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第五十七話 大本営の嘘と竹槍の狂気

――昭和十七年(1942年)〜昭和十九年(1944年)――


語り手:神楽坂蔵之助


一 勝っているはずの戦争


昭和十七年(1942)の夏。わしは七十八歳になっていた。


大東亜戦争が始まってから半年あまり。新聞を開けば日本軍の勝利が大きく報じられ、ラジオからは勇ましい軍歌と戦果の発表が流れていた。


開戦当初、真珠湾攻撃やシンガポール攻略など、日本軍が各地で大きな戦果を上げたことは確かだった。

しかし、六月のミッドウェー海戦を境に、わしは大本営の発表に違和感を覚えるようになった。


「我が海軍、敵艦隊に大打撃」


新聞にはそのような勇ましい見出しが躍っていた。

だが、読み進めるほどに疑問が湧いてくる。

日本軍の損害は曖昧にされ、敵の損害ばかりが強調されていた。


わしは新聞を置き、腕を組んだ。


「…妙じゃな」


向かいで茶を飲んでいた愛海が顔を上げた。


「あなた、どうかなさいました?」


「いや、何でもない」


そう答えたものの、胸の奥に小さな不安が残っていた。


わしは長年、陸軍軍人として戦争に携わってきた。

日清戦争も、日露戦争も経験している。

戦場では、自軍が勝っていると思っていた場所で突然劣勢に陥ることもあれば、敵の損害を過大に見積もることもある。


しかし、報告というものには限度がある。

敵に大打撃を与えたと発表しながら、その後の作戦が思うように進まない。

損害は軽微だと伝えながら、国内では兵員や物資の動員がますます激しくなる。

その矛盾を、わしは見過ごすことができなかった。


やがて昭和十八年(1943)に入ると、日本軍がガダルカナル島から撤退したことが「転進」として発表された。

さらにアッツ島の日本軍守備隊が全滅すると、その最期は「玉砕」と称えられた。


わしはラジオを聞きながら、静かに首を横に振った。


「……転進、か」


戦場を知るわしには、その言葉の裏にあるものが想像できた。

敵の攻撃に耐えきれず、撤退せざるを得なかったのであろう。

そして玉砕とは、そこで戦っていた兵士たちが、ほとんど帰らぬ人になったということじゃ。


新聞は彼らを英雄として称えていた。

しかし、わしには違って見えた。

一人一人に名前があり、故郷があり、家族がいたはずの若者たち。

その死が、あまりにも簡単に美しい言葉で包まれていく。


「…これでよいのか」


わしは誰にも聞こえない声でつぶやいた。


二 兄弟だけの秘密


昭和十八年(1943)のある夕方、兄・寛之助が本家を訪ねてきた。

兄は八十一歳になっていたが、背筋は今も真っすぐで、元海軍軍人らしい威厳を失っていなかった。


「蔵之助、少し話がある」


「兄上、どうなさった?」


「二人だけで話したい」


その言葉に、わしは兄が何を話そうとしているのか察した。

愛海には少し席を外してもらい、わしらは奥の座敷へ移った。


兄は新聞を畳の上に置いた。


「蔵之助。大本営の発表をどう見ておる?」


わしはしばらく黙っていた。


「……兄上も、お気づきでしたか」


「やはりな」


兄は苦々しく笑った。


「わしは海軍に長くおった。戦果報告というものが、どれほど誤りやすいかは知っておる。しかし、近頃の発表は度が過ぎておる」


「わしも同じことを考えておりました」


「敵艦を沈めた、敵機を撃墜した、敵軍を撃退した。何度も勝っておるはずなのに、戦場は日本から遠ざかるどころか、近づいておる」


「ええ。しかも兵員と物資の不足が深刻になっておる」


兄はうなずいた。


「戦争というものは、兵の勇ましさだけでは続けられん。船も燃料も食糧も必要じゃ。それが足りなくなっているのに、どうして勝ち続けられる?」


わしは新聞に目を落とした。


「兄上。わしは、大本営がすべてを正直に伝えているとは、もう思っておりません」


兄は静かに言った。


「わしもじゃ」


その瞬間、兄弟の間に長い沈黙が流れた。


江戸時代に生まれ、明治維新を経験し、軍人として国家に仕えた二人。

そのわしらが、かつて自分たちの属していた軍の発表を信じられなくなっている。

これほど悲しいことがあろうか。


「蔵之助」


「はい」


「この話は、わしら二人だけの秘密にせんか」


わしは兄を見た。


「子どもたちには知らせぬのですか?」


「ああ。少なくとも、今はな」


兄は窓の外へ目を向けた。


「修蔵たちも、義蔵たちも、それぞれの仕事と家庭を抱えておる。軍の発表は嘘じゃと軽々しく口にすれば、どこから話が広がるか分からん」


わしはうなずいた。


戦争や軍部を公然と批判することには大きな危険が伴った。

うっかり口にした言葉が、近所の噂になり、警察の耳に入ることもあり得る。


「まして葵生や弘一のような幼い子には、こんな重い話を背負わせたくない」


「そうですな」


「ただし、蔵之助。嘘を信じさせるために黙るのではないぞ」


兄は真剣な顔で続けた。


「今はわしらが疑念を胸にしまうだけじゃ。子どもたちが危険な命令を受けるようなことがあれば、そのときは黙っておる必要はない」


わしは深くうなずいた。


「分かりました、兄上」


こうして、わしらは大本営発表への疑念を、兄弟だけの秘密にすることを約束した。


もっとも、光蔵や幸丞のように、工業力の違いから戦況を心配する者はすでにいた。

彼らの考えまで否定するつもりはない。

ただ、わしらの知る軍の内情と、発表の裏にあると思われる現実を、軽々しく家族へ語らぬことにしたのである。


それは、家族を守るための沈黙だった。

しかし、その沈黙がいつまで続けられるのか、わし自身にも分からなかった。


三 「欲しがりません勝つまでは」


昭和十七年(1942)の暮れ頃から、町ではある標語を頻繁に見かけるようになった。


『欲しがりません勝つまでは』


戦争に勝つためには、国民一人一人が欲望を抑え、贅沢を慎み、国家に尽くさなければならない。

そうした考え方が、ますます強く求められていた。


配給される米や日用品は十分とはいえず、食卓には麦飯や雑炊、芋などが並ぶことが増えた。

衣服も新調するより、古いものを繕って使うことが当たり前になった。


わしらの家でも、愛海が着物を丁寧に繕っていた。


「あなた、こちらの布、まだ使えますね」


「うむ。捨てるには惜しい」


「昔から物を大切にすることは教わってきましたけれど、今は物が手に入らないから大切にするしかありませんものね」


「贅沢を慎むのは悪いことではない。じゃが、必要な物まで欲しがってはならんというのは、おかしな話じゃ」


愛海は静かにうなずいた。


「特に、食べ盛りの子どもたちがかわいそうです」


「そうじゃな」


ある日の夕食、遊びに来ていた葵生が、茶碗の中を見つめていた。


「あの、おばあさま…」


「どうしました、葵生?」


「もう少し、ご飯をいただいてもよろしいかしら?」


愛海は優しく微笑んだ。


「もちろんよ。今日はまだ少しありますからね」


ところが、葵生は申し訳なさそうに首を振った。


「でも、学校では欲しがりません勝つまではって教わりましたの。あおい、欲しがってしまいましたわ…」


その言葉を聞いた瞬間、わしは思わず箸を置いた。


「葵生」


「はい、おじいさま?」


「お腹が空いたなら、遠慮せずに言いなさい」


「でも…」


「食べたいと思うことは、悪いことではないんじゃ」


葵生は不思議そうにわしを見た。


「そうなんですの?」


「そうじゃ。生きるために食べ物が必要なのは当たり前のことじゃ。自分が腹を空かせていることまで恥ずかしく思う必要はない」


「…はい!」


愛海が葵生の茶碗に、残っていたご飯を少しよそった。


「さあ、お食べなさい」


「ありがとうございます、おばあさま!」


葵生は嬉しそうに食べ始めた。


その姿を見ながら、わしは思った。

我慢を教えることはできる。

しかし、我慢することそのものを美徳とし、人間の自然な願いまで否定してしまえば、何のために生きているのか分からなくなる。


子どもは腹が空けば食べたいと言ってよい。

寒ければ暖まりたいと言ってよい。

悲しければ泣いてよい。

そんな当たり前のことさえ許されなくなる世の中は、どこか間違っている。


四 四兄弟が守ろうとしたもの


戦争が長引くにつれて、わしの四人の子どもたちも、それぞれの仕事で困難に直面していた。


長男の修蔵は、鉄道の仕事に追われていた。

軍需物資や兵員輸送が優先され、民間の輸送にも大きな制約が加わる。

それでも修蔵は、鉄道が人々の生活を支えるものであることを忘れなかった。


ある日、修蔵がわしに言った。


「父上、軍の輸送が大切なのは分かる。だが、食料を運ばなければ町の人間は生きていけないし、一般の人間も移動しなければならない」


「うむ」


「俺は、鉄道が人を生かすためのものだってことだけは忘れたくない」


わしは息子を見つめた。


「修蔵。おぬしは昔から鉄道が好きだったな」


「ああ。初めて汽車を見たときのことは、今でも覚えている」


「その気持ちを大切にするんじゃ」


修蔵は力強くうなずいた。


長女の節子は、教育に携わる者として、子どもたちの将来を心配していた。


「お父様、最近の教育では、国のために命を捧げることばかりが強調されるようになりました」


「そうか…」


「私は、子どもたちには自分の人生を大切にしてほしいんです。勉強をして、好きなことを見つけて、将来の夢を持って…」


節子は少し声を落とした。


「でも、今の世の中では、そんな当たり前のことを教えるのも難しくなってきました」


わしは節子の肩に手を置いた。


「節子。おぬしがそう思っているだけでも、救われる子どもはおるはずじゃ」


次男の光蔵は、機械や工業に携わる立場から、物資不足と軍需生産の拡大を肌で感じていた。


「父上、以前なら生活を便利にする機械のことを考えていられたけど、今は戦争のための生産が優先されているんだ」


「そうじゃろうな」


「僕は、機械は人の生活を豊かにするためにあるべきだと思う」


「うむ。その通りじゃ」


光蔵は静かに続けた。


「戦争が終わったら、また人を幸せにするものを作りたいね」


わしはその言葉に、希望を感じた。


そして末娘の春子。

保健婦として働く春子は、食糧不足や疲労によって健康を損なう人々と接する機会が増えていた。


「お父様、最近は無理をなさる方が多いんですの」


「そうか」


「少し具合が悪くても、お国のためだから休めないとおっしゃる方がいらっしゃいます。でも、倒れてしまっては元も子もありませんでしょう?」


「まったくじゃ」


「わたくし、せめて皆様がご自身のお身体を大切になさるよう、お伝えしたいんですの」


春子はいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。


「健康でいることも、立派に生きることの一つですものね」


そのとき、葵生もわしのもとへやって来た。葵生は、相変わらず純真な笑顔を見せてくれていた。


「あおい、おじいさまとおばあさまが大好きですの!」


「おお、わしらも葵生が大好きじゃぞ」


「うふふ! ずっと一緒にいられたら嬉しいですわ!」


その願いがかなうようにと、わしは心の底から祈っていた。


わしは四人の子どもたちを思った。

修蔵は人々の移動と暮らしを守り、節子は子どもたちの未来を守り、光蔵は技術が人を幸せにするという信念を守り、春子は人々の健康と命を守ろうとしている。


それぞれ異なる道を歩んだ四兄弟。

しかし、その根底には、同じものがあった。

人を生かすこと。

わしはそのことが、何より嬉しかった。


五 近づいてくる戦場


昭和十九年(1944)。わしは八十歳になった。

兄は八十二歳。二人合わせて百六十年以上を生きてきたことになる。

その長い人生の中でも、この年の戦況ほど不穏なものはなかった。


二月にはトラック島がアメリカ軍の大規模な攻撃を受け、六月にはマリアナ沖海戦、七月にはサイパン島での日本軍の組織的抵抗が終わった。


日本軍が各地で勇敢に戦っていることは間違いなかった。しかし、戦線は確実に日本本土へ近づいていた。


サイパン島を失ったことで、日本本土がアメリカ軍の長距離爆撃機の攻撃圏内に入る危険性が現実味を帯びてきた。

そんな中でも、大本営は日本軍の戦果を大きく報じ続けていた。


ある日、兄が本家に来るなり新聞を広げた。


「蔵之助、これを見よ」


「…また敵艦隊に大損害、か」


「ああ。だがサイパンは失われた」


わしは静かにうなずいた。


「敵艦を何隻沈めたと発表しても、島を奪われた事実は変わりませんな」


「その通りじゃ」


兄は新聞を畳んだ。


「わしらが恐れておったことが現実になってきた」


「ええ」


「それでも、まだ勝っておると言い続けるつもりなのか…」


わしは兄の顔を見た。

その表情には、怒りよりも深い悲しみが浮かんでいた。


わしらは、かつて軍人だった。

だからこそ、軍が自らの失敗を認めず、国民に現実を知らせようとしないことが、何より許せなかった。


「兄上。もし本土に敵が来たなら、どうなさいますか」


兄は即座に答えた。


「まず家族を守る」


わしは小さく笑った。


「わしも同じです」


兄もわずかに口元を緩めた。


「軍人を辞めたからといって、守るべきものがなくなったわけではないからな」


「ええ。むしろ、今のわしらには守るべき者が多すぎます」


わしらはしばらく、窓の外を眺めていた。


六 竹槍を持たされた人々


昭和十九年(1944)のある日、町内で防衛訓練が行われた。


空襲への備えに加え、敵軍が日本本土へ上陸した場合を想定した訓練も重視されるようになっていた。

住民たちは竹槍を手に取り、号令に合わせて突き出す動作を繰り返していた。


「突け!」


「突け!」


「突け!」


指導にあたっていた男性の声が響く。


わしは兄とともに、その様子を見ていた。

竹槍を握っているのは、若者だけではない。

中年の女性も、高齢者もいた。

皆、慣れない武器を持ち、懸命に動いている。

わしはその光景を見ながら、何とも言えない気持ちになった。


竹槍は、近距離で人を突くための原始的な武器じゃ。

銃や砲を持つ敵兵に対してさえ、極めて不利である。

まして、戦車や航空機を相手にできるものではない。


ところが、指導者の男性はますます声を張り上げた。


「敵が来たら怯むな! 竹槍でも立ち向かうんだ!」


住民たちは声をそろえた。


「はい!」


「上陸してきた敵兵を一人でも倒せ! 敵機が来ても逃げ腰になるな! 竹槍一本で米軍機を落とすくらいの気迫を見せろ!」


わしは耳を疑った。

竹槍で、米軍機を落とす。

それが比喩であったとしても、恐ろしい言葉だった。


しかも、指導者はさらに続けた。


「国民全員が命を捨てる覚悟を持てば、必ず勝てる! 逃げる者は非国民だ!」


その瞬間、わしの胸の奥で何かが切れた。


「…待たんか」


わしの声に、近くの住民が振り返った。

指導者もこちらを見た。


「何でしょうか、神楽坂さん」


わしはゆっくりと前へ進んだ。


「今、何と言った?」


「え?」


「竹槍で米軍機を落とすと申したな」


男性は少し戸惑ったが、すぐに姿勢を正した。


「ええ! もちろん気迫の問題です! 国民にはそれほどの覚悟が必要なのです!」


わしは静かに答えた。


「気迫で飛行機が落ちるなら、軍隊に高射砲も戦闘機も必要なかろう」


周囲が静まり返った。


「神楽坂さん、それは…」


「わしは長年、陸軍におった」


わしは男性の言葉を遮った。


「日清戦争も日露戦争も経験した。戦場で人が死ぬところも見た。武器の違いが、どれほど命に関わるかも知っておる」


男性は黙った。


「竹槍で敵の航空機を落とせると、本気で思っておるのか?」


「いえ、ですから精神力を…」


「精神力で弾丸が止まるのか!」


思わず声が大きくなった。

住民たちが驚いてこちらを見た。


わしは深く息を吐き、言葉を続けた。


「精神力は大切じゃ。勇気も必要じゃ。しかし、勇気と無謀を取り違えてはならん」


指導者の男性は顔を赤くしていた。


「しかし、敵が上陸してきたら、我々はどうするのですか!」


「その前に、住民を安全な場所へ逃がすことを考えよ」


「逃げるのですか!」


「生き延びるためじゃ」


わしは男性をまっすぐ見据えた。


「軍隊が敵から住民を守るのであって、住民を敵の前に並べて盾にするのが軍隊の役目ではなかろう」


そのとき、後ろから兄が歩み寄ってきた。


「蔵之助の言う通りじゃ」


兄の声は、わしよりも静かだった。

しかし、その言葉には強い威厳があった。


「わしも長年、海軍におった。艦砲や航空機の威力はよく知っておる」


兄は竹槍を一本手に取った。


「これで敵の戦闘機と戦えと言われたら、わしは部下に何と言うべきじゃろうな」


誰も答えなかった。


兄は竹槍を地面に置いた。


「戦う覚悟を持つことと、勝ち目のない戦いを強いることは違う」


わしはうなずいた。


「そうじゃ。敵機が来たなら、まず身を隠せ。爆撃が始まったら、安全な場所へ避難せよ。火災が起きたなら、消せる範囲かどうかを見極め、危険なら退避するんじゃ」


「しかし…」


「命を守るための訓練なら、わしも賛成する。じゃが、命を捨てることを教える訓練なら、わしは反対じゃ」


わしは周囲の住民たちを見渡した。


「皆の者、よく聞いてくれ」


誰も声を上げなかった。


「竹槍を持つことが悪いとは言わん。だが、竹槍一本で何でもできると思ってはならん」


わしは一度言葉を切った。


そして、ゆっくりと言った。


「心の中まで竹槍になるな。」


その場にいた人々が、わしを見つめた。


「自分で考えることをやめるな。危険なものは危険じゃと判断せよ。誰かが立派な言葉を並べたからといって、命を粗末にしてよい理由にはならん」


わしは胸に手を当てた。


「わしは軍人として長く生きてきた。だからこそ言う。命を捨てることだけが勇気ではない」


そして、最後にはっきりと告げた。


「命を大切にせい。生きて帰ること、生き延びることを恥じるでない。」


長い沈黙が流れた。


やがて、年配の女性が小さく頭を下げた。


「神楽坂さん…ありがとうございます」


別の男性も、静かにうなずいた。

しかし、指導者は最後まで納得した様子ではなかった。


わしも、自分の発言が問題になる可能性を理解していた。

それでも、あの場で黙っていることはできなかった。

人の命が、あまりにも軽く扱われていたからじゃ。


七 帰宅後の家族会議


その日の夕方。

わしが本家へ戻ると、愛海と四兄弟が待っていた。


「あなた!」


愛海が心配そうに駆け寄ってきた。


「町内の訓練で、随分と強くお話しなさったそうですね」


「もう耳に入ったか」


「ええ。春子から聞きましたの」


春子は少し困ったように微笑んでいた。


「お父様、お気持ちはよく分かりますけれど、あまり無茶をなさらないでくださいませ」


「すまんな、春子」


修蔵も腕を組んでいた。


「父上、言っていることは正しいと思う。だが、今の時代に軍の方針を批判するようなことを言えば、危険じゃないか」


「分かっておる」


「分かっているなら、なおさら気をつけてくれ」


わしは息子の顔を見つめた。

いつの間にか、修蔵は父親であるわしを心配する年齢になっていた。


節子も静かに言った。


「お父様、私も子どもたちに命を大切にしてほしいと思っています。でも、お父様まで何かあっては困ります」


光蔵が続けた。


「父上の意見は、技術的に考えても正しい。竹槍で航空機に対抗するなど、現実的じゃない」


春子は優しくうなずいた。


「わたくしも、命を大切にすることには大賛成ですの。ただ、お父様ご自身のお身体も大切になさってくださいね」


わしは四兄弟を見渡した。


「皆、心配をかけたな」


愛海がわしの手を握った。


「あなた。わたくしは、あなたのそういうところが好きです」


「愛海…」


「でも、あなたが傷つくのは嫌ですの。どうか、これからは少しだけ慎重になってください」


わしは小さく笑った。


「分かった。約束しよう」


そのとき、春子の後ろから葵生が顔を出した。


「おじいさま……」


「どうした、葵生?」


「あおい、おじいちさまがお怪我をなさるのは嫌ですわ」


「そうか」


「おじいさまは、ずっと元気でいてくださらないと困りますの」


わしは葵生の頭を優しくなでた。


「そうじゃな。まだまだ元気でおらねばならんな」


「はい!」


葵生は嬉しそうに微笑んだ。


その無邪気な顔を見て、わしは改めて思った。

わしには、まだ生きて果たすべき役目がある。


八 笑顔を守るためのささやかな抵抗


戦時中の暮らしは、ますます厳しくなっていた。


米や日用品の不足、衣服の制限、金属製品の回収、労働力の動員。

町内では互いの暮らしに目を光らせる者も現れ、少し贅沢に見えることをすれば、批判されることもあった。


春子も、外出時には長い黒髪を控えめに結い、目立たない服装を心がけるようになっていた。

ある日、春子がわしの家に来たときのことである。


「お父様、最近はお洒落をするのも難しくなりましたわね」


「そうじゃな」


「わたくし、髪を大切にしておりますけれど、外で下ろして歩いておりますと、何か言われることもありますの」


わしは春子の艶のある黒髪を見た。


幼い頃から大切に伸ばしてきた、美しい髪。

大正時代には華やかな洋装や髪飾りを楽しんでいた春子が、今では人目を気にしている。


「春子、髪を切らねばならんなどと思うでないぞ」


「お父様…」


「おぬしの髪は、おぬし自身のものじゃ。必要があって結うのはよい。しかし、人の目を恐れて、大切なものを捨てる必要はない」


春子は目を細めて微笑んだ。


「ありがとうございます、お父様。わたくし、この髪をこれからも大切にいたしますわ」


「うむ」


その隣では葵生が、母の髪を楽しそうに見つめていた。


「お母さまの髪、あおい、とっても綺麗だと思いますの!」


「まあ、葵生。ありがとう」


「あおいも、お母さまみたいに綺麗な髪になれるかしら?」


「もちろんよ。葵生の髪も、とっても素敵ですもの」


二人の微笑ましい会話に、わしも笑みを浮かべた。

こんな小さな幸せでさえ、戦争は奪おうとしている。

だからこそ、守らねばならない。


別の日には、日花梨が家族を集めて昔話を始めた。


「ねえ、おじいちゃん! 昔の春子おばさまって、本当にすごくお洒落だったんでしょう?」


「ははは。そりゃあもう、大正時代には随分と華やかじゃったぞ」


「まあ、お父様ったら!」


春子が恥ずかしそうに笑った。


大空も興味深そうに尋ねた。


「おじいちゃん、その頃の東京って、今とは全然違ったの?」


「そうじゃな。銀座を歩けば洋装の人も増えておったし、活動写真を見に行くこともできた」


「いいなあ。僕もそんな時代を見てみたかった」


光蔵が微笑んだ。


「大空、戦争が終われば、また新しいものがたくさん生まれるかもしれないよ」


「そうだね、父さん」


そんな会話を聞きながら、わしは感じていた。


わしらは物を奪われ、自由を制限され、日々の暮らしに苦労している。

しかし、思い出まで奪われたわけではない。

笑うことも、家族を愛することも、未来を夢見ることも、まだできる。

これこそが、わしらの守るべきものだった。


九 兄との二度目の約束


昭和十九年(1944)の秋。

日本軍の戦況はさらに悪化していた。


十月の台湾沖航空戦では、日本側が敵艦隊に大きな損害を与えたと報じられた。

しかし、わしと兄はその発表にも強い疑念を抱いていた。


数日後、兄が本家へやってきた。


「蔵之助」


「兄上」


「また大戦果だそうじゃな」


兄の声には、皮肉とも悲しみともつかない響きがあった。


「ええ。ですが、わしにはどうも信じられません」


「わしもじゃ」


わしらは向かい合って座った。


「兄上、いつか真実が明らかになる日が来るのでしょうか」


「来るじゃろう」


兄は静かに答えた。


「どれほど隠そうとも、戦争の結果そのものを隠し通すことはできん」


「そうですな」


「だが、蔵之助。わしらには今、もっと大切なことがある。家族を一人でも多く、生き残らせることじゃ」


わしは深くうなずいた。


「もう勝つだの負けるだのという話だけではない。戦争がどのような結末を迎えようとも、わしらの子や孫、曾孫たちには生きていてもらわねばならん」


「兄上…」


「蔵之助。もし、この先さらに厳しい時代になったら、わしらは力を合わせよう」


兄は右手を差し出した。

わしはその手を強く握った。


「もちろんです、兄上」


幼い頃、江戸の町で共に遊んだ兄。

明治維新を迎え、武士の世が終わるのを見届けた兄。

それぞれ海軍と陸軍を志し、軍人として生きてきた兄。

そして今、八十歳を超えてなお、わしと同じように家族の未来を案じている兄。


わしらは再び約束した。

何があっても、若い世代の命を守る。

そのために、自分たちにできることをする。

それは、軍人としての誓いではなかった。

家族を持つ一人の老人としての誓いだった。


十 竹槍よりも大切なもの


その夜、わしは一人で庭に出た。


秋の空には月が浮かんでいた。

江戸時代の月も、明治時代の月も、大正時代の月も、今見上げている月も、同じものである。

しかし、その下で生きる人間の世界は、あまりにも大きく変わってしまった。


わしは祖父・金右衛門を思い出した。

武士として生きた祖父は、誇りを大切にしていた。

だが、祖父が本当に大切にしていたのは、刀そのものではなく、それを持つ者の心だった。


父・権兵衛もそうだった。

明治の廃刀令で刀を外した父は、武士としての身分を失っても、人としての誇りを失わなかった。

刀を持たなくなっても、人を守る心は持ち続けられる。

わしはそのことを、父から教わった。


そして今、国民は竹槍を持たされている。

武器を持つことが、そのまま強さになると信じ込まされている。


しかし、わしには分かる。

本当の強さとは、ただ敵に立ち向かうことではない。

恐怖を認め、それでも生きようとすること。

間違った命令に疑問を持つこと。

目の前の大切な人を守ろうとすること。

それもまた、勇気なのじゃ。


「…父上」


わしは夜空に向かってつぶやいた。


「わしは、間違っておりませんかな」


返事はなかった。

しかし、父ならばきっと、こう言ってくれたであろう。


人を守るために生きよ、と。


そのとき、後ろから足音が聞こえた。


「あなた」


愛海だった。


「こんなところにいらしたんですのね」


「うむ。少し考え事をしておった」


愛海はわしの隣に立った。


「また戦争のことですか?」


「そうじゃ」


「あなたは昔から、何かを守ろうとするとき、いつも真剣なお顔になりますわね」


わしは苦笑した。


「そうかのう」


「ええ。でも、わたくしは知っておりますのよ。あなたが何より大切にしていらっしゃるものを」


「何じゃ?」


愛海は微笑んだ。


「家族です」


わしは黙って妻を見つめた。


愛海は続けた。


「修蔵も、節子も、光蔵も、春子も。孫たちも、弘一たち曾孫も。あなたは皆が元気でいてくれることを、何より願っていらっしゃるのでしょう?」


「…そうじゃな」


「でしたら、あなたご自身も、どうか長生きしてください」


わしは愛海の手を取った。


「愛海。わしはまだ死ねん」


「ええ」


「この戦争が終わるところを見届けたい。そして、皆がまた安心して笑える時代を見たい」


愛海は静かにうなずいた。


わしらはしばらく、月を眺めていた。

遠くから、防空訓練の号令がかすかに聞こえてきた。

わしはその声を聞きながら、心の中で繰り返した。


心の中まで竹槍になるな。

誰かの言葉をそのまま信じるのではなく、自分の頭で考えよ。

勇敢であることと、無謀であることを取り違えるな。

そして何より、命を大切にせい。


戦争がどのような結末を迎えようとも、命を失えば、その先の人生を生きることはできない。


わしが江戸時代から八十年かけて学んできたこと。

それは、武士の誇りでも、軍人の名誉でも、国家の栄光でもなかった。

人が生きていることそのものの尊さだった。


そして、わしらの願いとは裏腹に、戦火は確実に日本本土へ近づいていた。

空を飛ぶ敵機が、もはや遠い南方の戦場だけの存在ではなくなろうとしていたのである。

わしらが本当に命を守らねばならない時は、すぐそこまで迫っていた。

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