教えてやるんじゃぞ」
その言葉は、私の教師としての原点になった。
ところが、戦争が始まってから、学校の教育は大きく変わっていった。
尋常小学校は国民学校となり、子どもたちは少国民として国家に奉仕することを教えられるようになった。
教室には天皇への忠誠や国家のために尽くす精神が強調され、戦争に関する教材も増えた。
「お国のために命を捧げることは名誉である」
そんな考え方を、教師である私たちも子どもたちに教えるよう求められていた。
私はそのたびに、胸が苦しくなった。
ある日の授業。私は児童たちの前に立ち、教科書を開いた。
「皆さん、今日は兵隊さんたちのお話をしましょう」
子どもたちは背筋を伸ばしていた。
「兵隊さんたちは、お国のために戦っています。私たちも、自分にできることを一生懸命しなければなりません」
そこまでは、私も落ち着いて話すことができた。
しかし、続けて説明しなければならない内容に、言葉が詰まった。
国家のために命を捧げること。
それを最高の名誉として教えなければならない。
私は児童たちの顔を見渡した。
まだ十歳にも満たない子どもたち。
笑顔がかわいらしく、休み時間には元気に走り回り、家へ帰れば父母に甘える子どもたち。
この子たちに、死ぬことを立派だと教えなければならないのだろうか。
「先生?」
一人の男の子が首をかしげた。
私は我に返った。
「ごめんなさい。続きをお話ししますね」
その日は決められた内容を教えながらも、最後にこう付け加えた。
「でも皆さん、覚えておいてくださいね。皆さん一人一人の命も、とても大切なものなんですよ」
子どもたちは不思議そうに私を見つめた。
「先生、兵隊さんみたいに死ぬのは立派なことじゃないんですか?」
私は静かに答えた。
「兵隊さんたちが大変な思いをしていることは、忘れてはいけません。でも、皆さんが元気に生きていることも、とても大切なんです」
「生きていることが?」
「ええ。皆さんには、これからたくさんのことを学んで、いろいろな夢を持ってほしいですから」
子どもたちは小さくうなずいた。
私はその姿を見て、ほんの少しだけ安心した。
八 父から教わった考える力
ある日、私は実家を訪ね、父に自分の葛藤を打ち明けた。
「父上、私、最近は教師を続けることが苦しくなることがあります」
父は驚いた様子を見せた。
「節子がそのようなことを言うとは珍しいな」
「ええ。私も、こんな気持ちになるとは思っていませんでした」
私は学校での出来事を話した。
国家のために命を捧げることを教える授業。
軍事的な訓練。
子どもたちが戦争の勝利を当然のように信じていること。
そして、私自身がその考え方を教える立場にいること。
「父上、私は子どもたちに、生きることの素晴らしさを教えたくて教師になったんです」
「うむ」
「でも、今の学校では、死ぬことまで立派だと教えなければならない。私、何のために教師になったのか分からなくなることがあります」
父はしばらく黙っていた。やがて、静かに口を開いた。
「節子。わしはおぬしが幼い頃、何と言ったか覚えておるか?」
私は少し考えた。
「……自分で考えられる人間になりなさい、でしょうか」
父は微笑んだ。
「そうじゃ」
その言葉を聞いた瞬間、幼い頃の記憶がよみがえった。
父は、私たち四兄弟に一方的に命令することを好まなかった。
もちろん、礼儀や人として守るべきことには厳しかった。
しかし、将来の仕事や生き方については、できる限り私たちの意志を尊重してくれた。
「節子。今の世の中では、学校で教えられることにも制約があるじゃろう。しかし、子どもたちに自分で考える力を育てることは、まだできるはずじゃ」
私は父を見つめた。
「自分で考える力…」
「そうじゃ。与えられた答えを覚えるだけでなく、なぜそうなるのかを考える。人の言葉を聞いて、自分なりに判断する。それはどの時代でも大切なことじゃ」
私は深くうなずいた。
「父上、私、もう少し頑張ってみます」
「うむ。ただし、無理をするでないぞ。今の世の中では、教師の言葉一つにも危険が伴う」
父は優しく微笑んだ。
「節子。おぬしは昔から、真面目で責任感の強い娘じゃった。だからこそ、すべてを一人で背負い込むでないぞ」
私は思わず笑みを浮かべた。
「ありがとう、父上」
父の言葉は、私にもう一度教師として立ち続ける勇気を与えてくれた。
九 教室に残したかったもの
それから私は、授業の中でできる範囲の工夫をするようになった。
もちろん、国民学校の教育方針を無視することはできない。
算術では答えを覚えるだけでなく、なぜそうなるのかを考えさせた。
理科では、身近な植物や動物を観察し、自分の目で確かめる大切さを教えた。
作文では、子どもたちが自分の気持ちを言葉にする機会を大切にした。
ある日、私は子どもたちに尋ねた。
「皆さん、大きくなったら何になりたいですか?」
教室のあちこちから手が上がった。
「兵隊さん!」
「看護婦さん!」
「飛行機を作る人!」
そのような答えが多い中、一人の女の子が小さな声で言った。
「先生、私はお花屋さんになりたいです」
周囲の児童が少し笑った。
「お花屋さん? お国の役に立たないじゃないか!」
女の子はうつむいた。
私は静かに言った。
「そんなことはありませんよ」
子どもたちが私を見た。
「お花を育てて、人を喜ばせることも素敵なお仕事です。人にはそれぞれ得意なことや、好きなことがありますからね」
女の子は顔を上げた。
「先生、本当ですか?」
「ええ、本当よ」
私は微笑んだ。
「皆さんも、将来どんな大人になりたいか、少しずつ考えてみてくださいね」
その日の授業を終えた後、私は教室に一人残った。
黒板には、子どもたちが話してくれた将来の夢が書かれていた。
戦争が終わるまで、この子たちは無事に成長できるのだろうか。
将来、本当に自分の好きな仕事を選べる時代が来るのだろうか。
私は黒板を消しながら、心の中で願った。
どうか、この子たちの未来が奪われませんように。




